食べたい野菜と売りたい野菜が違う、ふしあわせ

牧下圭貴




 食の安全性についての関心が高まっています。それにともなって、有機農産物のJAS規格、牛肉のトレーサビリティと表示など、店頭でも声高に「安全性」を売り物にし、安全性の理由に、「こういう証明がついています」といったものが増えてきました。
 食の安全性に関心が高まることはとてもうれしいことです。

 でも、食の安全性を言う人の多くが、「誰かが安全だって言ってくれた」ということで満足しています。誰が、どこで、どうやって作ったのか、なぜ、それが安全だって言えるのか、それを自分で調べようとは思いません。そこまでしなくてもものはあふれているのですから。誰かが、安全な野菜や肉を届けてくれる、そう信じてもいいと教えられてきたのですから。本当なのでしょうか。

 かつて、有機野菜や低農薬野菜などが都市生活者に流通しはじめたとき、流通の弊害に対して、流通をできるだけ単純にしようと産直・提携という形が生まれました。

 流通の弊害とは、「規格」と「阻害」です。「規格」とは、見た目のことです。きれいで、形がそろっていて、できれば日持ちするもの、それが「いい野菜」の条件になりました。「阻害」とは、生産者と消費者の関係性を切ってしまうことです。どんな生産者が、どのように栽培しているのか、どんな消費者が、どのように感じて食べているのか、流通は、本来、生産者と消費者の間でものとしての野菜をつなぐだけでなく、その情報をつなぐ役割があったはずです。しかし、もっぱら、生産者と消費者の間に立ち、その両者を断絶させることに力を注いできたのです。このふたつの弊害が、農薬や化学肥料の多用、品種の均一化、旬の喪失、そして、おいしくない野菜や肉を生んできました。生産者は疲れ、消費者は、これがあたりまえだと思ってきました。

 いかに、流通の弊害をなくし、生産者と消費者の関係をつなぎ、農薬や化学肥料、連作や見た目ばかりでおいしくない野菜を減らしていくかという取り組みが、食の安全や有機農業を広げてきたと思います。

 しかし、今、また、「規格」と「阻害」が問題になっています。
 しかも、私が食べたいと思う味と香りをもつ野菜たちの現場で。

 今回、偶然にも、就農生産者であるふたりの方が、それぞれに、この問題について率直な原稿を寄せています。

 私は、私が食べたい野菜と、生産者が売りたい野菜が同じであって欲しいと願っています。そのために、どうすればいいのか、あらためて考えてみたいと思います。

 みなさんのご意見をお聞かせください。



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