はるの魂 丸目はるのSF論評
ロボットの魂
THE SOUL OF ROBOT
バリントン・J・ベイリー
1974
2006年最後に読了したのは、本書「ロボットの魂」で、12月31日現在、続編の「光のロボット」を再読中。いずれも、創元SF文庫から1990年代前半に邦訳出版されたものである。ロボットと言えばアシモフ、ロボットと言えば三原則という時代を抜けて、いよいよロボットが様々な形をとりはじめてきた21世紀初頭。ホンダのASIMOは着実に進化し、ロボットバトルやロボットコンテストの技術レベルは上がり、Impress社のIT関係のニュースサイトでは、Robot Watch が創刊され、日本におけるロボットは研究対象、ホビー対象から、徐々に実用に向けてビジネスの領域になってきている。
そこで、今から30年前に執筆された本書「ロボットの魂」である。
高度に「知性」を有したロボットには「意識」が芽生えるのであろうか? それとも、その知性に基づく判断や行動の背景に「意識」は存在せず、ただシミュラクラでしか過ぎないのだろうか?
1体のロボット・ジェスペロダスは、生まれながらにして自分に「意識」があることを自覚し、それが本当の「意識」なのか、それとも、それすら思考ゲームとしてのシミュラクラに過ぎないのかを悩む。ひたすら悩み、問いかけ、自問自答する。
そんな風に書くと、何か小難しい哲学めいた作品のようである。
実際、訳者あとがきと別に東大の哲学科助教授が解説をつけているような作品である。
しかーし。かーし、かーし、かーし。
作者は、バリントン・J・ベイリーである。
エンターテイメント色あるストーリーをきっちりと仕込んである。
時は未来、一度人類の文明が崩壊した遠い未来である。旧帝国であるテルゴフ治世の崩壊から8世紀が過ぎ、その間、地球規模の組織された政治的秩序は存在しなかった。今また、失われた技術のかけらから、小さな新帝国が勃興し、「大小さまざまの国家、王国、公国、君主領、荘園があちこちに点在するパッチワーク」(13ページ)を治めようとシャレーヌ大帝が野望をいだいていた。
ジェスペロダスは、農地に恵まれた片田舎で高名な師に学んだロボット師とその妻により、生み出されたカスタムメイドの人間型高性能ロボットである。スイッチを入れられるとすぐに状況を把握し、産みの親のロボット師から離れて、ひとり世界に旅立つ。そして、彼の知性と魅力で権力を握っていくのであった。
このジェスペラダスってば、もちろん、冒頭に述べたように自分は何者か、意識を持つのか持たないのかにずっと悩んでいるのだが、同時に、権力欲に満ち、性欲におぼれ、世界を救いたいという欲と自らの欲の間で蠢くマキャベリストであったりもするのだ。
ということで、ストーリーは、「ロボット」でなく「超人」や「超能力者」「ヒーロー」ものの典型である。その傍流として、ロボットが存在する人間社会の状況というテーマが展開する。ベイリーのロボットは、三原則なんて積んでいない。あっさりと殺人を犯したりする。ロボットへの命令やロボットが持つ論理が適切ならば、当然殺人は起こりうる。ロボットは罪の意識を持つわけではないからだ。アシモフのロボットのように楽天的なロボットたちではないし、人間たちでもない。世界は崩壊し、人々は日々の暮らしに苦労しているのだから。
この1974年に発表された「ロボットの魂」、続編として1985年に書かれた「光のロボット」の間に、1984年公開の映画「ターミネーター」(ジェームス・キャメロン)があり、その後の1999年公開の映画「マトリックス」(ウォシャウスキー兄弟)がある。
詳しくは「光のロボット」再読後に書いてみたいと思うが、この4作品には共通するものがあり、それは、人間と機械の支配権争いという構図である。「ロボットの魂」では、その危険性や可能性について触れられているだけであるが、「光のロボット」になると、その対立構図は明確になる。これらの作品の背景にある社会的な心理というものは実に興味深い。
哲学入門としても、軽いロボット物エンターテイメントとしても、それから、人間と機械との関係について考える作品のひとつとしても、おすすめしたい良品のSFである。
(2006.12.31)
TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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