スローフード、ばんざい!
我が家のかんずり

百田昌代

 フリーランスで編集からデザインまでの仕事をメインにしているため、日々、とにかく時間がない。「時間は作るものよ」と言う人を「これ以上、どうやって作れというんじゃ!」と殴り倒したくなるぐらい、間隙を縫って仕事と子育てと家事に追われている。最も、家事といっても掃除はあまりやらず夫のことは当然放りっぱなしなので、追われているとはいえプライオリティをつけて手を抜いていることは言うまでもない。
 こんな目まぐるしい人生に時々嫌気がさし、人間らしい感性を取り戻すためにあえて時間のかかる料理をすることがある。なんとなく流行りになってしまったが、スローフードというやつである。

 今年は冷蔵庫が一杯なので断念したのだが、ほぼ例年、1月にかんずりを仕込むのを我が家のならわしにしている。唐辛子を寒の時期に摺って漬け込むのでかんずりと呼ぶらしいが、それにならって小寒の日に唐辛子を水につけて激寒のベランダに出す。我が家は団地住まいである。適当に雪が積もったり、溶けたりしているうちに大寒の日となる。その期間は私にとってはイベントなのだ。
 小寒に入る前に唐辛子を調達するのだが、これがちょっとした量だ。手前味噌とはよく言ったものだが、はじめてかんずりを仕込んで以来、めん類や豆腐、鍋にはこれなしではいられなくなってしまった。友人やご近所にも分けたら「これなしではいられない体になった。どうしてくれる」と責める。切らすと大変恨まれそうなので、他家の分まで1年間うるおす量を仕込むことになり、買ってくる唐辛子はマクラのようなサイズの袋にどっさりと入っている。それが2袋。そして小袋がいくつか。昨年は、当時3才と5才の息子たちが「ママ、これなあに?」と聞くので「唐辛子よ」と答えるとその量に「うわあい!」「とうがらし、とうがらし!」と小躍りして近づいてきた。近くまで来てのぞき込んだがしかし、「うわっ!」と叫んで逃げた。我が家は生物の名を教えるときには「それが食べられるかどうか(ついでに旨いかどうかも)」も教えている。だからスーパーの売り場で「チキンはね、元はニワトリなの。それを殺して肉だけにしたのがこれ。そしてこれが取りだした内臓」などと側の母子が嫌な顔をして通り過ぎても教えているので、息子たちは生物や食品では滅多に驚いて逃げたりはしないのだが、マクラの詰め物のような唐辛子からは一瞬で逃げた。やはりそれだけの多量の唐辛子は、幼い子どもにとっては側に寄るだけでヒリヒリと刺激的すぎたらしい。
 その大量のヒリヒリをまず小寒の日、水にとっぷりと漬けて大寒まで待つ。食べ物ができ上がるまで「何日も待つ」ということは、コンビニですぐに食べられるご飯やおかずがたくさん売られている今日としては非常にノンビリしたものである。
 いよいよ大寒の日。だいたいが夜中に仕込むことになる。昨年は生麹が手に入らなかったので、不経済で質もいまひとつのスーパーの麹で仕込んだ。ボロボロなので、ぬるま湯をまぶし、シャトルシェフに入れてちょうどよくなるまで起す。起してやると、そこそこ生麹のようになる。この一手間がとても大切。その間に水を切った唐辛子を種ごと摺るのである。摺るのであるが、スローフードと言っている割には摺鉢なんか使っていたら世があけるのでフードプロセッサを使う。しかし家庭用なので、たっぷりと1時間はかかる。素手で扱うと刺激が強すぎるので使い捨て薄手のポリ手袋を使うのだが、なぜかいつのまにかヒリヒリしてくる。2〜3度手袋を変える。摺り終った唐辛子にたっぷりの柚子の絞り汁と表皮のすりおろし、塩、麹を加え、よく混ぜ合わせて樽に詰め……。狭い台所はクシャミが出るほど唐辛子と柚子の香りで一杯になる。
 時間も労力もかかり手もヒリヒリと痛くなるのであるが、東京の我が家の狭いベランダにかんずりの樽が2つ並ぶと私は1人、麹菌よ、スクスクと育ちなさいよ、と我が子のように話しかけ、樽をヨシヨシとなでたりしてニンマリするのである。ああ、これで今年も旨い湯豆腐が食べられるんだな。ウドンもソバも鍋も焼き魚も……と大寒の日の深夜遅く激寒のベランダで、1人ぬくぬくと満ち足りた気分に浸る中年女が1人。他人が見たらさぞかし変な光景であろう。樽を開けるのはだいぶ先であるが、それがまたかんずりの醍醐味。何といってもこれは生き物であって、ゆっくりと育つ食品なのであるから。

copyright 1998-2001 nemohamo