はるの魂 丸目はるのSF論評


ウィザード

WIZARD

ジョン・ヴァーリイ
1980


 土星衛星軌道上衛星ティーターンは、生きたリングワールドであり、その名を自称ガイアという。ガイアは衛星の名であり、生態系であり、そしてそれらを統べる神の名であった。21世紀前半、土星探査船リングマスターがガイアを発見し、とらえられ、リングマスターの船長シロッコ・ジョーンズと、乗組員で天文学者のギャビー・ブロージッドのふたりの女性の冒険の結果、地球はガイアの存在を認め、ガイアは地球人を受け入れはじめた。そして、シロッコは、ガイアの独立エージェントである“ウィザード=魔法使い”を引き受けた。
 そこまでが「ティーターン」のお話し。本書は、それから数十年後に幕を開ける。
 ガイアは、奇跡を起こす神として地球人に知られ、お目通りがかなえばかなわぬ望みをかなえてくれる存在と信じられていた。とりわけその人知を超えた生物学的な知識と技能により、難病を治療することができる存在としてあった。
 いま、ふたりの若者がそれぞれの背景と病気での苦しみを抱え、ガイアに接見する。しかし、ガイアは冷たく言い放つ。「ひきかえに、ヒーローになれ」と。
 ウィザードの役目にへきえきしている酔っぱらいシロッコと、ガイアの下請けに甘んじているギャビーは、この若者ふたりと、ガイアでもっとも人間に近い知的生命体ティーターニスたちとともに、ガイアを周回する旅に出る。それぞれの目的と願いを胸に秘めながら。
 ロールプレイングゲームであり、ファンタジーであり、ロードムービーのような成長譚であり、神とは、生きるとは、生殖とは、を、考えるSFである。書かれた時期が1980年という微妙さと、ヴァーリイがライトノベルあるいはファンタジーに手を出したといって騒がれた作品であるが、サイバーパンク運動を経て、映画「マトリックス」で、ヴァーチャルリアリティや電脳化した存在が大衆化した現在において、本書が示唆するテーマは実に興味深い。
 本書では、仮想的空間ではなく、実在としてのガイアであり、その世界はガイアそのもので、かつガイアではコントロールできない部分も存在するという状況として設定されるが、この状況は、仮想空間において、絶対的権限者あるいは創造者の存在が、その仮想空間に影響をふるえる場合と同等の状況である。そして、意志のある絶対的権限者は、その世界に依存する存在を幸せにも不幸にもすることができる。
 ある世界に、絶対的権限を持った存在があり、そのものが意志を持ち、それを発揮できる以上、その世界には真の意味の自立も独立も自由もあり得ないのではないかという疑問を提示する。
 ここで私たちが住む世界における「神」を考えるのは意味がない。「神」の意志とその権限は宗教により異なるからである。
 むしろ、身近な意志であり権限者と、限定された世界について考える機会として考えた方がよいであろう。
 ここにものすごく魅力的で、楽しく、生命をかけてもいいほどの価値を感じられるゲームがあるとする。しかし、そのゲームには、ルールを決める人がゲームプレーヤーとして存在し、ルールを変更し、自由に采配することができる。だから、自分が単なる一プレーヤーであることを常に意識せざるを得ず、そして、絶対的権限者の顔色をいつもうかがっている自分に気がつくことになるだろう。
 そりゃあ、腹も立つ。
「ウィザード」は軽く読み飛ばしてしまえる作品だが、その本質は、あるいは、このようなゲーム的、仮想世界的作品には、権力と意志と存在のありようを解き明かすものが多くある。
 本書の続編は、「Demon」として1984年に発表されている。最初は「ティーターン」探検の船長だったシロッコが、「ウィザード」(魔術師)を経て、「デーモン」(悪魔、守護神)となったシロッコの物語なのか、気になるところである。
 ところで、ウィザードといえば、WINDOWS系OSでは、アプリケーションソフトの導入や操作を簡単にするための対話形式手続きとして知られ、デーモンといえば、UNIX系OSでバックグラウンドでサービスを提供するソフトウェアとして知られている。
 作品が80年代のものであり、意図したものかどうかは知らないが、このあたりの言語感覚はヴァーリイならではのものであろう。

(2005.08.08)



TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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