中庸のススメ その1 日本国憲法、うまくいっているじゃない

「中庸」について考えています。あらためて儒学の「中庸」やアリストテレスの「中庸」にまでさかのぼって考えているわけではなく、原発事故後の日本という地域に住む者としてのこれからの生き方や社会との関わり方、国家との関わり方ということです。
 むつかしい話ではありません。反原発・脱原発の運動が盛り上がりました。私も積極的に参加しているのですが、金曜日の官邸前・国会前抗議行動のスピーチエリアで、いわゆる「左派」の方と「右派」の方が続けてスピーチをされたり、何度か行われた都心の反原発・脱原発のデモ行進でも、市民、生協、消費者運動、労働運動、社会運動が、立場を超えて、とはいえ、隊列は別々にデモを行う姿を見たときから考えていたことです。
 衆議院議員選挙前日の都心のデモでは、なんとサウンドカーのラップの皆さんのリードでシュプレヒコールを叫ぶという、これまでにない経験をしました。私の音楽嗜好にはない領域なので、実に新鮮でした。
 そうして、衆議院議員選挙の投票率の低さと、自由民主党や日本維新の会などの勢力が大きく伸びました。そんな2012年の暮れに考えていることとして、「中庸」です。最初は「積極的ことなかれ主義」にしようかと思ったのですが、もう少しちゃんとした言葉にしておこうと考えました。「中道」でも「リベラル(自由主義)」でも「ラディカル(急進的、ではなく根本的)」でもない、能動的な言葉としての「中庸」です。「ホメオスタシス(恒常性)的なバランス」と言ってもいいです。
 前置きはこれくらいにしておきます。
 今回は、日本国憲法についてです。
(日本国憲法 天皇制と人権)
 いま、自由民主党などが現行憲法の改定を考えています。すでに具体的な案を示しており、そこには、いくつかの重要な変更があります。天皇制、基本的人権、人権と公共の利益、集団的交戦権などが主な変更として指摘されています。
 私は、どうしていま、憲法を議論しなければいけないのか、まったく理解できません。
 1947年5月3日の施行から67年間、日本という国家は、この憲法の下で、いろいろありましたが、世界全体を国家の見回すと、それなりにうまくやってきていると思います。
 なにより、直接的な戦争参加をしていません。内戦も起こしていません。人権、開発と環境、公害、米軍基地、間接的な海外の人々への権利侵害など、過去現在の課題を言い出せばきりはありませんし、その当事者(被害者)からすればとんでもない話ですが、それでも、表現(思想信条)の自由や、宗教の自由、最低限健康で文化的に生きる権利など、「おおむね」確保されてきました。
 憲法は、国家から人間を守るしくみとして、あまり表には出ずに法制度、国家制度の最上位法として機能しています。
 それなのに、憲法を変えようとする人たちがいて、その力が大きくなりつつあります。
 これがよく分かりません。
 私もまた、現行憲法のすべてに賛同する者ではありません。自由民主党の改定案とは違う立場で、疑問があります。
 それは、基本的人権の保証と、象徴天皇制による人間としての天皇の人権否定は矛盾です。その一点をもって、私は制度としての天皇制は不要であり、日本の政体は民主共和制が望ましいと考えています。同時に、象徴天皇制による天皇の人権の否定は、人権が制約されうることを明示するため、人権侵害を起こしうる制度的背景になるものだと考えています。今上天皇の人柄は、その言葉や態度から、人間として尊敬しています。その責任と地位を考えれば、「王」としてふさわしいのでしょう。
 しかし、今日の国家において、「王」としての天皇の位置づけは、本質的には不要だと考えています。そうであっても、私は、現行憲法を支持し、現行憲法が位置づけている象徴天皇制を、歴史的、社会的、文化的、あるいは、政治的にも、安定をもたらすものとして認めます。なぜならば、この憲法で「おおむね」うまくやっているからです。
 うまくいっているのに、象徴天皇制を変える必要はありません。理屈ではなく、現実だからです。もちろん、象徴天皇制としての天皇を、先の第二次世界大戦における戦争を起こした国家としての日本の元首の系譜であるからとして、拒否する人たちを否定する気はありません。私を含め、そういう人たちの存在も守られているところが、現行憲法と社会体制の「おおむね」すばらしいところです。
(日本国憲法 自衛隊)
 憲法9条と自衛隊についても同じです。現行憲法が施行され、かつ、日本が再独立を果たしたサンフランシスコ条約(1952年効力)の間に、朝鮮戦争が起き、日本は現行憲法とGHQ占領の間で警察予備隊をへて自衛隊を組織します。軍事力では現在でも世界第4位と言われる強力な軍事力(防衛力)を持つ組織になりました。その間、憲法9条との矛盾、米軍との関係(集団的自衛権問題)、国連平和維持活動(PKO)への参加などで、常に議論を生んできました。それでも、国際的にその存在は認知されています。反対や議論があって、憲法上も課題は指摘されていても、日本の自衛隊は現に存在し、戦争を起こさず、内戦を起こさず、組織として殺人を行わず、その高い能力のみがPKOや災害支援などで評価される希有な組織になっています。
 このありようの幅(予算や規模、保有軍事力や能力)は、常に議論にさらしつつ、政策として決定することになりますが、急激に戦力を向上させたり、低下させることは過激な政策です。急激な変化は、国内にも、国外にも、よい影響を与えません。
 現行憲法の9条の下で、自衛隊は十分につとめを果たしています。日本は、軍事力を持っていますが、枠をはめることで、世界に存在を示しています。憲法を改定して、集団的自衛権の確立や、潜在的な可能性としての徴兵制に道を開くことは、無用に国内外を混乱させます。
(日本国憲法と、国家)
 国家(立法、行政、司法)は調整機関であり、それ以上でもそれ以下でもありません。
 人権、環境、公害問題や強制的土地収用問題にみられる国家の不備や暴力は、調整機関が調整能力を失ったり、調整能力に不備があった結果です。経済・財政、国際関係(外交)においても同様です。
 この国家の不備は、なにか問題が起きる度に、うまく再調整されたり、逆によりひどくなったりします。よりひどくなる場合は、たいてい、その問題の背景に別の利害関係が存在し、その「別の利害関係者」が、「ひとりの国民」よりも強い調整能力を持ち、国家に働きかけ、国家が「間違った主」に仕えた結果です。
 現行憲法は、国家が調整機能を求められる諸問題について、こんにちのように多様化することを想定できないときに作られており、国家の機能について憲法として対応しているとは言えません。
 それでも、現行憲法の枠の中で、法制度を整え、政治的、社会的、経済的に対処してきました。それは、こんにちの諸問題に国家が調整機能を発揮することに、現行憲法が制約をかけていないからです。強いて言うならば、前項の自衛隊の海外派兵と米軍との直接的な集団的自衛権行使については、制約がかけられているぐらいでしょう。そして、これは、現行憲法が成立する過程をみれば、当然の枠です。現行憲法が、米軍中心の占領軍の影響を受けて成立したものであり、自主憲法派が、そのことに憤慨しているとしても、占領軍自らが、日本に対し求めた枠であり、こんにちの国際社会状況で、その枠をはめた米国が、枠の撤廃を求めているとしたら、自主憲法派は、実は米国の傀儡との指摘を逃れないのではないでしょうか。
 第二次世界大戦では、日本は軍人約230万人、市民約80万人、合計300万人以上が戦争により死亡しているとされます。市民のうち、多くが、広島と長崎に投下された原子力爆弾と東京を中心とした空襲による死者です。想像を絶する死者数を経て、過去70年近く、日本の指針として存在してきた日本国憲法を、なぜ、今、改定しなければいけないのか?
 現行憲法は、矛盾を内に含みながらも、それゆえに、人々の知恵によってなんとかうまく動いています。
 うまく動いているものを、うまく動くかどうか分からない状態に無理に持って行く必要はどこにもないはずです。
 政治の決断? 政治の暴走? 国家の正常化? 国家の清浄化?
 こんにち、日本は、アメリカと中国という2つの大国に挟まれ、国内では人口減少、高齢化の中で、震災復興、東京電力福島第一原子力発電所事故対応、エネルギー問題を抱えています。
 日本は、地政学的には、アメリカと中国のバランスを取り、両者の中でしたたかに生きるために、両者が無用な対立を生まないよう中庸をもって両者にあたらなければなりません。今こそ、暴走的な権力や、過剰な自信に満ちた決断を排除し、日本らしい、「よく分からないけれど、利害関係者がそれなりに納得して前に進もう」という調整能力を発揮すべきときです。
 内にこもって憲法議論をしている場合ではないと思います。
 ということで、言いたかったことのひとつは、憲法問題を議論するのは今ではない、ということです。
 原発のシステム、原発経済システムには「中庸」がない、ということも書きたいのですが、いまのところここまでです。
2012年12月27日 牧下圭貴