倉渕村就農スケッチ・「記憶に残る」

和田 裕之、岡 佳子



 わが家では毎年冬になると窓硝子についた露が凍って美しい結晶模様が見られる。露の結晶模様の多くは六角形を基本として複雑なギザギザを這わせ隣の結晶とつながっている。この結晶の輝きは日が昇ると融けてなくなり夜になるとまた現れる。春の訪れとともに見られなくなり冬とともに再び現れる。結晶には二つとして同じ形はないと言われその命ははかないが、私たちはその複雑でそれでいて調和的な結晶模様と輝きを毎年楽しむことができる。私は雪国の生まれということもあり、子どもの頃から雪の結晶模様に心惹かれるものがあった。実際に肉眼で見たことがあるわけではないのだが、雪の結晶を写真や絵でよく目にしていた記憶がある。おそらくそんなわけで、私は雪景色と露の結晶模様に懐かしさを感じるのだろう。

 新潟市から電車で1時間ほど離れた巻町に私(和田)の母の実家があった。巻町への道は新潟平野の田園地帯で見渡す限り田んぼの続くところだった。電車や車の窓から見える風景は、春は田植え水田の水鏡が輝く、夏は緑稲、秋は金色の稲穂、冬は一面の雪景色。巻町の田んぼは畦道に背の高い木が数本並んで立っている。この木に竹竿を水平にくくり付けて、収穫した稲穂を乾かすための「はざ」にする。収穫の時期はこのはざに刈り取られ束ねられた稲穂が4段5段と重ねて干してある光景が見られた。30年以上も前になるが、私はその風景を今でも懐かしくまぶたの裏に見ることができる。秋の田園風景は私の記憶する最も美しい風景として心に残っている。
 田んぼの用水路はほとんどが土側溝で姉と私はドジョウやメダカ、ザリガニ、フナなどを捕って遊んだ。祖父と祖母は家の裏に小さな畑を耕し、自分の肥やしで自家用の野菜を作って暮らしていた。暗くて底の見えない汲み取り式の便所は子ども心にとても怖かった。畑に撒いたばかりの肥やしは臭かった。今私は、自分の排泄物を畑に返し野菜を育てる素朴な在り方、おそらく肥料や土壌改良剤、農薬などを買わない、他から多くを持ち込まない祖父母の暮らし方をうらやましくも思う。子どもの私は畑仕事を手伝うこともなく、蝉や蝶を捕るのに夢中だった。祖父は、ときどき畑から出てきた古銭や刀のつばを幼かった私に見せてくれた。小学生の頃祖父からもらった古銭と刀のつばは今でも私の宝物として大切にしまってある。いつの日か、息子の太一と太緒に私が畑で見つけた古銭と合わせて譲り渡すことになるのだろう。

 最も好きな農作業は何かと聞かれたときに、私はほとんど迷わずにお米の脱穀作業と答えている。お米に限らず麦や雑穀など脱穀の作業はどれも楽しいのだが、お米の場合はひときわ感慨が深い。私たちは米を販売しているわけではないので野菜ほどには熱心に稲の面倒を見てやっているわけではないのだが、それでも稲がお米になるまでには結構手間がかかって、育苗、荒くれ、代かき、畦塗り、水見など、作業の場面場面で大変だと思う事がよくある。それが脱穀の作業となるとわずか一日足らずで1年分の籾米が目の前に現れる。春から秋までの苦労を忘れさせてくれるほどの大きな喜びが湧き上がる。これで1年間食べていけるな、無事に正月を迎える事が出来そうだとこのとき思う。今年、私たちは生まれて初めて自分たちの餅米で餅をついた。友達に杵と臼を借りて一緒に餅をついて食べた。太一も太緒も友達と遊ぶのに一生懸命で餅つきにはあまり熱心でなかったけれど、つきたての餅はおいしいらしくよく食べた。結局あんまりおいしくて5升分の餅を(いくらかは知り合いにお裾分けをしたのだけれど)数日で食べてしまうことになった。これで、お餅つきは毎年のわが家の恒例行事になりそうなのだ。
 倉渕村の田んぼの風景は、新潟平野の田園風景や山間地の棚田の景観とは少し違う。烏川沿いの比較的平らな地域は、こぢんまりとした田んぼが並んで見える。少し山や谷へ入ると小さな田んぼが棚田というほどではないが少しずつ段になってある。お米の乾燥は今でもほとんどの農家が天日干しで、稲穂を掛けるはざは「はんでい」と呼ばれている。はんでいは、稲刈り後の田んぼに杉や檜の間伐材を数本立て、竹竿を横に2段から4段ほど渡して作られる。倉渕村では毎年秋になると田んぼのはんでいに稲穂のかかった光景をみることができる。もっとも、残念な事に、年々休耕田は増えているようだ。日当たりの悪い田んぼや小さな田んぼ、水利の悪い田んぼや水の抜けない田んぼから荒れて草地になっていく。

 田んぼに水が張られ、水面がきらきらと輝く季節。金色の稲穂が風に揺れトンボが飛び交う季節。私の好きなこの倉渕の田んぼの風景がいつまでも続きますように。


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