茨城県八郷町に暮らす
「70歳の野菜畑」


橋本明子



■その1

 わたしたち夫婦が耕している畑は14アール。そこで獲れた野菜を35世帯向けに出荷し、のこりを家族4人と犬5匹で食べていこうというのだから、かなりの工夫が必要である。53才で有機農業を始めた頃は、1年通じて畑をあけず、次々と作る方式を考えた。一つの品目は量を少なく、種の小袋を数回にわけて蒔く。ハーブ類も数えると、はじめは年間60品目くらいを作った。
 多品目少量生産では、時間がかかること、おびただしい。箱庭を作るようにして、念を入れて作った。天候、ときには種の善し悪しで、野菜の出来が思った時期、量、品質にできあがらないことが起こる。天候の変動は、年々大きくなるように思えるし、それも野菜にやさしくないことが多い。強い風、強い雨、いつまでも続く日照り。かと思うと、ふりやまぬ雨、ときならぬ寒さ、台風など、かぞえあげればきりがない。
 そういうとき、たくさんの品目を作っていることは強みとなる。どれかがやられても、どれかが切り抜けてくれるからだ。連作障害がおこるから、おなじ種類の野菜をおなじ畑につくらないのが原則とされているが、わたしたちは、それを守ることはできない。すこし畑の位置をずらせたところで、おなじナス科の野菜にちがいないものを、夏にはつくらざるを得ない。そうやってつくっているうちに、堆肥と緑の草、収穫残りの野菜屑をじゅうぶんに入れていくと、土はおのずと抵抗力をつけるのだろうか、連作してもへこたれない野菜たちをそだてあげることができるようになった。
 道具は、先輩に教わった伝統的なものを使った。鎌、鍬。手で使いこなす道具中心である。小さな畑向きの小型の管理機を使ったほうがいいとすすめられたが、鍬のほうが手応えがあって楽しいと、夫の信一はいう。信一は大きな唐鍬、わたしは草けずりにもなる小型の鍬を使った。やがて、群馬の鍛冶屋さんが打ってくれた名前入りの鍬が友人からプレゼントされて、わたしは本職になった気になった。
 畑回りの山、道路にくだる斜面の草は、面積がひろく鎌では刈りきれない。石油を使う草刈り機を買った。それと春先の育苗用、夏のトマトの傘代わりのビニールハウスが近代兵器であった。
 つるをのばすいんげん、えんどうまめなどの支柱は、山から切ってきた篠竹を使った。冬越し野菜の霜よけも、笹の小枝をさしこんでまわった。春先、遅霜がおりるとわかると、前の夜、霜に弱いジャガイモの芽をいためないように、夫婦して、ジャガイモ畑に新聞紙をひろげてまわった。畑の畝も、風を受けない方向に切ってふかく土を盛ったものである。こうした工夫は、いまは亡くなった八郷の先輩精農家から教わったもので、わたしは彼らの思い出とともに畑を耕してきた。

■その2

 耕しはじめて10年以上たつと、わたしたちの畑は土が肥えてきた。1年中くりまわして使うので、畑を囲む風景は、冬ともなると、一面の茶褐色とかわるのだが、そのなかで、うちの畑だけが青々とした緑色である。きれいだね、と言って通る人もいた。野菜の出荷は、冬も休まない。雪がほとんど降らない関東北部の中山間地は、冬越しの露地野菜が畑で越冬する。人参、大根、白菜などの根菜、キャベツ、ほうれん草、小松菜、紅菜苔などの葉もの野菜などが、すこしづつ寒さに耐え、すこしづつ傷みながら、出荷を待つ。3月末ともなれば、畑はきれいに土一色となる。
 10年で一般の畑作りは劇的に変わった。出荷先がJAで、品目、面積、使用農薬をはじめ、苗や種子、肥培管理も統一され、担当職員が指導にまわる。資材も同様である。草よけのビニールマルチ、パイプの支柱、ネット、霜よけ被覆材等々、どれも購入の同じ規格品となった。どの畑も同じ表情、同じ色彩で、作り手のちがうのが、かえって不思議なくらいである。
 有機農業の畑も、流れにつれて変わっていった。便利な資材は利用する。パイプの支柱、ビニールハウス、ネット、マルチや被覆材などである。わたしたちは頑固に手作りを続けていたが、年とともに手作り資材は減っていった。山から篠竹を切り出すのが、おっくうになってきた。さいしょ、べたがけ用の篠竹を購入品に代えた。篠竹なら使い終わっても、自然にもどる。人工の資材は、ひとつひとつがゴミとなっていく。できるだけ大切に、長く使う工夫をするほかない、なぜなら、1回使うと、その便利さにまけて、もう篠竹の世界にはもどれないからだ。
 豆の支柱は、遂に今年、市販品のパイプにかえた。信一はいやがり、おれが山から篠竹を切ってくると言い張ったが、それが間に合わない実状であることも、一方では承知している風であった。わたしも残念だった。一隅であるとはいえ、うちの畑の風景が他と変わらなくなってしまったことで、なんとなくなごんでいた畑が、急によそよそしく見えた。
 冬、畑の野菜をを霜よけの不織布でおおうことは、2年前からはじめた。緑の畑が白く変わってしまうので、これまたいやだったが、上からかぶせるだけで、野菜の傷みがずいぶん少なくなって、食べる人のことを考えると、これまたやめるわけにいかなかった。不織布は軽くて扱いやすいのがありがたく、またくりかえしての使用にも耐えた。
 変わったことでいちばん大きかったのは、以前ほど、多品目を作れなくなったことである。60から50品目に減り、いまはもっと少なくなっているかもしれない。以前から、うちの土にあわない大根、里芋、掘る労力の大変なゴボウ、ながいもなどは、仲間の有機農家からゆずってもらっていた。また、有精卵もわけてもらっていた。八郷には多くの親しい有機農家がいて、それぞれに得意分野があり、野菜の特性に見合った畑をもっている人たちに、わたしたちは、ずいぶんと助けてもらうことができた。彼らもまた、わたしたちも消費者の一人とカウントできるメリットがあって、相互扶助といったところだろうか。
 が、堆肥のもととなる鶏糞や豚糞をわけてもらうときには、有機農家のお世話になるほかなかった。わたしたちは、軽トラックを持っていない。農家自身が自分の鶏糞や豚糞を軽トラックで気軽に運んで来てくれるのに頼っている。
 春先の育苗には、ハウスのなかにわらを敷き、その上に苗床を並べてキャベツ、ブロッコリー、レタスなどの種をまく、いわゆる冷床である。他の有機農家のように踏み込みの床を作り、必要な熱を得るやり方は、わたしたちの手にあまった。苗の育ちはいくぶんおそくなるが、少し小さめの苗でも、畑に移すと、さほどのおくれもなく育ってくれるのがありがたい。

■その3

 体力、持久力がおちるのはやむを得ない事実で、同じ仕事にも以前より時間がかかる。それをのみこんで、楽しみながら仕事をする術を、いつか身につけるようになった。ひとつの仕事を一時に仕上げず、何回かにわける。同じ仕事を続けると、体の同じ部分に負担がかかるので、ちがう仕事にきりかえる。
 例外もある。味噌作りは、まったなしなので、二人して、二日かかって全部仕込みおわった。が、紅茶作りは1週間かけた。1日1鍋分の茶をつみ、その夜ひろげる。翌日、カッターにかけ、発酵させて、大鍋で火にかけながら、乾燥させる。今年は仕上げに、自然の風にも手伝ってもらった。
 小刻み仕事だと負担が軽いので、以前は手がけなかった種取りの仕事も楽しいものになってきた。有機農業仲間と種の交換会が年1回ある。今年のはじめ、わたしがだしたものは、中国原産のひゆなと三尺ささげ、イタリア原産のズッキーニなど、数年かけて我が家の畑で定着したものである。消費者向けの夏の出荷品のキューリ、なす、ピーマンなどのくりかえしの定番品にまじって、新しい品目が加わると、楽しいではないか。
 初夏を迎えた今、わたしは来年出品する種取りの準備にかかっている。とうだちがおそくて重宝したおくての油菜の種、出荷が終わって残ったルッコラの種がはやくもわたしのコレクションに加わった。野菜の種だけでなく、花の種も採る。新潟でもらってきたふうせんかずらは、多くの友人たちにもらわれていった。
 さて、いまのわが家の畑をご案内しよう。出荷中のもの。キャベツ、スティックセニョール、レタス3種、水菜、ルッコラ、ジャガイモ、たまねぎ、人参、ラディッシュ、ひゆな、小松菜、スナックえんどう。自家用だけだが、アスパラガス。出荷待機中は、キュウリ、いんげん、三尺ささげ、食用へちま、ゴーヤ、かぼちゃ、ピーマン、ししとう、えんさい、モロヘイヤ、オクラ、トマト、ミニトマト、果物ではブルーベリー。秋には秋なすも登場すべく、苗床で育っている。
 わたしたちの畑が豊作になるかどうかは、これからの天候にかかっている。出荷する野菜の箱は、わたしたちの畑からのものほかに、多くの仲間の有機農家の野菜が加わって、いわば八郷合作野菜箱となっている。70才になってなお、楽しくあせらずに野菜作りを続けることができるのは、ひとえに仲間がいるからにほかならない。


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