はるの魂 丸目はるのSF論評


愛はさだめ、さだめは死
WORM WORLDS AND OTHERWISAE

ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア
1975


 私が、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアに出会ったのは1986年の夏のことだった。サンリオSF文庫で「老いたる霊長類の星への賛歌」が邦訳発行された。大学4年の夏で、当時は就職活動中であったと思う。暑い夏で、あらゆることにうんざりしていた。
 大学の生協では、グループを作って共同購入すると安くなるシステムがあって、私は同級生らのグループにはいり、SFや漫画の単行本、あるいは目にとまった様々な一般向き科学書などを購入していた。大抵は予約注文で、インターネットもない当時は、本屋にならぶ新刊案内や予約案内をみては、これぞという本を注文したり、あるいは、本屋であとがきを読んで、それを注文していた。注文してから届くまでに1〜2週間、ときには1カ月かかることもあり、何を注文していたか忘れることも多かった。たしか月に1〜2万円ほどは本を購入していたように思う。もっとも、今でもそのくらいは購入しているのでそれほど変わりないわけだが。
 この短編集は衝撃だった。それについては、「老いたる霊長類の星への賛歌」を再読する際にあらためて書きたいと思う。だから、その翌年、作者が夫を殺し、自ら自殺した報を聞き、再び深い衝撃を受けたことを覚えている。
 その衝撃の中で、本書「愛はさだめ、さだめは死」を入手し、動揺したままに読んだ記憶がある。
 いまも、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアは私にとって特別な作家であり、性別で作品を語ることは無意味であることを教えてくれた作家である。同時に、いまも、もっとも好きな女性のSF作家である。
 なんてかっこいい作家であり、美しい作品だろう。
 作者がいかなる最後をとげたか、どのような人生を歩んだかは、関係ない。
 なんとかっこいい作風、なんと繊細かつ大胆な作品。

 本書「愛はさだめ、さだめは死」は、他の作品群とともに短編集であり、12の短編がおさめられている。
 邦訳のタイトルとなった「愛はさだめ、さだめは死」(Love Is the Plan the Plan Is Death)は1973年のヒューゴー賞を受賞、「接続された女」(The Girl Who Was Plugged in)は1974年ネビュラ賞を受賞している。
 ここでは、短編集を取り扱うときの例にならい、「接続された女」について取り上げたい。
 若い不細工な娘がある組織にスカウトされる。彼女は手術され、訓練される。有名人になるために。ここに、生物工学的に生み出された美しい少女が登場する。若い不細工な娘は、この美しい少女になるのだ。美しい少女にはまったく知能がない。そこで、彼女の肉体を遠隔ロボットとして操作する「脳」になるのである。美しい少女は、笑い、語り、ためいきをつき、男達を、女達を、マスメディアを魅了する。ある目的のために。「脳」となった女は、美しい少女となり、夢見ていた生活をはじめる。ただ、嗅覚と味覚と性機能の感覚までは遠隔操作のデータとしてフィードバックされない。そして、夜には接続をはずされ、自らの肉体に戻り、その肉体が必要とする様々な生理的行為、食べる、排泄する…を行う。
 権力者の息子が彼女に恋をした。彼女も彼に恋をした。
 彼女は、一体、どの彼女なのだろう。
 物語は、現実世界ではありがちな皮相さをもって幕を引く。
 サイバーパンク運動がはじまる以前1970年代頭の作品である。
 ヴァーチャルリアリティという言葉がない時代の作品である。
 邦訳されたのは昭和62年。すなわち1987年。
 日本ではサイバーパンクSFが次々に翻訳され、新井素子や大原まり子が、日本におけるSFの新たな境地を開いていた時代である。
 ようやく、80年代後半になって、ティプトリーの作品群が1冊にまとまって販売されたのは、これらの時代に並ぶ作品群として認知されたからであろう。
 私もまた、サイバーパンクSFなどの80年代作品群をすでに読み始めていた。
 しかし、それらとは違う「新しさ」と「衝撃」をこの当時でさえ一昔前に書かれた作品群から受けたのだ。
 美しくロマンティックな設定を読者に納得させた上で、最後に現実に対する冷徹な目で読者を突き放す。放り投げられる。物語ごと、読者に引き渡される。それが現実の世界だから。ティプトリーの物語に衝撃を受けるのは、SF的仮説を現実として描きだす能力の高さと、その視点の豊かさ、人間味あふれる冷たさがあるからだ。
 なんといったらいいのだろう。
 私たちは…、

 しかたない。引用しよう。
−−…自分の脳がサウナ部屋にあるとは感じていない。あのかわいい肉体の中にあると感じてるんだ。オタク、手を洗うときにさ、自分の脳みそに水がかかってると感じるかい? むろん、ちがうよな。両手に水がかかってると感じるだろう? その“感覚”なるもの、実はオタクの両耳のあいだに詰まった電子化学的ゼリーの中で、チカチカまたたくポテンシャル・パターンにすぎない。しかもそいつは、オタクの両手の先から、ながーい回路をとおって脳に届いたわけさ。ちょうどそれと同じ理屈で、−−
−−神経系を体の外にぶらさげているようなものだ。かりに、だれかがオタクの脊髄をつかんで、ぐいっとひっぱったとしてみなよ−−
(ハヤカワ文庫SF版 昭和62年発行の浅倉久志訳)

 2006年のいまなら誰でも理解できるだろう。
 理解できなければ、映画「マトリックス」でも見ておけばいい。
 この状況の皮相さ、哀しさ、おかしさ、現実味を描き、それを超えることに、まだ、どのSF作家も成功していない。

(2006.4.25)





TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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