目と耳と心と頭を開き、自ら歩こう
市民運動の基本は、人の悪口を言わない、陰口を叩かない。
2012年8月10日、金曜日、国会議事堂前、反原発首都圏連合が呼びかけている抗議行動のスピーチエリア。
共産党の志位和夫書記長の後に、一水会の鈴木邦夫最高顧問がスピーチに立つ。鈴木氏自身が、志位氏の後にマイクを持って同じ場に立つことが起きるとは思ってもいなかったと語る。
小さな子どもから、80歳を過ぎたお年寄りまでが立つ。
原発労働者の被曝を訴え、都市の「廃炉」コールに異議を唱えつつ原発への危惧を訴える者あり、消費税にからめる者あり、大手新聞社のあり方にからめる者あり、原爆や戦争とからめる者あり、様々である。
私自身として、同意できる意見もあれば、同意できない意見もある。
しかし、それぞれの小異はあれど、原発はいらない、原発はやめる、という一点は共通している。共通しているからこそ、思想信条の異なる者が同じ場に立つのである。
このところ、反原発首都圏連合のメンバーへの風当たりが強い。見るに堪えかねる誹謗中傷がある。しかもたいていの誹謗中傷者が、原発を止めるという趣旨には賛成のようである。ツイッターは、反原発首都圏連合のメンバーによる書き込みも短い文であることや彼ら一人一人の文化的背景が異なること、いずれも現代的な表現文であることから、別の文化的背景を持つ読み手からすると、火に油を注いでいるのかと思う側面もある。しかし、反原発首都圏連合は、一方で、場を準備、用意し、スタートを切り、個々の思想信条を押しつけることもなく、思想信条を参加の前提条件にはせず、反原発、再稼働停止、最近では、原子力規制委員会人事案反対と、一連の反原発の共通テーマに沿って行動している。その反原発首都圏連合メンバーに対し、思想信条の強要や、原発問題、東京電力福島第一原子力発電所事故から派生する問題、政治的問題についての二者択一的踏み絵を求めるなどの要求も目立つようになっている。
たとえば、もっとも繊細な問題で言えば、放射能汚染に対する考え方がある。外部被曝は、暮らしながら除染する、避難・移住する、避難した上で帰るための対策や計画を作って取り組むなどの選択や判断がある。それぞれの考え方がある。一律にどれが正しくて、どれが間違いだと言えるのだろうか? 被曝しない方がいい、それは自明である。しかし、現実に追加被曝する環境は福島県のみならず関東一円にある。
内部被ばくにしても、望ましいのは一切の人工放射性物質を取り込まないことである。現実には、東京電力福島第一原子力発電所由来の人工放射性物質は、高濃度に、莫大な量が環境中にまき散らされた。そして、それ以前から、チェルノブイリ原子力発電所事故や核実験などの影響は今も日本だけでなく、世界の環境中に残っており、残念ながらずっと(微量であれ)取り込み続けてきたのである。
基本的には、測定しやすいため指標となるガンマ線核種の放射性セシウムを測定し、避けていく、その他のアルファ線やベータ線を出す核種であるプルトニウムやストロンチウムなどはモニタリング測定をして把握し、社会的に避けていくしかない。
その測定や、基準のあり方、生産のあり方、産地との関係など、こちらも、どれが正しくて、どれが間違いだと簡単に言えるのだろうか?
もちろん、幅はある。今、一番低い線は、政府が定めているラインであろう。それであっても、除染や測定や出荷制限などの措置をとってはいる。何もしていないわけではなく、それでいいのか、という問題である。政府の措置を最低ラインとして、外部被曝や内部被曝に対し、また、それにまつわる社会的な様々な問題に対して、直接の関係者の状況に応じながら、直接の関係者が自ら議論し、判断するための場を作り、決めていく必要がある。
そういう場や議論の成熟ができていないのが、日本の現状である。
未熟であるが故に、場づくりの前提となる抗議行動を呼びかけた者に対して、運動を継続するための思想信条や踏み絵を踏ませようとする、意図しない運動破壊者が登場する。自覚なき運動破壊者と言ってもいい。すこしおだやかな言葉で言えば、運動仲間への配慮が足りない。
私が、この金曜日の官邸前・国会前抗議行動を皮切りに起きている動きに最も期待しているのは、日本の民主主義の成熟の可能性である。
当面の課題である、原子力発電所の再稼働を停止すること、そこから生み出される議論に期待している。それは、政府内の議論や判断や国会での議論や判断のことではない。
政府が提示しているような3択や、原発いる?いらない?といった単純な選択の議論ではない。
すべての原子力発電所による発電をやめるという大前提のもと、利害関係者が集まり、具体的な道筋を公開で議論し、計画を作る場のことである。
利害関係者には、政府も、電力会社も、原発で下請けの被曝労働者も、産業界も、福島の人も、東京の人も、原発のない沖縄の人も、自然科学者も、社会科学者も、宗教家も、反原発運動家も、いていいはずだ。自然科学者なら、原子力だけでなく、生命科学、医学、地震学、気候学などの専門家も必要だろう。
その結果、再稼働せずに廃炉の道筋が作れるかも知れない。そうあって欲しい。しかし、ドイツのような10年稼働を続ける(パブコメだと2030年だからあと18年)という選択になるのかも知れない。計画策定と利害調整とはそういうことだ。
しかし、今決められようとしている原子力規制委員会の候補者に、そのような高い見地からの議論の場の形成はのぞむべくない。環境省外局の原子力規制庁には、それだけの議論のコーディネート(利害調整)と、その結果を尊重させる権限もない。
不幸なことではあるが、関西電力の大飯原発2基を再稼働した。その結果、この猛暑であっても、たとえ、大飯原発2基が止まっていても、日本全国で電力が不足することもなく、産業活動に影響が出ないことも明らかになった。
まず、この大飯原発2基を停止し、原子力規制委員会の人事を白紙とし、「脱原発依存」の言葉通り、原発を使用しないエネルギー政策を確立し、社会が背負うべき遺物としての原子力発電所、使用済み燃料、廃棄物、関連汚染施設を可能な限り早期に社会的な合意の上で片付ける道筋をつける新たな「静脈産業」を興す道筋をつけたい。
そのための第一歩として、抗議行動があると信じている。
この大同の動きを、小異によって壊してはならない。
批判と誹謗中傷は異なる。
誹謗中傷は恥ずかしいことだ。
批判は必要なことだ。だが、批判者は批判が運動の向上に適切かどうかを常に考えて発言して欲しい。
短い文がなかなか書けず、ここまでの長文におつきあいありがとうございます。
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目と耳と心と頭を開き、自ら歩こう。
牧下圭貴 拝