はるの魂 丸目はるのSF論評
偶然世界
SOLAR LOTTERY
フィリップ・K・ディック
1955
ディックの処女長編で、ハヤカワSF文庫には昭和52年、1977年に「偶然世界」として登場している。あとがきによると、いわゆる銀背と呼ばれるハヤカワSFシリーズで「太陽クイズ」として訳されていたものを改題したものである。私は、銀背とは縁がない世代で、ちょうど銀背が終わり、ハヤカワのSF文庫が白背と青背の入り交じっていた時代に海外SFの文庫を読みあさりはじめた。ディックは、私が高校生になり、高学年の頃から本格的に読み始めたのだが、それはそのまま1980年代であった。そして、ディックの死の直前であった。私はディックの死と前後して、ディックにはまっていった。80年代を通して、ディックの作品は次々と翻訳され、私はその流れのままに読み続けてきた。ハヤカワ、創元、サンリオ、あるいは筑摩、晶文社…。次々と出版され、次々と読み下していった。
いつ本書を読んだのだろうか。忘却の彼方だが、高校の終わり頃だろうか。以来、少なくとも1度以上再読している。
処女作には、作家のすべてが込められているという。ディックの場合はどうだろう。ディック独特の破綻したかのようなストーリー展開はなく、つじつまのあった作品である。後の作品に見られる主人公や読者が底を抜けたような世界のずれに落ち込むような感覚は、まだ、ない。それをディックの最大の特徴であるとすれば、この処女作はディックらしくない。しかし、主人公が、混乱した状況の中で、人間としてできる最大の勇気あるいは決断、あるいは、公正さ、あるいは定義のしにくい「人間らしさ」を発揮するときに見せる姿は、まさしくディックの作品である。ディックが書きたいことが、本書にはいかんなく、素直に発揮されている。そして、ディックの恐るべき世界を見通す能力も、この作品にいかんなく発揮されている。
簡単にストーリーを紹介しよう。
舞台は2203年、地球の人口は60億人。インドネシア帝国のバタビアに世界政府の執政庁があり、執政庁とヒル・システムと呼ばれる大企業グループによってコントロールされていた。人々は、能力に応じて階級が与えられ、ヒル・システムや執政庁と誓約し、システムに従属することで階級に見合った仕事を得ることができる。このほか、世界は無数の無級人によって成り立っていた。さらに、執政庁には、執政庁のシステムを守るテレパスたちがいた。執政庁の長はクイズ・マスターと呼ばれる。クイズマスターは60億の人々からランダムに選ばれるのだ。ただし、クイズマスターは選ばれた瞬間から、次々に公的に選抜された暗殺者に狙われ続けることになる。それを交わしながら、世界を統治するのである。この仕組みこそが、世界を安定させてきた。
長年、世界を牛耳っていたベリックが失脚し、新たなリーダーが無級者から選ばれた。ベリックは、権力を取り戻そうと策略を講じる。その策略に巻き込まれたテッド・ベントレイは、自らの欲と世界の公平さの間で揺れ動いていく。
本書「偶然世界」は、1950年代の作品で、2200年代までにいくつかの世界戦争があったことを押さえながらも、60億人という人口を提示している。
また、1950年代以降の消費社会の延長として、1980年代に、大量の生産物を、経済システムを維持するために破壊、焼却する事態を招くことも予見している。正しい予見である。
そして、本書の中心的なアイディアである、ゲームによる社会という外挿につながる。消費のシステムとしてクイズ=抽選による商品のプレゼントの仕組みができ、それが自律的に拡大、発展した結果として、権力も抽選の対象となり、社会や経済が根本的に大きな変動を招くという外挿である。これは、現実の世界ではそのままには起こっていないが、十分に読者を考えさせることのできる設定である。
そして、どんな社会、経済システムであっても、世界は公正ではなく、人間は自己の欲のなかでうごめき、システムの裏をかこうとしつづけるのだ。
どんな普通の人でも、どんな人生であっても、その人生の中で、人はときに自分自身でもびっくりするような「なにか」を行う。しかも、自分の意志で。そして、他の誰かに、「なにか」を与えることがあるのだ。そうやって、危うい人間たちの世界は、危ういながらもなんとかなってきたのだ。その「なにか」がディックの作品に描かれており、疲れたときや、落ち込んだときに、私をはげましてくれるのである。
ありがとう。
(2007.2.15)
TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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