はるの魂 丸目はるのSF論評


マジック・キングダムで落ちぶれて

DOWN AND OUT IN THE MAGIC KINGDOM

コリイ・ドクトロウ
2003


 インターネットが生活の中で身近になってはや10年となった。スタンドアローンでOSすらなかったパーソナルコンピュータの時代は通り過ぎ、しだいにネットの中の端末と化しつつある。いい例が、日本の携帯電話であろう。できることは限られているが、そもそも、スタンドアローンでは成立し得ない「電話」というしくみの中にコンピュータの機能が取り込まれ、インターネットとの融合をはじめている。多くの人々はそれを支持し、もはやそれなしには生きられないと感じている。もっと、「それなしには生きられない」というのは常にそのときの気分であって、なかったらなかったで生きられるのが人間のいいところでもある。
 さて、かつてP・K・ディックが描いた、仮想化された社会の中での「疎外」の問題は、今の社会生活の中にどこにでも転がっている普通のことになってしまった。他者とつながっているという幻想を追い求め、仮想化された世界の中に蠢く者たちは、ある時、他者の目が自分に向けられていないことに気づき、絶望する。
 不死と、無限のエネルギーを得て、仮想化された「信用」「評価」「つながり具合」を経済指標にして日常を過ごしているのが、本書の世界である。人々は、身体と同一化した「道具としてのコンピュータ」、もうひとつの感覚器と化した「仮想空間=ネット」の中で、現実を生きていく。とりわけ、マジック・キングダム=信用経済により新たな所有/経営形態となったディズニーランドは、そもそもそこが仮想的な体験の場であったが故に、本書が仮定した世界を象徴する。
 不死は、クローンと記憶の保存/移植によって成立している。誰でも、たとえ殺されても、一定の記憶が失われただけで、新しい肉体を手に入れ地上に立つことができる。現実にたいくつしたら、肉体を殺し、仮想空間の中で、一定の時間、1日でも、1年でも、100年でも、1万年でも、眠った(死んだ)ままでも、時々目覚める形でも存在することができる。そして、復元することも可能だ。
 もちろん、真の死も真の誕生も可能。しかし、真の死は恐れられ、その数は少ない。たとえ宇宙で生活する人が増えていっても、真の誕生が多い以上、地球は人口過剰になっていく。つながった人たちが増えていき、その「信用」の総量は多くなっていく。つまりは、経済的に人類は発展しているわけだ。
 よかったよかった。
 とても21世紀初頭的なSFなのだろう。いい意味でも悪い意味でも、21世紀初頭のアメリカ的なものが薄く広がり、未来的な日常になっている。仮想されている舞台は22世紀後半だと思われる。私にはまだ、このSFが評価できない。おもしろくないと言っているわけではない。テーマは古典的だが、斬新な視点でたぶんとてもおもしろい作品だ。ただ私には、登場人物の心のありようがわからないのだ。それは、私が不死ではないからかも知れない。そして、まだ若い作者は、限りなく不死に近いのかも知れない。そして、ネット上で個人の「信用・評価」を得る(失う)ことに価値を見いだす社会は、不死と無限のエネルギーという本書の前提条件なしには成立しにくいのではないかと思う。
 今のネット社会は、有限の生、有限のエネルギーの中で、他者とのコミュニケーションとともに信用・評価を求めているが、これとは根本的に異なるのではないだろうか。コミュニケーション、信用・評価、あるいはネットへのアクセスを得られない、または、求めない者たちは、この未来の社会に属することはないだろう。もし、属しようとすれば、それは苦痛でしかないはずだ。その状態を「疎外」という。
 そのことは、本作品でも主人公が嫌と言うほど途中で味わっている。もっとも、主人公はその後、きちんと「元に戻って」いるが。

 不死なる者たちの心のありようを少しかいま見たい方にはおすすめだ。

 なお、本書は、クリエイティブ・コモンズのライセンスの下、原著(英語)がウェブサイトで公開されている。ダウンロードして読むことも可能だ。ドクトロウの作品は、同様に彼のウェブサイトで読める。


ローカス賞受賞作品


(2005.09.24)





TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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