はるの魂 丸目はるのSF論評


大魔王作戦

OPERATION CHAOS

ポール・アンダースン
1971


 もし、魔法が科学として解明され、準自然力に基づくものとして科学的技術的に用いられるようになったら。もし、天国や地獄などの存在とありようについて科学的に研究されたら。もし、人狼などの存在が科学的に解明され、彼らが特殊能力を持った人間として遇されるようになったら。
 その世界の戦争はどうなるのだろう。その世界の移動のための道具は内燃機関の自動車ではなく、箒や絨毯になるのだろうか。

 まだ未完の「ハリー・ポッター」シリーズでは、魔法は魔法のままであり、現実社会は現実社会のままで、魔法使いは同じ世界に住みながらも、世界を現実とはへだてて生きている。しかし、現実社会の変化には対応しなければならず、主人公は、現実社会と魔法社会の行き来を繰り返している。ハリー・ポッターの魔法世界は、純粋な魔法使い、魔法能力をもたない人間の中から生まれた魔法使い、人間や人間ではない存在との間に生まれた魔法使い、魔法能力を持っていない魔法使い生まれ、そして、魔法社会の存在を伝えてはならない人間があり、繰り返し否定されながらも、その能力と生まれのふたつにより階層化されている。民主主義化された階級社会を戯画化しているかのようだ。

 一方、1970年代の幕開けにアメリカで書かれた本書では、魔法はひとつの技能であり、才能である。元々才能を持つ者は、その才を活かすもよし、活かさなくてもかまわない。才能や勝ち得た技能を使う者がいれば、はなから魔法を「使わない」ことを宗教的、信念的に選ぶことだって可能だ。
 魔法という技能は、武器にもなれば、平和利用も可能。生活にも使えるが、商品ともなりうる。技能を持つものは、その活かし方によって尊敬されることもあり、また、この社会で技能を使わずして地位を得るものもいる。ただ、やはり、技能を持つ者は、持つ故のおごりもある。しかし、それは他のスポーツや芸術などの技能についても同様なところがあろう。

「ハリー・ポッター」の中でのハリーは、ヒーローであると同時にアンチヒーローである。何より、「子どもの成長」がテーマになっている故に成長期の醜さは見事に表現されている。

 一方、本書に出てくる「ぼく」こと人狼のスティーブン・マチュチェックと、その恋人であり後の妻である魔女のヴァージニア・グレイロックは、大人であり、ヒーローである。ヒーローは、危機を乗り越えなければならない。最後は勝たなければならない。でも、主人公、ヒーローである限り、最後は勝つに違いない。それを安心の材料に、明るく読み進めることができる。
 悩みがあっても、読者が暗くなることはない。
 それが、ポール・アンダースンの力量である。

「ハリー・ポッター」には、その魔法世界があり、本書には本書の魔法世界がある。しかし、ハリー・ポッターはSFではなく、本書はSFだと思う。
 魔法にもルールはあるが、魔法のルールだけではなく、魔法の背景に自然的、科学的な理由付けを「あるかのごとく」表現すれば、それはSFなのだ。
 魔法をSFすると、本書のようになるか、ナノテクを使ったり、ヴァーチャルリアリティを使うことになる。
 もちろん、SFでないから、ハリー・ポッターをはじめとするファンタジーが劣っていたり、おもしろくないことはない。どちらも楽しいではないか。
 魔法好きの方には一度読んでいただきたい。
 こういう小道具系で言えば、アン・マキャフィリィの「パーンの竜騎士」シリーズなども、竜はどうして火を噴くのか、なかなかおもしろい設定をしている。

 本書の作者、ポール・アンダースンは、SFを使って遊ぶことができる作者である。そして、猫などの小動物が大好きだ。だから、彼らが必ず活躍する。小動物好きにはたまらない作者でもある。魔法SFと小動物は、これまた相性がいいのだ。

(2005.3.9)





TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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