第26回参議院議員普通選挙が終わりました。結果は自由民主党・公明党の与党が改選議席の過半数を超えて勝利。一方で、民進・共産・社民・生活の4野党を中心に主に1人区で行われた野党共闘は11選挙区で与党候補を破り、野党共闘が効果を持つことを示しました。
野党共闘は、2015年の安保関連法制(集団的自衛権容認の関連法律群・戦争法制とも)に反対したことから生まれました。
安保関連法制は、これまでの政府(主に自民党)が現行憲法下で否定してきた集団的自衛権を容認することから、憲法違反の法律であり、それを憲法擁護義務を持つ政府が主導したことは、日本の民主主義の危機でした。
もうひとつ、その法律群の国会での審議過程はこれまでの政府与党では考えられないほど雑なものであり、議論を回避し、あろうことか、国会の手続きさえもねじ曲げ、公正なる記録である議事録は修正ではなくねつ造しています。自分の都合の悪い歴史を自分の都合の良いように書き換える歴史修正主義そのものです。これもまた立憲主義、民主主義の大きな危機です。
そこで、安保関連法制に反対する声は、そのまま「憲法まもれ」、あるいは「憲法を守らない総理はいらない」という声になりました。
また、法律群可決後、「野党は共闘」との声が高まりました。
この声に後押しされる形で、もともと憲法改定、改憲派を含む民主党、維新の党(結いとの合流)=民進党、生活の党を含め、共産党、社民党の本部組織と地方組織とが、市民連合などの様々な主体を含めた意見調整の場に出るようになり、参議院選挙では1人区すべてで統一候補(事実上を含む)を選ぶことができました。
このあたりの経緯と考え方については、【Yahooニュース SEALDs創立メンバー奥田愛基が見た「参議院選挙」7月13日(水)17時9分配信(取材・構成 ノンフィクションライター中原一歩/Yahoo!ニュース編集部)】 http://news.yahoo.co.jp/feature/254 に奥田氏の視点が書かれています。
奥田氏をはじめ、SEALDsのひとたちは、人と人をつなげ、コミュニケーションを促進するファシリテーターですね。そっちが本分で、デモなどでの派手な映像は、そのごく一部にしか過ぎないのだなあと著作を読んだり、こういうインタビューを読むとあらためて思います。そうなんですよ。ファシリテート能力が必要なんですよ、いまの政治に。
それとは別に参議院選挙では、ネット選挙を盛り上げる動きが都市部でありました。
こちらも盛り上がりましたが、共闘との動きとは少々異なりました。耳目を集めましたので、新たな動きのひとつではあります。
結果を受けて、自分なりに考えたことをまとめようとキーワードを出してみました。
・精神世界と現実の折り合い
・選挙と市民
・これから~SEALDsのあと
・消費しない市民運動、生産する市民運動
・市民運動の第三の波
こんな感じです。でもって書き始めたのですが、石田純一氏の参院選直前の、氏にしかできない記者会見の内容 https://www.youtube.com/watch?v=XUsdKHJNMPU 、都知事選の与党の動き、野党共闘に向けての多くの候補予定者の方々の動きを見ているうちに、書いている内容がどんどん別の方向に離れていってしまいました。
たしかに、もとは参院選の結果を受けて感じたことなのです。
結果的に書いた内容は、選挙とは直接関係ないし、野党共闘とも関係ありません。
結論的には、
人間社会なのだから「あいまいな領域」「分からない領域」は必ずあって、その領域が社会的に害悪になればつぶさなければいけないけれど、そうでなければ慎重に許容しようね、ってことです。
では、そういうことで、「私は」からはじまる、変な選挙総括です。
私は90年頃より有機農業運動や安全な食、食のあり方についての市民運動などに取り組んできました。また、そこから環境問題、いわゆる地域づくりや食文化の継承、子どもの食、学校給食、生業・農林水産業と暮らしなどについても取り組んでいます。
有機農業や食の安全性、信頼性、地域文化、生業としての農林水産業や発酵等の食品加工、暮らしの知恵のようなことをテーマに取り組んでいると、常に頭の中には、科学的合理性からくるリスク論と予防原則論のバランス、あるいは、既知科学と、経験による知恵の両立について考えることが多くなります。
このふたつについて私なりの考えを整理します。
■市民運動とリスク論と予防原則
リスク論は、現代社会のあらゆるところでとられています。たとえば、原発。エネルギーを生産するというメリットに対し、放射能、放射性物質のリスクがあります。そのリスクを数値化し、社会、人体、環境などの対象に対しての影響可能性を調べます。リスクを分析するわけです。
そうして、社会的に「ここまでは管理しよう、このくらいはリスクとして認めよう」というリスク管理を行い、リスク管理がエネルギー生産のメリットに見合うならば原発を運営しましょう、というわけです。
とても科学的な手続きを踏んでいるようですが、科学的手続きなのは実はリスク分析までです。しかも、科学的手続きは、「いまの科学レベルで判断できるところ」のみを行うため、「いまの科学レベルでは判断できない」ところは、「分からない」という科学的立場をとります。それはまさしく科学的な姿勢です。
一方、リスク管理は社会的なものです。ここでよく起こるのが、リスク分析で出てきた数値、すなわちリスク分析できたもののみで判断し、「分からない」ところは、分からなければ対応しようもない、ということで、リスク管理の対象にしなくなるという間違いです。
リスク分析をする専門家は、「分からないことは分からない」と言いますし、それが科学的態度として正しいわけです。ところが、リスク分析を依頼するリスク管理者は、はじめから「分からないだろう」ことを聞かない、あるいは、依頼(諮問)する際に、「これこれについて分析してください」と範囲を定めることがあります。こうなると、専門家は「これこれ」は自分の専門分野だから明確に分析できますが、「これこれ」以外のことは、聞かれてもいないし、分からないわけですから、答えようがありません。
その結果、「今の科学レベルでは判断できない」ことは、問いもされず、なかったことになりがちです。
特に、現代の科学は、それぞれの分野がとても高度化され専門的に細分化しています。ですから、分野と分野の境目など「分からない」分野が増えていくのです。研究すればするほど分からない分野が増える。これこそが科学の楽しさでもあるのですが、そういう基本的なことを、忘れがちです。
研究者の中には、そういう分野の境目や複数の分野にまたがった研究をする人たちもいます。あるいは、多くの研究者がそうであるように分からないから研究テーマを選んで研究します。その中で、「いままでは何も言われていないけれど、これは社会的には問題があるのでは?」といった指摘が行われることもあります。この指摘は、研究者だけでなく、ジャーナリストや、その社会的な問題が直接自分に及んできた人、そういった問題に取り組む市民団体からなされます。
水俣病の原因が、当初から隠されていた水銀の高濃度汚染=チッソによる有機水銀の垂れ流しによること、ある特定のがんが田んぼに使われる除草剤と因果関係があることなど、そういった研究と指摘によって改善された例はあまたあります。そういったところから生まれたのが、「予防原則」という考え方です。
つまり、リスク論(リスク分析とリスク管理)だけでは、今起きていることについて今の科学では答えが出せなかったり、その結果、今や将来に社会的な影響(人体の健康、環境の汚染など)が起こる可能性があるのなら、一度その対象のリスク管理レベルを引き上げるあるいはゼロリスク(使用禁止)にして問題をとらえなおすというのが予防原則論です。
予防原則論は、日本ではとりわけ旗色が悪い考え方です。たいていが、科学的に合理性を持たない、メリット(他のリスクとの比較)を損なうから止めるとかえって社会的なリスクが高くなる(相対的リスク論)などで否定されてしまいます。
原発を止めると、江戸時代に戻るとか、ネオニコチノイド系農薬(浸透性殺虫剤)を止めると、他のもっと悪い農薬の使用量が増えるとか、こんなにいいものがあるのに、使わないと前のような悪い状態に戻るじゃないか、といったものがたいていの否定論です。
そうして、そういった研究と指摘をした研究者を排除したり、研究に難癖をつけて追試をしない、時間を費やして、本当に問題が大きくなってからあわてるという例が多々あります。特に、放射性物質や遺伝子組み換え作物などは、「分からない」ことについて研究しようとする研究者が、必要な放射性物質や遺伝子組み換え作物を、研究試料として入手できないため、「分からないこと」はいつまでも分からないままなのです。
しかも、「分かったこと」についても、たとえば農薬や遺伝子組み換え作物のリスク分析などは、その分析データ自体が開発メーカーから提供されたもののみといった具合です。
それでは、本当に科学的なリスク分析とは言えません。
そこで、予防原則論をとりいれ、「分からない」ことをリスク分析の際に「分からないこと」としてはっきりさせ、リスク管理には「分からないこと」についてとりわけ慎重に、リスク回避側に立って行動することが必要です。これこそが、科学的に合理的な態度だと思います。
いま、「科学的合理性」でくくられるのは、「分かっていること」で判断し、行動するということだけです。
市民運動、とりわけ公害や環境問題、食の安全性についての運動は、常に、この「科学的合理性」のせまい解釈との闘いです。リスク管理をする政府は、省庁、部署ごとに、そのせまい領域での「科学的合理性」に基づいたリスク管理(政策、制度)で自分たちの正当性を論じます。製造・運営・使用する企業等も同様です。
「分からないこと」は、本来、科学の新たな研究対象、領域であり、楽しい場のはずです。
ただ、分からないことは数値化できず、説明しにくいから、社会の中では見逃されます。
だからこそ、市民運動は、「おかしい」という小さな声に耳を傾け、ささやかな研究や事例を見逃さずに取り組むのです。そうして、社会に予防原則論、あるいは、「科学的合理性」の言葉にだまされず、「分からないこと」は慎重にしよう、本当の意味での科学的な態度を身につけられるようにしようと働きかけを続けているのです。
■科学の方法について
日頃「自然科学」といっている知恵の集積方法は、時間や空間とは関係なく共通する事柄を見つけ、記述していきます。だから、どこで、だれがやっても必ず同じ結果がでることが求められます。その上に、現代の「科学技術」が蓄積され、発展しました。宇宙に行き、深海を調べ、ロボットやコンピュータを生み出し、情報空間という新たな領域も、そこから生まれました。
現代社会は、「自然科学」の上に「科学技術」を発展させ、ここまで広がったと言えます。
ところが、実はここにも「分からないこと」の広大な領域が広がっています。そもそも自然科学において「分からないこと」の領域の方が「分かっていること」の領域よりも大きいのです。だから科学はおもしろく、人生も楽しい。
伝統的な農林水産業や発酵、生活の様々な知と技術の中には、その土地の地形、土壌、気候、生態系などに根ざして発達したものがたくさんあります。この知と技術は、その土地や条件を離れると機能しなくなるものもあります。現代科学風に言えば、同じ植物の種でも、植える場所を変え、時期を変えれば、発現形が変わり、うまく育たなかったり、味が変わったりすることがあります。いつ何を植えるのか、どのように土を耕すのか、いつ収穫し、どのように保存し、どうやって料理するのか。薬草などでも、薬効のある成分が、条件によって高濃度になったり、ぜんぜんなかったりします。それだけでなく、薬草を使った民間治療なども、人や条件によって効果があったり、なかったりします。
ある人は、現代科学を「水平知」と呼び、このような土地に根ざし、経験を持って生み出され蓄積され、引き継がれている知を「垂直知」と呼びます。
この垂直知はとても誤解されやすく、あるところでは効果があったことが、別の場所に行くとまったく効果がないため、全面的に否定されることがあります。特に農法(作物の栽培方法)については、そういうことの連続です。有機農業では、垂直知を学び、それを水平知に変換する繰り返しをしています。
水平知と垂直知は、そもそもの成り立ちが異なるため、扱いが難しく、それが時に垂直知から出た技術を疑似科学だとして社会的に悪とされることもあります。
一方で、多国籍バイオケミカル企業などは、医薬品や農薬成分などの開発のために、世界各地の伝承や民間医療などの垂直知を探索し、その植物の遺伝子の働きと、それによってできた化学物質の特定という科学技術で水平知としていますが、その時点でそれぞれの土地の人々、文化としてできた垂直知を否定し、自らの利益(生物特許など)にしたりと、使い分けています。
市民社会が成熟する上で、この垂直知の存在を理解し、地域文化において自然科学では「分かっていない」領域の知を認めていくことは、多様性のある社会を作る上でとても大切なことだと思います。
しかし、都市においては、そもそも垂直知を必要とする領域が仕事では存在せず、暮らしの中で細々と残っているくらいです。だから、垂直知は否定されがちです。都市生活者が多数を占めた現在、地方で土地に根ざして生きることが垂直知という大切な知の領域と不可分であることを都市生活者には知って欲しいのです。
■疑似科学、あるいは、垂直知の濫用
一方で、明らかに水平知とも垂直知とも言えない疑似科学、「分からない」ことを逆手に取った非科学的言説というのもあります。
「これを飲めばガンは治る」というのは、その典型的な例で、ある条件の、ある人が、それを飲み続けた結果、自然治癒をすること、そのものは垂直知の中であり得ることですが、その事例を水平知のように見せかけて、「誰でも」「どんな条件でも」「治る」とした時点で、それは垂直知の濫用であり、水平知のように見せかけた詐欺です。
人間というのはしたたかなものです。手品のトリックをみれば分かるように、人間の認識とは「だまされやすい」ものです。だから上手にだます人もたくさん出てきます。えらそうに言っていますが、私もなんども引っかかっています。科学的な思考を持った人でも、間違ったり、だまされることはあります。そういう人をみかけるとちょっとほっとします。「自分だけじゃない」。
ただ、この垂直知の水平知への強引な転換や濫用は、社会にとっては害悪です。
予防原則にしても、垂直知にしても、自然科学の「分からない」領域を扱っているだけに、そういう可能性は常につきまといます。だから慎重にしなくてはなりません。
特に、人の命や健康への影響、環境の変化、社会における差別や人権侵害などを起こすこともありますので、その知が水平知か、垂直知か、垂直知を水平知に転換できたものか、垂直知の濫用、水平知、垂直知の誤用なのか、やっぱり考えておく必要はあります。
と同時に、善意での濫用、誤用については、その人体や社会への害悪さ加減を考えながら対応した方がいいとも思います。
一刀両断するな、ということです。
でないと、世の中に、妖怪は存在できず、占い師も職を失います。
宗教だって失われてしまいかねません。つまんない社会になります。
「悪貨は良貨を駆逐する」も本当です。
こんなことを言うと、またどっちもどっち論者だとも言われますが、そうではありません。○か×、善か悪の二元論では切れないぞ、ということです。
ひとつずつ、ひとりずつ、一事例ずつ、見て、聞いて、本当に害悪になるものはつぶしていくしかないのです。
面倒ですが、それが都市中心になった市民社会というものです。
そして、都市と地域は、垂直知の量と質が違うだけに、扱いも違ってくるということも考えて対応する必要があります。
■政治空間における「誤用」
最後にすこしは参議院選挙と関連させておきましょう。垂直知をほとんど失った都市において実体験のない論説は、非科学的、非合理的になりやすくなります。これは特に政治空間においてはとても害悪になりやすい状況です。ぶっちゃけだまされやすくなるってことです。
何を言いたいかというと、一例では「不正選挙」説です。
不正選挙を行うことは人間社会ですから不可能ではありません。ですが、特定のメーカーの機械や投票用紙、筆記具を使った大規模な書き換えは、選挙立会人、見学者、メディアがいる前でそうそうできることではありません。
開票所を見に行ってもいないのに、言説だけで選挙のたびに不正選挙を訴えるのは、それがとりわけ特定の候補との関連で語られるとすれば、社会にとっては害悪です。まして、候補者が過去にそのような言説をしていたとすれば、それは政治家として失格ではないでしょうか?
そういうあいまいな言説が政治空間、とりわけ、人がもっとも分断しやすい選挙という状況で流布されるのは、社会の安定にとってまったくいいことはありません。
そういう言説をいくつか見かけました。私の回りにもそういう方がいました。本当に困りました。選挙という政治状況で、私はそれを批判することができませんでした。
だからこれはまったくの後出しじゃんけんです。
一方でそれを批判する力強い論説をみかけ、そのすばやい応答には感銘を受けました。しかし、その批判が、垂直知や「分からない領域」までを批難の対象になる論説に発展する例もみかけました。これが一番心苦しかったのです。
その領域は、性質上水掛け論(どこまでが害悪ではなく、どこまでが許容可能か)になりやすいため、それも批判することができませんでした。
だからこれもまったくの後出しじゃんけんです。
世界はそういうのにあふれていて、できることはやります。
自分が正しいとは言いきれません。
だから、いつも悩みます。
ということで、長文の悩みにつきあっていただきありがとう。
それでも、選挙は悪くなかった。実のところ負けたし、これからがもっと大変だけど、これまで同じテーブルで話をしたこともない人が話をする場を持て、それが野党共闘になり、いくつもの勝利を得たのは希望です。
人生楽しみながら、ちと良くしていこう!