はるの魂 丸目はるのSF論評
ファウンデーションと混沌
FOUNDATION AND CHAOS
グレッグ・ベア
1998
アイザック・アシモフがSF史に残した偉大な宇宙史「銀河帝国史」の中心をなすファウンデーションシリーズについて、グレゴリイ・ベンフォード、グレッグ・ベア、デイヴィッド・ブリンの3人による公式の新3部作が書かれた。それぞれ、邦訳で「ファウンデーションの危機」「ファウンデーションと混沌」「ファウンデーションの勝利」として書かれ、もはや重鎮となった3人のSF作家がベンフォードの指揮の下に新たな歴史の闇を描き、1冊ずつを分担して書いた。それはアシモフが産みだした世界の歴史であると同時に、3人の作家のそれぞれの独立したSFでもある。本書「ファウンデーションと混沌」でもベアはベアらしく作品をまとめている。あきらかにグレッグ・ベアの1冊である。
アシモフが「ファウンデーションの誕生」で描き出した、最初の作品への導入部分の最後を占めるのが本作「ファウンデーションと混沌」であり、「銀河帝国の興亡=ファウンデーション」の冒頭へとつながっていく。
すなわち、帝国の公安委員長リンジ・チェンと心理歴史学者ハリ・セルダンの対決である。銀河百科辞典を編纂するためのファウンデーションが惑星ターミナスであることを、チェンによって言い渡されるようになるまでのわずかな期間、セルダンに対する裁判はどのように行われたのか、その期間、セルダンと心理歴史学には何が起きたのか? 本当に、セルダンはミュールをはじめとする心理歴史学によるセルダン・プランの崩壊を予見できていたのか? 第二ファウンデーションはどのようにしてその種をまかれたのか?
銀河帝国史の中でも、極めて重要な事件であり、極めて限られた設定条件の中に、グレッグ・ベアは物語を紡ぎ出し、アシモフが持ち続けた「問い」への問答をベアらしく問い直す。
その物語は、自由意志を持ったように見えるダニール・オリヴォーを含むロボット達の人類への奉仕のありように対する対立であり、人類がロボットの影響下で進化してきた結果として得た特殊能力によるロボットと人類の対立であり、銀河帝国の影であったロボットの存在がいよいよ時の権力者たちに知られはじめたことによる、ダニール・オリヴォーらの存在意義の破綻であり、ハリ・セルダン自身による心理歴史学への疑問である。
そして、問いは繰り返される。
自由意志とは何であろうか?
進化とは何であろうか?
ロボットであり、永遠の存在であるダニール・オリヴォーは自由意志を持った存在なのであろうか?
究極の対話とは、合一=統一した生命体の自覚=ガイアのようなもの/グレッグ・ベアの「ブラッド・ミュージック」における結末のようなものなのであろうか?
この新・銀河帝国興亡史3部作は、いずれもアクションがあり、対話があり、新たな魅力的人間やロボット、存在に満ちたエンターテイメント作品群である。それと同時に、アシモフが提示し、SFのもつ「問い」、人間が持つ問いに対する自問自答の作品でもある。
歴史の中の個人の役割とは、個と集団の意志の違いとは、どちらを重んじるべきなのか? 個の命と集団の存在は、どちらを重んじるべきなのか? 果たして、これらに答えはあるのか?
そして、人間とは、知性とはなにか?
なにをもって「人間」あるいは、問いに対する矛盾した表現になるが「自由意志を持った」知的存在と認知するのか? それは誰によって?
SFは、「神」の不在の仮定、あるいは「神」の役割/機能への仮説など、科学と宗教、文明と文化、存在と対話について、その内容の深浅はあれども常に問いを持ち、仮説を立て、検証をしてきた。
それはSFのもつ文学的機能である。
SFのエンターテイメント性と文学性を学ぶ上で、この銀河帝国の興亡史はとてもよい入門書シリーズとなっている。
なんといっても、アシモフ的手法である、結論に留保や別の可能性、話の余韻を残す作法は、読者に自由な物語を紡ぐ余地を残すからである。
そして、この新三部作の作者達は、アシモフのこの手法をいかんなく発揮し、物語に潜在的可能性を残す。
いよいよ、銀河帝国正史を描く最後の作品「ファウンデーションの勝利」が待っている。
最終回を目前にしたはやる気持ちと、一抹の寂寥感の中で、ページをめくりたいと思う。
もっとも、いずれも再読なのだが…。
(2006.4.25)
TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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