はるの魂 丸目はるのSF論評


都市
CITY

クリフォード・D・シマック
1952



 アーサー・C・クラークの「都市と星」は1956年。その初版ともいえる、クラーク長編処女作「銀河帝国の崩壊」が1953年。それよりも古い作品である。
 本書「都市」は、8つの連作短編から成り立ち、その間を「現代の解説者」がつなぐという、連作短編を長編化した作品に見られる典型的な構成となっている。
 傑作である。
 遠き遠き未来。犬たちの世界。古き伝承が文書化されている。多くの研究者、思想家がこの伝承の真偽に取り組み、論争を繰り広げていた。人間とは実在したのか?都市という生活形態の意味は?戦争とは、殺害とは何か? ロボットを人間が生み出したというが、犬に人間が言葉を与えたというが、人間とは神の象徴なのか?
 解説者は、時に人間の実在に与し、時に神話と判断し、読者である他の犬たちに判断をゆだねている。
 都市。
 人間は、文明の進化の中で、都市を捨てた。自動車社会の延長に、郊外型の社会が誕生し、やがて、個人、家族中心のコミュニティ不在の社会ができた。都市の存在が終わった。
 ロボットが生み出された。人間をサポートする者。人間に替わって働く者。
 人間は宇宙を見つけた。そして、新たな哲学を、存在を見つけた。
 人間はいなくなった。いなくなった。いなくなった。
 そして、犬と、犬をサポートするロボットの社会が生まれた。
 物語を一貫して通す、ウエブスター家の人々の歴史と、ウエブスター家、犬たちの歴史の間にいる、ウエブスター家の執事ロボット・ジェンキンス。ジェンキンスとウエブスター家、ジェンキンスと犬たち。
 クラークの「幼年期の終わり」「都市と星」にも勝るとも劣らない、それでいて、シマックらしい牧歌的な物語と人類史。
 私がこの作品「都市」をはじめて読んだのは、おそらく昭和52年頃。1977年あたりである。12歳の中学生になったころだと思う。奥付が昭和51年9月の初版となっているからだ。
 その幻想的なイメージと、壮大な人類史は、レイ・ブラッドベリの「火星年代記」や萩尾望都・光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」などと並んで、強烈な印象を与えた。
 今、あらためて読み返してみても、すごい。未読の方のために残して置くが、多くの人間がいなくなった理由がすごい。まさしく「幼年期の終わり」である。そして、現代にも通じる「共感」というキーワード。SFが文学として目指している未来のひとつが、「共感」であることは疑いない。
 過去、未来、あるいは、新しい技術、哲学の中で、物語は現代の思想、生活、社会とは異質なものを描き出す。そこでも読者は「共感」することができ、作品の中では、異質さ同士に「共感」を生み出す。そして、「共感」が生まれないところに、絶対的な異質さが現れ、「共感」が強調される。絶対的な異質さを描かせたら、スタニスワフ・レムの右に出る者はいないだろう。「共感」を素直に書かせたら、シマックの右に出る者はいないのではないか?
 やさしい、すてきな物語である。SFとしてもおもしろいので、ぜひ。

 そうそう、訳者が「林克己・他」となっているが、「他」には、近代日本SFの父・福島正実が含まれていることを付け加えておきたい。なるほど。

(2010.07.03)




TEXT:丸目はる
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