果物はなぜうまいのか?

潮田 和也



 この間、山梨の生産者と酒を飲んでいて突如、人は何のために生きるのかという哲学的な話題になったのだった。もちろん酔っぱらってでもいなければこんな難しい話題を口にすることはないが、結論(勝手に結論にしてはいけないが)としては、「子孫を残すため」に生きている、という彼の意見が採用(?)されたのだった。
いかに自分の遺伝子を残す確率を高くするか、それが、人間をはじめとしたすべての生き物の行動原理に表れていると確かに思う。
例えば極端な考え方に、男は毎日でも子づくりができるが女性は回数が限られるので、男はたくさんの女性と子づくりしようと思うが、女性は逆に、一人の強い男(いい男?)との子供を作ることが、確率的に高く自分の遺伝子を残せる、というのがある。これ故に男と女の根本的な行動原理が異なるわけで、さまざまなもめ事が想像できたりするわけである。
 作物だって同じである。子孫を残したい、という行動原理に乗っ取って行動する。つまり自分の遺伝子を継いでいきたいがために種を作るのに必死になり、それをばらまくのにも必死だ。自分で分裂していくというやり方もあるかもしれないが、全く同じ遺伝子を持つものだけ増えていくというのはある意味危険なことかもしれない。例えばその遺伝子にとって弱い病気が流行ると全滅してしまう危険性があるわけである。だから、生物の業界(?)では種を作るという、ちょっと違う遺伝子をミックスさせていく増え方が主流なんじゃないだろうか。

果樹の戦略
 果樹は実をつけるわけだが、果実の中には普通は種があって、果樹としては、実が落ちてそこからまた芽を出して増えていこうという腹づもりのわけだ。しかし実が全部本人の下に落ちてひしめき合って芽を出したところで、競走になって効率が悪いはずである。そこで、他の動物に食べてもらって、離れた所に移動してフンとともに落ちてそこから芽を出そうという、姑息な作戦を思いついたんじゃないだろうか。
 だいたい人間においしいものは動物にもおいしいようである。反対にまずいものはまずいようだ。虫の大被害を受けたキャベツ畑にあった虫に食われていないキャベツなどを食べると、確かに僕が食べてもまずかったりする。
鳥にしてもサルにしても、実を食べるだけなら普通の有害鳥獣であるが、なぜかおいしい実を百発百中で当てて食べるので、とっても憎たらしい。しかも、たくさんの実の一番おいしい部分を一口だけ食べるので、なおさら腹立たしい。とにかくおいしい実ほど、動物に食べられて種がばらまかれる確率が高いわけだ。

最高においしい果実とは?
 僕が今まで食べてもっとも甘くておいしかった果実は、和歌山の生産者の、放ったらかしでもう廃園にする畑のネーブルオレンジである。木が枯れかけていて収穫量は少なかったが、生産者が最後の出荷だ、といって出してきたネーブルオレンジの実にうまかったこと、かつて食べたことがないおいしさだったのだ。こんなにうまいのに何で廃園にしなきゃいけないんだ?!と聞いたら、最後だからうまいんだとのことである。つまり、枯れかけの果樹は、それこそ子孫を残すために最後の力を振り絞り、実を甘くするんだという。ネーブルにとっては無念だろうが、食べたのは動物ではなく僕だったので、種は水洗便所に流されてしまったのだが。
 果樹を甘くするためにわざと木を傷つけたりして痛みつける方法も実際にあるくらいである。それは葉がつくった栄養分を根の方に行かなくするとかいう理屈らしいが、果樹はそういうことをきっと自然にやってるのだろう。これ以来、「枯れかけの木の実はうまい」というのは僕の中では常識である。
青果の仕入れを仕事とする身としては「枯れかけポンカン」や「枯れかけリンゴ」などという果物を販売したいわけだが、一度果樹が枯れたら復活には何年もかかるので、一個数万円くらいで売れないと合わないだろう。
 トマトに青枯れ病といって、一度入りこむとそのハウスの作物が急速に全滅するくらい枯れてしまう病気がある。一度見て大丈夫でも、もう一度振り返るともう枯れているというくらい、急激に広がるこわい病気だ。
京都の生産者のトマトが青枯れ病にやられ、全滅したハウスに1個だけトマトがなっていたことがあった。悲惨な光景ではあったが、この1個だけ成っていたトマトがうまかったこと。僕は思わず「あんたはえらい!」とそのトマトの木をほめたたえ涙ぐみ、おいしくいただいたのであった。これもいまわのきわに子孫を残そうとがんばった結果なんだろう。
 僕もそろそろ子孫を残さねばならないヤバい歳になってきた。枯れかけなので相当うまいはずである。しかし残念ながらまだ誰も食べてくれる気配は無い。

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