はるの魂 丸目はるのSF論評
火星転移
MOVING MARS
グレッグ・ベア
1993
本書は、グレッグ・ベアの「女王天使」、「凍月」、「斜線都市」と合わせていわゆる「ナノテク・量子論理」シリーズと呼ばれる作品である。「女王天使」と同様にナノテクや遺伝子操作による人体変容、精神拡張があたりまえに行われ、それらの操作を受けていない者はナチュラルと呼ばれている。「女王天使」の最後ではじめて誕生した自意識を持つ人工知能=思考体は、さまざまな場面で人類を補完している。情報の即時公開と交流は新たな集合体としての人類の意識が誕生することをうかがわせる。
しかし、人類はそう変わらない。
そして、本書は、「女王天使」のような精神世界を描いたものではない。
火星という人類の新たな生活空間を舞台に、センス・オブ・ワンダーにあふれた世界が描かれ、人間くさいドラマが展開される。
火星のリーダー、キャシーア・マジュムーダーが本書の主人公であり、彼女の若き日々、火星激動の時代を描いた回想録・自伝として本書は書かれている。若き女性としての成長と苦悩、恋愛と結婚、政治家として背負った責任の重さと情熱がキャシーアの一人称で描かれている。
火星は統一された政府、政治体制を持たず、血縁を軸にした産業・経済体ごとに独立した組織(BM)を持ち、経済以外の調整もBMの代表同士によって行われていた。地球は、火星に統一した政治組織を求める。火星に暮らす火星人達もまた統一した政治組織・社会体制の必要を感じていた。地球の求める火星と火星人の求める火星は当然ながらちがう。
地球にとって物理的な距離を持つ火星は、異物であり、従属者である。
火星人にとっては、火星はふるさとであり、生活の場である。
地球の政治体制と火星の生まれつつある政治体制のちがいは、新しいテクノロジーをめぐり、緊張と恐怖となって現れる。地球と火星の距離は相互不信を呼び、誰も望んでいない相互確証破壊に向かってつきすすむ。
まるで、1962年のキューバ危機である。ソビエトのフルシチョフとアメリカのケネディが核の全面戦争寸前まで行った(明らかにされている)人類史上最大の危機のようである。このときは、唯一の地球の前に両者の恐怖が道を開いたが、地球と火星の場合はぎりぎりのところまで行き、ついに地球が火星の殲滅を決意する。
キャシーアは、すべての火星人からの責めを負う覚悟を決め、地球と火星が独立したまま共存できる方法、火星転移を実行する。
SFならではの救済が、そこにある。
現実の私たちはまだ生存の場として地球しかもたない。私たちはまだ選択の手段を持たない。
私たちの現実的な可能性として、火星は魅力的な空間である。本書冒頭にも書かれている通り、「火星は、太陽系内で地球についでもっとも住みやすい惑星である」。
もっとも近い月は、スペースコロニーと同様に長期的・恒久的に生存するには厳しい環境にある。しかし、火星は、水があり、大気があり、技術的にはテラフォーミング可能と言われている。
2003年夏には火星が大接近し、アメリカ、ヨーロッパ、日本が火星探査計画を実行した。日本の「のぞみ」は地上探査ではなく、火星軌道での探査だったが、軌道に投入することができなかった。また、残念ながらヨーロッパのマーズ・エクスプレス・ミッションは失敗したが、アメリカのマーズ・ローバー・ミッションは成功し、2台のローバーが現在、火星を探査中である。
このミッションでは、火星に生命の痕跡があるかどうかを探査することになっている。将来の有人探査計画も考えられており、火星は人類の避難所として、巣分かれの場として期待できる。
火星人として生きるのは、とても厳しいことであろう。しかし、地球でないところに生まれ、育ち、死ぬことは、もうひとつの生として体験したいことである。
本書の魅力は、政治ドラマ、人間ドラマ、物理学を描いたハードSFだけではない。火星SFとしての本道もみごとに描いている。火星の生命である。水が失われていく冷たく軽く小さい惑星で生命がどのように誕生し生態系を紡いだのか。グレッグ・ベアの答えは、マザー・シスト、ひとつの生命体が生態系のすべての生命態をとる生態系の種である。この火星生命について想像をめぐらせるだけでも本書を読む価値はある。本書を読んで、レイ・ブラッドベリの「火星年代記」や、光瀬龍の「東キャナル文書」などの年代記、あるいは、P・K・ディックの「火星のタイムスリップ」、K・S・ロビンスンの「レッド・マース」シリーズ、イアン・マクドナルドの「火星夜想曲」などなど、火星のSFを再読したくなり、「レッド・プラネット」「ミッション・トゥ・マース」のような火星映画が再見したくなった。
2004.2.16
TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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