茨城県八郷町に暮らす
「なぜ、田舎に住むか」


橋本明子



 茨城県八郷町に住んで15年を過ぎた。なぜ、田舎へ行って有機農業をはじめたの? と聞かれたので、考えてみた。わたしにとっては考えるまでもない当たり前のことなのだが、知らない人にはわからなくて当たり前だ。
 まず、子供時代にさかのぼることになる。両親の出身地は福井県若狭だが、わたしが生まれたのは、京都の天龍寺のそばである。貧乏寺の大家族を養うために、父は京都へ出て教員をしていた。借家だが、一軒家の前は広い畑で地主さんが耕作していた。父は家の前の畑の一画を借りて、野菜作りもした。
 わたしは父といっしょに畑へ行き、父が仕事をしているあいだ、虫や花と遊んだ。帰るときは野菜を手に抱えていた。「大きいトマトね」と、母にほめてもらうのがうれしかった。作ったのは父であるのに、なぜか自分が作った気でいた。
 やがて第2次世界大戦がはじまって、田舎の寺へ帰った。戦争が激しくなって、小作に出していた田畑が人手不足で戻ってきた。自分が食べるものは、自分で作る時代となった。
 わたしも小さいながら一生懸命に畑やたんぼの仕事をした。夜、たんぼの水を見に行くと、蛍がきれいだった。畑の草と、たんぼの草がちがうこと、季節によって、みちばたに伸びる草、花がちがうことなど、わたしはしっかりと心に刻んだ。どの草も、どの花もきれいだった。山から音をたてて流れ落ちるせせらぎ、家を巡る池の中の魚やかに、貝にも、わたしは心をうばわれた。山、川、木々など、緑あふれる自然が、わたしの原風景をかたち作る。
 '77年から2年半、イギリスで暮らした。人々の食生活が質素で、身の回りの食材を残さず、調理、保存する姿勢に感銘をうけた。ヨーロッパ諸国も同様で、つきあった有機農業関係のひとたちはみんな、食糧の自給、健康な食糧の生産を目標としていた。
 '90年にアメリカの農村を訪ねたが、アーカンソーの1農民はこう言った。「わたしは米を作っていますから、欲しいと言われれば、日本のみなさんにだってお売りします。けれど、自分たちの主食を人に頼ることだけは、してはよくないですよ」おりしも日本が米輸入を決めた時である。
 また日本の緑いっぱいの風景の美しさは、どの国を訪ねても他にないものだった。イギリスから帰って、わたしは日本の畑にヨーロッパでみた牧草が生えているのに気がついた。牛肉の輸入のみならず、牛の飼料は穀物も干し草も輸入していて、ヨーロッパの雑草の種が日本の畑に移ったのだ。それらは強健で、たちまち日本の畑にはびこった。日本の畑では日本の雑草を見たいと、わたしは思った。
 わたしは、子供時代とおなじとは言えないまでも、なんとか日本ならではの風景、動植物を残したいと強く願っている。そのためには、農村の環境を保全する有機農業などの動きが強まることが第一である。わたしが有機農業をやりはじめた動機の一つはここにある。

有機農業の仲間たち
 '70年代のはじめ、わたしは住んでいた東京の団地仲間と話し合って、食品添加物の勉強会をはじめた。それがきっかけで、仲間がさらに増え、今日まで7つの会を作った。名前だけあげる。「たまごの会」「土を活かし、石油タンパクを拒否する会」「食と農をむすぶこれからの会」「米の自給を守り食管を問い直す会」「提携米アクションネットワーク」(後、提携米ネットワークと改称)「米の輸入に反対する連絡会議」「減反やめよう!コメつくろう!全国運動ネットワーク」。
 名前だけみると、後期になるほど激しい会名をつけている気がする。会はどれも小さく、だれの援助も受けず、自主独立がモットーである。どの会にも、わたしは設立はじめから関わり、ともに活動し、それこそ数限りない先輩、仲間のご縁をうけた。多くの教えを受けた。日本の農業を大切にして、つくられる農産物を大切に食べ続けていこうという1点においてゆるぎがなかった。
 同じ会の仲間とは別に、農産物のやりとりで行き会った有機農業の仲間がいる。高畠町有機農業研究会、無茶々園、みすず農場と歩む会、河合米、などである。それぞれの農業現地に足を運び、援農をした。いろいろな気候条件、土壌条件、作目の違い、気風の違いはあっても、有機農業そのものについて、多くのことをじかに学ぶことができた。
 農産物のやりとりはなくても、わたしが親しく思う有機農業の先輩や仲間は全国にちらばっている。'70年代から続けてきた活動を通じ、講座や学習会で知り合った人たちが多い。国を被告として'94年にはじめた減反差し止め裁判では、わたしが事務局長をになって、それこそ知人、友人あげて全力投球でがんばることができた。まさに人と人のつながりが実ったと、実感できた。
 わたしが住む地元八郷にも、有機農業に生き甲斐をもつ多くのひとたちがいる。わたしが有機農業の活動をはじめた地である。はじめからの仲間も多い。それらの友人がいるから、八郷を遂のすみかと決めたともいえる。

喜びをともに
 農業は一人では難しい仕事である。わたしの場合、パートナーは夫の信一である。'70年代のわたしのスタートは、農家になるのではなく消費者としてどう行動するかであった。援農にはでかけたが、1年を通じて同じ畑に責任をもつのは、八郷に移ってからがはじめての経験であった。長年の有機農業にかかわる仕事が、当然の結末として、自分自身が農家になる道を選ばせたのだ。
 信一は、わたしと行動をともにしてきたのではない。サラリーマン生活33年を経て、第二の人生に農家を選んだ。長年、わたしの活動費をかせぐだけではつまらなかったのだろう、まだ体力のあるうちにと、53才で中途退職した。かってわたしが鶏の実習で数ヶ月家を留守にしたとき、彼は「にわとりに女房とられて春の月」と嘆いた。その信一が農家となって10年を越えた頃、「鍬を持つ背に赤とんぼきてとまる」とうたった。わたしたちは'88年に八郷に移ったが、10年はあっという間に過ぎた。
 わたしたちは、日本一小さい畑を耕す。シニアになってのスタートなので無理をせず、楽しいことをモットーとした。機械は草刈り機1台のほかは石油を使わない。使う道具は鍬、鎌である。春先の育苗用と夏のトマトの雨よけのために小さなビニールハウス1棟と、霜よけ、陽ざしよけの被覆材くらいが、ビニール製品だが、かって八郷の先輩に教わったように、できるだけ身の回りの自然の資材を使うようにしている。堆肥の原料は有機農業仲間の豚糞、鶏糞をベースで、草や農業残さをまぜる。
 日本一小さい畑であっても、自給に余る量が収穫できるとわかっていたので、はじめから有機農産物を販売して生活費にあてることを考えた。信一は退職する前から、知り合いに「おれの作った野菜を食ってくれるか」と聞いてまわっていた。全員、異議なしだったが、ほんとうに野菜の入った宅急便が送られて来たとき、驚いたのもその人たちだったのではないか、とわたしは思っている。
 10キロ入りの紙箱いっぱいのフレッシュな野菜を受け取ると、野菜の仕分け、保存や調理などに半日は費やしてしまい、疲れた人もいた。が、おいしい、香りが違う、ゆで時間が短くてやわらかいなど、わたしたちの知らなかったことが、逆に教えてもらえた。わたしは「野菜便り」をせっせと書いた。調理や保存のしかた、レシピ、八郷の自然や生活のことなど。
 このようにして、はじめの10人から消費者はだんだん増えた。現在、30数世帯に宅急便の野菜、自家製加工品などを送っている。健康を守る有機農産物を分け合える仲間がいることは、大きな喜びである。わたしたちはこの喜びを手にしたかったのだ。
 信一ははじめ、65才まで作りつづけるときめていたらしい。消費者の集まりにでかけていって、「橋本さんの野菜がなくなると困るから、ぜひ続けてください」と発言があったとき、「大丈夫です。65才までは作ります」と請け合った記録が残っている。が、65才どころか70才になってまだ耕しつづけている現状だ。
 最近、ゆるがせにできない問題がでてきた。健康を失って、有機農産物を求める人がでてきた。幼い子供を育てている若い母から、「子供にだけは安心できる食べ物を与えたい」との声が聞かれるようになった。わたしたちは、年々進む環境汚染のまっただなかで、なんとか踏みとどまって、いっしょに健康を守る仕事を続けたいと願っている。農業は定年のある仕事ではなく、生涯をかける仕事であることに、誇りを持っている。


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