頭数になりにいくこと~路上の民意
私と、私の前後の大人たちへ
何のために路上に出るのでしょうか。
もちろん、違憲立法や好戦的な安倍政権への怒りがあります。
安保法制(戦争法案)、違憲、対米追従、武器、沖縄、原発。
それぞれに怒りの深さは違っても、まずは、平和安全法制という戦争法案を止めたい、という共通する思いが、そこにあります。
「終わったなら始めればいい」と宣言した若者たちを例に取るまでもありません。
「絶望ではなく、希望がある」と言った、大江健三郎氏の言葉を借りるまでもありません。
しかし、何のために路上に出るのでしょうか?
何のために、夜には人のいない国会議事堂前に集まるのでしょうか?
同じ怒りを持つ者が「連帯」して「共闘」するためですか?
自らの所属する組織の結集力を確認するためですか?
もちろん、組織に属している者には、そういう側面もあるでしょう。
しかし、メディアが一方通行でなくなり、マスメディア以上に、インターネットを使った情報発信力、双方向の情報力が高まった現在、個人のひとつひとつの行為の意味は、以前よりはるかに深く問われることになりました。
ツイッターやフェイスブックなどをやっていなくても、「炎上」という言葉を聞いたことはあるでしょう。ある人の不用意な一言、不用意な行為は、それがインターネット上で情報発信されることにより、誰かの私的なおふざけでは済まされず、社会的な批判にさらされます。それが正当であれ、不当であれ、現実に起きます。
であるからこそ、個人の、組織のひとつひとつの行為は、特にそれが社会的な意味を持つ際には、そのふるまいの戦略性が問われます。
私は、頭数になりにいく、と表現しています。
2015年9月14日月曜日(平日)の夜、国会議事堂前に、「光るもの」を持って集まりましょうという呼びかけがありました。それは、マスメディアの存在を大きく意識し、意図的に、国会議事堂前に光の海を演出し、民意を映像や画像で示す目的がありました。その目的を理解しているからこそ、多くの人が、「光」を用意したのです。それは、歩道の木陰では達成できるものではありませんでした。8月30日の日中のように、空撮の影響力を考えたからです。
その成功には、意思を持った頭の数が必要でした。
もちろん、インターネット上での双方向の情報の拡散も狙いです。
この問題について、多くの人が疑問を持ち、怒りを持ち、政府与党が行っていることの問題点を知ってもらうための戦略です。
それだけが、「頭数」の意味ではありません。
数万人の人が集まり、警察が過剰な警備体制を敷くということは、安全上の慎重な対応が必要になります。
体調を崩す人、怪我をする人がでないよう、また、体の不自由な方や、高齢の方、小さな子供を連れた方などへの安全確保、混雑による転倒やパニックの回避、警察等との無用なトラブルの回避など、これらは、主催者やボランティアで参加する医療班、弁護士、給水の方々に任せるだけでなく、参加者ひとりひとりが、相互に配慮することになります。
一方で、はじめて参加する人でも、これまでの抗議行動と同様に、気後れなく抗議行動に参加できるように働きかけることも必要です。自然発生的なコール、ドラムなど、場を形成するリーダーではない「核」も必要です。
そのための「頭数」でもあります。
実は、これは、SEALDsなどの若者より、大人たちの方が苦手のようです。
どうしてでしょうか?
ひとつは、情報が双方向で伝達されること、ひとりひとりのふるまいが社会的に見られていることへの自覚がないからです。なぜならば、20世紀にはそんな必要がなかったからです。そういう訓練を受けている人が少ないからです。今の若い人たちは、常に見られていることを意識しています。そうして「見せる」ことを考えています。それが大人には足りないのです。その自覚が必要です。
もうひとつは、「組織に属している」意識の問題です。
SEALDsは組織であって、組織ではありません。分かりにくいですが、従来の組織論的な代表者はいません。意思決定手順(総会、理事会等)も明確にはありません。それでも、意思は決定され、行動は決まっていきます。そんなことでうまくいくものか、と、思われるかも知れませんが、そうなのです。その代わり、情報の共有、情報の並列化が得意です。意思決定手順よりも、情報の共有、並列をすることで、目的に対して適切な戦略、判断をとることができます。
ところが、多くの大人たちは、「組織」で行動を考えます。属している組織の意思決定手順に従って行動します。情報の共有、並列化が難しかったからこそ、そういう意思決定手順、行動規範をとることが必要だったからです。多くの組織(属する人)が、その思考から抜け出すことができません(私も同様です)。それでも多くのことは前に進みます。しかし、問題は、その手法が、今の情報化社会で通用しないことがあるということです。
以前、のぼり旗を下ろそうという小文を書きました。2012年の反原発運動が盛り上がった時のことです。「金曜日官邸前反原発抗議行動について(運動団体各位へ)」その時は、私も理解できていなかったのですが、実は、そこに問題があったのです。
「組織名の幟を上げる」ことは、組織としては当たり前のことです。
しかし、
「組織名の幟が上がってる」ことが、目的達成の戦略的に(見え方として)マイナスになるから、上げない判断をする、というのが、今の思考です。
この判断のずれを自覚する必要があります。
もちろん、「組織名の幟を上げる」ことが戦略的にプラスになるときもあります。
その判断や自覚を、組織として、あるいは、個々人として行う必要があります。
「終わったなら始めればいい」という言葉は、ただ元に戻るということではなく、民主主義を作り直すことでもあります。そのためには、現代の情報社会に合わせた思考や行動規範を身につける必要があります。
今は局面です。
とにかく、民意を明確に示し、頭数となり、法案と政権を止めることが必要です。
非暴力、不当なことに対する不服従を貫きつつ、戦略的に振る舞うことであり、ここに書いたことを思い悩んでいる時ではありません。
今は、動くだけですが、今の国会が終わった後に、ちょっと考えてみませんか?
2015年9月14日月曜日(平日)の夜、国会議事堂前からの帰り道
牧下圭貴