はるの魂 丸目はるのSF論評


虚空の眼
EYE IN THE SKY

フィリップ・K・ディック
1957


 1959年、ベヴァトロン陽子ビーム偏向装置が故障し、電子工学者のハミルトンは妻のマーシャをはじめ、他の7人の見学者らとともに、磁場と放射線のエリアへと投げ出されてしまった。
 そうして、8人は1959年の別の世界で目覚めることになる。そこは、第二バーブ教の神が支配する世界だった。この神は怒りの神であり、呪いの神でもある。同時に、救済の神であり、奇跡の神である。呪いはただちに現実となり、天罰はすぐに現世にもたらされる。怪我をすれば奇跡によって直すこともできる。神は現実に存在し、人々を見ているのだ。当然、異教は呪われる。
 第二バーブ教の世界であることを除けば、ハミルトンがそれまで生きてきた現実のアメリカ社会であることに変わりない。同じ同僚がいて、飲み屋があり、家がある。ただ、仕事の内容は変わり、世界の価値観は変わっていた。
 その世界の原因は? それをつきとめ、ハミルトンたちが第二バーブ教の世界を脱したあとに、また別の世界が広がっていた。どうやったら本当の現実に戻れるのか? 本当の現実に戻るまでにはどれだけの別の世界を過ぎなければならないのか?
 誰かの妄想のような世界であっても、ハミルトンはごく普通の人間として、愚かであると同時に賢い。人間として守りたいこと、守りたい考え、守りたいものを失うまいと絶望的な戦いを続ける。なぜ。なぜならば、それがハミルトンだから。普通の人間だから。
 本書「虚空の眼」では、第二バーブ教の世界を含む3つの忌まわしく、おどろおどろしく、そして、滑稽な世界が描かれ、同時に、「現実の世界」も描かれる。その「現実の世界」は、1950年代のアメリカの姿である。第二次世界大戦後、アメリカと旧ロシアであるソ連(ソヴィエト社会主義人民共和国連邦)による冷戦は、1950年の朝鮮戦争に発展し、核開発競争へとつながった。これと平行する形でアメリカ国内は、赤狩りが横行し、「共産主義者」「共産主義シンパ」に対してアメリカ中で密告と不信がうずまく事態を生んだ。
 誰も信じることのできない世界、真の裏切り者を捜すことができず、裏切らない裏切り者を捜し出しては告発する魔女狩りの世界である。
 ディックは、現実の世界と3つの妄想的な滑稽な世界を描くことで、現実の世界が行き着く先をあばきだし、同時に人間の希望を書き出した。
 笑いながら哀しくなり、恐怖を覚えながら笑うことができる。
 それが、ディックのすごさである。
 ディックが意識しているかどうかは別として、誰もがディックのこの才能を疑わない。
 初期作品として、本書「虚空の眼」は、いかにもディックらしい傑作である。本書はもっともっと高く評価されてもよい作品だ。そう、書かれて半世紀が過ぎ、しかも、作品の舞台は1959年という大いなる過去であるのに、この作品はまったく古くさくないのだ。
 傑作である。

 さて、私の手元にある「虚空の眼」は大瀧啓裕訳のサンリオSF文庫版。1986年7月が発行日になっている。本書「EYE IN THE SKY」は、1957年にアメリカで発表され、その2年後の1959年にはハヤカワSFシリーズで「宇宙の眼」として、中田耕治訳で出版され、その後、1970年のハヤカワ書房世界SF全集に収められていたという。なんとも早い翻訳である。それだけ本書はSFとしてインパクトの大きな作品と言うことであろう。
 ディックの長編では日本にはじめて紹介された作品でもある。早くから注目されていたということで、80年代のディックブーム以前にディックは日本でも読者を得ていたということか。
 その後、サンリオSF文庫が絶版になり、1991年に創元SF文庫で大瀧訳のものが再掲されている。しかし、このサンリオ版には、創元版には掲載されていない「解説」がある。それは、ブライアン・W・オールディスによる1982年に発表されたディック追悼文「フィリップ・K・ディック まったく新しい未解決の問題」である。“今宵わたしたちはよろこび祝うために集まっています。嘆き悲しむ理由はありません……あまり沈みこむ必要はないでしょう。死ぬというようなことは人間にはありふれたことなのですから。”の一文ではじまるオールディスのディックという存在への80年代らしい総括は、今読んでも泣ける。そう、その通り。ディックが見極め、私たちに警告し続けたように世界は進んでいる。ディックはこの現実の世界の恐怖を味わうことなく、無限の世界に行ったのである。
 そして、現実の世界に生きる者たちは、ディックの警句に時折目を覚ましながら、目を覚ましたままで生きるのは辛いと、目を閉じて日々を過ごすのであった。
 読まない方が幸せかも知れないが、読んで生きる方がずっと楽しいから。
 だから、傑作である。


(2007.03.14)



TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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