はるの魂 丸目はるのSF論評
特別編 アニメーション
交響詩篇エウレカセブン
監督 京田知己
2005-2006
2005年4月から1年間に渡って日曜日の午前7時から30分のアニメ番組として放映されたSFアニメーション「交響詩篇エウレカセブン」について書いてみたい。(2006.04.30に初稿発表、同06.03改稿)
この「エウレカセブン」は、テレビアニメを軸として、コミック、小説、ウェブサイト、ゲーム、ラジオ番組、音楽、グッズなど様々なメディアを活用して最初からメディアミックスで展開することを想定して企画された極めて21世紀的なプロジェクトであった。
このプロジェクトの成否あるいは、意義については、ここでは話題にしない。
また、物語としても、本編であるアニメーションの「交響詩篇エウレカセブン」で描かれたことについてのみ触れ、他のメディアや、そこで明らかにされている(かもしれない)世界のことはあえてないものとして触れる。理由として、コミック、小説などでは、主人公のキャラクターや物語の進め方、設定などがそれぞれ異なっており、話がややこしくなることと、すべてに目を通している訳ではないからである。そこで、中心軸であり、全話を見ることができたアニメーション本編のみについての話である。
本コーナーは、基本的に海外SFについて書いているわけで、「交響詩篇エウレカセブン」が、日本の作品であることと、小説ではないことから、2つの逸脱をしている。
それでも書きたいと思ったのは、1年間、とても楽しませてもらった作品に対する感謝の意味であり、他意はない。
海外SFのいくつかの作品や作者の名前が出てくること、明らかにそれらの作品と関連する世界観を持っていることなどから、いくつかの海外SF作品を挙げながら「交響詩篇エウレカセブン(以下エウレカセブン)」について語ってみたい。
なお、「エウレカセブン」の世界は、最後にすべてが明らかにされているため、ネタバレの論となってしまう。あらかじめ了解いただきたい。
「エウレカセブン」の主人公は、14歳の少年レントン・サーストン。彼が、ひとりの不思議な少女に出会い、あこがれていたヒーローであるホランドが率いる月光号に乗り込むところから物語がはじまる。そして、「何も知らない」14歳の少年の視点で、世界は少しずつその姿を明らかにしていく。50話、トータル1000分以上の物語を通して、視聴者はレントンとともに少しずつ世界の真実を知り、レントンの成長とともに、この世界での成長をとげる。
「エウレカセブン」という物語のテーマは、コミュニケーションと理解、信頼である。大人と子ども、親と子ども、子どもと子ども、他者(異人)間、宗教と科学、男と女、世界と人間…。様々な関係が描かれ、そのコミュニケーション能力の高まりを成長として描いていく。
外部のすべてのコミュニケーションを絶った状態で生き続ける「絶望病」が、コミュニケーションの断絶の象徴として描かれ、実は絶望病もまた、別の形の別の存在とのコミュニケーションであったことが、最後に明らかにされる。
「エウレカセブン」の世界(スカブコーラル)は、人類とのコミュニケーションを求めており、人類もまた、スカブコーラルとのコミュニケーションの可能性を模索していた。
しかし、スカブコーラルとのコミュニケーションを否定するものもいる。最後までスカブコーラルと人類のコミュニケーションの「敵」であったノヴァク・デューイ大佐がその代表として描かれる。
しかし、「エウレカセブン」の世界では、人は多面的な姿を見せる。
物語を通して「敵」役であったノヴァク・デューイは、同時に戦争で生まれた「望まれない子どもたち」の唯一の庇護者でもあった。
レントンの成長に大きな影響を与え、第二の両親ともなるビームス夫妻は、その一方でエウレカの存在を許さない妻と、その妻を無条件に支持する夫の一面を見せ、レントンに対して無限の愛をみせるとともに、エウレカをめぐってレントンとのコミュニケーションの不成立をみせる。
レントンもまた、成長期の中で、エウレカ、ホランド、あるいは子どもたちに対して理解・信頼と、疎外・不信の間で揺れ続ける。
そのような形で、コミュニケーション、理解、信頼、世界との対話、他者との対話という多くのSFが追求するテーマを追い続けたのが、「エウレカセブン」である。
人間を含め、知性体の成長とは、認識の深まりとコミュニケーションの深まりであると言ってもいいかもしれない。認識の深まりとは、「世界をみる目」の深まりであり、同じ世界が成長するにつれ、単純な世界から、次第に複雑な世界に変貌していく。単純なコミュニケーションは次第に複雑なコミュニケーションに変貌していく。同じ言葉であっても、その意味は深まり、変化する。同時に、その言葉を発し、受け取るものの関係=世界も変化する。テキストとコンテキストの理解と変容(進化)こそが成長である。
「エウレカセブン」の視聴者は、1話から50話にいたる過程で、前半の世界が後半に断続的に変化し、前半の物語で発せられた言葉が、後半に意味を変えていくことに気がつかされる。よくできたしかけであり、一般的に「物語」とは世界の認識を変える手段として使われていることにあらためて気がつかされる。私の愛好するSF小説というジャンルは「世界の認識を変える(=センス・オブ・ワンダー)」ことを先鋭的に志向する物語であることが多く、その意味で、「エウレカセブン」は登場するガジェットだけでなく、物語の組み立てとしてもよくできたSF作品である。
多くの指摘があるように、「エウレカセブン」では、音楽やサーフィンなどの分野でもサブカルチャー領域にあるものをうかがわせる言葉やガジェット、ギミックが登場する。その遊びの謎解きも作品の魅力となった。
SFの領域でも、明かな遊びがみられた。
特に、3人のSF作家の名前が登場人物に命名され、明らかに、その作品との関与をうかがわせる存在として描かれていた。
そこで、ここからは、この3人のSF作家と「エウレカセブン」の世界について触れたい。
「エウレカセブン」で直接触れられたSF作家は3人。
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア、グレッグ・ベア、グレッグ・イーガンである。
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアについては、「ティプトリー」の名前で第8話「グロリアス・ブリリアンス」から登場する。作品中の「ティプトリー」は、ヴォダラクという宗教集団に属する逃亡中の反政府組織リーダーである老女の役割であった。
彼女は、その後、エウレカが「覚醒」するにいたる過程やエウレカの「変化」の過程で数回登場することになる。そして、道を暗示する者としての役割を演じる。40話「コズミック・トリガー」でエウレカと再会したティプトリーは、エウレカに対し「それがあなたの選択なのね」と、エウレカに理解を示す。また、8話では、彼女に与えられた行動に対して「たったひとつの冴えたやりかた」という言葉を発し、レントンとエウレカ、あるいは登場人物たちに対して、世界と対話するには自ら「選択すること」の必要があることを繰り返し示唆する。
そして、この言葉、「たったひとつの冴えたやりかた」こそ、SF作家ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの代表作のひとつである。
ハヤカワ文庫SFで「たったひとつの冴えたやりかた」として1987年に邦訳出版された作品は、3つの中編からなりたつ連作で、表題作は第一話のタイトルである。
SF界ではあまりに有名で、せつない泣ける名作としてSF読みでない人たちにもファンが多い作品である。
内容は、ひとりの少女が自分の宇宙船で冒険に出かけ、そこで、異星の知的生命体とファースト・コンタクトする。その異星人は、少女の身体の分子間に結合することで、はじめてコミュニケーションをとれたのだ。不思議な友情を結ぶことに成功した少女と異星生命体。しかし、やがて少女は、彼女より先にファースト・コンタクトを遂げた調査隊の運命を知る。そして、少女と異星生命体で少女のひとつの肉体を共有したふたりは、人類や他の知的生命体への災厄を避けるために「たったひとつの冴えたやりかた」を選ぶ。
エウレカが、レントンや子どもたちを守るために選択したように。レントンが、彼の愛するすべてを守るために選択したように。
この第一話「たったひとつの冴えたやりかた」とは違った形であるが、同じようにコミュニケーションと選択の物語が、「たったひとつの冴えたやりかた」第三話「衝突」にもみられる。こちらは、人類と似た存在である知的生命体と人類が最初の出会いのまずさから戦争の危機を迎えながらも、その接点に立った人類の調査船クルーと、異星の知的生命体の若い通訳が最後まであきらめず「相互理解」「信頼」の道を模索したどり続けた物語である。ここでは、いくつかの「死」がコミュニケーションを導く。
「死」をもってしか、真のコミュニケーションが得られなかった不幸と、その選択、悲劇、そして、未来が語られる。
ストーリーの前提は異なるが、「エウレカセブン」にも通じるテーマである。
「エウレカセブン」でも、いくつかの選択が、選択した者たちの「死」につながる出来事となった。「死」しか解決の道がなかったのか? その問いに対し、「エウレカセブン」は、新しい物語を提示する。それが、「エウレカセブン」の選択であった。
次は、グレッグ・ベア、グレッグ・イーガンである。31話「アニマル・アタック」で登場したのが、グレッグ・イーガン教授。通称ドクター・ベアである。「エウレカセブン」で登場する巨大人型搭乗型戦闘マシーン(モビルスーツ)のLFOは、地下のスカブコーラルから発掘された遺跡物にインターフェースや機械部分を装着したものであり、ドクター・ベアはこの遺跡物の原型=アーキタイプの専門家として登場する。彼は、理論物理学や「情報力学」を中心に「先を行きすぎていて、誰も真の理解はできない」論文を発表する洞察力を持つ天才科学者である。彼は、物語の謎の核心である「スカブコーラル・知的生命体仮説」の有力な提唱者であり、スカブコーラルから「発掘」されたエウレカや、アーキタイプから作られた最初のLFOニルヴァーシュが、人類がはじめて宇宙に送り出したメッセージである「ボイジャー」と同じような意味を持ったスカブコーラルからのメッセージであり、探査隊であり、コミュニケーターではないかとの説を展開する。また、グレッグ・イーガン教授は、休眠しているスカブコーラルがすべて覚醒して知的活動を再開すれば、惑星は「クダンの限界」を迎え、物理宇宙が崩壊することが情報力学によって予想され、それを防ぐためにスカブコーラルは自ら休眠しているのだとの説も披露する。それは、ヴォダラクが教義として持つ理論と双璧をなすものだった。
ベアとイーガン、このふたりのSF作家のうち、SF作家として先輩なのがグレッグ・ベアである。
グレッグ・ベアの作品で最初に邦訳され、1987年3月にハヤカワ文庫SFとして登場した「ブラッド・ミュージック」は、「エウレカセブン」が大きく影響を受けている作品であろう。「ブラッド・ミュージック」は80年代の「幼年期の終わり」(アーサー・C・クラーク)と呼ばれ、人類の進化の形、次のステージの形を示した傑作とされた作品である。
ウェブサイトでも、「エウレカセブン」と「ブラッド・ミュージック」の関係や「エウレカセブン」監督の京田知己氏が「ブラッド・ミュージック」を人に勧めていたとのエピソードが見受けられるが、確かにいくつかの設定に似たところがある。
「ブラッド・ミュージック」は、主人公が自らの血液の中に、開発中の自律有機型コンピュータ(バイオチップ)を入れたことから事件が起こる。彼らは血液の中で独自の進化を遂げ、群体としての知的生命体となる。そして、地球上のすべての有機物や無機物を飲み込みながら、生命活動をデータ化していく。人々は、群体生命体の情報の海の中で情報知性体としてヴァーチャルリアリティ的に存在し続けることができる。しかし、微細な知的活動が物理空間に極端に偏在したため、「情報物理学」上の限界が来て、既存宇宙の物理法則が乱れ、新たな変容を迎えてしまう。
「エウレカセブン」で登場するスカブコーラルは、「ブラッド・ミュージック」で登場したヌーサイトと相関し、情報力学から導かれたクダンの限界は、情報物理学から導かれる「ブラッド・ミュージック」のエンディングと相関、そして、ともに「司令クラスター」がキーワードとなる。
もちろん、「エウレカセブン」と「ブラッド・ミュージック」はまったく違う物語であり、その世界観は異なる。「ブラッド・ミュージック」は、わずか数カ月の間にすべてのできごとが起こるが、「エウレカセブン」では、人類とスカブコーラルは長い月日を経てお互いを知るにいたる。
なにより、「エウレカセブン」では、最後の数話の間に、いくつかの「結論の提示」が行われ、それぞれにの主人公達の「選択」があった上で、50話「星に願いを」において、第三の道を指し示す。その第三の道、「進化の方向はひとつである必要はない」ことこそが、「エウレカセブン」の選んだ結論であった。この結論は、「ブラッド・ミュージック」では持ち得なかったものである。もちろん、どちらが優れているという話ではない。21世紀的なコンテクストで「エウレカセブン」の結論が生まれ、80年代のコンテクストで「ブラッド・ミュージック」の結論が生まれたのだから。
「エウレカセブン」は、レントンという何も知らない14歳の少年の目で世界を知り、学び、考え、行動していくために、最後まで真の世界は明らかにされない。そもそも、世界そのものの真実がほとんどすべての人たちに隠されていたからでもある。そして、世界の真実が物語の結論とも結びついているため、「エウレカセブン」の世界を理解するのはとても難しい。ていねいに過去の物語を理解しなければならない。いや、理解したところで、世界の理解は難しいであろう。
その点で、「ブラッド・ミュージック」は、類似の世界を提示しており、「エウレカセブン」を理解する上でのひとつの参考書になる。
「ブラッド・ミュージック」は、今も色あせない、SFの名作であり、「エウレカセブン」を見た上で読めばまた違った面白さを発見できるであろう。
最後は、グレッグ・イーガン。「エウレカセブン」で唯一フルネームがそのまま使われているSF作家である。「エウレカセブン」でグレッグ・イーガンのことを、「先を行きすぎて誰も真の理解ができない」天才と紹介しているが、現実のSF作家であるグレッグ・イーガンも、「先を行きすぎて真の理解ができない」テーマを、SFとして表現し、難解ながらも高い評価を得ている。近年、イーガンの作品は続けて翻訳されており、「エウレカセブン」放映中の2005年9月にも1997年に原著発表された「ディアスポラ」が翻訳出版(ハヤカワ文庫SF)されている。グレッグ・イーガンの特徴として、多くの作品が「観察者問題」をテーマとしている。
「観察者問題」とは、私が「要するに」とまとめられるような簡単なテーマではなく、理論物理学あるいは宇宙論の基盤をなす難解な問題である。「見る者」=観察者がいなければ、現実は確定しない。みたいなことを含むなにかなのだが、正直なところよく分からない。詳しく知りたい人は、有名な「シュレディンガーの猫」のエピソードでも調べて欲しい。正直なところよくわからない先端的な理論を、SFとして人間の物語にするところがグレッグ・イーガンの力量で、わからなくてもなんとなくわかったような気持ちになる。なぜならば、物語は、人間の行動や思いで成り立っているからだ。グレッグ・イーガンの観察者問題の代表作として「宇宙消失」(1992・邦訳1999 創元)、「順列都市」(1994・邦訳1999 ハヤカワ)、「万物理論」(1995・邦訳2004 創元)がある。
「宇宙消失」は「エウレカセブン」のテーマのひとつである「人間の意志」が大きなテーマを占める。「順列都市」もコンテクストは異なるが「エウレカセブン」で登場するヴァーチャルリアリティ空間での存在と世界が語られる。最後に「万物理論」だが、この作品は、「ブラッド・ミュージック」にならんで「エウレカセブン」に近いかも知れない。ただ、「ブラッド・ミュージック」ほど直接的なつながりはない。それに、なんといっても難しい。しかし、難しさを無視して読み進めれば、「エウレカセブン」におけるレントンと同様に、主人公のジャーナリストが、自分のことに悩みながらも、現実に起こるできごとにとまどい、知り、学びながら、最後には選択する物語になっている。そして、その選択こそが、宇宙に大きな影響を与えることになる。もし、「エウレカセブン」を見て、「たったひとつの冴えたやりかた」や「ブラッド・ミュージック」を読み終えたならば、次に、玉砕覚悟で「万物理論」に手を出して欲しい。半分以上わからなくても大丈夫。私も本当のところわかっちゃいない。なんといっても「先を進みすぎている」のだから。それでも、きっと、そこに書かれている人々の行動や心理に共感することだろう。そして、主人公達に、レントンやエウレカの影をみることができるかもしれない。
「エウレカセブン」に驚かされたのは、道が数多く提示されたことである。
ヴァーチャルリアリティでの情報体として永遠の生、お互いに嘘のないすべての情報を共有できる、合一できる存在を提示されながらも、レントンとエウレカが、物質的存在としての限られた生の価値を理解し、その道を第一の道として選択した。そして、他者の物質的存在を守る道が、レントンとエウレカが情報体になることしかないとなったら、それを「死」ではなく別の「生」として第二の道を選択する。さらに、その道すら閉ざされたときに訪れた「別離」をともなう第三の道の選択に対しても、別の共に生きる道を探そうとする。最後には、これらをすべて含む道が提示されて物語を終える。
未来はひとつではなく、選択もひとつではないが、選択しなければ道は拓けず、共感と理解、コミュニケーションのもとにしか、存続の未来はないことを提示する。
それを、物語として破綻なく見せ続けた力量にはただただ感服する。
今後、「エウレカセブン」がメディアミックスの中でどのような展開を見せ、どのような評価や歴史的位置づけをたどるかは知らないが、私は1年の間、謎解きを楽しみ、登場人物に感動することができた。そして、50話を終え、できればもう一度、全体を理解した上で、最初からレントンとエウレカの1年間をたどってみたいと思う。
補記:実はもうひとりSF作家が登場していた。25話の「ワールド・エンド・ガーデン」で絶望病と人、大地と人、人と人の関係について主人公のレントンに深い印象を与えたウイリアム・B・バクスターが、ジーリーシリーズで有名なハードSF作家のスティーヴン・バクスターからとった名前だという。登場した人物とバクスターのSFの内容に関係をみつけられなかったので見逃していた。このほかにもファンタジー作家のロアルド・ダールがそのまま軍人(州軍指揮官)として出てきたりもしているので、先の3人(ティプトリー、ベア、イーガン)を除いては、必ずしも元ネタの作家や人物と内容に関係はないのであろう。
補記2:本稿では、作家に焦点を置いてその作品と「エウレカセブン」との関わりについて述べていたが、「エウレカセブン」のテーマである共感や愛については、デイヴィッド・ブリンの「知性化」シリーズ「知性化の嵐」やダン・シモンズの「ハイペリオン」シリーズなどにも見られる。
「知性化の嵐」シリーズは、人類だけでなく様々な知性体が出てくるが、惑星への移住と共生、惑星自体が過去の生命系に影響を受けた共感能力を持ち、結論でも共生や選択の道の多様性が提示される。
再読して、類似性が深いと思ったのは「ハイペリオン」シリーズであり、とりわけ、後半の「エンディミオン」「エンディミオンの覚醒」である。主人公のロールとアイネイアーの旅と相互の関係の変化、アイネイアーとロールの位置づけをはじめ、イメージとしてもエウレカセブンでたびたび登場する世界と一体となって移動する(空をトラパーの波に乗って移動するなど)と同じような情景がいくども描かれる。テーマも、「愛は物理的な宇宙の力である」と、これだけ書くといかがわしく感じられるような大テーマを体現している。「エウレカセブン」がそうであるように、宗教と科学の対話、仏教の考え方、キリスト教の視点なども丁寧に描かれている。「エウレカセブン」の元ネタのひとつと言っても過言ではないだろう。
「ハイペリオン」シリーズは四部作といっても、それぞれが文庫で2分冊になっていて、合計8冊、しかもその1冊ずつが普通の文庫の2〜3作分ぐらいある大作である。20世紀末までのすべてのSFの集大成と言っても過言ではない作品で、数多くのSFのテーマや小道具、設定などが縦横無尽に使われ、しかも、そのひとつずつをシモンズ流に解釈し、提示している。小説としてのSFだけでなく、「スター・ウォーズ」のような映画の領域にも踏み込んでおり、それでいてそれらの作品をまったく読んでいなくても楽しめる作品になっている。
「エウレカセブン」が終わって1年余、もう一度、あの心地よさを体験したい方は、この四部作を手に取ってみてはいかがだろう。
(2006.4.30 改稿 2006.6.3 追補2 2007.7.31)
TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
(スパム防止のため、全角表記にしています。連絡時は、半角英数にてお願いします)
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