「放射線育種」をめぐる最近の動きと問題点をめぐる私論メモ

「放射線育種」をめぐる最近の動きと問題点をめぐる私論メモ
2023.9.14 牧下圭貴

概要
2023年になり「放射線育種」を問題視する動きが出てきました。
とくにカドミウム吸収抑制の稲(コシヒカリ環1号→あきたこまちRほか)に対する批判があります。
この問題はゲノム編集や遺伝子組み換え作物、種子法、下水汚泥たい肥、カドミウム汚染、原子力産業などの問題とからめて論じられています。
そのため「食品としての安全性への不安」を煽る結果にもなっています。
問題が複雑なことや様々な食の安全に関わる問題とからまされていることから批判的議論がしにくい状況です。
すでに一般には今回の情報発信を受けて「放射線育種=食品として危険」という風説が流れています。
このことは、消費者運動、市民運動、有機農業運動にとっては望ましいことではありません。

具体的には、放射線育種品種を系列に含んだ稲の品種は作付け順位20位以内のうち14品種とすでに一般化されており、これまで問題にされてきませんでした。あきたこまちRをことさら問題視するのは違和感があります。
種子の問題、ゲノム編集、遺伝子組み換え技術、カドミウム、下水汚泥たい肥、原子力産業など様々な食、農業、環境をめぐる問題はそれぞれ関連しながらも取り組むべきですが、あきたこまちRの問題に重ね合わせすぎてはいないでしょうか?

前提として

放射線育種とは
放射線育種とは、人工育種の一種で放射線(ガンマ線・原発由来のコバルト60使用)を使って突然変異を誘発し、有効な形質を獲得させる育種方法です。人工育種には、このほか薬剤処理によるもの、イオンビーム照射によるものなどがあります。
従来の交配選別による品種改良も自然界における突然変異を利用していますが、人工育種は積極的に突然変異を誘発させる点が異なります。
放射線育種の結果できた品種は、あたりまえですが放射線をおびてはいませんし、放射線を放射していません。
放射線育種の果樹や野菜はすでに市場に出回っています。

遺伝子組み換え技術・バイオ編集技術
遺伝子組み換え技術やバイオ編集技術は、さらに直接遺伝子を操作することで自然界ではありえない形質を獲得させる技術となります。
遺伝子組み換え食品(作物)についてはその海外からの輸入開始以前から反対運動が拡がり、承認規制と表示をもたらしました。近年、バイオ編集技術の規制のゆるさや遺伝子組み換え食品の表示の実質的緩和など、規制当局がより推進的動きとなっています。

カドミウム問題
今回問題とされている放射線育種米はカドミウム吸収抑制の稲です。

日本におけるカドミウム汚染の問題とは、人体に有害なカドミウムが土中にあり、それを稲が吸収して米に含まれることがあります。日本は比較的カドミウム濃度の高い国土です。そのため全国的に米の残留カドミウム濃度は農水省が調査しています。とくに鉱山跡の下流域では土中(水中)のカドミウムが比較的高いところがあり、基準値を超えると食用として販売されないしくみになっています。
カドミウム問題は、鉱山跡のみではなく、カドミウム電池の製造・廃棄など近年の産業問題も含んでいます。食の安全に関わる公害問題です。

下水汚泥たい肥問題
下水汚泥たい肥問題とは、近年、地球温暖化対策や生物多様性対策、国際的な化学肥料不足などから、政府による有機農業推進の動きが活発になっています。肥料不足の解決のひとつとして下水汚泥の肥料化を進める動きがでてきました。現代における下水汚泥には、重金属をはじめ、PFAS(有機フッ素系化合物)、ダイオキシンなど人体や環境に有害な物質も含まれ、その除去や作物への影響の排除が課題です。
カドミウム吸収抑制の稲は、そのひとつとも言えます。

原発問題と放射線照射
原子力の産業利用として放射線照射があります。医療、非破壊検査、工業製品の新素材開発などです。放射線照射の照射線源は原発を利用して供給されるコバルト60などです。
食品への放射線照射は、日本では食品衛生法で禁じられていますが、例外として北海道士幌農協のじゃがいもの芽止めのみ認められています(2023年に同施設は取り壊されましたので、実質的に終了したと考えられます)。海外では主に殺菌殺虫目的で使われる場合があり、輸入時の水際検査で止められることもあります。食品への放射線照射は、その結果としてできる変成物質の人体への影響が指摘されています。
繰り返しになりますが放射線照射食品も放射能はおびていません。ただし、食品に直接放射線をあてることでその成分が変質し、異臭や異味の問題、安全性にも問題が指摘されています。
放射線照射食品の問題については長年反対運動が続いており、日本でのスパイス類照射などの動きを食い止めています。

種子法、種苗法
種子法とは主要農作物種子法といい2018年に廃止されました。稲、麦類、大豆の種子について食料確保と増産を目的に政府・地方自治体が品種の改良、種子の供給などについて責任を持つ法律でした。この法律を廃止し、民間事業者に権益を渡すことになりました。しかし、自治体の中には種子法廃止後に新たな条例等をつくって品種改良、種子の供給事業を継続するところもあります。
種苗法は2020年に改定されました。これは主に種子・種苗の知的財産権を従来より積極的に保護することを目的とされており、自家採種を規制するなど、農家の創意工夫を難しくし、生命特許を重視し、食品関連の多国籍企業を利することになりました。

放射線育種米を問題視する論とは
・人工育種品種は自然の進化と異なり環境の変化への対応力や形質の持続性に問題が出る可能性がある。
・自然進化と異なる遺伝子破壊という点では「ゲノム編集」と同様の問題があるのでは。
・従来から放射線育種品種はあるが、コシヒカリ環1号由来のあきたこまちRを含め多くの品種をカドミウム吸収抑制稲にしていく動きがある、従来の動きとは異なる。
・バイオ編集品種開発・導入への切り口になるのでは?
・カドミウム吸収抑制稲であれば自然交配作出の品種もある(代替可能)。

現実的にすでに一般化しています
公益社団法人米穀安定供給確保支援機構による「令和3年度(2021年度)水稲の品種別作付け動向」を参考に、作付け順位1位から20位までの品種について品種開発過程で「放射線育種品種」が系統に含まれているかどうかを調べました。
調べるのはとても簡単で、国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構の「イネ品種・特性データベース検索システム」を利用します。これで品種名を入れると系統図が出てくるので、それを順次たぐっていけば系列の先祖に放射線育種の品種がいるかどうかは一目瞭然です。しかも、放射線育種品種であるかどうかについても系列図に明示されますので品種の知識がなくても分かります。
調査は、系列に放射線育種が1系列でも出てきたらその時点で終了していますのでもしかしたら複数の系列に入っているかも知れません。興味がある方は詳細に調べてみて下さい。

調査の結果、20品種中14の品種が放射線育種品種が系列の中に入っていました。
もっとも、作付けの多い比較的古い品種であるコシヒカリ、ひとめぼれ、ヒノヒカリ、あきたこまち、それに、ななつぼしとゆめぴりかは放射線育種品種が系統の中に含まれていません。
放射線育種として系統に登場している品種は
レイメイ(ふ系70号) フジミノリのガンマ線照射
北陸100号 コシヒカリのガンマ線照射
関東79号 コシヒカリのガンマ線照射  です。

どう考えるか(私論)
人工育種技術、バイオ編集・遺伝子組み換え、下水汚泥たい肥、カドミウム問題、生命特許、放射線照射食品、原発問題についての問題点の指摘に異論はありません。すべての問題でこれまでともに有機農業運動、食の安全、環境問題として捉え、反対運動等にも賛同、参加してきました。個別の問題への提起にはおおいに賛同します。また、これらの問題が大企業や政府による生命の支配・独占につながるものとしてひろく関わりを持つことも同意できます。そのような社会の中で人間の尊厳と自然への畏敬を持ち、よりよい社会をつくろうと努力することは必要なことです。

人工育種(薬剤処理、放射線照射、イオンビーム)についても、かつてミルキークイン登場時に問題視しましたが、それは主に生命倫理面からでした。しかし、実際の生産・流通について、食の安全面から問題視することはしませんでした。食品としての安全性に問題があるわけではないからです。実際に(現在はともかく)当時、食の安全を求める流通団体等でもミルキークインは供給されていました。

秋田県によるコシヒカリ環1号由来のカドミウム吸収抑制あきたこまちへの切り替えや同様の他県・多品種の動きについては、品種の特性が失われず、食味も変わらないのであれば、そのこと自体を批判する必要はないと考えます。
食の安全性にかかわることではないからです。ただし、従来あきたこまちを廃し、あきたこまちRのみにするという方針は拙速であり、味や生育状況をみながら新旧並立させるのが望ましい方策だと思います。

仮にこの動きが、人工育種技術を大きく推進するのであれば、「これ以上の人工育種技術の推進はいらない」という問題の整理でいいのではないでしょうか。

むしろ、バイオ編集技術や遺伝子組み換え食品の問題点である表示制度、バイオ編集の届け出から厳格な審査化への規制強化こそ求めるものではないでしょうか。

下水汚泥の堆肥化については指摘されている様々な汚染物質の除去についての規制強化を求め、安易な導入を批判する動きが必要ではないでしょうか。

生命特許など多国籍企業の「農の収奪」の問題についての視点から人工育種をはじめとする科学技術・政治的・法的・経済的諸問題には幅広く取り組む必要があります。
しかし、そのために消費者運動、市民運動の立て方として、あたかも放射線育種の米が「危険」であるかのような科学的な誤読(一般に風評と言いますが)を招きかねない情報発信は消費者運動、市民運動をかえって後退させることになるのではないでしょうか。
インターネットとSNS時代において、このような「誤読」は容易に発生します。すでにこれまで遺伝子組み換えをはじめとする諸問題にほとんど関心のなかった方からも、「放射線のあきたこまち」といった問いが寄せられており、誤った方向に向かっていることを懸念しています。

「放射線育種米」というキーワードを含む問題がどのように推移するか、まったく不明ですが、有機農業をふくむ農業生産者、生協を含む流通団体等が今後冷静に対応することを望むばかりです。

有機(オーガニック)給食実現に向けての課題

有機(オーガニック)給食実現に向けての課題

2022年9月
執筆者:牧下圭貴
(本文書は、牧下が個人の責任で執筆し、所属する提携米研究会の通信や学校給食ニュースFBページ等にも掲載しているものです。転載等はご自由に)

はじめに
 有機(オーガニック)給食への注目が高まっています。2010年代後半からいくつもの運動体が生まれており、ある意味でこれまでにない広がりを見せようとしています。
 背景には、千葉県いすみ市のように首都圏近郊での実践事例がでてきたことや、政府による有機農業推進の政策が報道されるようになってきたことがあると思います。海外での事例も映画や報道などで知られるようになってきました。

 有機給食については、愛媛県今治市をはじめ1970年代、80年代からいくつかの自治体や学校、あるいは学校栄養職員(栄養士)などが取り組みをしてきました。その柱を担っていたのは有機農業運動や消費者運動の方々でした。

 当時、有機給食はふたつの流れがありました。ひとつは都市部の消費者運動や学校栄養職員(栄養士)の取り組みにより、地方の有機農家と連携して産直で米や野菜を学校給食につかう流れ。主に単独調理場で学校栄養職員が学校ごとに独自に献立を立て、食材を調達する権限をもつ学校で行なわれていました。
 もうひとつは農村部で同じように学校栄養職員を中心とした取り組みもありましたが、自治体単位で地場の農家と連携して学校に有機農産物を導入していった「地場産」有機給食の流れです。地場産有機の場合、先に「地場産」給食の取り組みがあり、その延長で「地元の子どもたちに食べさせるならば農薬を使わないものにしよう」という流れで取り組まれた例もあります。
 2005年に食育基本法ができて、学校給食の「地場産」化が政策目標になったことや、それ以前からの調理の民間委託化によってなるべく調理を簡素化する流れから、都市部での産直有機食材の扱いは次第に難しくなっていきました。

 いまの有機給食を求める動きも多くの場合「地場産」が前提になっています。地場産であれば、地域の農家の理解が得られ、学校給食の設置者である地方自治体(区市町村)の首長や議会の理解も得やすく、予算もつけられることから今後も地場産有機が導入の主流になることでしょう。
 しかし、全国規模で有機給食を広げていく上では、「地場産」だけでは実現できません。
 そこで、全国規模で有機給食を広げていく上での課題を整理しつつ、地場産有機も含め、導入のための検討をしてみます。

1給食サイドから考える
 学校給食に有機食材を取り入れるには、いくつものハードルがあります。主食である米、パン、麺と、副食材である野菜や肉、卵、さらには学校給食で事実上の必須となっている牛乳は、それぞれに違った難しさを持ちます。
 また、学校給食は設置者が地方自治体です。学校給食にどのくらいお金をかけ、どのような施設設備、運営方法で行なうのかは、各区市町村の考え方次第です。だから、同じ都道府県でも、学校給食のしくみが区市町村ごとに違うということがあるのです。隣の市でできたから、うちの市でも同じことができるかといえば必ずしもそうではありません。
 簡単に違いのポイントをまとめると、
 調理場…単独校方式(自校給食)、センター方式(共同調理場)、その他(民間事業者施設)
 献立…統一献立(自治体共通)、独自献立(調理場単位)
 食材購入…一括購入(自治体一括)、個別購入(調理場単位)
 栄養教職員…献立を立て、給食運営を管理し、食育を行なう。全校配置あり、なし。
 調理…実際に調理を行なう。直営調理(調理員が調理)、民間委託(外部事業者が調理)、その他(民間事業所で調理)注2

 この違いによって、有機給食の導入のしやすさが変わってきます。

●調理場
 単独校であれば1校からの取り組みも可能です。食材数もセンターに比べれば少なくて済み、同時にたくさんの食材を揃える必要もありません。センターの場合、大きいところになると1万食分を揃える必要があります。また、センターの場合、大きくなるほど、調理の合理化がもとめられ、加工品、半加工品など下処理が少なくて済む食材を選ぶ必要性がでてきます。

●献立
 統一献立は、自治体内で同じ献立をつくり、各調理場が調理をします。学校単位での差は基本的になくなります。独自献立は調理場単位で立てます。単独校の場合、学校行事や地域的な特徴に合わせて献立を立てられるため、より工夫の余地が高いと言えます。
 折衷的なものとして、標準献立といい、一部の食材や献立の変更を調理場単位で変更することが可能な方法もあります。
 献立は有機給食実現上、とても重要です。有機農産物の場合、施設で通年栽培されているものもありますが、その理念や技術から言ってもできるだけ旬の適期栽培が望ましいものです。季節に合わせた献立が必須となります。また、現状は有機農産物は限られた取り組みであり、気候などにより、収穫が予定よりずれることもあります。それに対して献立は3~2カ月前には立てられており、それを柔軟に変更できる状況や体制がなければ、給食が成立しないということにもなります。

●食材購入
 一括購入とは自治体で全調理場分を購入すること、個別購入は調理場ごとに購入することです。全食材を一括購入する例もありますし、米や牛乳、パンなど基本食材のみを一括購入し、他の食材は個別購入する例もあります。また、米などは県や県学校給食会などがまとめて調達している場合もあります。牛乳については特別なルールがあるので本稿では割愛します。
 また、食材調達にあたっては自治体の条例等で公正な入札や公共調達のために、登録済みの事業者でなければ契約できない場合もあり、注意が必要です。

●栄養教職員
 栄養教職員は栄養教諭、学校栄養職員を総称しています。栄養教諭は2005年に導入された教職免許を持つ栄養士で、それまでは学校栄養職員でした。今でもどちらの職種もあります。栄養教職員は学校の教員と同じく都道府県職員で各区市町村に配属されます。栄養教職員はその設置定数が学校数よりも少ないため、区市町村によっては全校配置のために追加採用している場合もあります(同じ職種で身分が違う)。
 基本的に栄養教職員が有機給食導入する際にもっとも重要な関係者となります。単独校、個別購入可能な場合には、栄養教職員が有機給食を主導することが可能ですし、そうでない場合でも、栄養教職員の理解があれば導入がしやすくなります。

●調理
 調理については1985年に学校給食の合理化通知というのが当時の文部省から出て、センター化、調理員のパート化、民間委託化がすすめられています。
 直営調理場ではフルタイムの職員数が減り、民間委託された調理場では安い価格で調理事業者が契約しており、調理スタッフの低賃金が常態となっています。そのため、できるだけ調理の簡素化が求められており、規格のそろった食材、半加工済みの食材などが選ばれやすい傾向にあります。

●給食の予算と経費
 学校給食は、学校給食法によって、給食施設の設置や運営に関する経費は設置者である自治体が負担し、食材については保護者が負担することになっています。
 保護者が負担しているのがいわゆる「給食費」であり、イコール食材費です。
 近年、学校給食の無償化も課題になっていますが、給食費の増額は、家計環境の悪化などからとても難しい状況であり、一方で食材の高騰は気候変動による価格の不安定化、円安や燃料費・輸送費の高騰などもあり今後も続くと考えられ、有機給食化による費用問題以前に学校給食運営を難しくしている現実があります。

●関係者
 学校給食には様々なステークホルダー(利害関係者)がいます。
 学校…食育は学校単位で計画されます。栄養教職員だけでなく、学校長、教員、事務職員などの理解や考えも給食運営に影響します。
 自治体・教育委員会…自治体が設置者であり、教育委員会が運営責任者ともなります。予算、運営方法など、首長の考え方、議会での議論、教育委員会での議論も影響します。
 生産者・流通事業者等…学校給食の食材を提供する生産者、流通事業者もあります。とくに、パン事業者や炊飯事業者(外部委託の場合)、あるいは、米屋(精米流通)、農協など有機化する際の重要な要素となります。
 保護者・市民…給食費を払うのは保護者であり、予算の大本は税金です。当然、保護者や市民の声は貴重ですし、理解も必要です。

 さて、とても簡単に給食サイドのしくみを説明しましたが、このなかで、施設設備や調理体制などは簡単には変えられません。変えるためには数年から10年単位の見通しと取り組みが必要になります。これらの取り組みも重要ですが、本稿では取り扱いません。

 短期的に有機給食を実現する上では、自治体における調理場と扱っている食材の現状、取引方法などの具体的な制約条件を知ることも大切です。
 学校給食をみてみると、ごはん、パン、麺という主食の場合と、副食(おかず)の場合で条件が異なっている場合が多くなります。
 主食は量が多く、取引先は自治体で統一、一括購入という例がほとんどになります。とくに米は多くの地域で生産されており、給食サイドでは費用や流通上の問題がなければ、調理面などでは問題が少なく、有機給食導入に適した食材と言えます。

 副食の場合には、食材数も多く、年間を通して変わり、献立の多様性も加わって条件が複雑です。ただし、玉ねぎ、ジャガイモ、にんじん、大豆など年間を通して主に使う食材に注目するとそれほど難しくなく考えを整理することも可能です。
 そこで、次の項目では食材の供給元である生産サイドから考えてみます。

2農業サイドから考える
 ここでは、学校給食の有機化においてもっとも可能性の高い米とそれ以外に分けて考えます。日本において米は特別な作物であり、農業生産、農業政策も米を軸に組み立てられていると言っても過言ではありません。
 水田稲作は、戦後の化学肥料、農薬、トラクターなどの機械化によって生産性を高めていきました。また、第二次世界大戦後に農地解放で農家は個別の経営者となりましたが、実質的には農協組織などが集荷・販売を担い、生産者は米を作ることに特化することとなりました。その後、米の減反政策などもありましたが、いくつかの要因から稲作は「面積当たりの生産性を上げる」ことに力が注がれ、機械化、化学肥料、農薬の多用という構図を生み出します。
 農薬の多用は農家自身の健康被害を引き起こし、減反政策などにより自分の土地で自分が望む農作物を作る自由、売る自由さえ奪われていることなどから、脱農薬や消費者との提携と連動する形で稲作の有機農業が行なわれることになりました。これは、化学化、機械化以前の稲作技術とは異なり、農家が自分の意志で化学肥料や農薬から脱し、現代の経済環境の中で有機農業を支える消費者と提携することで生まれた理念と技法だったのです。
 つまり、有機農業は現代の社会的課題に対する新たな価値として生み出されたものです。そこには、理念や技術面で様々な形態が生まれました。現在でも、有機農業、自然農業、自然農法、オーガニックをはじめ、たくさんの言葉があり、考え方があり、技術があります。そのどれが優れているか、正しいかを判ずることはしません。
 本稿では、科学的な背景を持ち、常に試行錯誤しながら農薬、化学肥料に依存せず、環境汚染を極力避けながら循環と持続可能性、生物多様性に取り組む栽培方法を広い意味で「有機農業(オーガニック)」と表現します。
 水田稲作の有機農業は様々にありますが、基本的に確立しています。そして、課題も明らかになっています。
 現在、政府は有機農業の推進をうたっていますが、一方で、加工米、飼料米などとして、多収穫を強力に推進しています。多収穫のためには、化学肥料の多投、それに伴い、病害虫抑制のための農薬防除が欠かせません。農家の経営面だけをみれば、主食用米、加工米、飼料米などで慣行の農薬・化学肥料栽培を、より多収穫に集中し、政府の補助金をもらって行なった方が得策という状況にあります。それは、現在のように化学肥料が高騰し、米の価格が安い状況にあっても変わりません。
 有機稲作は、単位面積当たりの収量は慣行栽培に比べると意図的にやや少なめにすることが多いのです。植物としての稲に無理をさせず、健康に育て、風通しを良くし、病害虫を防ぐ意味もあります。また、食味をよくするための工夫でもあります。
 有機稲作は、購入有機肥料の場合では化学肥料よりはるかに高額ですし、自作の堆肥や無施肥の自然栽培であっても農家の労働コストを入れれば高額になります。
 とくに、有機稲作に関しての最大の課題は除草であり、次の課題はカメムシです。
 もちろん、冷害や風水害、地域的な病害虫被害という突発的な被害はありますが、それは慣行でも有機でも同様です。通常時の課題は除草とカメムシになります。
 除草には、慣行栽培の場合、水田用の除草剤を使用します。水の中で効果のある除草剤です。適切に使用すれば田植え後に1回散布するだけでその後の除草作業が不要となります。慣行栽培でもだいたい1、2回程度の使用です。
 除草剤を使用しない場合、田植え前の代かき、田植え後の草を発芽させないための工夫、発芽、成長した草を取る工夫が必要になります。言葉だけの羅列になりますが、紙マルチ栽培、とろとろ層の形成、アイガモ農法、チェーン除草、除草機を押す、手取り…。
 いずれにしても除草剤利用に比べると常に失敗のリスクはあり、手に負えないほどの草が生えて稲の収量に大きく影響を受けるということもあります。
 そのため、水田稲作専業農家の中でも全面積有機栽培の方は比較的少なく、有機栽培(JAS有機)と、特別栽培(除草剤1回使用、それ以外の化学農薬・化学肥料不使用)で栽培するという生産者が見受けられます。それは、農家当たりの作業量の問題もありますが、万一のリスクに対する経営上のリスク回避とも言えます。
 2010年代に入ってから、徐々に、「有機をやめたい」という稲作農家の声が聞かれるようになりました。一時期有機米の需要が落ち込んだことがあり、現在は有機米の需要は戻り、高まっていますが、特別栽培の需要は減少しています。それでは全面積有機米に変えればよいのですが、高齢化や人手不足もあり作業量や経営リスク的にそれはできないことから、いっそ全面積有機をやめようかという話になるのです。
 もちろん、全面積JAS有機栽培の大規模稲作農家もあり、全面積有機化は不可能ではないのですが、現実としては需要はそれなりにあっても有機を増やすのに苦労している生産団体等が多いのも事実です。
 もうひとつ、カメムシのことも触れておきます。慣行栽培であれば、殺虫剤の予防的投与などでこの被害は軽減されますが、ここで使われる殺虫剤の多くが効果が高く、環境影響が少ないと言われるネオニコチノイド系農薬と呼ばれるものになっており、この農薬の登場以降、ミツバチの巣の崩壊や水系の生態系の異常なども報告されて問題になっています。カメムシは未熟な米の汁を吸いますが、その際に黒い傷跡(斑点)を残します。食味や健康への影響はありませんが、この斑点が1000粒に2つあれば、米の規格検査のときに1等から2等に格下げとなり、生産者への支払金額が安くなります。そのため、カメムシ対策が大きな課題となっています。
 一方で、精米技術の進歩により、斑点米の多くは機械で除去できるようになっており、一般消費者が斑点米を目にすることはあまりありません。それでも、有機農家の米にはときおり小さな黒い点をみかけることがあります。
 産直流通など米の検査規格とは関係ない価格形成の場合には問題ありませんが、たとえば、有機米や特別栽培米が余っているからと一般流通に回そうとすると、安く買いたたかれる原因ともなります。この米の検査規格を変更すれば問題ないはずですが、現状は変わっておらず、慣行栽培で殺虫剤を多用する原因になっています。

 さて、先ほどから時々「JAS」有機という言葉も出しています。有機米といってもいくつかのカテゴリーに区分できます。
 まず、「有機米」という表示が可能な公的な「有機JAS」認証を受けた有機栽培米です。栽培方法、収穫、保存、精米、流通まで、他の米と物理的に区別され、認められた栽培基準で栽培、流通された米にだけつけることができます。
 次に、有機農業で栽培された米です。「有機米」とは言えませんが、化学農薬、化学肥料を使用せずに栽培された米です。事前に届け出と県などの確認を受けることで「特別栽培米」として表示することは可能です。
 そして、減農薬や減化学肥料の米。なかでも多いのは、除草剤1回のみ使用し、それ以外の化学農薬、化学肥料を使用しない米です。おおむね地域の半分程度の減農薬、減化学肥料の使用であれば、事前の届け出と確認により「特別栽培米」として表示することも可能です。
 特別栽培は、JAS有機に比べると認証費用はほとんどかからないといってもいいですが、現在は需要が限られています。

 JAS有機米を学校給食に届けるためには、有機栽培の生産者だけでなく、精米工場でも有機米の取り扱い認証が必要になるなどの問題があります。
 そういう施設を自前で持つ生産者団体や精米工場もありますが、オーガニック給食というとき、どこまでをめざすのか、地域の実情や目的を踏まえて取り組む必要があります。

 さらに、学校給食で「ごはん」の米を変えるためには、自治体によっては大きなハードルもあります。米が県単位など広域で契約購入されていたり、委託炊飯で大きな炊飯工場から「ごはん」として学校に届けられている場合、自分の自治体だけ米を変えるというのが難しいことがあります。
 有機米ではありませんが、かつて高知県南国市では地場の棚田米(減農薬米)を使用し、学校ごとの炊飯に変えるため、県の学校給食会や、市内の民間炊飯業者と長い時間をかけてきびしい交渉を行い、変更まで何年もかかったという事例がありました。このときは、当時の市長の黙認のもと、当時の教育長(元校長)が粘り強く交渉を行なっていました。
 そのように自治体における給食用ごはんと米の供給方法が最後のハードルになることもあり、事前の下調べも必要です。

 米以外の有機化については、地場で生産されている有機農産物があれば、それを事例にして、どうすれば学校給食で扱えるかを考えると導入のきっかけになります。
 献立と使用時期の問題なのか、流通上の契約の問題なのか、生産量の問題なのか、それとも、地域合意(農協とか他の農家)の問題なのか、扱うことを前提に、関係者間で議論を深めることです。
 一方、地場産にこだわらないのであれば、話はより単純になります。
 流通事業者が扱ってくれるのか、あるいは、新たな流通事業者の参入が認められるのか、価格差がある場合、その負担をどうするのか、量の不足を調整可能か、などです。
 この場合、玉ねぎ、ジャガイモ、にんじんなどの通年流通作物や学校給食で主要につかう作物を洗い出し、それを導入の入口にすると、献立変更の負担もなく、量の不足も調整が可能になるため、導入の障害は自治体、学校、流通関係者の合意と価格差のみになります。
 可能な地域であれば、愛媛県今治市のように、自治体が有機生産者を育成しながら、学校給食に必要な食材の栽培を増やしていく方策がもっとも確実です。

 なお、小麦や大豆の有機化については、事例はあり、不可能ではないが、天候による被害という生産者のリスクが大きいことを理解し、政策的なサポートがなければ現状は難しいという指摘にとどめます。もちろん、海外産の「有機」小麦、大豆を使うことも可能です。現状、「国産」小麦、大豆は政策的に支援されており、慣行栽培における輸入小麦のポストハーベスト農薬(収穫後に使われる農薬と同成分の化学薬品を食品添加物的に使い、流通時の病害虫を防止する、残留農薬が多い)問題を考えると、「国産」小麦、大豆の積極的な使用は有機給食化の中でも推奨していいのではないかと考えます。
「有機給食」を国産に限るのか、輸入品も含めて「有機化」を推進するのかという課題は、なんのために「有機給食」を行なうのか、という問いにもつながります。
 最後に、そもそものことについて考えます。

3何のための有機給食か?
 まず、学校給食とは何かについて考えます。学校給食には大きなふたつの目的があります。学校給食法や食育基本法などの理念が求めているのは「教育」です。学校給食は教育を目的に実施されており、その教育の目標は現在7つ掲げられています。

1、適切な栄養の摂取による健康の保持増進を図ること。
2、日常生活における食事について正しい理解を深め、健全な食生活を営むことができる判断力を培い、及び望ましい食習慣を養うこと。
3、学校生活を豊かにし、明るい社交性及び協同の精神を養うこと。
4、食生活が自然の恩恵の上に成り立つものであるということについての理解を深め、生命及び自然を尊重する精神並びに環境の保全に寄与する態度を養うこと。
5、食生活が食にかかわる人々の様々な活動に支えられていることについての理解を深め、勤労を重んずる態度を養うこと。
6、我が国や各地域の優れた伝統的な食文化についての理解を深めること。
7、食料の生産、流通及び消費について、正しい理解に導くこと。

 この目標から分かるように、学校給食は食べるだけではその目標を達成することができず、給食の食材や献立そのものを教材として給食時間だけでなく教科教育の時間を含めて活用することが求められています。学校給食は「生きた教材」です。
 そこで、この学校給食の教材としての可能性を高めることが必要です。
 地場産の食材は生産者が近く、教材の工夫の余地が大きくなります。
 有機農業は、その理念や技法から、環境、生物多様性、循環型社会など、今日必要とされている社会的課題とその解決に向けた理解の教材に使いやすく、教材としての価値が高いと言えます。
 問題は、これを教材に使うための栄養教職員をはじめとする教員側の理解と教育的実践です。ただ有機給食を食べさせればいいというものではないのです。
 一方、気をつけなければいけないのは、「不安の押しつけ」です。「有機給食は農薬、化学肥料を使っていないから安全であるという」という表現は、日常的に食べられている食品は農薬や化学肥料を使っているから危険であるという考えに直結します。
 もちろん、より安全性が高いのは有機農産物ですが、「安全」を主目的に位置づけると、子どもたちに社会に対する不安と不信を生むことになります。より安全な社会にしていくのは大人の役割であり、子どもたちは社会や大人に対して信頼を持って育ち、そのなかで、社会の課題に気づき、問題を把握し、解決をめざすようになることが必要です。

 さて、もうひとつの学校給食の目的はなにか。それは、法律等には間接的にしか書かれていません。学校給食実施基準の第1条「これを実施する学校においては、当該学校に在学するすべての児童又は生徒に対し実施されるものとする」とあります。当たり前のようなことですが、この条文に背景があります。学校給食のもうひとつの目的は貧困対策です(でした)。第二次世界大戦後、国内の貧困は、子どもたちの飢えにつながりました。学校教育の実施には同時に食事の提供が必要だったのです。それも、経済的に食べられない子どもがそれによる引け目などを感じることなく学校で教育を受けられるようにしなければならないという社会的な要請と目的があったのです。貧困問題はその後徐々に影をひそめていきましたが、今世紀に入るころから再び目に付くようになりました。現在議論になっている給食費の無償化なども、格差の拡大を受けてのことでしょう。
 学校給食は、教育としての目的に沿って発展していきましたが、あらためて、学校給食はすべての子どもが安心して教育を受けられる環境をつくるためにあることを確認しておきたいと思います。

 最後に、有機給食を推進する上で大切な視点があると考えています。
 それは目的をはき違えないことです。
「有機給食」は教育のため、つまりは子どもたちのために行なわれるものです。
 地域振興や地域の農業振興が第一の目的ではありません。もし、結果的に有機給食を実現することで地域振興や農業振興につながったとしても、それは副次的な効果であり、それを第一の目的にすると、どこかでおかしなことになりかねません。
 もちろん、有機給食を推進し、とくに地場産で行なうことは社会的課題に沿ったものであり、首長や議会、市民の理解は得やすくなります。農家も協力してくれるでしょう。
 しかし、給食は政策の道具ではないのです。
 なぜこれを強調するかというと、かつて学校給食は、ごはんが出せませんでした。第二次世界大戦後、アメリカの余剰小麦を消化するために、学校給食はパンを主食とする政策が長く続いたのです。それが、米飯給食導入になったのは今度は日本国内で米が過剰になり、古米が政府の倉庫に溢れてからでした。ごはん給食の導入は、今度は余剰米の消化という側面があったのです。
「有機給食」の推進を政策的な課題として推進することになんら異論はありませんが、学校給食は決して政策の道具にしてはいけません。
 学校給食は、各区市町村ごとに特色があります。すばらしい給食と教材化を実施している自治体や学校もあれば、ちょっと残念な学校給食もあります。地域の状況はさまざまです。その地域の特徴や特色、現在の課題に対応しながら、給食現場からの有機給食化がすすみ、それを政策や予算面で支援する形になることを切に望みます。

 かつて、学校給食の合理化反対や教材化をめざす運動団体の集会で聞いた話です。
 自校給食、独自献立、調理は直営で、食材も個別発注ができる体制で栄養教職員が産直で有機農産物を取り寄せて学校給食に使っていました。しかし、食育推進の政策のなかで、地場産優先の方針が出されたこと、調理が委託になり、食材の引き受けで産直が問題視されたことから有機農産物が使えなくなりました。産直の頃には、栄養教職員は自費で産地を訪ね、栽培方法をみたり、話を聞いて、それを給食便りなどで紹介していたそうです。そのように栄養教職員や教員、自治体関係者、農業関係者の中には、教育への情熱をもって取り組みながらときに障害に突き当たり涙を流してきた人たちがたくさんいます。
 いまもそういう想いを持った人たちは必ずいます。
 有機給食への道はひとつではありません。ひとつずつ、実践事例が増えていくものと信じています。
 

いまさら参議院選挙の総括なんだけど

第26回参議院議員普通選挙が終わりました。結果は自由民主党・公明党の与党が改選議席の過半数を超えて勝利。一方で、民進・共産・社民・生活の4野党を中心に主に1人区で行われた野党共闘は11選挙区で与党候補を破り、野党共闘が効果を持つことを示しました。
 野党共闘は、2015年の安保関連法制(集団的自衛権容認の関連法律群・戦争法制とも)に反対したことから生まれました。
 安保関連法制は、これまでの政府(主に自民党)が現行憲法下で否定してきた集団的自衛権を容認することから、憲法違反の法律であり、それを憲法擁護義務を持つ政府が主導したことは、日本の民主主義の危機でした。
 もうひとつ、その法律群の国会での審議過程はこれまでの政府与党では考えられないほど雑なものであり、議論を回避し、あろうことか、国会の手続きさえもねじ曲げ、公正なる記録である議事録は修正ではなくねつ造しています。自分の都合の悪い歴史を自分の都合の良いように書き換える歴史修正主義そのものです。これもまた立憲主義、民主主義の大きな危機です。

 そこで、安保関連法制に反対する声は、そのまま「憲法まもれ」、あるいは「憲法を守らない総理はいらない」という声になりました。
 また、法律群可決後、「野党は共闘」との声が高まりました。
 この声に後押しされる形で、もともと憲法改定、改憲派を含む民主党、維新の党(結いとの合流)=民進党、生活の党を含め、共産党、社民党の本部組織と地方組織とが、市民連合などの様々な主体を含めた意見調整の場に出るようになり、参議院選挙では1人区すべてで統一候補(事実上を含む)を選ぶことができました。
 このあたりの経緯と考え方については、【Yahooニュース SEALDs創立メンバー奥田愛基が見た「参議院選挙」7月13日(水)17時9分配信(取材・構成 ノンフィクションライター中原一歩/Yahoo!ニュース編集部)】 http://news.yahoo.co.jp/feature/254 に奥田氏の視点が書かれています。
 奥田氏をはじめ、SEALDsのひとたちは、人と人をつなげ、コミュニケーションを促進するファシリテーターですね。そっちが本分で、デモなどでの派手な映像は、そのごく一部にしか過ぎないのだなあと著作を読んだり、こういうインタビューを読むとあらためて思います。そうなんですよ。ファシリテート能力が必要なんですよ、いまの政治に。

 それとは別に参議院選挙では、ネット選挙を盛り上げる動きが都市部でありました。
 こちらも盛り上がりましたが、共闘との動きとは少々異なりました。耳目を集めましたので、新たな動きのひとつではあります。

 結果を受けて、自分なりに考えたことをまとめようとキーワードを出してみました。
・精神世界と現実の折り合い
・選挙と市民
・これから~SEALDsのあと
・消費しない市民運動、生産する市民運動
・市民運動の第三の波

 こんな感じです。でもって書き始めたのですが、石田純一氏の参院選直前の、氏にしかできない記者会見の内容 https://www.youtube.com/watch?v=XUsdKHJNMPU 、都知事選の与党の動き、野党共闘に向けての多くの候補予定者の方々の動きを見ているうちに、書いている内容がどんどん別の方向に離れていってしまいました。
 たしかに、もとは参院選の結果を受けて感じたことなのです。
 結果的に書いた内容は、選挙とは直接関係ないし、野党共闘とも関係ありません。

 結論的には、
 人間社会なのだから「あいまいな領域」「分からない領域」は必ずあって、その領域が社会的に害悪になればつぶさなければいけないけれど、そうでなければ慎重に許容しようね、ってことです。

 では、そういうことで、「私は」からはじまる、変な選挙総括です。

 私は90年頃より有機農業運動や安全な食、食のあり方についての市民運動などに取り組んできました。また、そこから環境問題、いわゆる地域づくりや食文化の継承、子どもの食、学校給食、生業・農林水産業と暮らしなどについても取り組んでいます。
 有機農業や食の安全性、信頼性、地域文化、生業としての農林水産業や発酵等の食品加工、暮らしの知恵のようなことをテーマに取り組んでいると、常に頭の中には、科学的合理性からくるリスク論と予防原則論のバランス、あるいは、既知科学と、経験による知恵の両立について考えることが多くなります。
 このふたつについて私なりの考えを整理します。

■市民運動とリスク論と予防原則
 リスク論は、現代社会のあらゆるところでとられています。たとえば、原発。エネルギーを生産するというメリットに対し、放射能、放射性物質のリスクがあります。そのリスクを数値化し、社会、人体、環境などの対象に対しての影響可能性を調べます。リスクを分析するわけです。
 そうして、社会的に「ここまでは管理しよう、このくらいはリスクとして認めよう」というリスク管理を行い、リスク管理がエネルギー生産のメリットに見合うならば原発を運営しましょう、というわけです。
 とても科学的な手続きを踏んでいるようですが、科学的手続きなのは実はリスク分析までです。しかも、科学的手続きは、「いまの科学レベルで判断できるところ」のみを行うため、「いまの科学レベルでは判断できない」ところは、「分からない」という科学的立場をとります。それはまさしく科学的な姿勢です。
 一方、リスク管理は社会的なものです。ここでよく起こるのが、リスク分析で出てきた数値、すなわちリスク分析できたもののみで判断し、「分からない」ところは、分からなければ対応しようもない、ということで、リスク管理の対象にしなくなるという間違いです。
 リスク分析をする専門家は、「分からないことは分からない」と言いますし、それが科学的態度として正しいわけです。ところが、リスク分析を依頼するリスク管理者は、はじめから「分からないだろう」ことを聞かない、あるいは、依頼(諮問)する際に、「これこれについて分析してください」と範囲を定めることがあります。こうなると、専門家は「これこれ」は自分の専門分野だから明確に分析できますが、「これこれ」以外のことは、聞かれてもいないし、分からないわけですから、答えようがありません。
 その結果、「今の科学レベルでは判断できない」ことは、問いもされず、なかったことになりがちです。
 特に、現代の科学は、それぞれの分野がとても高度化され専門的に細分化しています。ですから、分野と分野の境目など「分からない」分野が増えていくのです。研究すればするほど分からない分野が増える。これこそが科学の楽しさでもあるのですが、そういう基本的なことを、忘れがちです。
 研究者の中には、そういう分野の境目や複数の分野にまたがった研究をする人たちもいます。あるいは、多くの研究者がそうであるように分からないから研究テーマを選んで研究します。その中で、「いままでは何も言われていないけれど、これは社会的には問題があるのでは?」といった指摘が行われることもあります。この指摘は、研究者だけでなく、ジャーナリストや、その社会的な問題が直接自分に及んできた人、そういった問題に取り組む市民団体からなされます。
 水俣病の原因が、当初から隠されていた水銀の高濃度汚染=チッソによる有機水銀の垂れ流しによること、ある特定のがんが田んぼに使われる除草剤と因果関係があることなど、そういった研究と指摘によって改善された例はあまたあります。そういったところから生まれたのが、「予防原則」という考え方です。
 つまり、リスク論(リスク分析とリスク管理)だけでは、今起きていることについて今の科学では答えが出せなかったり、その結果、今や将来に社会的な影響(人体の健康、環境の汚染など)が起こる可能性があるのなら、一度その対象のリスク管理レベルを引き上げるあるいはゼロリスク(使用禁止)にして問題をとらえなおすというのが予防原則論です。
 予防原則論は、日本ではとりわけ旗色が悪い考え方です。たいていが、科学的に合理性を持たない、メリット(他のリスクとの比較)を損なうから止めるとかえって社会的なリスクが高くなる(相対的リスク論)などで否定されてしまいます。
 原発を止めると、江戸時代に戻るとか、ネオニコチノイド系農薬(浸透性殺虫剤)を止めると、他のもっと悪い農薬の使用量が増えるとか、こんなにいいものがあるのに、使わないと前のような悪い状態に戻るじゃないか、といったものがたいていの否定論です。
 そうして、そういった研究と指摘をした研究者を排除したり、研究に難癖をつけて追試をしない、時間を費やして、本当に問題が大きくなってからあわてるという例が多々あります。特に、放射性物質や遺伝子組み換え作物などは、「分からない」ことについて研究しようとする研究者が、必要な放射性物質や遺伝子組み換え作物を、研究試料として入手できないため、「分からないこと」はいつまでも分からないままなのです。
 しかも、「分かったこと」についても、たとえば農薬や遺伝子組み換え作物のリスク分析などは、その分析データ自体が開発メーカーから提供されたもののみといった具合です。
 それでは、本当に科学的なリスク分析とは言えません。

 そこで、予防原則論をとりいれ、「分からない」ことをリスク分析の際に「分からないこと」としてはっきりさせ、リスク管理には「分からないこと」についてとりわけ慎重に、リスク回避側に立って行動することが必要です。これこそが、科学的に合理的な態度だと思います。
 いま、「科学的合理性」でくくられるのは、「分かっていること」で判断し、行動するということだけです。
 市民運動、とりわけ公害や環境問題、食の安全性についての運動は、常に、この「科学的合理性」のせまい解釈との闘いです。リスク管理をする政府は、省庁、部署ごとに、そのせまい領域での「科学的合理性」に基づいたリスク管理(政策、制度)で自分たちの正当性を論じます。製造・運営・使用する企業等も同様です。
「分からないこと」は、本来、科学の新たな研究対象、領域であり、楽しい場のはずです。
 ただ、分からないことは数値化できず、説明しにくいから、社会の中では見逃されます。
 だからこそ、市民運動は、「おかしい」という小さな声に耳を傾け、ささやかな研究や事例を見逃さずに取り組むのです。そうして、社会に予防原則論、あるいは、「科学的合理性」の言葉にだまされず、「分からないこと」は慎重にしよう、本当の意味での科学的な態度を身につけられるようにしようと働きかけを続けているのです。

■科学の方法について
 日頃「自然科学」といっている知恵の集積方法は、時間や空間とは関係なく共通する事柄を見つけ、記述していきます。だから、どこで、だれがやっても必ず同じ結果がでることが求められます。その上に、現代の「科学技術」が蓄積され、発展しました。宇宙に行き、深海を調べ、ロボットやコンピュータを生み出し、情報空間という新たな領域も、そこから生まれました。
 現代社会は、「自然科学」の上に「科学技術」を発展させ、ここまで広がったと言えます。
 ところが、実はここにも「分からないこと」の広大な領域が広がっています。そもそも自然科学において「分からないこと」の領域の方が「分かっていること」の領域よりも大きいのです。だから科学はおもしろく、人生も楽しい。
 伝統的な農林水産業や発酵、生活の様々な知と技術の中には、その土地の地形、土壌、気候、生態系などに根ざして発達したものがたくさんあります。この知と技術は、その土地や条件を離れると機能しなくなるものもあります。現代科学風に言えば、同じ植物の種でも、植える場所を変え、時期を変えれば、発現形が変わり、うまく育たなかったり、味が変わったりすることがあります。いつ何を植えるのか、どのように土を耕すのか、いつ収穫し、どのように保存し、どうやって料理するのか。薬草などでも、薬効のある成分が、条件によって高濃度になったり、ぜんぜんなかったりします。それだけでなく、薬草を使った民間治療なども、人や条件によって効果があったり、なかったりします。
 ある人は、現代科学を「水平知」と呼び、このような土地に根ざし、経験を持って生み出され蓄積され、引き継がれている知を「垂直知」と呼びます。
 この垂直知はとても誤解されやすく、あるところでは効果があったことが、別の場所に行くとまったく効果がないため、全面的に否定されることがあります。特に農法(作物の栽培方法)については、そういうことの連続です。有機農業では、垂直知を学び、それを水平知に変換する繰り返しをしています。
 水平知と垂直知は、そもそもの成り立ちが異なるため、扱いが難しく、それが時に垂直知から出た技術を疑似科学だとして社会的に悪とされることもあります。
 一方で、多国籍バイオケミカル企業などは、医薬品や農薬成分などの開発のために、世界各地の伝承や民間医療などの垂直知を探索し、その植物の遺伝子の働きと、それによってできた化学物質の特定という科学技術で水平知としていますが、その時点でそれぞれの土地の人々、文化としてできた垂直知を否定し、自らの利益(生物特許など)にしたりと、使い分けています。
 市民社会が成熟する上で、この垂直知の存在を理解し、地域文化において自然科学では「分かっていない」領域の知を認めていくことは、多様性のある社会を作る上でとても大切なことだと思います。
 しかし、都市においては、そもそも垂直知を必要とする領域が仕事では存在せず、暮らしの中で細々と残っているくらいです。だから、垂直知は否定されがちです。都市生活者が多数を占めた現在、地方で土地に根ざして生きることが垂直知という大切な知の領域と不可分であることを都市生活者には知って欲しいのです。

■疑似科学、あるいは、垂直知の濫用
 一方で、明らかに水平知とも垂直知とも言えない疑似科学、「分からない」ことを逆手に取った非科学的言説というのもあります。
「これを飲めばガンは治る」というのは、その典型的な例で、ある条件の、ある人が、それを飲み続けた結果、自然治癒をすること、そのものは垂直知の中であり得ることですが、その事例を水平知のように見せかけて、「誰でも」「どんな条件でも」「治る」とした時点で、それは垂直知の濫用であり、水平知のように見せかけた詐欺です。
 人間というのはしたたかなものです。手品のトリックをみれば分かるように、人間の認識とは「だまされやすい」ものです。だから上手にだます人もたくさん出てきます。えらそうに言っていますが、私もなんども引っかかっています。科学的な思考を持った人でも、間違ったり、だまされることはあります。そういう人をみかけるとちょっとほっとします。「自分だけじゃない」。
 ただ、この垂直知の水平知への強引な転換や濫用は、社会にとっては害悪です。
 予防原則にしても、垂直知にしても、自然科学の「分からない」領域を扱っているだけに、そういう可能性は常につきまといます。だから慎重にしなくてはなりません。
 特に、人の命や健康への影響、環境の変化、社会における差別や人権侵害などを起こすこともありますので、その知が水平知か、垂直知か、垂直知を水平知に転換できたものか、垂直知の濫用、水平知、垂直知の誤用なのか、やっぱり考えておく必要はあります。
 と同時に、善意での濫用、誤用については、その人体や社会への害悪さ加減を考えながら対応した方がいいとも思います。
 一刀両断するな、ということです。
 でないと、世の中に、妖怪は存在できず、占い師も職を失います。
 宗教だって失われてしまいかねません。つまんない社会になります。
「悪貨は良貨を駆逐する」も本当です。
 こんなことを言うと、またどっちもどっち論者だとも言われますが、そうではありません。○か×、善か悪の二元論では切れないぞ、ということです。
 ひとつずつ、ひとりずつ、一事例ずつ、見て、聞いて、本当に害悪になるものはつぶしていくしかないのです。
 面倒ですが、それが都市中心になった市民社会というものです。
 そして、都市と地域は、垂直知の量と質が違うだけに、扱いも違ってくるということも考えて対応する必要があります。

■政治空間における「誤用」
 最後にすこしは参議院選挙と関連させておきましょう。垂直知をほとんど失った都市において実体験のない論説は、非科学的、非合理的になりやすくなります。これは特に政治空間においてはとても害悪になりやすい状況です。ぶっちゃけだまされやすくなるってことです。
 何を言いたいかというと、一例では「不正選挙」説です。
 不正選挙を行うことは人間社会ですから不可能ではありません。ですが、特定のメーカーの機械や投票用紙、筆記具を使った大規模な書き換えは、選挙立会人、見学者、メディアがいる前でそうそうできることではありません。
 開票所を見に行ってもいないのに、言説だけで選挙のたびに不正選挙を訴えるのは、それがとりわけ特定の候補との関連で語られるとすれば、社会にとっては害悪です。まして、候補者が過去にそのような言説をしていたとすれば、それは政治家として失格ではないでしょうか?
 そういうあいまいな言説が政治空間、とりわけ、人がもっとも分断しやすい選挙という状況で流布されるのは、社会の安定にとってまったくいいことはありません。
 そういう言説をいくつか見かけました。私の回りにもそういう方がいました。本当に困りました。選挙という政治状況で、私はそれを批判することができませんでした。
 だからこれはまったくの後出しじゃんけんです。
 一方でそれを批判する力強い論説をみかけ、そのすばやい応答には感銘を受けました。しかし、その批判が、垂直知や「分からない領域」までを批難の対象になる論説に発展する例もみかけました。これが一番心苦しかったのです。
 その領域は、性質上水掛け論(どこまでが害悪ではなく、どこまでが許容可能か)になりやすいため、それも批判することができませんでした。
 だからこれもまったくの後出しじゃんけんです。
 世界はそういうのにあふれていて、できることはやります。
 自分が正しいとは言いきれません。
 だから、いつも悩みます。

 ということで、長文の悩みにつきあっていただきありがとう。

 それでも、選挙は悪くなかった。実のところ負けたし、これからがもっと大変だけど、これまで同じテーブルで話をしたこともない人が話をする場を持て、それが野党共闘になり、いくつもの勝利を得たのは希望です。
 人生楽しみながら、ちと良くしていこう!

311以降の社会運動、市民運動に対するヘゲモニー的発想のむなしさ

311以降の社会運動、市民運動に対するヘゲモニー的発想のむなしさ

労働組合等の従来社会運動を牽引してきた指導者たちは、すでに気がついていると思うのです。動員されなくても社会運動に自ら主体的に参加する構成員の存在に。
そして、団体呼びかけでのデモや集会、抗議行動に主体的に参加する非構成員の存在に。

反原発運動、秘密保護法反対、ヘイトデモカウンター、戦争法案反対の行動を通じて登場してきたよびかけ人や呼びかけ団体は、従来の組織とは性格を異にし、自らの組織の構成員を増やしたり、運動に対する覇権を取って有利な利害関係者になろうとしないことにも、気がついていると思うのです。

市民が、よびかけ人や呼びかけ団体とは政治的、社会思想的に異なる考えを持っていても、それらの呼びかける行動に対し、柔軟に参加していることを。

そうして、組織拡大や覇権的な動きをする団体や個人に対し、拒否感を持っていることを。
支配されるのではなく、何かの方針に従うのではなく、個人が自ら考え、原理原則に縛られずに協調し、市民社会として、その場その場での品位と配慮を持って、時には冷静に、時には積極的に非暴力不服従を前提に行動していることを。

たとえ、労働組合等の従来社会運動団体が呼びかけたものであっても、市民はそういう非ヘゲモニー的発想の運動であろうとして参画し、行動します。
そこで、指導者たちが気がついていたとしても、構成員が従来型の社会運動における行動だと理解し、身内的な、ヘゲモニー的な発想で行動をすれば、市民は、それを批判します。

それは、主体的でも自立的でもないからです。自らの所属団体の伸張やヘゲモニーを運動の目的よりも優先しているとみるからです。

2016年3月29日の戦争法施行反対運動は、総がかり行動が午後7時半まで、SEALDs&学者の会がそれ以降を担当する形で国会議事堂前周辺での抗議として行われました。
終了後、参加した非動員市民側からいくつかの指摘や批判が出ています。
SEALDsへの時間の引き渡しの不手際、総がかりの終了による参加者帰宅の促し、総がかり側誘導等の命令的態度、動員参加者とみられる参加者の飲酒、喫煙歩行、喫煙、ごみの放置などです。

この行動には、おもてには出ないながらも、反原発関係で毎週金曜日に抗議行動を行っている反原連のスタッフや、希望のエリアのスタッフ、あるいは、ヘイトデモカウンターなどに参加しているメンバーなどが、安全確保、誘導、見回りなどを行っていました。そのようなステートメントも、なにもなく、です。
これが非ヘゲモニー的な態度です。

総掛かり行動もまた、その団体構成からヘゲモニー的思想からの脱却をめざしたものだと理解しています。その取組みには心より感謝しています。

これからまた選挙の季節を迎えます。今回の選挙は、野党の共闘を求め、実際に、民進、共産、社民、生活などの選挙協力体制が各地で生まれています。政党も変わろうとしています。これを成功させる上でも、いま、すべての社会運動組織は、従来の運動のあり方を変えることを恐れてはならないと思います。

ともに頑張りましょう。民主主義の成熟のために。

頭数になりにいくこと~路上の民意

頭数になりにいくこと~路上の民意
私と、私の前後の大人たちへ

 何のために路上に出るのでしょうか。
 もちろん、違憲立法や好戦的な安倍政権への怒りがあります。
 安保法制(戦争法案)、違憲、対米追従、武器、沖縄、原発。
 それぞれに怒りの深さは違っても、まずは、平和安全法制という戦争法案を止めたい、という共通する思いが、そこにあります。
「終わったなら始めればいい」と宣言した若者たちを例に取るまでもありません。
「絶望ではなく、希望がある」と言った、大江健三郎氏の言葉を借りるまでもありません。
 しかし、何のために路上に出るのでしょうか?
 何のために、夜には人のいない国会議事堂前に集まるのでしょうか?
 同じ怒りを持つ者が「連帯」して「共闘」するためですか?
 自らの所属する組織の結集力を確認するためですか?
 もちろん、組織に属している者には、そういう側面もあるでしょう。
 しかし、メディアが一方通行でなくなり、マスメディア以上に、インターネットを使った情報発信力、双方向の情報力が高まった現在、個人のひとつひとつの行為の意味は、以前よりはるかに深く問われることになりました。
 ツイッターやフェイスブックなどをやっていなくても、「炎上」という言葉を聞いたことはあるでしょう。ある人の不用意な一言、不用意な行為は、それがインターネット上で情報発信されることにより、誰かの私的なおふざけでは済まされず、社会的な批判にさらされます。それが正当であれ、不当であれ、現実に起きます。
 であるからこそ、個人の、組織のひとつひとつの行為は、特にそれが社会的な意味を持つ際には、そのふるまいの戦略性が問われます。
 私は、頭数になりにいく、と表現しています。
 2015年9月14日月曜日(平日)の夜、国会議事堂前に、「光るもの」を持って集まりましょうという呼びかけがありました。それは、マスメディアの存在を大きく意識し、意図的に、国会議事堂前に光の海を演出し、民意を映像や画像で示す目的がありました。その目的を理解しているからこそ、多くの人が、「光」を用意したのです。それは、歩道の木陰では達成できるものではありませんでした。8月30日の日中のように、空撮の影響力を考えたからです。
 その成功には、意思を持った頭の数が必要でした。
 もちろん、インターネット上での双方向の情報の拡散も狙いです。
 この問題について、多くの人が疑問を持ち、怒りを持ち、政府与党が行っていることの問題点を知ってもらうための戦略です。
 それだけが、「頭数」の意味ではありません。
 数万人の人が集まり、警察が過剰な警備体制を敷くということは、安全上の慎重な対応が必要になります。
 体調を崩す人、怪我をする人がでないよう、また、体の不自由な方や、高齢の方、小さな子供を連れた方などへの安全確保、混雑による転倒やパニックの回避、警察等との無用なトラブルの回避など、これらは、主催者やボランティアで参加する医療班、弁護士、給水の方々に任せるだけでなく、参加者ひとりひとりが、相互に配慮することになります。
 一方で、はじめて参加する人でも、これまでの抗議行動と同様に、気後れなく抗議行動に参加できるように働きかけることも必要です。自然発生的なコール、ドラムなど、場を形成するリーダーではない「核」も必要です。
 そのための「頭数」でもあります。
 実は、これは、SEALDsなどの若者より、大人たちの方が苦手のようです。
 どうしてでしょうか?
 ひとつは、情報が双方向で伝達されること、ひとりひとりのふるまいが社会的に見られていることへの自覚がないからです。なぜならば、20世紀にはそんな必要がなかったからです。そういう訓練を受けている人が少ないからです。今の若い人たちは、常に見られていることを意識しています。そうして「見せる」ことを考えています。それが大人には足りないのです。その自覚が必要です。
 もうひとつは、「組織に属している」意識の問題です。
 SEALDsは組織であって、組織ではありません。分かりにくいですが、従来の組織論的な代表者はいません。意思決定手順(総会、理事会等)も明確にはありません。それでも、意思は決定され、行動は決まっていきます。そんなことでうまくいくものか、と、思われるかも知れませんが、そうなのです。その代わり、情報の共有、情報の並列化が得意です。意思決定手順よりも、情報の共有、並列をすることで、目的に対して適切な戦略、判断をとることができます。
 ところが、多くの大人たちは、「組織」で行動を考えます。属している組織の意思決定手順に従って行動します。情報の共有、並列化が難しかったからこそ、そういう意思決定手順、行動規範をとることが必要だったからです。多くの組織(属する人)が、その思考から抜け出すことができません(私も同様です)。それでも多くのことは前に進みます。しかし、問題は、その手法が、今の情報化社会で通用しないことがあるということです。
 以前、のぼり旗を下ろそうという小文を書きました。2012年の反原発運動が盛り上がった時のことです。「金曜日官邸前反原発抗議行動について(運動団体各位へ)」その時は、私も理解できていなかったのですが、実は、そこに問題があったのです。
「組織名の幟を上げる」ことは、組織としては当たり前のことです。
しかし、
「組織名の幟が上がってる」ことが、目的達成の戦略的に(見え方として)マイナスになるから、上げない判断をする、というのが、今の思考です。
 この判断のずれを自覚する必要があります。
 もちろん、「組織名の幟を上げる」ことが戦略的にプラスになるときもあります。
 その判断や自覚を、組織として、あるいは、個々人として行う必要があります。
「終わったなら始めればいい」という言葉は、ただ元に戻るということではなく、民主主義を作り直すことでもあります。そのためには、現代の情報社会に合わせた思考や行動規範を身につける必要があります。
 今は局面です。
 とにかく、民意を明確に示し、頭数となり、法案と政権を止めることが必要です。
 非暴力、不当なことに対する不服従を貫きつつ、戦略的に振る舞うことであり、ここに書いたことを思い悩んでいる時ではありません。
 今は、動くだけですが、今の国会が終わった後に、ちょっと考えてみませんか?
2015年9月14日月曜日(平日)の夜、国会議事堂前からの帰り道
牧下圭貴

書籍「生きる-窪川原発阻止闘争と農の未来」島岡幹夫著

 高知県窪川町(現四万十町)の島岡幹夫さんの本「生きる~窪川原発阻止闘争と農の未来」を入手し、読みました。
 土に生きる全国の農民に、あらためて原発と風土について考えてもらいたい。そのために読んで欲しいと思います。
 それ以上に、土を離れ、都市に生きる私のような人間にこそ、読んで、原発と大地と未来について「土に生きる」人の声を聞いて欲しい、読んで欲しいと願います。
 東京電力福島第一原子力発電所の事故以来、私の心には、それまで反原発運動をしっかりやってこなかった後悔と、有機農業や安全な食、食を通した人と人と、人と大地との関わりについて、これから信念をもってやっていけるのだろうかという不安がつきまとっていました。
 学校給食に関わる市民運動や、提携米という生産者と消費者が直接つながり合い、農業の問題、食の問題を考える研究会の事務局を担い、まずは現実を知ろうと、食品などの放射線を自分たちで測定し、測定とは何か、基準とは何かを学び、知る運動を立ち上げたりもしました。
 しかし、私は都市の消費者でもあり、せいぜい庭先やプランターで土と作物に触れ、全国の生産者と接する、手に土のなじんでいない人間でもあります。
「心に柱の据え方が分からない」
 というのが正直なところです。
 官邸前や国会議事堂前、首都圏で反原発運動や食の安全に関わる様々な市民運動をすることには大きな意味があります。それは、この国の政治・経済・報道の中心が首都にあり、そこに人がたくさんいて、社会の大きな動きをつくるからです。
 毎週金曜日に官邸前や国会議事堂前で続けられている反原発抗議行動に一参加者ではありますが、頭数として参加しているのも、その確信を持っているからです。
 ただ、東京電力福島第一原子力発電所の事故は、その地で起き、今も進行中です。放射能汚染は事故現場を中心にしながらも、当時の風向きや雨の影響、その後の地形、植生、水の流れなどにより東日本太平洋側を中心に起きています。森林、野生生物、田畑、川、湖、生活空間、海。そこにいる生物、あるいは、作物。汚染の程度もまちまちで、影響もまちまちですが、それに対して調べ、対応するという行為は、今後最低でも数十年に渡って取り組まなければならない現実です。
 土地とのかかわり方。農林水産業や食との向き合い方。
 土地に縛られていない生き方をしている人間故に、心に柱の据え方が分からないのです。
 それが、放射性セシウムの食品の基準100Bq/kgという数値として判断を迫ります。
 私は、自分の中に基準よりも高いレベルの(数値としては低いレベルの)線を引き、測定されたものについて福島のものにしろ、どこのものにしろ食べています。基本的に直接知っている人のものを食べています。だからといって、誰かに食べろとも言いませんし、食べるなとも言いません。
 消費者には選択する力があります。それは尊重されるべきものですし、同時に悩みのもとにもなります。
 しかし、土地に生きる人は、大きくふたつの選択しかありません。そこに生き続けるか、自らの血肉となっている土地から離れるか、です。そのどちらも、尊重されるべきものです。
 島岡さんは、土地に生き続けるために、原発誘致に反対し、自民党の地域の幹部を辞め、反対運動に身を投じました。全国の原発立地地域や反対運動の地域にも足を運んでいます。
 事故後もその信念は変わりません。
 しかし…
 本書のはじめににこうあります。
“そんな島岡が「3・11」以後、「原発を止めた男」として、再びスポットライトを浴びることになった。しかし、島岡にとってうれしいことであるはずはない。「福島の人たち」へ想いをはせるとき、島岡は寡黙になってしまう”
 島岡さんは、徹頭徹尾、土に生きる人です。土に生きる人は、土に生きることについて心の底からその思いが分かるのだと思います。それは、私ごときには真に理解できないことなのだと思います。理解できないからこそ、知ろう、知るべきだと思います。
 だからこそ、「生きる」にまとめられた島岡さんの具体的な行動や、ここまでの人生、その言葉は、どんな哲学書や反原発の本よりも、読んで欲しいと思います。
 実は90年代から2000年代前半に高知の島岡さんの田んぼを何度か訪問したことがあります。提携米関係で、東北の米生産者や消費者団体の方々と一緒に訪ねては、話を伺いました。
 いつもにこやかで、本には書けないような剛胆、かつ、おちゃめなエピソードをいくつも話してもらいました。
 93年の大冷害をきっかけに起きた米パニックと緊急輸入、その後のガット・ウルグアイラウンドの受入れに対して、減反差し止め訴訟を1000人規模の原告で起こした際も、原告のひとりとして法廷に立っていただきました。そのときの意見陳述は、本書の最初の方に掲載されています。私は当時の原告(流通側)のひとりとして、島岡さんをはじめ、意見陳述に立った多くの農民の切々とした訴えを今も思い出します。
 島岡さんの意見陳述を読むと、島岡さんが、地域の保守的な農民リーダーとして、自民党の地域のリーダーとして、政府与党の政策に従い、地域のためにつくしてきたことが分かります。その上での、減反政策の間違いをただす意見陳述でした。
 島岡さんは、地方では主流の保守本流の農民です。面倒見がよくて、義理堅く、人情深く、なによりも窪川町の現在と未来に生きる人です。
 原発誘致の動きが起きたとき、島岡さんは即座に立ち上がります。自民党を離れ、社会党・共産党の人たちと協働し、かつ、反対運動には主流の保守支持の人たちが立ち上がらなければ成功しないと、説得、説得に回ります。それは、窪川町の自治の闘いでもありました。
 署名、請願、リコール、再選挙、そして、議会。国会議員、県会議員、電力会社、有力者、扇動者。何にもひるまず、対話を恐れず、負けにもめげず、最後の最後まで、原発誘致をやめた、と、言うまで、戦い続ける。その過程は本書に書かれています。
 書かれていませんが、反原発運動の間、そして、終わってからも、島岡さんには強い思いがあったと思います。「地域に修復不能な傷をつけないこと」です。土地に生きる者だからこそ、自分たちで決め、ともに生き続けることを求めていた。そう感じます。
 原発反対運動とともに、島岡さんは、農薬をやめ、有機農業の道を選びました。
 同根を見たからです。
 東京電力福島第一原子力発電所事故を受けてもなお、原発の再稼働、新設などの動きが出ています。本の帯文にはこうあります。「2000年の農業台地を原発に売り渡し、2000年の何倍もの禍根を子や孫に残すのか」。島岡さんは、反原発を「正義」と言い切ります。正義の信念があるから、動き、説得し、涙し、土を耕します。
 反原発は、運動のための運動ではありません。原発を止めることは正義なのです。運動はそのための手段であり、目的ではありません。そして、それは、民主主義を作る過程であり、終わりのない訓練でもあるのです。そのこともまた、本書で島岡さんの行動、言動から読み取ることができます。
 平成27年春、島岡さんは、元窪川町議会議長として、地域に貢献したと旭日双光章を受勲されました。
 正義を貫くことに、保守も革新もありません。
生きる-窪川原発阻止闘争と農の未来
http://kochi-books.ocnk.net/product/161?garitto=1

新潟県三条市の冬期牛乳休止は、みんなで応援して、「やってみて、考えようよ」です。

新潟県三条市の冬期牛乳休止は、みんなで応援して、「やってみて、考えようよ」です。
個人的意見として
2014.8.14 牧下圭貴
 ほとんどの日本人は、牛乳を見ると「カルシウム」と考えます。牛乳はカルシウムの多い食品のひとつですが、同時に、たんぱく質、脂質、ビタミンも豊かな食品です。「牛乳=カルシウム」とは、学校給食と小学校での栄養指導の結果、広がってしまった考え方です。いかに学校給食の影響が大きいか、この事例をみればよく分かります。
 その「牛乳」が大きな話題となっています。
 新潟県三条市が、2014年12月から3月末までの4カ月間、学校給食での牛乳提供を中止しました。この発表後、日本栄養士会や学校給食栄養士協議会が名指しこそしていませんが、事実上、三条市に対して、牛乳休止の再考を求める声明を出し、また、乳業関係団体も同様の動きをしています。
 実は、三条市は、2006年に食育推進計画と行動計画を発表し、その中で、学校給食については完全米飯給食、和食献立の推進、食べる時間の確保(と、そのための4時間目終了厳守)、牛乳の給食時間との分離などを掲げています。そして、2007年度に1週間、牛乳を給食時間とは別に提供する取り組みをしましたが、その際は、ふつうの給食とミルク給食を1日のうちに2回運用するのと同じことになるため、学校の運営管理が難しく、継続を断念されたと聞いています。そういった背景があることは、まず、知っていただきたいと思います。
 そもそも、学校給食に牛乳が毎回つけられるようになったのは、第二次世界大戦後、パン(小麦)と脱脂粉乳による学校給食が行われたことと、酪農振興法により国産牛乳を学校給食に飲ませることで、「酪農を振興する」という目的で脱脂粉乳から牛乳に置き換えられてきた経緯があるからです。
 そのため、今日でも、学校給食(完全給食)とは、「主食、ミルク、おかず」と定義されており、基本的には牛乳がはずせなくなっています。
 たしかに、牛乳を出しておけば、たんぱく質、ビタミン、カルシウムなどで、調理をせずに簡単に摂取させることが可能です。しかし、一方で、牛乳は季節的には残食が多くなりがちです。特に女子児童、生徒の残食は問題があり、いくら提供しても、摂取されなければ栄養にはなりません。おいしく食べられてこその給食です。
 全国的には、週に1回程度は牛乳を出さない献立を立てている学校栄養職員がいたり、牛乳に替えて時々お茶を出す自治体もあります。思い起こせば、柑橘が大量に余った時期には、ミカンジュースが牛乳に替えて時々出ていた世代もあるのではないでしょうか?
 牛乳は、ひとつの優れた食品に過ぎません。
 牛乳がなければ栄養あるおいしい献立が成り立たないという発想こそが、学校給食を狭く、貧しくしていないでしょうか? 牛乳なしでも十分においしく、栄養のある献立は立てられるはずです。むしろ、牛乳を出さない日が多くあっても可能な調理体制、施設、設備、人員、費用をかけられることの方が望ましいのではないでしょうか?
 三条市の今回の取り組みは、4カ月、牛乳なしで和食中心の献立を立て、学校給食実施基準にある栄養を満たし、おいしい給食を提供するというとても難しい挑戦です。現場の栄養教職員に話を聞くと、真剣に悩んでいます。調理体制や給食費(食材費)のしばりなど、本当に難しい要請です。
 栄養基準に合わせれば、和食とはいえない乳製品たっぷりの洋風献立になるかもしれません。それでは、牛乳を外した意味がなくなるでしょう。
 私はこう考えます。ある日は、栄養基準を完全に満たす献立を立ててみれば良いし、ある日は、栄養基準に足りなくても、おいしさや和食献立に徹底して取り組めば良い、と。そして、献立の意図、栄養量、調理の難しさ、子どもたちの反応、残食数などを毎日きちんと記録し、結果としてそれこそカルシウムが基準を満たしていなければ、そのことを保護者にも伝えればよい、と。
 そうして、牛乳ありの給食献立と、牛乳なしの給食献立で、その献立の中身、教育力、おいしさ、残食などをちゃんと見比べ、みんなが学校給食のこれからのあり方を考える材料にすればいいのです。
 そもそも、学校給食の栄養基準は、カルシウムならば1日摂取量の半分となっており、多めに設定されています。牛乳がはずしにくい理由が栄養基準の考え方にもあるわけです。
 牛乳を抜いたら、その分の栄養がゼロになるわけではありません。栄養教職員もいろんな工夫をすることでしょう。この夏期期間も、きっと献立開発にみんなで苦労していることと思います。その工夫こそが、未来の学校給食の質を高めると思います。
 それを全国の栄養教職員や調理員、行政関係者、保護者、市民が一緒に考え、より学校給食の教育としての質が高まるよう考える材料にすればいいのです。
 三条市の取り組みは、頭ごなしに否定する話ではないと思います。
 私は、牛乳を否定するものではありません。お米と稲作の運動はしていますが、学校給食の完全米飯給食を進めたいとも思っていません。学校給食の自由度を高め、教育力を上げて欲しいだけです。
 牛乳を聖域化するのをやめても、地域によっては毎日牛乳を出すところがあるでしょう。給食は米飯だと決めるところもあるでしょう。それは、地域の選択です。
 その選択を、尊重することができませんか?
 そうして、現場の栄養教職員や調理員、教員らの取り組みをみんなで応援しませんか?
 日本ではじめてのことをやるのです、温かく見守って欲しいと思います。
 ひとつ、三条市に苦言があるとすれば、発表前にもう少し栄養教職員や現場の給食関係者、教育関係者、保護者、市民と議論をして欲しかったということです。
 学校給食は、地域の特徴を活かして、自分たちで考えて、決めて良いと思います。
 おいしくて、栄養があって、楽しくて、そして、教育力のある、そんな学校給食が行われることを願っております。

LEDプラカードの作り方

夜に目立つLED付きプラカードの作り方、ハンダ付けなしでできる方法です。
費用は1500円程度で、A4ならば4枚、A3ならば2枚できます。
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追記(2018年3月)
LEDテープは、USBタイプがあります。A4プラカード作るならば1mのものを購入すれば、端子の接点つくったりする手間がなくなります。割高ですが、初心者にも慣れた人にもお勧め。なにより電池ではなくスマホ用のバッテリー(USBタイプ)がそのまま使えます。amazon 楽天などで LEDテープ 1m USB とタイプすると出てきます。
これでやってみてください。以下、LEDテープ用に記述を書き換えてあります。(追記ここまで)
(材料A4・4枚分)
プラ段300×900mm2枚
USB付きLEDテープ1m4本(電池ボックスならLEDテープ5m1巻き)
角バッカーシール付き8mm幅5mm高さ、4m分
(USBでは不要、電池式の場合 12ボルト電池ボックス(単3・8本直列)用4個)
(USBでは不要、 平行線ケーブル2m程度(50センチ×4ほど))
透明ビニールテープ1本
両面テープ(5mm幅8m分またはセメダイン)。
角パッカー
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LEDテープ(ネットでUSB付きLEDテープで検索してね
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電池ボックス(使いません)
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(材料入手と費用2013年時点だよ)

ホームセンター:プラ段1枚60円、角バッカー8本約300円。ビニールテープ約50円、平行線ばら売り1m約50円。
ネット通販:USB付きLEDテープ1メートル
LEDテープ5m1巻き約一巻き(非防水)1000円、電池ケース2個250円。
LEDテープは高いので良ければカー用品店にあります。電池ケースもスイッチ付きがカー用品店などに売っています。(末尾に参考商品案内)


(作り方)
プラ段を300×210mmで切る。
1枚から4枚とれるが、まず2枚を使用。
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角パッカーを300×2本、200×2本に切る。
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角パッカーの両脇(5mm)に両面テープを貼り、片面の両面テープで1枚のプラ段の上にぐるりと貼り付ける。しっかり貼り付けるならばセメダインなどを使用してください。
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LEDテープの端子を角パッカーのつなぎ目(長辺と短辺の境)から出し、角パッカーの元のシールをはがし、そこにLEDテープのシールをはがしながらLEDテープを貼り付ける。角は無理に折り曲げず端子の近くまで1周貼り、切断可能部分で切り取る。
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角パッカーの上面(自分で貼った両面の片方)のシールをすべてはがし、慎重にもう1枚のプラ段で蓋をする。これでプラ段2枚にLEDテープが内側に1周貼り付けて、内側に向けて光を出す構造になる。
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USB付きLEDテープの場合、あとはUSB端子をモバイルバッテリーに繋げば完成です。

(以下は電池式の場合)
出ている端子(平行線)に、バラの平行線を自分が必要とする長さ分つなぎビニールテープで巻く。平行線の逆端は電池ケースの端子(平行線)につなぐ。単3を8本直列で12V(1.5×8)。
注意:エネループなどの充電池は1.2Vなので、この場合はできれば使わない。
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(参考写真)
理屈はこんな感じ。
Img_1034テープにプラスとマイナスは書いてあるので赤がプラス、黒がマイナス

ちなみに、とても軽いので、片手で高く持ち上げられます。
いろんなメッセージを作りましょう。

中庸のススメ その1 日本国憲法、うまくいっているじゃない

「中庸」について考えています。あらためて儒学の「中庸」やアリストテレスの「中庸」にまでさかのぼって考えているわけではなく、原発事故後の日本という地域に住む者としてのこれからの生き方や社会との関わり方、国家との関わり方ということです。
 むつかしい話ではありません。反原発・脱原発の運動が盛り上がりました。私も積極的に参加しているのですが、金曜日の官邸前・国会前抗議行動のスピーチエリアで、いわゆる「左派」の方と「右派」の方が続けてスピーチをされたり、何度か行われた都心の反原発・脱原発のデモ行進でも、市民、生協、消費者運動、労働運動、社会運動が、立場を超えて、とはいえ、隊列は別々にデモを行う姿を見たときから考えていたことです。
 衆議院議員選挙前日の都心のデモでは、なんとサウンドカーのラップの皆さんのリードでシュプレヒコールを叫ぶという、これまでにない経験をしました。私の音楽嗜好にはない領域なので、実に新鮮でした。
 そうして、衆議院議員選挙の投票率の低さと、自由民主党や日本維新の会などの勢力が大きく伸びました。そんな2012年の暮れに考えていることとして、「中庸」です。最初は「積極的ことなかれ主義」にしようかと思ったのですが、もう少しちゃんとした言葉にしておこうと考えました。「中道」でも「リベラル(自由主義)」でも「ラディカル(急進的、ではなく根本的)」でもない、能動的な言葉としての「中庸」です。「ホメオスタシス(恒常性)的なバランス」と言ってもいいです。
 前置きはこれくらいにしておきます。
 今回は、日本国憲法についてです。
(日本国憲法 天皇制と人権)
 いま、自由民主党などが現行憲法の改定を考えています。すでに具体的な案を示しており、そこには、いくつかの重要な変更があります。天皇制、基本的人権、人権と公共の利益、集団的交戦権などが主な変更として指摘されています。
 私は、どうしていま、憲法を議論しなければいけないのか、まったく理解できません。
 1947年5月3日の施行から67年間、日本という国家は、この憲法の下で、いろいろありましたが、世界全体を国家の見回すと、それなりにうまくやってきていると思います。
 なにより、直接的な戦争参加をしていません。内戦も起こしていません。人権、開発と環境、公害、米軍基地、間接的な海外の人々への権利侵害など、過去現在の課題を言い出せばきりはありませんし、その当事者(被害者)からすればとんでもない話ですが、それでも、表現(思想信条)の自由や、宗教の自由、最低限健康で文化的に生きる権利など、「おおむね」確保されてきました。
 憲法は、国家から人間を守るしくみとして、あまり表には出ずに法制度、国家制度の最上位法として機能しています。
 それなのに、憲法を変えようとする人たちがいて、その力が大きくなりつつあります。
 これがよく分かりません。
 私もまた、現行憲法のすべてに賛同する者ではありません。自由民主党の改定案とは違う立場で、疑問があります。
 それは、基本的人権の保証と、象徴天皇制による人間としての天皇の人権否定は矛盾です。その一点をもって、私は制度としての天皇制は不要であり、日本の政体は民主共和制が望ましいと考えています。同時に、象徴天皇制による天皇の人権の否定は、人権が制約されうることを明示するため、人権侵害を起こしうる制度的背景になるものだと考えています。今上天皇の人柄は、その言葉や態度から、人間として尊敬しています。その責任と地位を考えれば、「王」としてふさわしいのでしょう。
 しかし、今日の国家において、「王」としての天皇の位置づけは、本質的には不要だと考えています。そうであっても、私は、現行憲法を支持し、現行憲法が位置づけている象徴天皇制を、歴史的、社会的、文化的、あるいは、政治的にも、安定をもたらすものとして認めます。なぜならば、この憲法で「おおむね」うまくやっているからです。
 うまくいっているのに、象徴天皇制を変える必要はありません。理屈ではなく、現実だからです。もちろん、象徴天皇制としての天皇を、先の第二次世界大戦における戦争を起こした国家としての日本の元首の系譜であるからとして、拒否する人たちを否定する気はありません。私を含め、そういう人たちの存在も守られているところが、現行憲法と社会体制の「おおむね」すばらしいところです。
(日本国憲法 自衛隊)
 憲法9条と自衛隊についても同じです。現行憲法が施行され、かつ、日本が再独立を果たしたサンフランシスコ条約(1952年効力)の間に、朝鮮戦争が起き、日本は現行憲法とGHQ占領の間で警察予備隊をへて自衛隊を組織します。軍事力では現在でも世界第4位と言われる強力な軍事力(防衛力)を持つ組織になりました。その間、憲法9条との矛盾、米軍との関係(集団的自衛権問題)、国連平和維持活動(PKO)への参加などで、常に議論を生んできました。それでも、国際的にその存在は認知されています。反対や議論があって、憲法上も課題は指摘されていても、日本の自衛隊は現に存在し、戦争を起こさず、内戦を起こさず、組織として殺人を行わず、その高い能力のみがPKOや災害支援などで評価される希有な組織になっています。
 このありようの幅(予算や規模、保有軍事力や能力)は、常に議論にさらしつつ、政策として決定することになりますが、急激に戦力を向上させたり、低下させることは過激な政策です。急激な変化は、国内にも、国外にも、よい影響を与えません。
 現行憲法の9条の下で、自衛隊は十分につとめを果たしています。日本は、軍事力を持っていますが、枠をはめることで、世界に存在を示しています。憲法を改定して、集団的自衛権の確立や、潜在的な可能性としての徴兵制に道を開くことは、無用に国内外を混乱させます。
(日本国憲法と、国家)
 国家(立法、行政、司法)は調整機関であり、それ以上でもそれ以下でもありません。
 人権、環境、公害問題や強制的土地収用問題にみられる国家の不備や暴力は、調整機関が調整能力を失ったり、調整能力に不備があった結果です。経済・財政、国際関係(外交)においても同様です。
 この国家の不備は、なにか問題が起きる度に、うまく再調整されたり、逆によりひどくなったりします。よりひどくなる場合は、たいてい、その問題の背景に別の利害関係が存在し、その「別の利害関係者」が、「ひとりの国民」よりも強い調整能力を持ち、国家に働きかけ、国家が「間違った主」に仕えた結果です。
 現行憲法は、国家が調整機能を求められる諸問題について、こんにちのように多様化することを想定できないときに作られており、国家の機能について憲法として対応しているとは言えません。
 それでも、現行憲法の枠の中で、法制度を整え、政治的、社会的、経済的に対処してきました。それは、こんにちの諸問題に国家が調整機能を発揮することに、現行憲法が制約をかけていないからです。強いて言うならば、前項の自衛隊の海外派兵と米軍との直接的な集団的自衛権行使については、制約がかけられているぐらいでしょう。そして、これは、現行憲法が成立する過程をみれば、当然の枠です。現行憲法が、米軍中心の占領軍の影響を受けて成立したものであり、自主憲法派が、そのことに憤慨しているとしても、占領軍自らが、日本に対し求めた枠であり、こんにちの国際社会状況で、その枠をはめた米国が、枠の撤廃を求めているとしたら、自主憲法派は、実は米国の傀儡との指摘を逃れないのではないでしょうか。
 第二次世界大戦では、日本は軍人約230万人、市民約80万人、合計300万人以上が戦争により死亡しているとされます。市民のうち、多くが、広島と長崎に投下された原子力爆弾と東京を中心とした空襲による死者です。想像を絶する死者数を経て、過去70年近く、日本の指針として存在してきた日本国憲法を、なぜ、今、改定しなければいけないのか?
 現行憲法は、矛盾を内に含みながらも、それゆえに、人々の知恵によってなんとかうまく動いています。
 うまく動いているものを、うまく動くかどうか分からない状態に無理に持って行く必要はどこにもないはずです。
 政治の決断? 政治の暴走? 国家の正常化? 国家の清浄化?
 こんにち、日本は、アメリカと中国という2つの大国に挟まれ、国内では人口減少、高齢化の中で、震災復興、東京電力福島第一原子力発電所事故対応、エネルギー問題を抱えています。
 日本は、地政学的には、アメリカと中国のバランスを取り、両者の中でしたたかに生きるために、両者が無用な対立を生まないよう中庸をもって両者にあたらなければなりません。今こそ、暴走的な権力や、過剰な自信に満ちた決断を排除し、日本らしい、「よく分からないけれど、利害関係者がそれなりに納得して前に進もう」という調整能力を発揮すべきときです。
 内にこもって憲法議論をしている場合ではないと思います。
 ということで、言いたかったことのひとつは、憲法問題を議論するのは今ではない、ということです。
 原発のシステム、原発経済システムには「中庸」がない、ということも書きたいのですが、いまのところここまでです。
2012年12月27日 牧下圭貴

民主主義を前提にしたネットワーク型の市民運動への願い~脱原発基本法に向けて

 反原発・脱原発の運動は、いよいよ法制化をめざすところまで来ました。大飯原発の2基は稼働していますが、他の48基は停止したままです。まずは、大飯原発の2基を止め、大間原発の工事再開を中断することが当面の目標です。同時に、「脱原発基本法」を成立させ、日本のエネルギー政策から核による発電を排除し、廃炉、核燃料と核廃棄物の処理について国として責任を持って行うことを国家の基本に据えることです。
■基本法とは
 法律の制定、とりわけ基本法の制定は、制定過程も重要です。なぜならば、法律が成立しても、次に、法律に基づく「基本計画」が政府によって定められ、その上に、各省庁のこれまでの施策や新しい施策が基本計画に合わせて修正、立案され、予算配分が行われるからです。実際には、基本計画と各省庁の施策のすりあわせは同時並行的に行われます。
 基本法は、ただ成立すれば政策として行われるという性質の法律ではありません。基本法の成立過程の国会答弁や付帯決議が、基本計画の内容に反映します。基本計画も委員会を通じて計画案が作られ、パブリックコメントの後に閣議決定されます。その成立過程が、そのまま、関連施策の立案、予算編成につながります。ご存じの通り、末端の施策に行けば行くほど、その成立過程は見えにくくなります。それゆえに、基本法の成立、審議過程、そして、基本計画の一字一句の文言が勝負です。
■総論賛成・各論??
 さて、「法案」と言った途端に、反原発・脱原発で総論賛成の運動団体や個人から百花繚乱の異論が登場します。例えば、即時廃炉、○○年までに廃炉、段階的廃炉…。そればかりではなく枠組みにも異論が出ます。電力会社の解体、発送電分離、新エネルギーや代替エネルギー促進とのバランス…。また、東京電力福島第一原子力発電所の事故がきっかけになったこともあり、優先順位として、補償、避難、除染などを先に取り組むべきとの意見も出てきます。
 原発維持、拡大、推進の意見を持つ方々を除き、国民の多くの意志が、脱原発、「原発に依存しないエネルギー政策」にあることは間違いありません。その中で積極的、意識的に運動に参加している方々、直接の反原発でなくても、代替エネルギー問題や、原発事故による補償、避難、除染などの問題に取り組む方も、総意として、反原発・脱原発の意志を持っていると思います。
■間接民主主義・法律・国会
 では、なぜ、異論が生じるのでしょう。
 それは、この国が民主主義の国であり、個々の主体的な意志を尊重するからです。だから、異論が出るのが当たり前で、それを調整し、妥協があったとしても最終的に合意して、総論である「反原発・脱原発」を実現するのが、民主主義的手続きです。
 日本が採用している間接民主主義では、最終的には国会での多数決の論理で法律が決まります。国会が成立し(3分の1以上の国会議員の出席)、その過半数による賛成が必要です。それを衆議院、参議院ともに行う必要があります。
 つまり、今の国会議員、あるいは、次の総選挙や参議院議員選挙を経た国会議員、所属政党が法案に賛成票を投じない限り、法律案は案に過ぎず、一切の力を持ちません。
■各論歓迎、多様性の尊重
 さて、市民運動の側の問題です。
 総論が一致しているのに、「あの団体は、即時停止ではないから、運動をやめるべき」「あの団体は主張が柔すぎるから結果的に運動を妨害している」と言った意見は、異論や批判ではなく、その意見そのものが民主主義を否定しかねない行為です。
 どんなに異論があっても、総論が一致している他者や他の運動団体に対し、運動の場からの退場を求めることはあってはなりません。退場を求めることがあるとすれば、それは、総論賛成を利用しての詐欺や洗脳など、犯罪行為を行う場合でしょう。そうではない限り、広い意味で運動の仲間です。批判はしても、存在を否定することはできません。
 一方で、総論賛成ならば大同団結すべし、というのも、実は民主主義にはなじみません。多様な異論を形成する主体の総意であればよく、同じ団体に収れんしたり、合併する必要はないわけです。今日、市民運動がネットワーク型になっているのは、この民主主義の尊重、各主体の尊重によるものです。ネットワークも、強力なものからゆるやかなものまで様々です。それでいいのです。無理にネットワークする必要さえありません。求められるのは、各主体の自立と、異論を聞き、批判し、議論し、合意点を見いだそうとする態度です。議論と批判はつくしても、それぞれの主体を否定しないこと、そして、相手の立場でも考え、お互いに歩み寄ることができないかを考えることも必要です。
 この反原発・脱原発運動によって、ネットワーク型市民運動が広がりを見せています。私は、そこに希望を感じています。
■脱原発基本法の上梓を
 とはいえ、目の前の課題があります。
 政権にかかわらず、未来にわたって長期的な脱原発を行うのであれば、「脱原発基本法」法制化は必要です。拙速に作る必要はありませんが、ここで運動がばらばらになって法律案すらおぼつかなくなっては、もっといけません。まず、「法案」として多くの人たちの調整によって出てきた「脱原発基本法」について考え、議論することからはじめませんか? 全否定から入るのはあまりにももったいないことです。
2012年11月1日 牧下圭貴