はるの魂 丸目はるのSF論評


レインボーズ・エンド
RAINBOWS END

ヴァーナー・ヴィンジ
2006



「電脳コイル」が放映されたのは2007年である。ちょっと懐かしい感じの町で小学校に通う少女を主人公にした、この作品では、メガネというウェアラブルコンピュータを身につけることで、現実の空間と仮想空間を重ね合わせ、現実と仮想空間を自由に切り替えながら生活し、学校に通い、遊ぶことができた。「電脳コイル」では、この仮想空間のバージョンの違いやデータのほころびから新たな「都市伝説」が生まれ、それが物語の柱となっていった。ウェラブルコンピュータと現実空間の仮想化(マッピング)による新しい世界について分かりやすく描いた点で、この作品はきわめて象徴的で衝撃的な作品である。もちろん、それ以前にも「攻殻機動隊」で近未来の、現実と仮想空間の入り乱れた姿を描いているが、電脳コイルには日常感が存在していたのである。

 さて、本作「レインボーズ・エンド」は2006年に発表された作品で、舞台は21世紀前半。人々は、コンタクトレンズとシャツでできたウェラブルコンピュータを身につけ、「電脳コイル」をしのぐ現実感で現実空間が仮想化された世界に生きるときの人の変化を活写する。
 さすが、ヴァーナー・ヴィンジである。
「遠き神々の炎」「最果ての銀河船団」で遠未来の世界を描いたヴィンジが、1981年に発表したのが「マイクロチップの魔術師」。インターネットでのヴァーチャルリアリティーについて、インターネット創生期の頃に書かれた作品であり、大きな衝撃を与えている。「遠き神々の炎」「最果ての銀河船団」では、特異点を超えた知能の存在が描かれている。人工知能がある時点で人間の知能を上回り、それがさらに知能を上回る存在を生み出し、加速度的に知能が発達、成長し、その結果として、人類(や、それらを生み出した種属)は、終焉、大変動、本質的変化を受けることになるというものである。
 本書「レインボーズ・エンド」では、特異点的な存在は出てこない(ようである)。人々は、ウェラブルコンピュータを身につけ、リアルとバーチャルを自由に切り替えながら生活や仕事をしていた。時に場所は意味を持ち、時に場所は意味を持たない。距離も、時間も、立場も、時には制約を失い、時には制約にしばられる。すべてのものがデータ化され、マッピングされようとしている時代のはじまり。
 それは、特異点につながる自然発生的なネットの中の人工知能の誕生を迎える前夜のような世界。
 それでも、戦争があり、貧困があり、苦痛がある。幸せの数と同等に。
 子どもたちは新たな遊びを覚え、開発し、そして、罠にはまる。
 大人たちは新しいおもちゃに興奮し、支配を考え、失敗し、破綻する。
 人間がすることは変わらない。たぶん。
 世界は拡張され、人の認識も拡張されるが、私達は食べ、飲み、眠らなければならない。そして、誰かとふれあい、認知され、存在を許容されなければならない。
 そうしたい。

 おそらく、本書「レインボーズ・エンド」は、2006年の「マイクロチップの魔術師」なのだろう。だから、あと20年ほどして読むと、なるほどねえ、とか、あはは、とか思えるのだろうと思う。ちょっとリアルすぎて困ってしまう。少し未来を見たいという人にはお勧めしたい作品である。



ヒューゴー賞・ローカス賞受賞作品



(2009.06.01)




TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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