はるの魂 丸目はるのSF論評
ゴールデン・エイジ2 フェニックスの飛翔
THE PHOENIX EXULTANT
ジョン・C・ライト
2003
「ゴールデン・エイジ1 幻覚のラビリンス」に続く3部作の2作目にあたる。1巻では、主人公フェアトンが、自分は何者で、この世界に何を忘れているのかを探す自分探しの旅であった。自分探しといっても、きゃつは3000歳にもなるのだ。
知性と記憶と肉体はデータ化することができ、死の概念がほぼ意味をなさなくなり、バーチャルとリアルの境目が失われ、人類と人類から変容した太陽系星人と非人類知性体(AI)の境目も失われ、人類以上の知性体が真の世界を必要に応じてコントロールする、そんな未来の太陽系。2巻の舞台は、一度は生態系が破壊されかけた地球。ほぼ何もかもを奪われたフェアトンは、死すべき人間として地球に追われた。
2007年の日本で言えば、携帯電話とパソコン(インターネットも)とテレビとカーナビと地図と家とお金を奪い取られた上で、「この者に接すること能わず」というレッテルを体中に貼り付けられた状態で東京のど真ん中に放り出された状態みたいなもんだ。ミクシィもセカンドライフもアクセスできない。2ちゃんねるだって読み込めない。メールも使えない。存在証明さえできない。医療機関にも入れない、もちろん警察には相手にされない。
あなたは、生きていけますか?
なかなか辛いなあ。
いや、たとえばフィリピンの山の中に入れば、そこには集落があって、食べることも寝ることもできる。携帯電話を持つ者や、車に乗る者がときおり訪ねてくるほかは、電気もガスも水道もない生活がある。ほぼ自給自足。お金が必要になれば、何かを売るしかない。売るものを見つける、あるいは育てて収穫する、加工する。そういう場所はこの地球上で今でもいくらでもある。それでも、その人達でさえも、売るものを売りに行って、中国産の安い農産物のために今までよりも安くしか売れずに困る、なんていうことが起きたりする。それがグローバリズムということである。情報化とグローバリズムが進むと文化的な差異に対する価値が変わっていく。伝統的な文化を固定化して極端に尊重、崇拝していく者、あるいは逆に、伝統的な文化そのものを否定していく者が現われる。自然環境や生態系に対しても同様である。極端な形である固定化した時点を保護、尊重、崇拝する者もあれば、変容こそを求め、その価値を否定する者が現われる。
そういう極端がなんども循環しながらも、情報化が肉体や精神にまで及んだ社会が、本書の舞台となっている。
地球の自然環境でさえ、あるAIによって「自然に」管理されているのである。
すべての生物、風、気温、太陽からのエネルギー、それらと、ナノマシンなどの総和がひとつのAIを形作り、同時にそれをコントロールする。
そこにおける自然とは何だろう。
そんなことをつらつら思いつつ、舞台設定が分かるようになっただけに読みやすくなった2巻をさらっと読んでしまった。読んだことさえちょっと忘れていたほどに。
生活のほぼすべてが情報化された世界で、ほんのわずかな非追放者が生きていける唯一の場所に逃げ込み、そこからなんとかはい上がるべく知恵と技術をふるいはじめるフェアトンは、果たして自分の世界に戻れるのか?
ま、戻れないと、3巻がないわけだから戻れるのだろうけれど、どのように戻るのかが問題なのだ。
(2007.06.30)
TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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