はるの魂 丸目はるのSF論評


アッチェレランド
ACCELERANDO

チャールズ・ストロス
2005



(06年ローカス賞受賞作品)

 途中、読んでいてジョン・C・ライトの「ゴールデン・エイジ」の関連かと勘違いしちゃった。作家違うじゃん。アメリカとイギリスだし。自分に駄目出し。そうか、「シンギュラリティ・スカイ」や「アイアン・サンライズ」の人か。
 内容としては、シンギュラリティもの。インターネットの拡張とソリッドな計算能力の飛躍的向上、集積によって知性の覚醒(自意識の誕生)が起き始める。データ化されたイセエビ達にも、それは起きる。
 知性の覚醒が次々に起き、計算能力が年々飛躍的に向上していく。ある臨界点を超えると、その文明を生み出した人類が理解できない仮想上の知性達が現実に大きな影響を与え始める。それは、スローな生身の知性には理解不能な事態になるだろう。
 それが嫌なら、そして機会が与えられるのならば、あなたもアップロードされればよい。生身ではなく、仮想空間に生きるということだ。アップロードまでいかなくても、その途中段階には、脳の外部拡張など様々な手段が待っているだろう。機会が与えられれば、の話だが。
 さて、時は21世紀はじめ。ひとりのコンサルタントがいる。膨大な情報をかみ砕き、必要な人に、必要なアイディアを授ける。インターネットとリアルの世界で世界を変える結節点になる男マンフレッド・マックス。彼はそれで食べている。しかし、対価をもらうわけではない。アイディアは無償。富を授け、代わりに様々な「お礼」によって生きている。航空会社からは無料のチケット、ある団体からはホテルの宿泊代など。彼はほとんどお金を使わずに世界を旅することができる。そして、彼の動向は、世界のギーク達の知るところにある。情報相互交流こそが彼の源泉だからである。
 彼の願いは、シンギュラリティを起こすこと。世界を変えること。そのために彼は日々、世界を旅する。

 話は変わるが、先日「究極の豆腐」というものを食った。豆腐のこく、大豆の風味がしっかりしていて、実においしかった。よく見ると、豆腐といっても、植物油や大豆抽出物などが入っていて、大豆とにがりでこしらえた「豆腐」ではなかった。もちろん、大豆もにがりも使っているのだから、豆腐2.0といったところかも知れない。本当の豆腐では出せないほどのこくと風味なのである。
 確かに「究極」であろう。豆腐であって、豆腐でなく、豆腐でなくて、豆腐なのである。
 私の五感はこれを「おいしい」と感じ、「豆腐」と感じる。
 でも、この「豆腐」を自分で作ることはできない。
 豆腐の味わいとはなんだろう。品種、水、作り方、場所、気分、空気によって味わいは変わるだろう。「究極」は条件を選ばない。
 つまり、伝統や手作りに基づいた味わいとは、与えられた条件の中の感じ方である。
 2.0とは、条件を解除した場合ということになる。

 問題は、それをよしとするかどうかである。
 生身ならば、何かを食わねばならぬ。
 何かを食うためには、何かを殺す、獲る、育てる、保存するなどなどの行為が必要である。
 自然環境と、歴史と、生理条件とに育まれた文化とその文化によってつくられた自然環境、歴史、生理条件、そして文化。相互に、循環的に変化していきながら、生活文化、生活技術が蓄積される。その技術は、今日の科学技術と違って、空間的汎用性がなく、時間的汎用性はある。つまり、そこでしか使えない技、知恵である。そこまでは、1.0であり、その条件を解除すると、何でもできるようになる。
 味わいだけでない。それは、快感、感情、あるいは幸せな気分までも該当するであろう。

 シンギュラリティがもし起きるとして、私は何を選ぶことができるだろう。
 幸せになれるのに、わざわざ幸せになるかどうか分からない状態を選ぶだろうか?
 そうありたいものだが、どうしたいのだろう。

 そういうことを考えさせる作品であった。基本的には、家族の愛憎の物語なのだけれどね。


(2010年7月24日)




TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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