茨城県八郷町に住む その1
ただいまわが家は4人と4匹
(プロフィールにかえて)

橋本明子

 茨城県の筑波山麓に家族と移り住んで14年たった。サラリーマン生活33年を切り上げた信一と、長年農業関係の運動を続けてきた私が、いよいよ実地に有機農業をはじめようと意気込んだのである。八郷に移って小さな木の家を建てた。今とちがって、その当時の周囲の声は、お金が稼げるのに途中でやめるなんてもったいない、なんでやめなきゃならないの、であり、よく東京から離れる決心がついたわね、であった。
 一人娘の泉は大学4年生で、八郷へきて私たちと同居なら通学用の車を買ってあげる、さもなければ一年間の東京生活の費用を出すと申し出たところ、彼女は迷わずに車を選んだ。あとからわかったことだが、彼女はさもあろうかと事前に察して、最終学年の学科取得を最小限に持ち込んでいたのであった。
 53才ではじめる有機農業に無理は禁物である。敷地の一部に隣接する畑一枚を借りて、合計35アールで野菜作りをはじめたのは、89年の春であった。今までつきあってきた有機農家の面々に、手とり足とりして教えてもらった。小さな畑でもたちまち自給にあまる。信一は予定どおり、知人友人に野菜を宅急便で送りはじめた。仕事をやめる前に、「おれが有機農業の野菜を作ったら買ってくれるか」とつばをつけておいた人たち10人が最初の消費者世帯である。冗談半分に、「ああいいよ」と受け合っていた人たちは、ほんとうに野菜が送られてきてびっくりしたらしい。が、みんなこころよく引きうけてくれた。この仕事が、私たち二人の収入の柱となっていった。
 泉は卒業して、家から通える距離に仕事をみつけた。ばかりか、結婚したら、相手の桂輔くんをわが家に連れてくると言うので、同居を承諾した私たちは、もともと私たち夫婦二人の住まいと想定して建てたわが家の吹き抜けの二階部分を、新たに改造して、娘夫婦の居住空間を確保する必要に迫られたのであった。
 想定しないことは他にも次々と立ちあらわれた。飼犬は番犬用に一匹ときめていたが、その子犬をもらう前に、捨てられた子犬が勝手にすわり込んでしまった。24時間動かず、やむなく捨て犬を拾って、約束していた子犬は、知人に頼み込んでもらってもらった。
 10年たって、泉が勤め先の駐車場から、おすの捨て子犬を拾ってきた。最初のめす犬はタペンスと名づけられていた。今度はトム、通称トミーとした。泉が名づけ親で、タペンスとは、アガサ・クリスティーの推理小説に出てくる勇敢でむこうみずの女探偵、トムは、彼女が窮地に陥ると必ず助けに現れて、いつも事件は無事解決するという筋書きであった。10年目に、わが家の犬のカップル完成となったのである。
 人間4人と犬2匹で無事安穏な生活が送れると思っていたが、それもしばらくの間であった。
 今冬ある寒夜のことである。お寝み前のおしっこに連れ出したトミーが、制止をふりきって草むらに飛びこんでしまった。やがて意気揚々とあらわれたトミーの後ろから、子犬が二匹ころがり出たのである。目の前にあらわれてはどうしようもない。とりあえず保護して、一生けん命もらい手をさがした。
 幸いおす犬であった。おす犬のほうが、もらい手がみつけやすい。一匹は、お隣りに家を建てて移ってきた前田さんが引き受けてくれ、残る一匹は東京の広瀬さんにもらわれていった。広瀬さんは、雑種犬を探していたのだが、高価で育てにくい純血種の犬ならいくらでも手にはいるが、丈夫でりこうな雑種犬は入手し難いのだそうだ。前田さんちの子犬はゴロー、広瀬さんちのはタローと名づけられたときいて、前もって相談したのでもないのに、偶然の一致ね、と飼い主同士で話しあった。
 さて、しばらくして、近くの梨園の作業小屋に住みついていためすの捨て子犬が、ある日、肥料の配達に来たJAの配送車にひき逃げされた。小屋の前にすわったまま通る人を見あげている子犬に、餌を与えたが食べない。次の日も同じ状態でいたのを泉に話すと、すぐさま拾って手術をしてもらった。後脚と腰がやられていて、三カ月の重症であった。辛うじて一命はとりとめたものの、もとどおりになるかどううかわからない犬を、人さまにもらってもらえないので、家族会議の上、飼うことにした。犬は3匹に増えた。
 この出来事ではずみがついたのか、4匹めの犬が来ることになってしまった。信一は、もうこれで犬はお断り、と宣言していたので、拾ってきた泉は、自分たちの部屋に子犬をかくした。泉の留守に子犬の鳴き声がするので見に行くと、やせさらばえた子犬がいた。
 問いただすと、道路工事現場で、旗ふりをしていたおじさんの足もとにじゃれついて「あっちへ行きな」といわれていた子犬を、見過ごしにできず拾ってきた、と言うのだ。もらい手を探すまでおいて、と頼まれて、信一もしぶしぶ了承した。栄養失調の子犬は、食べても食べても肥らず、いつも食べものを欲しがった。口にするものがなくなると、木の枝や葉も食べて、放浪中の生活が思いやられて哀れだった。
 横浜で捨て子犬の里親探しをしてもらえると聞いて、泉と私は子犬をきれいにシャンプーし、予防注射もすませ、可愛い刺しゅうのある首輪を奮発して、涙をこらえて横浜へと送り出した。いい飼主さんにめぐりあえるように、と、祈った。ところがその夜、子犬は戻ってきた。あまりにもやせさらばえていて、あばら骨のみえる子犬は、他の子犬の引きたて役になってしまったようだった。
 一カ月後に、また催しがあると聞いたし、同じ町内でも日曜日に子犬子猫のもらい手探し市が開かれるので、つれていこうと思ったのだが、めすの子犬はりこうなのに、器量が良くなく、食欲の結果も現れて、むくむくと大きくなってしまった。これでは「愛くるしく、まるまるとした子犬」とは言えない。
 無言のうちに、この器量ではもらい手はみつからないだろうな、というのが家族の一致点となった。信一も沈黙を守った。
 かくて、わが家は人間4人に犬4匹、まもなく、春が来る。3匹めはピッピ、4匹めはおじゃる丸と名づけ、名付け親は泉、めす犬3匹におす犬1匹の構成である。

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