はるの魂 丸目はるのSF論評


砂漠の惑星

NIEZWYCIEZONY

スタニスワフ・レム
1964


 遭難した探査船を探し、原因を突き止めるため、レギス第三惑星に100名を超すスタッフを乗せたロケット「無敵号」が到着した。海にしか生命が存在しない、陸上は動物も植物もない砂漠の惑星で、なぜ、探査船は遭難したのか? そこで出会った存在は、意志の疎通などとりようのない「存在」であった。「無敵号」とスタッフを襲う「存在」。
「ソラリスの陽のもとに」で知られるポーランドのSF作家スタニスワフ・レムが、「ソラリス」と同じテーマ、すなわち人類とは本質的に異質な存在との接触について書いた作品である。
 自律ロボットが長い年月の中で多様な進化を果たし、唯一勝ち残った形態のみが存在する世界。最小のパーツがそれぞれに自律し、かつ、集合することで高度な機能を発揮する存在。蟻や蜂の社会にも似たシステムを持つが、中心核や機能分化はない。ただ続くだけの存在。その存在意義を問う意味があるのか?
 擬人化し、意志があるもののように振る舞うスタッフが多い中で、主人公のロハンは考える。

…重要なことは、単に人間に似ているような生物を探し出すことでもなければ、そのような生物の存在だけを理解することでもない。さらに人間に関係のないようなことがらには干渉しないという心の広さが必要なのだ。干渉したところで、得るものは何もない。当たり前の話だ……現実に存在しているものに対して攻撃を加えてはいけない。数百万年のあいだに、自然法則以外の何ものにも支配されない独自の安定状態をつくり出して活動している存在に対して、攻撃を加えてはならない。それらの存在は、われわれが動物あるいは人間と呼んでいる蛋白質的化合物の存在に較べて、決して勝るものではないにしても、しかし、決して劣るものではないのだ。(早川文庫SF版212ページ)

 嵐と戦うものはいないのだ。
 意志の疎通ができる宇宙人ではない。侵略など意志を持った行為を行う宇宙人でもない。無視すれば通り過ぎる存在でもない。そこに生命や機械が降り立ち、存在と行き会えば存在はただ反応するだけだ。その反応は、人の記憶を消去し、通信を遮断し、結果として破壊する。そこに意味も、意志もない。ただ、そこに行った人類の意志が反映し反応されるだけだ。なんという存在、なんという宇宙。なんという冷たい関係。
 人類は、その存在に関わるつもりならば、自らの概念を再構築するほかない。
 それにしても、この存在はコントロールができれば兵器になりうる。それが誰にもコントロールされず、コントロールできないところに、存在の恐ろしさがある。恐ろしいと感じることは、つまり、自らの概念の再構築ができていないということだ。
 スタニスワフ・レムは、存在に対峙する人間を描くことで、固定した概念、確固とした枠組みとしての概念を否定し、再構築を迫る。それは、SFがもつひとつの役割でもある。
 ソ連(ロシア)やポーランドなど、過去において東側と呼ばれ、東欧文化であり、社会主義であったところにもSFは存在し、そして、すばらしい作品が数多くある。SFは、西欧の文化でも資本主義の文化でもなく、物語と科学のあるところに存在する普遍的なものである。


(2004.4.5)



TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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