はるの魂 丸目はるのSF論評


ゲイトウエイ3 ヒーチー・ランデヴー

HEECHEE RENDEZVOUS

フレデリック・ポール
1984


 ようやく異星人、先進文明、ヒーチーの登場。物語は急展開を見せ、る、はずだが、そこはそれ、ゲイトウエイシリーズである。
 議論ばっかりやっていて物事を前に進めるのが苦手な「自分は罪悪感をもっているんだぞ」ロビネット・ブロードヘッド氏も、いよいよ人生の佳境。
「ゲイトウエイ」では、若きブロードヘッドのひとりごとと、コンピュータ精神医との対話で、華々しき物語が繰り広げられた。
「ゲイトウエイ2」では、プログラム・シミュレーション人格のアルバート・アインシュタインと中年ブロードヘッドのくりごとを聞いているうちに、ヒーチーの存在にまでたどり着くのであった。
 そして、今回の語り手もまた、ブロードヘッドである。ただのブロードヘッドではない。死んだブロードヘッドである。そう。未読の方には申し訳ない。今回、ブロードヘッドは死ぬのである。その死はドラマティックでもなんでもない。
 ただ、移植した臓器の不全で死ぬのだ。
 せっかく、「ゲイトウエイ」で凄絶な別れをして、物語のほぼすべて、彼の罪悪感のほぼすべてであったクララと再会することができたのに、死んでしまう。
 あーあ。
 そこで出てくるのが、「2」で不完全なままに仮想化されたデッドメンのその後である。そう。伏線は明示されていた。
 ブロードヘッドは、コンピュータのバーチャルリアリティ空間に再生される。いや、転生する。
 物語は、彼の広範囲な視点、仮想化されたブロードヘッドが過去を振り返りながら現在を語るというややこしい語り口で語られる。
 そして、語るブロードヘッドを第三者として語るのが、ちょっと進化した人工知能の仮想人格アルバート・アインシュタインである。彼は、ブロードヘッドに語られながら語るのである。

 ゲイトウエイシリーズのおもしろさは、語り口、語り手そのものが「SFとして当たり前の存在」であることだ。プログラム精神医との対話、人口爆発で行き詰まり、異星文明との接触によって急速に変化しつつある中に生まれた普通の人間の視点、仮想人格をまとった人工知能、仮想化された人格など、「ふつうの語り手」ではなく、「SFならではの話者」であることで、物語に重層性を生む。それを意識的に毎回変化させていくことで、ゲイトウエイシリーズは、そのベースとなる物語を超えて新たな世界を生み出すことになる。
 それぞれの、SFとしての筋立てやガジェットがおもしろいか、奇抜かというと、そうでもない。SFが好きな人にはなじみのある流れであり小物である。それを物語としておもしろがらせてくれるのが、フレデリック・ポールのすごさだろう。これは編集者としてのすごさと共通するのだろうか。
「ゲイトウエイ2」以降の評価についてはいろいろ分かれているようだが、すなおに楽しめるSFであることは間違いない。長編シリーズ物としては例のないほど「うっとうしい」大金持ちブロードヘッドの魅力は、なかなか言葉で説明しがたいものがある。
 まあ、遠くで見ていて魅力のある人物も、近くによると、どうにもこうにもということは、現実の世界でもよくあることだ。

(2005.2.25)



TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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