はるの魂 丸目はるのSF論評
果てしなき河よ我を誘え
TO YOUE SCATTERD BODIES GO
フィリップ・ホセ・ファーマー
1971
1970年代に翻訳されたSFって、タイトルが凝っている。原題を忘れて、作品のイメージや文中の言葉を使ってすばらしいタイトルを生み出す。本書「果てしなき河よ我を誘え」もそんな作品のひとつである。まるで文学作品かいといった感じである。そのせいか、私は買わなかったんだよなあ。ハヤカワSF文庫で1978年に出されているのだから、中学生。そのころにはちょっと早かったし、高校になったときに限りある財政力では本書を選ぶことはなかった。残念。ということで、2007年になって、ようやく古本屋にて出会うことになったのだ。まったく、こちとらもう40歳をとうに過ぎてしまったよ。
さて、主人公は、1890年に死んだリチャード・F・バートン。「千夜一夜物語=アラビアン・ナイト」の翻訳者として知られる冒険家である。このほか、2008年に死んだアメリカ人の作家や、ずっと昔に死んだネアンダール人やナチス・ドイツの大物や、人類がはじめて出会った異星人まで登場する。
目が覚めたら、そこは知らない惑星。人類の始祖から、21世紀初頭に滅ぶまでのうち360億人以上が、ひとつの惑星のひとつの果てしなき川のそばで目を覚ました。みなすべて裸で無毛。そして手首には特殊なカップがあった。このカップを川のそばに設置されている岩のような装置に置けば、1日の必要な食料などが物質移動か生成によって中に入っている。だから食に困ることはない。そして、その惑星で一度死んでも、ふたたびよみがえらされ、真の死を迎えることもないようである。
はたして、ここは天国か、地獄か。あるいは、なんらかの実験なのか?
死んだはずが目覚めさせられたバートンは、地球に似ていて、地球とは違う世界であらゆる時と場所の人類達とは果てしなき世界で生き抜き、旅をし、そして、自分がよみがえらされたこの世界の正体をあばこうとひとり戦いをはじめた。
壮大なリバーワールドシリーズの幕開けである。
本当に壮大。ラリー・ニーブンの「リングワールド」やダン・シモンズの「ハイペリオン」に連なるような壮大な物語である。なるほどねえ。こういう作品だったんだ。
この世界では死ぬことができない。いや、死ぬことはできても、必ず翌日には目覚めさせられる。そして、目覚める場所は、死んだ場所ではない。リバーワールドの別の場所である。ネタバレになるが、そこで主人公のバートンは、てっとりばやく世界を旅する方法として、「死ぬ」ことを思いつく。死ねば、別の場所で目覚めるからである。なんとまあ、辛い移動手段であろうか。本作「果てしなき河よ我を誘え」を読んだのは、デイビッド・ブリンの「キルン・ピープル」を読んだ直後だったので、死を記憶する生のあり方というものについて考えさせられることとなった。
一般的に、死は不可避なものであり、恐怖の対象であり、同時に、憧憬の対象でもある。「死んでしまえばおしまい」というのは、恐ろしさでもあり、救済ともなるからだ。その両者が共存するのは、生者が自らの死を知ることができないからである。死は常に他者に起こるものであり、自らの死を知ることはできない。死ぬまでの苦しみや、死ぬような恐ろしさは味わえるかも知れないが、死は不可知である。自らの死は不可知でも、他者の死を知ることはできる。なんと死とは不思議なものであろうか。
しかし、フィリップ・ホセ・ファーマーの「果てしなき河よ我を誘え」やデイヴィッド・ブリンの「キルン・ピープル」では、自らの死を知ることができる。記憶することができる。そして、何度も違う死を迎えることができる。いや、できると書いたが、したい/したくないという意志によっても可能であり、事故や殺害など自らの意志によらない死も含まれる。いったい、人は死の記憶に耐えられるものだろうか? いくつまで耐えられるのだろうか? 自らの生の継続がかなうと知っていても、死を恐れずにすむのだろうか。
うーん、わくわくするような怖さがあるなあ。
(ヒューゴー賞受賞作品)
(2007.10.02)
TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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