イノシシ考
竹渕 進

 ここ数年、全国各地でイノシシやサルによる農作物の被害が報じられている。私の住む倉渕村でも毎年イノシシが出没し、イノシシよけのトタンをはりめぐらした畑が多くなってきている。私は倉渕村で百姓をはじめて12年になるが、はじめのころはイノシシは出ていなかった。やはりここ数年のことである。はじめて被害にあったのは、じゃがいもと小麦だった。じゃがいもは、まだピンポン玉くらいの新じゃがを食い、植え付けた親イモは残していった。小麦は、その年は農林61号と南部小麦をつくった。南部小麦の方が少し早生なため、はじめに南部小麦がやられ、次いで農林61号がやられた。どちらも熟しはじめて、指で押すとつぶれるが、あと1週間から10日もすれば収穫という時にやられた。腹も立ったが、食べる適期をちゃんと心得ていることに感心もさせられた。その後は毎年、被害の多少はあれ畑に出てくるようになった。私もトタンで畑をかこったりして防衛はしているが、時にはトタンを乗りこえたり、隙間をねらって入ってくる。イモ類や米や小麦が好物のようだ。その他にもミミズを食べるのか、堆肥の山をぐちゃぐちゃにしたり、ミョウガ畑や果樹園に大穴を掘ったり、畑に敷草や敷ワラがしてあると、そこをねらって掘り起こされてしまう。有機農業の天敵かもしれない。

 さて、この間友人と話をしていて気づいたことがある。例によってイノシシがどうしてこんなに出てくるようになったのかと話していたのだが、イノシシはほんとうに「出て」きているのだろうか? と。もしかしたら人間が「退いて」きた結果なのではないか。イノシシが出没する原因としては、山の荒廃や個体数が増えていること、里の食い物に味をしめたとかいろいろな説があり、それぞれ原因のひとつだろう。イノシシと人間を、山を仲立ちとしてその関係性を考えた時、私たちの暮らし方がひとつの原因として見えてくる。私の住む倉渕村は、いわゆる山村であり、畑や住居のある処、「裏の山」であるいわゆる里山、そして山仕事や、かつては炭焼きや猟師しかめったに入らない奥山がひとつらなりになっている。以前は、きっと里山が人間と野生動物の境界線であったのだろう。「裏の山」は生活の一部であった。燃料としてボヤ(柴)や薪を背負いだし、畑のための落ち葉をかき、季節の糧として山菜を採りに入った。子供たちも山でいろんな工夫をして遊んでいた。里山が人の気配に満ちていた時、イノシシもまたそこを人との境界線と認識し、おいそれと里に降りられなかったのではないだろうか。今や里山は、暮らしとのかかわりをなくし、めったに人の声を聞くこともない。畑ですら、機械化されるにしたがい、百姓がひとつの畑に費やす時間は少なくなり、家族で子供を遊ばせながら農作業をしている風景もめったに見られなくなった。畑からも人の気配は薄くなってきている。畑への行き来も軽トラやトラクターで、山にそった道を、サーッと通りすぎてしまう。里山や畑に気配を残さなくなった時、それはイノシシが出てくるというよりは、人間が山から里へ、里から街へと退いていったことになるのではないか。
 私たちの暮らしそのものが問われている。山に依存しなくなった暮らしが。といってもこれを変えるのは容易なことではない。ただ、すべての畑にトタンや電柵をめぐらしたり、ワナをしかけて有害獣駆除をするよりも、里山を人の気配で満たすことがイノシシとのよりよい緊張関係をつくることになるのではないだろうか。

copyright 1998-2002 nemohamo