里地への思い
竹田純一

昭和35年、日本の高度成長に弾みがつき東京オリンピックの開催が決定された頃、私は東京の上目黒に生まれた。もともと新潟から家具職人になるために両国国技館の裏に移り住んできた父の家は、戦争によって一面焼け野原となったことで、戦後の昭和23年頃、両国での再定住を断念して、渋谷から3km程外側にある上目黒に移り住んできた。戦後のモノ不足で住宅資材がなかったため、新潟の旧家を兄弟で解体し貨物で運び、再び組み立てた家で、父は兄弟とともに新たなる暮らしを始めたらしい。移築時点の建物の年齢は30歳くらい。それから10年後私は上目黒で生を受け、この家が70歳を迎えるまで上目黒で暮らすこととなった。

小さな松山といわれる丘の斜面に烏森神社という狭いけれども神主さんの家族が暮らしている神社があった。湧き水がごうごうと水しぶきをあげて出ていたので、ここに社(キツネ様)が祭られたようだった。きっとかつては、松山と烏森とキツネ様の里山だったはずだ。私が育った時期には、ほとんどこの面影がなくなってしまっていたが、残された空き地に、松の山があり、わずかに残っていたクヌギや銀杏の大木と湧き水、各家にあった井戸から、当時生きていたお爺さんやお婆さんたちならば、子供の頃の里山の風景を思い返すことができたのかも知れないと、私自身の子供の頃からさらに過去を思いおこしつつ、私自身が30歳まで住んでいた上目黒の風景がよみがえってきた。
当時小学生だった自分は、上目黒の風景が嫌いだというのではなかったのだけれども、上目黒とは比べものにならないほど、土と水と生き物の匂いがして、お百姓さんたちが元気だった母方の実家、東京の町田町(現在は町田市)の飛び地にあった下三輪という谷津の暮らしに、ふるさとの原風景がある。
標高差50メートルもなさそうな里山に囲まれた谷戸には、くねくねした土の路が里の奥へとむかっている。夏休みの早朝、いとこの春男ちゃんにつれられて、クワガタ、カブトムシ、玉虫を毎日のように取りに行き、午後には、湧き水や小さな水たまり、田んぼで、ドジョウ、おたまじゃくし、ザリガニ、ゲンゴロウをとって遊んでいた。薪の匂いと煙、お焦げのごはん、壷にためた水と沸かしたさゆ、夏草の匂い、秋の風、トンボの赤。私の脳裏には今でも鮮やかに子供の頃のあの原風景が焼きついている。
民家の裏山の竹薮と湧き水、ほら穴の冷蔵庫、庭先の井戸、屋根の上で遊ぶ鶏、木と土の豚小屋、この谷戸から一歩も外へ出づに亡くなった大きな声の叔母さん。それぞれの移り行く季節と暮らし方が匂い味、流れていた風とともに深く体に刻み込まれている。

小学生時代に思う存分、太陽と風のエネルギー、土と水のぬくもりを体に刻み込んでいたせいか、学校へ行くのも忘れて野山で遊んでいたせいか、1年中水と戯れていたせいか、自分の感じたもの、本能に合ったことでないと力が湧いてこない。これでいいのだろうか、もっと自分らしい暮らし方、歩み方があるのでは、そんなことを日々自問しながら、30歳も残すところ1ヶ月となってしまった。訳もわからずがむしゃらな20代、自分の本能と仕事の調和をもとめつづけてきた30代、やっと、昨年、子供の頃の原風景と仕事が一致し、自己矛盾に悩まされない暮らしが見つかりそうな感じがこの頃してきた。40才にしてやっと、現風景に近づけるのか、遠ざかるのか、大きな時代と文明の変遷の中で、都市と農村の中間の暮らし方を模索しはじめている。里山文化、生活文化を取りいれた暮らし方ではあるけれども、どうなるのかは自分自身まだよくわからない。お爺さんお婆さんたちが知っている風土と人とのかかわりを早く自分も受け継がないと、あと5年もすると、伝承することじたいが、老人たちが加齢してできなくなってしまいそうだ。
昨年設立した里地ネットワークは、循環共生型の地域社会とは何かを模索し続けるネットワークだ。
最初の1年は、闇中模索、循環・共生・参加の地域づくりを実践している地域を旅して、あの手、この手、奥の手、さまざまな手法や技法、ノウハウやアイデアを探し求めてきた。旅を続けるなかで、漠然とはしているけれども、ほんの僅かではあるけれども鮮やかな閃光のような手法や道筋が見えてきたような部分もある。今年は、そんな技法や手法を地域で実践して試している1年だ。

里地ネットワーク http://member.nifty.ne.jp/satochi/

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