いまさら聞けない勉強室番外編
食べもののあり方

牧下圭貴

 21世紀をむかえた最初の年の秋に、日本でも狂牛病(BSE・牛海綿状脳症)をむかえることになりました。牛肉の消費が激減、国産の食べものへの不安、不信、その後の政府対応や雪印食品の詐欺事件などで食品行政、食品企業への不信も高まりました。
 遺伝子組み換え未承認のパパイヤが知らず知らずに輸入されていたり、米には廃棄電池によるカドミウム汚染が心配され、魚にはPCBやダイオキシンが蓄積し、輸入野菜からは残留農薬が検出され、何がなにやら、聞いていると食べるものがないのではないかと思ってしまいそうです。
 狂牛病騒ぎでは、関係していた農林水産省、厚生労働省の職員にとったアンケートの中で、「消費者は、フグの毒ならば取り去って食べているのに、狂牛病ならばすべて焼却しているという不合理な反応を求める」というような意味のことを書いている人がいました。「塩もたくさんとりすぎれば毒だ」「大豆だって環境ホルモン作用物質が含まれているではないか」、食品の安全性について消費者が心配するたびに、科学者や自称「合理的な考え」を持つ方々からそんな反応が返ってきます。
 リスク&ベネフィット、つまり、危険の可能性と得られる利益を「合理的に」比べて、どこまで危険の可能性を受け入れるか決めるのが現代の合理的な考え方だそうです。
 冗談じゃありません。そこで、今回は、狂牛病や遺伝子組み換えのように個別の安全性や問題点ではなく、食べもの全体のありかたについて、私見を述べます。


●食べもの大原則

1)一年、一生を通して食べものが手にはいること
 あたりまえのことですが、食べるものが1週間でもなくなると大変なことになります。1カ月手に入らなければ死ぬ人もたくさん出てくるでしょう。一生を通して手に入るものが食べものの基本です。日本では「お米」がそれにあたるでしょう。収穫は年に1回ですが、保存できます。
 食料自給率が低いということは、いざというときに手元に食料がない可能性が高いということです。せめて7割ぐらいまでは自給しておかなければ、世界的な社会変動や異常気象があったときに、飢餓が起こる可能性もあります。

2)食べて死なない、健康をそこねないこと
 これもあたりまえのことです。食べると死んだり、食べて健康に悪いものは食べものではありません。重金属やカビ毒のような直接的に生命や健康に関わるものもありますが、食品添加物入りの加工食品や残留農薬のある野菜など、すぐには影響が出なくても、長期的に健康を害する可能性のあるものを忘れるわけにはいきません。
 現在の自然環境は、水も空気も土も、以前とは違ってわずかであっても人工の毒物に汚染されています。農薬、重金属、ダイオキシンなど、人間が作り出した毒物です。
 毒物を排出しない、作らないのがもっとも必要なとりくみです。そして、今のところは、「より毒が少なく、それを作ることで毒を生み出さないものを食べる」ことしかありません。
 つまり、絶対安全なものを得ようと思えば、空気も水も土も浄化した完全な密室(工場)で食べものを作るしかないのですが、そうすると、電気などのエネルギーを大量に使い、結果的に周りを汚染することになりかねません。今は「相対的に安全で、環境負荷が少ないものを食べる」ことが求められていると考えます。

【原則】
・一年、一生を通して食べものが手にはいること
・食べて死なない、健康をそこねないこと



●人間と大組織〜食べものの作り手の違い

 食べものの作り手や作り方には、大きくふたつの違いがあると思います。ひとつは、人間が自分だけで、または小さな地域集団だけでつくることができるもの、です。ほとんどの農産物や水産物はこれが当てはまります。味噌や豆腐、漬物や醤油といった伝統加工品もそれにあたります。団子やフライドポテトも手作りできます。
 もうひとつは、大組織が組み合わされないとできないものです。大組織というのは大きな国の政府や大企業、多国籍企業のようなものです。遺伝子組み換えのトウモロコシを多国籍企業が開発して、アメリカで大規模に栽培し、それを台湾に運び、鶏のえさにして、鶏を育て、もも肉だけを日本に輸出し、スーパーに並ぶ。さらに、加工してレトルトのハンバーグやハムにする。
 これは、個人や小さな集団でできることではありません。今の食品の「安さ」のほとんどは、このような大組織の組み合わせの結果です。大組織(グローバルシステム)は、牛肉やエビ、バナナやマンゴーなどを安く、手軽に食べられるようにしてくれました。その一方で、個人や小さな集団で成り立っていた食べもののしくみを壊していっています。

【作り手の違い】
・人間が自分であるいは小さな地域集団だけでつくることができるもの
・大組織が組み合わされないとできないもの



●自然の利益と大組織の利益

 リスク&ベネフィットという考え方があります。新しい技術などを導入する際に、危険性と利益を比べて「利益」のためにどこまで危険性を受け入れられるかを判断しようという考え方です。これを食べものの分野にも取り入れて科学的に判断すべきだという人たちがいます。一方、食べもののように生命や自然環境に直接関わるものについては、予防原則に立つべきだという考え方があります。危険性が分からないならば使わないという立場です。
 私は、食べものについては予防原則をとるべきだと思います。そして、リスク&ベネフィットについては、自然が作り出してきた、昔からある毒(危険性)と、人間が生み出した新しい毒(危険性)に分けて評価したいと思います。

・自然の中で生物が自分を守るためにつくりだしてきた毒
 フグ毒や、大豆の環境ホルモン作用、ジャガイモの芽、カビ毒などです。
 人間は長い時間と世代を通して、食べられるもの、食べられないもの、処理をすれば食べられるものという知識や技術を持ち、それを食文化として作り上げてきました。毒のないものを食べ、毒のあるものは取り除き、毒があってもおいしかったり栄養があるために毒とうまくつきあってきたり、危険を承知で食べてきました。
 毎年フグ毒で死ぬ人がいます。それでも、フグを食べる人は減りません。でも、一般的にふぐを小さな子どもには食べさせません。刺身もアニサキスなどの危険性はありますが、それは承知の上で、食べ続けています。
 大豆の環境ホルモン作用は最近になって知られてきましたが、その女性ホルモン作用が危険性と同時に健康にも役立っています。天然の発ガン物質であるウコン(ターメリック)は、一方で胃薬であり、カレーの基本スパイスとして欠かせません。
 自然の毒については、危険性も利益も「食べる人」の問題です。つまり、リスク&ベネフィットの考え方で行動しています。

・大組織が自分の利益のためにつくりだしてきた異物・毒

 一方、人工の化学物質や遺伝子組み換え、狂牛病のようなものは、大きな組織(大きな国の政府や大企業)などが、工場や流通といったしくみ(システム)を作って生まれたもので、その目的は、個々人の健康や栄養ではなく、大組織の利益が先にあります。食べることでの危険性は個々の人々のもとにあります。大組織が利益を得て、危険性は個人。これは不釣り合いです。
 だから、リスク&ベネフィットにはならないのです。
 危険を受けるものと、利益を受けるものが異なることが多くなります。その場合、予防原則となります。こういう異物や毒のあるものを使用するのは慎重であるべきで、もし使うにしても長い時間をかけ、ゆっくりと確認する必要があります。
 中には、遺伝子組み換えは来るべき食料不足の救世主だから利益は人々にあるという反論もあります。しかし、今でさえ、絶対的に食料は足りているはずなのに、飢餓・貧困は起こっています。現在の飢餓・貧困は食料不足が原因ではなく、食料を得る手段を奪われた結果です。だれが食料を得る手段を奪ったのか。それが大組織(グローバルシステム)です。論理のすりかえでしかありません。

【危険性についての考え方】
・自然の中の毒(リスク&ベネフィット)
・大組織がつくりだしてきた異物・毒(予防原則)



●食べものとは

 望ましい食べものの条件を考えてみました。
・地産地消
・顔の見える関係
・自分でできること、そして、人に頼むこと
・節度ある食

・地産地消

 できるだけ近いところで作られたものを食べる、という意味です。食は地域の環境とも深く関わります。自分が住んでいる地域に近ければ近いほど、新鮮で、旬のある、安心できる食を得ることができます。そして、地域の自然環境を守ることが、自分の食を守ることに直結します。もっとも望ましい食のあり方です。

・顔の見える関係

 地産地消でなくても、食の作り手を知り、食べる人を知ることは、大切なことです。友達同士ならば、ウソやごまかし、あるいは自分では食べないような作り方(農薬多用や添加物多用)のものを渡すことはありません。
 誰が、どこで、どんな気持ちで、どのように食べものを作っているのか、誰が、どこで、どんな気持ちで食べているのか、お互いに直接的に知ることは、信頼関係を作ることです。それこそが、食の安心の基本になります。

・自分でできること、人に頼むこと
 野菜や米を栽培する。魚を捕る。鶏や豚を育てる。魚や鶏や豚をさばく、加工して保存する、料理する。そういう知識や技能は生きるための基本です。今、学校ではほとんど教えない知識や技術ですが、これこそ必要不可欠です。たとえ調理や食品加工や食料生産を仕事にしなくても、知識や技術を持っていれば、本物の食べものを見分けることができます。価値がわかります。
 その上で、現代の分業化された暮らしの中で、生活環境や人生のステージごとに加工食品や外食をうまく使いこなせばいいのではないでしょか。加工食品や外食は、多様な生活の中で必要な存在です。ただ、もし知らなかったら大組織の利益のままに質が落ち、見た目は変わらなかったりきれいで豪華でも、質は貧困な食事になり、人間として、生命として生きる意味を半減させてしまいかねません。

・節度のある食

 狂牛病の背景に、安い牛肉を食べたいという欲があったことでしょう。遺伝子組み換えで安い大豆が欲しい、安い牛丼、安い牛肉、安い米、安い食費…。牛肉をそんなに毎日のように食べなくてもよいのではないでしょうか。たまに食べるから、おいしく、ありがたく、食べられるのではないでしょうか。
 長い時間をかけて自然と調和しながら水田稲作を広げ、お米を主食としてきたように、自然環境と調和した食文化があるはずです。
 それは、「節度」のある食でした。
 そういう節度を、このグローバル化した社会の中でも、地域ごとに新しい食文化として生み出す必要があるのではないでしょうか。
 そして、節度のある食こそ、人口増加、地球環境の悪化の中で、よその国の自然や人々の食を搾取しない、あるものをできるだけ公平に分配する新しい価値観です。
 スローフード運動、身土不二やフードマイルのような価値観のように、新しい食文化を生み出す動きが世界的に広がりつつあります。
 そこに、希望があると思います。

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