北海道新規就農者の農楽だより2
お湯が沸いた!水が出た
藤田京子

 東京を離れ、北海道・中富良野町に移り住んで1年半。都会から田舎へという生活の場の変化にともない、都市での暮らしでは考えなかったことに気づくことも多い。

 昨年、中富良野町の公営住宅に入居して、最初に驚いたのが風呂釜。なんと石炭で焚くのだという。石炭!? それまでの生活でまったく接点のないものだった。仮住まいの公営住宅に新しく風呂釜を買うのは惜しいので、その石炭釜で風呂を焚くことにした。
 特に慣れるまでは大変だった。まず焚き付け。石炭になかなか火がつかず、4回、5回とつけ直すこともあった。湯加減の調節も、空気窓の開け閉めや石炭の追加など、風呂が沸くまでに何度か足を運ばなければならない。釜に残った石炭の燃えかすは風呂を沸かすたびに捨てなければならない。
 そして何より面倒なのが、煙突のそうじ。
 ススがたまると石炭の燃えが悪くなるばかりか、飛散して近所迷惑にもなる。掃除で顔はスス黒く汚れ、我ながら滑稽な姿。「煙と灰を友として〜」という歌詞が懐かしい、煙突掃除屋の歌「チムチムチェリー」を思い出した。あの歌の意味はこういうことだったのか…。
 これまでの生活では、湯沸器のボタンひとつでお湯がでた。以前アジアを旅した時、安宿ではお湯が出ず、お湯がでるかでないかで宿泊料金が違うという経験をし、お湯の貴重さを感じたことはあった。でも石炭釜を使うようになり、風呂を沸かすことが決して楽ではない環境におかれてはじめて、お湯って石炭であれガスであれ、何らかのエネルギーを使わないと手に入らない貴重なものなんだという当たり前のことを再認識した。

 さて、いよいよ公営住宅から農村地域の一軒家に引っ越すことが決まった。そこで直面したのが水の問題。その地域には上水道がなく、我が新居にある井戸も数年使っていなかった間に水が出なくなっていた。地下水の水脈が変わってしまったのか、水を汲み上げる管がつまってしまっただけなのか。今度の住まいは山が近く沢沿いに建っているので、水は豊富な所。山水のため池からひいたパイプを伝い、水は常時たくさん流れてくる。しかし北海道はキツネによるエキノコックスの問題があるので、農業用水としてはそれでよくても、飲料水として使うには取水口を相応にきちんとしなければならない。
 水がないことには生活はできない。最悪の場合、人力でできるボーリングキットを借り、自分たちで新たに井戸を掘るという話もでた。
 でも幸いなことに、井戸の鉄管が詰まっていたことが分かり、管に圧力をかける方法で詰まりものを取り除くことができた。詰まっていた錆と泥に続き、溢れ出る水、水、水…。TVドラマ「北の国から」で、水のない家に沢から水をひくべく五郎が苦闘し、ようやく流れ出た水に純・蛍とともに大喜び、というシーンがあったが、まさにそんな心境だった。
 水が出た! これまでの暮らしでは水は蛇口をひねれば出るものだったけれど、水を手に入れるということが容易いことではないと知った。

 新しい暮らしのなかで考えさせられた、水のこと、エネルギーのこと。たとえば、山に入り薪を手に入れてストーブを焚く。傾斜を流れる山水を使って水力発電をする。我が家はまだまだ生活していくことに精一杯の状況で、すぐというわけにはいかないが、食の自給のみならずエネルギーの自給も試みたいなあ、と夢をふくらませているこの頃である。

copyright 1998-2001 nemohamo