はるの魂 丸目はるのSF論評


デューン砂丘の子供たち
CHILDREN OF DUNE

フランク・ハーバート
1976



「デューン」初期3部作の第3作目である「砂丘の子供たち」。そのタイトル通り、ムアドディブのふたりの子どもが主人公となる。父レトの名をもらったレトと、双子の娘ガニア。物語は、前作から9年が過ぎた。ふたりの子どもたちは9歳となるが、生まれながらに過去の彼らの血統にいるすべての人たちの人生と記憶を持つベネ・ゲゼリットの言う「忌まわしき者」またはレトをしてクイサッツ・ハデラッハ、ガニマをして生まれながらの教母としていた。砂漠へ去り、死んだと思われるムアドディブに変わって、折衝として統治を行うのは、ムアドディブの妹であるエイリア。クローンとして生まれ変わるとともに、ある特殊なきっかけによって死までの記憶を取り戻したゴーラであり、メンタートであるダンカン・アイダホを夫とし、古き良きフレーメンの指導者であるスティルガーを側近としながらエイリアは統治者として振る舞っていた。
 しかし、エイリアは、魔女集団ベネ・ゲゼリットが恐れていたとおりの「忌まわしき者」となりつつあった。「忌まわしき者」それは、過去の記憶的存在であるものに支配された肉体のこと。過去の血統の記憶的存在を、その声を、叫びを、ささやきをコントロールし、自らを律することができなくなったもの。そんな「忌まわしき者」の統治をベネ・ゲゼリットは恐怖していた。ベネ・ゲゼリットだけではない。フレーメンだった者たちが、フレーメンのジハドにより信仰と服従を求められた既知宇宙の者たちが、アトレイデ家に恨みを抱き、その治世の転覆を願っていた。そして、追放された皇帝シャッダムの孫ファラドウンをしてコリノ家の復活を、ベネ・ゲゼリットの復興を、旧体制を取り戻す陰謀が進行していた。
 一方、エイリアもまた、自らの内なる声により子どもたちを使っての陰謀を企んでいた。
 スティルガーは、フレーメンの誇りとムアドディブへの誓約をもって、ダンカン・アイダホはアトレイデ家に対する忠誠をもって、すべての陰謀からふたりの子どもたちを守ろうとしていた。
 だが、誰も、レトとガニマを真に理解してはいなかった。彼らは、彼らを利用しよう、守ろう、殺そうとする人々とは違う、彼ら自身の計画を持っていた。それは、ムアドディブがなそうとしてできなかったことであり、人類の未来を賭したものであった。
 かくして、デューン「砂の惑星」「砂漠の救世主」「砂丘の子供たち」は、ポウル・ムアドディブ・アトレイデの父レト公爵の死にはじまり、息子レトの決断によって幕を下ろす。ハルコンネン男爵の陰謀によって幕を開け、ハルコンネンの陰をもって幕が下りる。
 3つの作品のうちで、ダンカン・アイダホの死と再生と再びの死が語られる。
 数多くの複線を残しながら、物語はここでひとつの終結を見た。

「砂丘の子供たち」三部作の最後は、昭和54年1月に10日違いで連続して刊行されている。1979年のことである。中学校2年生から3年生になるころのことであった。当時は、もう何のことやらである。あらすじを追っていたに過ぎないような気がする。最後の方は、何が起きているのかさっぱりである。買ったけど、「砂の惑星」のようなインパクトはなかった。ひとつ言えるとすれば、「あ、ムアドディブ、死んでいなかったんだ」ぐらいのものである。まだ、愛憎のなんたるかも知らない14歳の冬であった。
 その後、おそらく高校生の頃に1度読み直しているはずである。
 次に「デューン」に再開するのは、大学1年生の冬。「砂漠の神皇帝」が突如目の前に表れた時である。学生ぼけですっかり「デューン三部作」のストーリーを忘れていた私の前に、皇帝レトが姿を見せ、三部作でなじんでいた石森章太郎(当時ノは入っていない)イラストではないことに驚かされた。その話は、「神皇帝」にて。


(2009.08.02)

TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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