はるの魂 丸目はるのSF論評
エンダーズ・シャドウ
ENDER'S SHADOW
オースン・スコット・カード
1999
「エンダーのゲーム」の主人公は、エンダー・ウィッギン。非情な天才の兄と、心優しい天才の姉を持つがゆえに、本来許されざる3人目の子・サードとして生まれ出た天才児。期待通りに、天才であり、兄の完璧な攻撃性に加え、他者への真の理解・共感を持つ二重性のある存在として育ち、究極の兵士として育てられ、異星人との戦争を終わらせる指揮官となった少年。
本書「エンダーズ・シャドウ」は、「エンダーのゲーム」に出てくるもうひとりの天才児であり、エンダーにもうひとりのエンダーとなる少年と見られ、それでもなおかつささやかな脇役であったエンダーより年下の少年ビーンの物語である。
ビーンはエンダーの対極として語られる。いや、ビーンの視点で物語は進む。それは、「エンダーのゲーム」の謎解きであり、楽屋話である。わずかな情報から全体を構成し、推論し、理解するビーンゆえに、「エンダーのゲーム」の舞台は解体され、再構成されていく。「エンダーのゲーム」の読者にはたまらない物語である。
この解体、再構成ゆえに、「死者の代弁者」からはじまる3000年先の未来シリーズとは別に、来世紀の国際政治を描く「シャドウ」シリーズが幕を開ける。
異星人との戦争という事態にとりあえずの協調を果たした人類社会。しかし、その戦争は、エンダーらによって終わりを迎える。それは、同時に紛争と陰謀、欲望と私利に満ちた国際政治の再開でもあった。エンダーが、エンダーゆえに現実社会とは隔離され、姉のヴァレンタインとともに近未来歴史から離れたのに対し、ビーンは、もうひとりのエンダーとして、もうひとりのエンダーであるエンダーの兄ピーター・ウィッギンとの関わりを深めていく。おっと、これは、「シャドウ・オブ・ヘゲモン」の話であった。
話を本書に戻そう。ビーンはスラム街で生まれ、飢えを知り、死を友にしながら、生き延びてきた。尼僧に救われ、エンダーと同じ国際艦隊に入隊することとなる。
他者の愛を理解できないビーンと、他者の愛を教えようとする尼僧。
物語の終盤、エンダーが異星人バガーを滅ぼすために次々と人類の乗った艦船を破壊していく中、それがゲームではなく、本当に人々が乗っていることを知るビーンはそれゆえの苦悩を知る。そこに聖書の一節が出てきて、あらためてカードが宗教社会の人であることを思い知らされる。カードは、モルモン教徒である。
近年の作品には、初期の作品以上に宗教的愛や価値観が明確に語られる。
それが、読みにくさになっているが、一方で、客観的に他者の倫理観、宗教観について理解することができるのもカードの特徴である。
カードの宗教観、倫理観について、それを前提に読めば、語られている物語のおもしろさを減じることはない。カードはそういう部分を持つのだ。部分をもって全体を語る必要もない。もちろん部分は大切であり、私は常々「細部に神が宿る」と思っているので、カードの近年の作品に違和感はある。違和感を超えて言おう。カードはおもしろい物語を書く。そして、それは、現実の社会を理解するときに役立つ視点となる。
「子ども」「社会」「政治」「紛争」「倫理」といった、今、「壊れている」とされていることについて、カードは物語を書く。物語は、現実を解体し、再構成する力を持っている。カードがそのことを認識しているのは間違いない。
なにやらややこしいことを書いてしまった。
とにかく、「エンダーのゲーム」を読んだ後、「エンダーズ・シャドウ」を読むと、2倍楽しめることは間違いない。それ以外の、エンダーシリーズは無視しても、「エンダーのゲーム」を読んだ方には、一読をおすすめする。
(2004.6.20)
TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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