はるの魂 丸目はるのSF論評


ニムロデ狩り
THE NIMROD HUNT

チャールズ・シェフィールド
1986


 本書「ニムロデ狩り」は、独特のネタが用意されている。そのネタをばらさずにおいて書くのかネタバレを前提に書くのかで書き方がずいぶん異なってしまう。
 そこで、ちょっとだけ、ネタばれなしを前提に書き、その後、思いっきり「読後」を前提に書くことにした。未読の方、注意はしたのでご注意、ご了承いただきたい。

【ネタばらさず版】
 人類は、マッティン・リンクという移動手段を得た。それは座標の数式さえ合い、双方向にリンクの装置をとりつければ瞬間的に移動できる装置である。しかし、もちろん最初は誰が行って取り付けなければならない。
 人類は、光速度の10分の1のスピードで太陽系を超え、太陽を中心に既知宇宙の球を広げては必要な場所にマッティン・リンクを設置し、双方向の交通手段を整えていった。1世紀に10光年の早さですすみ、今やその球は直径58光年となった。この既知空間のなかで、人類は3つの高度な知的生命体種族と出会い、平和裏にコミュニケーションすることができた。
 巨大な節足動物のようなパイプ=リラ、小さな虫が集合することで知性を発揮する複合体知性のティンカー、そして、植物的で巨大なメモリとコンピュータ的能力を持つ不思議なエンジェルである。これに人類を加えてステラーグループという知的生命体星系間社会が形成され、その4種族の代表で宇宙規模の重要な事項は決定されていた。しかし、人類を除くいずれの種族も「闘争」を手段として知らず、知性は非闘争的理由から発展した。
 人類は違った。常に外界に対し警戒し、自らを拡張しようとしていた。
 人類の辺境警備を担う責任者は、モーガン構造体の実験を承認した。それは、ステラーグループの知的生命体に対して敵意を持つ生物を探し求めて報告するための有機/無機融合の人工知性体である。
 しかし、そのモーガン構造体が実験中のステーションから研究者らをすべて殺害して逃走。17体のモーガン構造体“ニムロデ”は、マッティン・リンクを使って宇宙の各地に散った。ステラーグループの指導者は、この事実を人類に知らされ、彼らを探し、確保し、必要ならば破壊/殺すことを決定する。そのための組織はアナバシスといい、モーガン構造体の実験を計画した辺境保安隊の司令官と初期に取り逃がした太陽系保安隊司令官が責任を追った。そして、もうひとつステラーグループは、各種族1名からなるチームを複数訓練し、チーム単位での行動を求めた。
 アナバシス長官らは、人類間での権力闘争を繰り広げながら、ニムロデ狩りのためのチーム作りに着手する。しかし、アナバシス長官にはもうひとつの目的があった。ニムロデは辺境で人類を守るために必要な存在なのだ。殺さずに確保したい。そのアナバシス長官の動機や行為をめぐり、ステラーグループを巻き込んだ心理戦がはじまった。

 というのが前半のストーリーである。どこかで聞いたことのあるような異星人たち、知性を無理矢理向上させるトルコフ刺激装置、ヒトの遺伝子を操作して違法に知的生命体をつくるニードラー、感覚を小さなロボットに接続しシロアリやクモなどと戦闘するシュミラクラムゲームのアデスティス、オールト雲からの収穫、ヒトなどの冷凍保存と再生、おいしい肉動物だと思っていたら実は知能を持っていた異星生物…などなど、過去のSFのガジェット満載である。
 これだけ並べると、アクションSF、スペースオペラ、サイバーパンクSFかと思いきや、どっこい、数人の人類登場人物の「人間ドラマ」になっているのでとまどいを隠せない。壮大なエンターテイメントのようでいて作者が狙ったのは、人間の行為の「動機」や人類とそれ以外の「知性」のありようについての仮説だったりする。  詰め込みすぎではないだろうか。
 と思いながら、最後まで読むと、あ、なるほど、ここに持っていきたかったのか、ということが分かる。これをよしとするか、そりゃないよと思うかは、読んだ人しか判断できない。まあ間違いなく、作者のチャールズ・シェフィールドはSFファンであり、SF的ガジェットが大好きな人なのである。
 私としては、ちょっと考えすぎ、組み込みすぎの作品で、もう少し引き延ばすか、煮詰めるかして欲しかったというところであった。









【ネタバレです。未読の方、読んで怒らないように】


 融合ですか…。
 物事を即決できる行動的な人類、感情を制御し移入できるパイプ=リラ、記憶と論理と分析のエンジェル、複合体であり単体精神には理解できない思考を行うティンカーの4種類の知性が、そういう知性体でなければならなかったのは、融合ですか。
 融合知性体ですか。
 ニムロデって、そういうことでしたか。
 ティンカーが、ティンカー故に全体を包み込み、まとめるのね。そして、分析し、推論し、行動するのね。新しい存在として。
 いやあ、まいっちゃうなあ。
 そういう存在のありようの必然性を生み出すために、長官と副長官の権力闘争があり、長官の子どもの頃のトラウマの秘密があり、ニードラーによる人工生命体があるのか。
 なかでも、アデスティスという感覚移行型のシュミラクラムゲームで、人が乗り移ったシュミラクラムの破壊によって死ぬことがあることやそのシュミラクラムの「体験」と人体としての「実体験」に区別がつけられないことなどのSF的ガジェットが使われていたのである。
 すべては、「知性」のありように仮説を立てるためのもので、シェフィールドは、そこに「他者への理解と愛」を持ってきていた。そして、「他者への理解と愛」を奪われた者はその不在故に取り除くことのできない「恐怖や孤独」を持つことを描こうとした。
 残念ながら、ストーリーに含まれるこれらの伏線は、あまりにも複雑に絡まり、ストーリーの文脈の中に沈み込んでいる。それゆえに、それぞれのエピソードは結末へ向かうための読者を巻き込む物語にならず、エピソードが積み重なるうちに読者は混乱を深めていってしまう。それでも最後まで読み進めると、なんとかすべては統合されるのだが、その頃には、ちょっと疲れてしまう。
 もっとそれぞれのエピソードをていねいにしてあったらとてもとてもおもしろい作品であったのだ。読み終わった後、頭の中ですべてを補完して、なんとか納得がいった。
 SFとして読む意味は大いにある。エンターテイメントとして、あるいは文学として読めるかと言われるとちょっと辛い。

 そして、モーガン構造体は結局姿を見せないままである。
 シェフィールドが亡くなってしまった今、モーガン構造体がどんな生命体であったか知ることはできない。
 星には興味があったらしい。もしかするとちょっと楽しい存在かも…。


(2006.3.18)





TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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