はるの魂 丸目はるのSF論評


火星年代記

THE MARTAN CHRONICLES

レイ・ブラッドベリ
1946


 本書は、レイ・ブラッドベリの代表作である。幻想的な修辞に彩られた「もうひとつの火星」。はじめて読んだのは中学の終わりか高校のはじめの頃だった。小笠原豊樹氏の手になる美しい翻訳に感銘し、美しくも恐ろしい未来をかくも描ききることに驚愕した。
 萩尾望都の世界、本書ののちに知った内田善美の世界とも共通する世界を識る力を持つ作家である。
 年代記として、西暦をつけた短編の連作でつづられた本書でも、とりわけ忘れられないのは、冒頭の「一九九九年一月 ロケットの夏」最後の2作「二〇二六年八月 優しく雨ぞ降りしきる」「二〇二六年一〇月 百万年ピクニック」であった。「ロケットの夏」の鮮やかな光景は、物語を期待に満ちたものにした。「優しく雨ぞ降りしきる」の核戦争後の風景は、当然のようにヒロシマを思い出させ、その美しさと静かな恐怖は、70年代、80年代を通じて、私の脳裏に焼き付いた。
 今回、ずいぶんと久しぶりに読み返してみて、ちょうど本書が記した年代に生きていることに驚いてしまった。もちろん、こちらの年代記には、火星人もいなければ、彼らを疫病で絶滅にも追いやっておらず、アメリカは自由に満ちておらず、最終戦争の準備は進んでいない。戦争は続いているが。
 今回、とりわけ印象に残ったのは、「空のあなたの道へ」「第二のアッシャー邸」「オフ・シーズン」である。
「空のあなたの道へ」は、2003年6月に、黒人たちが一斉に仕事を放棄し、自由を求めて火星に旅立ってしまう物語である。本書が出版されたのは第二次世界大戦直後の1946年のことである。それでも、黒人は真の意味で解放されないことを、ブラッドベリは喝破している。
「第二のアッシャー邸」は、ブラッドベリの本領発揮である。幻想や文学を許されない社会で生み出された火星の「アッシャー邸」。現実と幻想が交差し、科学に使われるものと科学を使うものが交差する。ポーの詩が美しく生きている。
「オフ・シーズン」は、火星のホットドッグ屋の話である。「二つの世界を通じて、いちばん上等のホットドッグ! ホットドッグスタンドの一番乗り! 最上の玉葱と、唐辛子と、芥子!」を用意して、火星に来る客を待つ男の話である。おいしそうではないか。話はなんとも寂しい限りなのだが、結局誰も食べることのなかったこのホットドッグ、ぜひ食べてみたいものである。
 さて、細部の気に入った情景ばかりを書き連ねているが、本書は、多くの「火星」文学に影響を与えてきた作品である。書かれた当時として考えても、科学考証は浅いが、科学技術と人間のありようについては的確に危惧し、指摘し、幻想の力を発揮する。
 テレパシーを持ち、優しく、静かに滅んでいく火星人と、核戦争で滅んでいく地球人の対比は、時代を超えて、私たちのありようについて問いかける。
 だからこそ、科学技術=合理的だと誤った等式に頭を縛られている人たちは、本書を嫌うのであろう。人間がそもそも不合理である以上、この等式は成立しないのである。
 もちろん、本書は、書かれた時代に縛られる。核戦争の恐怖、アメリカの光と影。さらに、たとえば、「第二のアッシャー邸」では、その世界を生み出すために、周囲にDDTを1トン使って、昆虫などを抹殺するのだが、これは、DDTが安全な万能殺虫剤だったころの表現である。テレビではなく、ラジオの時代。2005年でも、地球の人口は20億人にしか過ぎず、建材は木材中心であったりする。
 古きよき、そして、今も続く恐ろしき時代を知る1冊である。

 ところで、私の手元にある本書は、ハヤカワ文庫NVである。このころ、P・K・ディックの短編集もNVだったりした。NVはノベルである。ハヤカワの不思議な時代である。


(2004.5.26)



TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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