はるの魂 丸目はるのSF論評
フラクタルの女神
THE NATURE OF SMOKE
アン・ハリス
1996
原題「煙の性質」が邦題「フラクタルの女神」になり、日本語の読者の前に2005年に登場した。アン・ハリスのデビュー作である。
原題は、カオス理論の性格を言い表したものだが、邦題の「女神」は主人公の少女マグノリアではなく、マグノリアが愛した分子生物学者シディエラ・アヴォンダ・マーセリーズ(1992年7月3日生まれ、女性、愛称シド)のことであろう。
さて、この女神は「自分の心という森の中に立って」「自分とあらゆる世界の本質的な結びつきを真に理解した」啓示を受けつつも、現実の日々の生活では「善と悪、男と女、自己の世界と“外”の世界」といった二項対立、二者択一から離れられず、「言葉や階級や家族やそのほか、現実を無関係な単位に分割する細分化にとらわれるあまり、われわれすべてを含む“全体”からまた隔てられてしまった」となげく科学者であり、この壁を壊す道を探し求める求道者であった。
物語は、カオス/フラクタル/マンデンブロ集合、人工知性、有機ロボット、予測不可能性を持つロボットの可能性、量子の非局所性を援用したミトコンドリアの共鳴、そして、世界を識る能力の獲得をキーワードにしながら、偶然という必然の積み重ねのように繰り広げられていく。悪く言えば「ご都合主義」だが、カオス理論や量子の非局所性を物語に展開するため、「ご都合主義」と切り捨てるのは作者に悪い。
舞台は21世紀前半、貧富の格差がさらに広がった世界。マグノリアが生まれ育ったのはアメリカの貧民窟。天才的な能力を持ちながらも、教育を受けず、文字も読めない彼女は、限られた中でも才を発揮し、また、驚くべき身体能力の高さを持って危機を逃れてきた。彼女が住む世界は、金とドラッグと暴力とセックスが蠢く「男ども」の世界。
彼女にとって物理学、生物学、数学を道具に「自分のしたいことだけをして」自らの夢を現実にしようと研究を続けるシドは、自分自身の理想の反映であり、同化の対象であった。シドにとってのマグノリアは世界の一部分であり、必要があればマグノリアを切り捨てることができただろうが、マグノリアにとってシドは彼女自身であり切り捨てることができない存在である。少女の悲しい恋の物語なのかもしれない。
個人的には、作者が産みだしたバイオロボットや人工知性の物語をもっと読みたいのだが、作者は、「世界観の転換」に重きを置いているため、これらの小道具は次々と後ろに追いやられていく。小道具どころか、何かありそうな登場人物もまた次々と後ろに追いやられていく。そして、すべては、シドとマグノリアの物語に収斂する。
あとがきにもあったが、たしかに、本書には、「ブラッド・ミュージック」と同様の世界の変容を描いている。しかし、それが女性作家であることなのかどうかは分からないが、新井素子が「ひとめあなたに…」で世界の終わりをひとりの女性としての気持ちにまとめたのと同じく、女性作家であるアン・ハリスはブラッド・ミュージック的世界の変容を予感させつつ、ひとりの女性としての気持ちで取りまとめてしまう。
ただし、新井素子が「少女」というアイデンティティで世界に対峙したのに対し、アン・ハリスは「少女」を含めた二項対立や世界の細分化と対峙したアイデンティティの確保を目指している。この点は大きく違うところである。
作品世界観でみれば、本書は吉田秋生の「バナナ・フィッシュ」に近いものを感じる。天才美少年アッシュを軸に、荒廃した80年代アメリカで特殊なドラッグをめぐり金とセックスと暴力が繰り広げられ、巻き込まれた日本人少年・英二との愛にも似た友情が語られる。この女性版だと思えばいいのかもしれない。
そうか、デビュー作ということで詰め込みすぎなのかもしれない。もし、これが、日本の少女漫画として書かれていれば、詰め込みすぎの部分も「絵」として表現され、それが物語の「含み」になったのかもしれない。ということは、映画向きなのか? もしかして。いっそハリウッドで映画化すればヒットするかも。たとえ作者の意図とは違っても。
ちなみに女神は女神であるが故に転生するのだが、そこは作品のエンディングと関わるので読者だけのお楽しみである。
(2005.8.26)
TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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