はるの魂 丸目はるのSF論評


アンドロイドは電気羊の夢を見るか?
DO ANDROIDS DREAM OF ELECTRIC SHEEP?

フィリップ・K・ディック
1968



 昭和52年3月15日初版発行の「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」が手元にある。1977年発行であるがおそらく購入したのは1980年以降だと思う。私にとってはじめてのディックである。映画「ブレードランナー」の原作として知られているが、私が映画を見たのは1983年以降のこと。今となっては、この映画の原作だから購入したのか、タイトルに惹かれて購入したのかさえ覚えていない。当時の表紙は中西信行氏が描いた、羊とさばくと画面の中の男というとてもシュールなものであった。映画公開後か、再評価されてブームになってからなのか、一度映画のシーンが表紙になって売られていたこともあったと記憶する。しかし、それさえも忘却のかなた。人間は忘却の生きものである。
 久しぶりに本書「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を手にとって読み直してみた。おそらく3回目か4回目である。映画「ブレードランナー」も何度となく見ているが、こちらはまったく別の作品として心の引き出しの別のところにしまってある。
 ちょっとだけおさらいをしておくと、本書「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」が発表されたのは1968年。日本で翻訳、出版されたのが1977年。映画公開は1982年。ディックが亡くなったのは映画公開前の1982年3月。そのため、映画「ブレードランナー」には、ディックの思い出に捧ぐという献辞が添えられている。映画「ブレードランナー」が出た頃は、SF映画ブームで、サンリオSF文庫も登場しており、1980年代前半には日本でディックにある程度の注目が集まっていた。
 本書「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」は、数あるディックの作品の中でも比較的読みやすく、理解しやすい作品である。
 物語は、1992年の地球が舞台。最終戦争によって放射能汚染してしまった地球には、限られた人間たちが息を潜めて生きていた。動物たちはほぼ絶滅し、地球に残る人々にとっては生きた動物をペットとして飼うことが自らの存在価値にさえなっていた。
 政府は火星への移住政策を押し進め、移住者には人間そっくりのアンドロイドを無償供与していた。アンドロイドたちは、有機体でできており、その寿命が限られるほかは、まったく人間と見分けがつかない。時に、アンドロイドたちは火星を脱出し、地球に逃げ込んでくる。この逃亡したアンドロイドを殺害するのがバウンティ・ハンター(賞金かせぎ)の仕事である。警察に雇用された公務員であるが、歩合制の側面もあり、高額な賞金が保証されている。主人公リック・デッカードもそのひとり。マンションの屋上で飼っていた羊に死なれ、隣人の手前やむなく電気羊を飼っている男。妻はバスター・フレンドリーの終わりなきワイドショーと感情をコントロールする情動(ムード)オルガンにおぼれ、現実との接点を失いかけている女。
 8人のネクサス6型アンドロイドが北カリフォルニアに潜入した。デッカードの上司がふたりを片付けたものの3人目を性格テストで確認しているときに撃たれてしまう。アンドロイドを人間と見分けるには、性格テストで判断するしかない。アンドロイドには共感能力がないのである。だから、人々が他者との一体感や共感を求めて日々利用する「共感ボックス」と、その中で共感の焦点となるウィルバー・マーサーの苦悩をアンドロイドは知ることができない。
 しかし、新型アンドロイドの検査・確認法は、もしかしたら人格障害のある人をアンドロイドと誤認するのではないかとメーカーから指摘され、デッカードはメーカーであるローゼン協会を訪ねた。そこには社主の娘で美しきレイチェル・ローゼンがいた。
 彼女との出会い、そして、6人の人間そっくりなアンドロイドをしとめるという過酷なミッションの中で、デッカードは共感の行く先を見失い、そして生きるすべをあらためて見つけようとする。

 そういう物語である。人は共感なくしては生きていけない。共感は人間だけのものであろうか、共感をなくしたら人ではなくなるのであろうか。共感を持たなくても、共感を求める者は人ではないのか?
 さて、本書「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」には、「キップル」という概念が登場する。このキップルは「火星のタイムスリップ」では「ガブル」「ガビッシュ」と呼ばれているもので、生活における無秩序の拡大というような意味である。エントロピーの法則とも近いが、それがたとえばダイレクト・メール、ガムの包み紙、昨日の新聞、からっぽのマッチ箱として具象化される。それは自己増殖するのである。
 私の回りもキップルだらけで、キップルとの戦いは時々するだけにしている。

 怖い怖い。
 怖いついでに、告白も。高校時代前後に入手した文庫本には時々、線が引いてある。本書「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」にも、青いボールペンか万年筆のあとが1カ所あった。12ページである。リック・デッカードが妻に対して情動オルガンで気分を良くするよう働きかけたところ、妻が冷たく怒るシーンである。
「まっぴらだわ、ダイヤルを回す意欲が湧くように、大脳皮質への刺激をダイヤルするなんて!いま、なにがしたくないといって、それぐらいダイヤルしたくないものはないわ。だって、もしそうすれば、ダイヤルしたくなるにちがいないし、ダイヤルしたくなる気分というのは、いまのあたしには想像できないほど縁遠い衝動だからよ」
 なぜ、25年ほど前の僕は、ここにだけ線を引いたのだ?
 ほかに引くところはたくさんあるだろうに?
 人間は、共感の生きものである前に、残念ながら忘却の生きものでもある。
 難しいものだ。


(2008.06.13)




TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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