はるの魂 丸目はるのSF論評


デューン 砂漠の神皇帝
GOD EMPEROR OF DUNE

フランク・ハーバート
1981



 それが出たとき、私は目を疑った。大学生協の書店にデューンシリーズの第4部となる「砂漠の神皇帝」が並べられていた。それは、慣れ親しんだ石森正太郎のイラストではなく、新しい体裁となっていた。大学1年の冬。ちょうど車の免許を取ろうと教習所に通っていた頃のことである。寒い冬で、私は体調を崩し気味だった。
 当時はまだ下宿していたので、本も実家からそれほど持ってきてはおらず、デューンの1〜3部は忘却の彼方にあった。そもそもざる頭の私である。
 おそるおそるページをめくると、そこにはまったく私の知らない砂の惑星が横たわっていた。3500年の時が過ぎ、しかし変わらずレトが皇帝であった。その姿はもはや人間とは言えず、そこに知った顔はいなかった。いや、ただひとり、猜疑心に満ちたダンカン・アイダホだけが時代を超えて、かつてのデューンの記憶をつないでいた。
 読んで、狐につままれたような気分になったことを覚えている。「砂漠の神皇帝」を正当に評価し、楽しく読めるようになったのは、すべてが私の手元にそろい、心落ち着けて「砂の惑星」から順番に読んでからであった。それまでには長い時間が流れた。せいぜい10年か15年ぐらいのことである。

 3500年の未来。そこには緑豊かで、水に困らない、川さえ流れているアラキスがあった。前作「砂丘の子供たち」の最後で、砂鱒との共生を果たし、超人的な能力を得たレトは、正しくポウルの跡を継ぎ皇帝となった。それから3500年。レトは、水の惑星に変わりつつあるアラキスの湿気を厭う砂虫に近づいていた。彼は、ポウルが成し遂げられなかった長期の平和「レトの平和」を作り出し、完璧な神聖独裁を既知宇宙に敷いていた。その権力の柱は、やはり香料メランジである。砂漠をほとんど失ったアラキスで、レト神皇帝が保管し、大公家をはじめ、それぞれの勢力が隠し持っていたメランジを没収し、その分配を行うことによって絶対的な権力を持っていた。同時にレト神皇帝の未来を見る力、レトを神とする女性のみで成り立つ親衛軍フィッシュ・スピーカーの存在が、かつての皇帝軍であるサルダウカーや、ポウルのジハドを起こしたフレーメンをしのぐ恐ろしさがあった。女性ゆえの絶対的帰依と精神的な強さが発揮され、その頂点としてダンカン・アイダホが掲げられていた。何度もゴーラ(クローン)として再生させられ、最初の死の記憶を思い出させられるダンカン・アイダホの存在は、デューン世界へのアンカーとも言える。愛と死と、正義とアトレイデへの忠誠。それこそがダンカン・アイダホ。
 そしてアトレイデ家。神皇帝は、ベネ・ゲゼリット以上に慎重に血統を強化し、アトレイデ家、コリノ家、ハルコンネン家、さらにはダンカン・アイダホの血を混ぜてきた。そうして生まれたアトレイデの官僚こそが、レト神皇帝のもうひとつの力でもあった。
 レトはなぜ3500年もの間、大規模紛争の抑制と人の移動の制約、文化・文明の拡張の規制を続けてきたのか。その偽りの平和をレトは喜んでいたのか? レトは、数々の予言を残す。遠い未来の人類の子孫に対しての言葉を残す。それは、「レトの平和」後に広がる人類の力を予言したものであった。
 レト神皇帝の治世を描く、異色の物語、それが「砂漠の神皇帝」である。

 それにしても、驚いた。
 まあ、注意深く「砂丘の子供たち」を読んでおけば、こうなることは予言されていたのだが、フランク・ハーバートは最初からこういう物語を考えていたのだろうか? フレーメンの聖なる希望であった緑と水の惑星となったアラキスは、しかし、フレーメンにとってのユートピアとはならなかった。もはやフレーメンすら死語であり、レト神皇帝によって「博物館フレーメン」としてその形をわずかに残すのみである。変わり果てた登場人物たち。しかし、それぞれに動機があり、愛があり、死がある。世界と個人の関わりがある。やはりデューンである。


(2009.08.05)

TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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