ロボット・イン・ザ・ファミリー


A ROBOT IN THE FAMILY

デボラ・インストール
2020

「ロボット・イン・ザ・ガーデン」「ロボット・イン・ザ・ハウス」「ロボット・イン・ザ・スクール」に続く第4作である。というより「ロボット・イン・ザ・スクール」と合わせて1作品と考えても良いかもしれない。
 扱われているテーマは3作目と引き続いている。すなわち、同質を求める社会関係の中でそもそも同質にはなれない属性を持つマイノリティと社会の関係性と問題、矛盾、あるいは差別、あるいは無知をめぐる問題である。それにもうひとつ、そのような同質性を求める社会における最大のマジョリティであるはずの中年男性が持つ「大人になることができない」問題である。後者は1980年代にさかんに登場した「ピーターパン症候群」をどう克服するかという問題と言い換えても良い。
 さて、物語は進む。いろいろあって東京のロボット専門家の元に残ることになったジャスミンを置いて日本からイギリスに戻ってきたベン、エイミー、タング、ボニーの家族。ベンは相変わらず、ジャスミンを置いてきてよかったのかどうかとうじうじしているが、家に着いてみるとそこには「捨てロボット」のフランキーが。どうやら扱いに困った所有者が記憶(メモリー)を消して、ベンに勝手に託したらしい。元の機能に改造を加えていた形跡はあるし、はっきりしないがタングやジャスミンのように自我を持つAIであると思われる。ベンがジャスミンを東京に置いてきたことに怒っていたタングは、フランキーを受け入れることでその心の傷を癒やそうとするかのようにフランキーの世話をはじめてしまう。ベンもエイミーも、それを受け入れ、ふたたび一家は大人ふたり、人間の子どもひとり、子ども状態の(成長過程の)ロボットひとり、よくわからないロボットひとりの5人家族として新たな関係性を生み出そうとする。ベンの仕事の環境、エイミーの仕事の環境も大人としての社会的成長とともに変化していく。タングは学校という新たな場で持ち前の(子どもらしい無垢な)積極的コミュニケーション能力を生かして人気者になっている。しかし、ボニーは幼少期から別の個性を持ち、人とのコミュニケーションはとりたがらないが冷静な観察力、集中力、そして描写力を持つ子どもに育っていく。ボニーの唯一の友人のイアンが家族の判断で学校に行くのではなく家庭での学習に切り替えることを知ったベンとエイミーは、そもそも学校に行きたがっていないボニーのことを考え、イアンの両親とも相談して同じように家庭学習に切り替えることを選択する。イギリスでは、義務教育は必要があれば家庭教育に切り替えることも制度として認められているからである。
 そうして家族関係は変化していく。そこに、記憶を失った捨てロボットフランキーとの新たな家族構築の物語も挿入されていく。
 それだけではない。ベンの姉であり、弁護士仲間としてベンとの出会い以前からのエイミーの親友であるブライオニーとその夫、息子、娘の家族問題、ふたつの親戚間の問題、姉弟関係と友情関係、さらには、人間とロボット間の恋愛関係の問題、性的マイノリティの問題と社会関係性にまつわる問題大噴出である。
 次々と起きる日常の中の問題は、多かれ少なかれ誰でも目や耳にするし、自覚があるなしにかかわらず身近なところに存在する。
 大人になりきれないベンは、しかし、悩みながらも他者を大切にし、自分も他者もできるだけ息がつけて楽になる道を考え続ける。
 今日のマイノリティ、差別問題と直結する課題である。

 付録として、短編「ロボット・イン・ザ・パンデミック」が収録されている。COVID-19(新型コロナウィルス)パンデミック初期の隔離と自粛の時期、それを目の当たりにした生体ではないタングの選択とは? 小さな勇気と小さな希望の物語。

ロボット・イン・ザ・スクール

A ROBOT IN THE SCHOOL

デボラ・インストール
2019

 中年だめ男ベンがお送りする日常右往左往ロボット物語第3弾である。「ロボット・イン・ザ・ガーデン」で、庭に現れたぽんこつロボット・タングの出自と中年男の失われた青春をさがす旅を行い、「ロボット・イン・ザ・ハウス」では、よりを戻した妻エイミーと生まれたばかりの子どもボニーに、成長期にはいりはじめたばかりでお兄さんになってしまったタングとの日々変化する4人暮らしが舞台。日常とは小さなトラブル、突発的出来事、予想もつかないできごとの繰り返し。人はそうやって生きていく。ところが、そこに突如乱エレガントなロボット・ジャスミンが登場し、ふたたび大きなトラブルに見舞われてしまう。
 それから約4年、ベンとエイミーの夫婦、幼稚園から小学校に上がったボニー。ボニーだけが学校に行くのはおかしいと主張するタング、そして「家族」として迎えられたものの、その意味や位置づけ、人間との関係性をいまひとつ理解できないままに読書に夢中になっていく物静かなジャスミン。そんな5人の家族の物語が、第3弾「ロボット・イン・ザ・スクール」である。
 人は社会的動物である。つまり、個と個の関係性だけでなく、家族、地域、学校、職場、友人、通りすがりの人、さまざまな場面で関係性を構築、あるいは関係性に応じたふるまいを求められ、それに対する応答の方法でまた新たな関係性(あるいは関係の断絶)が生まれていく。そういう関係性の波の中で生きていく自我のある動物なのである。ロボット、すなわち自律的思考を持ち行動する能力をもつ存在もまた、人に近い社会的存在として存在するが、ロボットを生み出した人間にとって必ずしもロボットは(あるいはAIは)同等とは位置づけられない。自然人と法人(企業とか非営利団体とか)が異なるように、ロボットと人間は人間社会において大きく位置づけが違っている。
「学校に行きたい」という強い願いを持つタングを前に、ベンとエイミーにはその問題が現実として突きつけられる。もちろん、それは学校側や保護者、他の子どもたちにとっても、タングの「妹」である人間のボニーにとっても同じである。
 この問題は、「ロボット」という概念が登場し、物語に位置づけられてから長く問われてきた。日本で有名な例は手塚治虫の「鉄腕アトム」と「火の鳥~未来編」であろう。「アトム」は失われた息子の代わりとして生み出され、その親である博士に捨てられ、ロボットしての家族を求め、人間社会とロボット社会の軋轢に苦しみながら人間に寄り添おうとする。「火の鳥~未来編」では人の人格の一部を行動設計に取り入れられたロビタが人との関係性を遮断されたときに、他のロビタが一斉に自殺行為に走っていく。手塚は異質な者であるロボットと人間の社会的関係性がその存在において同等に構築される可能性と、同等には決してなり得ない可能性のどちらに対しても悩み、それを読者に提示したのではないか。
 さて、本書「ロボット・イン・ザ・スクール」でも、その問題が複層的に登場してくる。とりわけボニー、タングという常に成長という状況を抱えた「子ども」ならではの社会的関係性に、マイノリティ的な特徴を持つボニーと、そもそも人格を持ったAIで子どもと同様の成長期を持つ異例なタング、ほんとうは大人になりたくないベンという存在が、現代社会の諸相を物語に浮かび上がらせる。もちろん、いまのところ人間と共生する自我を持つロボットという存在はないが、同質のようにふるまうことが求められる社会における属性として同質にはなり得ないマイノリティの問題は本質的には同じである。
 親子、兄姉、家族、親族、友人、先生と生徒…。
 ボニーも、タングも、ベンも、エイミーも、そして、ジャスミンも、様々な現実と困難にあたり、それを少しだけ乗り越えたり、乗り越えられなかったりしながら、日常を生きていく。喜びもあれば、悲しみもある。出会いがあれば、別れもある。
 家族5人、休み期間中にエイミーの仕事で日本に行くことになるので、1巻で登場してきた人物との再会や日本珍道中も楽しめる一作である。
 ロボットものではあるが、もはやジュブナイルとは言えなくなっていて、中年男性の大人になるための悩める物語になっている。次巻の「ロボット・イン・ザ・ファミリー」は、本巻のエンディングからの続きになっているので合わせて読むとよいのではなかろうか。

伝説とカフェラテ

LEGENDS AND LATTES

トラヴィス・バルドリー
2022

「指輪物語」の「中つ国」のように人間以外の多種族がおのおのの特徴や特性の中で生きる世界はファンタジーの王道とも言える。ごく当たり前のように舞台設定として使われるようになったがそういう読者の「常識」に甘えてしまい、世界設定が甘いと感じる作品もある。そうなると二次創作的印象が濃くなってしまい、オリジナリティが薄れてしまう。こういう舞台設定をする場合には、どこにオリジナリティを発揮するか、舞台設定とのバランスが求められると思っている。
 本書「伝説とカフェラテ」もまた、エルフ、オーク、ノーム、サキュパス、ドワーフ、ラットキン、パック(ホブ、ホブゴブリン)、ストーンフェイに人間など多様な種族で構成された世界が舞台である。
 主人公のヴィヴはオーク。スカルヴァートを退治するという仕事を終え、チームから離れて傭兵を引退したばかり。読書好きで、引退した理由は長年の戦いによる腰などの身体の不調もあるが、なによりも「やりたいこと」があったからだ。
 かつてノームの街で出会ったコーヒーという変わった飲み物。紅茶とも違う独特の香りと味と、それを口にするときの不思議な落ち着いた気持ち。落ち着くし、目も覚める。「コーヒーを出す店をやりたい」そう思ったのだ。
 ヴィヴはスカルヴァートの戦いで手に入れた「石」の幸運をもたらすという力を信じ、慎重に見定めてテューネの町の古い元馬貸し屋に場所を定め、そこを持ち主から手に入れた。この場所で店を作り、道具をそろえ、従業員を雇い、カフェを開くのだ。
 期待と、不安のなかで、ヴィヴは新たな道を切り開き始める。

 いやあ、身につまされます。10年ほど前、それまでの現代の傭兵的な「フリーランス」の仕事から身を引き、自宅を改装して小さなテイクアウトの飲食店をはじめた身としては、構想し、店をつくり、準備し、開店し、宣伝し、メニューや運営方法を工夫しながら変化していくというのを思いっきり追体験しているような気持ちにさせられたからだ。
 心からヴィヴを応援してしまう。わかるー、その気持ちってやつだ。

 さて、それは置いておいて、新しい町で、新しい仕事をはじめる。これまでの知識と経験をフル動員しながら、パートナーとなる新しい仕事仲間を探し、働き、出会い、新しい関係性が生まれ、広がり、深まっていく。そういう物語だ。
 ヴィヴは力強い、そして、見る者からすれば怖いとも感じられる、いかにも傭兵といった存在。しかし、その内側には繊細な心が宿り、深い探究心もある。総じて言えばやさしさや公平さを持っている。しかも、よく読めばわかるが、女性である。すっと読み飛ばすと、元傭兵のオークとあるだけで男性だと錯覚しがちになる。しかも途中からサキュパスが登場して主人公のヴィヴと絡んでくる。サキュパスといえば男性を虜にする性的魅力のある女性的存在である。ますますオークのヴィヴは男性と見えてしまう。このサキュパスもみためとサキュパスという固定観念とはまったく違って冷静なマーケティングやデザインの才能を発揮したりする。
 同じように、ホブ(妖精)が優秀な大工だったりもする。
 そういう現代的な固定観念にとらわれない「多様性」を全面に押し出しつつ、それを意識させない物語展開となっている。

 無事店を開店させたヴィヴ、しかし、それだけでは物語にならない。地元の「用心棒」によるみかじめ料の要求があったり、ヴィヴの「過去」が追いかけてきたりする。元傭兵のヴィヴ、暴力で解決する方法もあるが、新しい環境で、適応し、成長していく。
 どう読んでも魅力的な主人公である。その周りの仲間たちもまた。

 こういうカフェに行ってみたい。
 上質な現代的ファンタジー&フード小説であった。

月世界へ行く


AUTOUR DE LA LUNE

ジュール・ヴェルヌ
1869

 月は地球上の生命にとって実に不思議な存在だ。もちろん人間にも。満月に空を見上げる。空に上りはじめた月のなんと大きく見えることか。写真を撮ると、なぜか見たように大きくは写らない。錯視である。それでも不思議だ。まるで手に届くような月。月の陰影もまた人の想像力をかき立てる。20世紀後半、天体望遠鏡を手にした多くの子どもたちはまずまっさきに月を探す。もちろん私もそのひとりだ。月のクレーターのくっきりした姿を見て、えもいえぬ郷愁と満足感を得るのだ。その体験は実に神秘的であり、好奇心をかきたてるものであった。
 4歳の頃、白黒テレビから月に降り立つ宇宙飛行士のぼんやりした姿を見た。人類は月に降り立った。それは人が待ち望んだ瞬間だった。月世界人はいない(知っている)、月に大気はない(知っている)。それでも、月は手に届きそうで届かない特別な場所、人類を宇宙に引きつける原動力となった存在なのである。
 19世紀、フランスのヴェルヌが月旅行を科学的に小説にした。「月世界へ行く」である。大きな大砲をこしらえ、それに乗って大砲クラブ会長のバービケーン、装甲板鋳造家のニコール大尉のふたりのアメリカ人と、芸術家で冒険家のフランス人ミシェル・アルダンの3人が月へ旅立つのである。186×年12月11日、ロッキー山脈山頂に設置された大砲に、3人の搭乗者と2匹の犬、1年分の食料、数カ月分の水、数日間のガスなどが積み込まれた。
 はじめての宇宙船(砲弾)、はじめての地球圏脱出、はじめての宇宙空間。1800年代後半の科学知識を動員してくみ上げられた砲弾の中の冒険譚、ドラマが繰り広げられる。はたして彼らは月にたどりつくことができるのか、月に降り立つのか、そして地球に帰ってこられるのだろうか。
 真空ではなく、エーテルに満ちた宇宙を想定されていた時代の物語である。
 21世紀の科学的知識からみれば、突っ込みどころは満載だが、当時の科学、技術、産業をふまえて読めば、これぞサイエンスフィクションであろう。
 そして、SF小説が未来を予見する人類の想像力の結集であることを、近代SFのはじまりから明らかにしてくれるのだ。
 いまの宇宙ロケットだって、ある意味で大砲の派生物である。とても大きな大砲の砲弾に入って宇宙に飛ぶというのは、ロケット/ミサイルから生み出された宇宙ロケットの概念そのものだ。ファンタジックな手法ではなく、科学、技術にもとづいた発想の展開なのである。
 読んで良かった。古典は大事だ。

100%月世界少年


ONE HUNDRED PERCENT LUNAR BOY

スティーヴン・タニー
2010

 人類が月にはじめて降り立ってから2000年、月はテラフォーミングされ、人類のもうひとつの生存圏となっていた。ネオンライトまたたくバロックゴシックな月の世界で、100%月世界少年のヒエロニムスは地球から来た「スズメの上に落ちてゆく窓」という少女に出会い、恋に落ち、そして法で固く禁じられた彼の目を彼女に見せてしまう。
 100%月世界少年・少女とは、瞳に第四の原色と言われる色をたたえ、肉眼で世界を見れば「時間の航跡」を目にすることができるのである。そして、100%月世界少年・少女の目を直視した人は精神が一瞬ショートし、錯乱状態に陥ってしまう。そのため、月世界で希に生まれる100%月世界少年・少女は生まれたときから専用のゴーグルをつけて生きることが義務づけられている。もちろん、意図的に他の人に目を見せることは重犯罪となっているのだ。そして、時間の航跡が見えるだけでなく、ほかにも100%月世界少年・少女の目には特別な力を持っていたのだ。為政者は、人々は恐れていた。
 ヒエロニムスは「スズメの上に落ちてゆく窓」の求めに結果的に応じてしまい、彼女を傷つけ、そして、100%月世界少年・少女を逮捕することに人生をかけているシュメット警部補に追われることになるのだった。

 萩尾望都のSF漫画に「スターレッド」という作品がある。火星で生まれた子どもは世代を重ねるごとに瞳が赤くなり、超能力を増していくのである。その能力を恐れ、地球政府は人類の子孫である火星人を迫害する。存在しないと考えられていた唯一の第六世代の主人公の少女レッド・星(セイ)が地球で生きていた。火星人を極端に嫌う地球の司政官の執拗な追跡から逃れながら、レッド・セイは火星と人類を巻き込む大きなできごとに関わっていく。超能力ものであるが、とても芯のしっかりした読み応えのある作品である。
 なんども読み返している。壮大なビジョンがそこにあるからだ。いい作品だ。

「100%月世界少年」も同様に人類が変異し、変異しない人類との間に起きる軋轢の物語である。同時に、少年と少女が出会い、事件が起きるなかでの恋愛や感情が描かれるヤングアダルトの作品でもある。だから構成はわかりやすく、種明かしも少しずつ物語とともに深められていく。もちろん本作は警察権力に追われる話であるが推理小説ではないので最後に読者にも隠されていたしかけで種明かしされるというタブーは関係ない。
 SFファンタジー風味のあるヤングアダルト小説だと思って読めば間違いない。

蘇りし銃


REVENANT GUN

ユーン・ハ・リー
2018

「ナイン・フォックスの覚醒」「レイヴンの奸計」につづく三部作の最終刊である。前作から9年の月日が流れた。1作(と2作)の主人公チェリス=ジェダオは所在不明。そして、ジェダオが不死であり連合の陰の実力者であるクジェンにより復活させられる。このジェダオは若い時代のジェダオであり、かつて自らが犯した大罪のことは記憶にない。一方、姿をくらましたチェリス=ジェダオは1、2作の主人公のジェダオであり、チェリスである。つまり、ジェダオとしての存在は、この三部作目ではふたり存在する。ああ、ややこしいぞ。
 前作で起きた「暦法改新」により六連合は大きくふたつの勢力が争っていた。旧暦法を守り復活させようとする後民派と、新暦法による新たな政体を整えようとする協和派である。協和派は強いて言えばチェリス=ジェダオが引き起こした暦法改新の支持者である。
 そこにもうひとつの勢力としてのクジェン&若きジェダオの動き、さらには単独行動を続けるチェリス=ジェダオの動きが絡まり合い4つの方向から、六連合世界は大きく動こうとしていた。
 今回は、複雑なドンパチはない。そういう意味ではスペースオペラではないし、ミリタリー色もない。
 前2作を舞台背景に、複雑な権力をめぐる人間関係ドラマが繰り広げられる。
 SFでありファンタジーである。
 そして、前作から存在感を増してきた僕扶の存在と活躍。人類社会を陰で支えてきたAIドローンたちの「社会」と「意思」の物語が面に出てくる。僕扶の世界まで入れれば5つの方向からの物語でもある。
 ふーくーざーつーです。ジェンダー表現、知的存在をめぐる表現もふくめて、きわめて現代的なSF、ファンタジーと言える。
 ことに本作で登場してきた若いジェダオは本作の主人公のひとりなのだが、周りのみんなはジェダオが大罪を追っており、恐るべき存在だと思っているのに、当のジェダオはその記憶も知識ももっていない。記録に目を通しても、それを自分でやったとは信じられない。寄るところを迷う存在として丁寧に書かれている。しかし、なかなか共感はできない。
 どうしても1作目から結構さんざんな目にあってきたジェダオではないチェリスの行く末が気になっていたからだ。だから最後まで読んで、チェリスにきちんと収まりどころが用意されていたのが良かった。物語はそうでなくっちゃ。

プロジェクト・ヘイル・メアリー


PROJECT HAIL MARY

アンディ・ウィアー
2021

 長編「火星の人」、映画「オデッセイ」のアンディ・ウィアーの長編である。「アンディ・ウィアーは裏切らない」。間違いない。SFが好きな人も、そうではないけど「オデッセイ」はよかったなあと思っている人も、読めば間違いない。
 そして、本作は、実に紹介しづらい名作である。まず読もう。いろんな紹介や書評があふれているかもしれない。この文章もまた、そういうものだが、はっきりいってあらすじを紹介するのは野暮である。何も言いたくない。何も書きたくない。ぜんぶ読書体験として感じてほしい。映画化が進んでいるらしいが、そして、映画は見たいが、できれば、まず、このすばらしい読書体験を先にしてほしい。ぜったい後悔しない。すんげーおもしろいから。あーどうすれば読んでもらえるだろう。
 たしかに、物理学、いわゆる古典力学や相対性理論、量子論などの記述もある。化学や生物学、工学、材料工学、電気工学などの知識や、太陽系、近傍の星系、地球温暖化や気候変動などについてもわかっているとよい。でも、わからなかったり難しいなと思うところがあれば、それは目は通すが読み飛ばしても大丈夫。おもしろさや感動は薄れない。
 あらすじは書けないけど、釣書として、物語はこうはじまる。
 一人の男が異質な空間で目を覚ます。記憶がないが科学的素養はじゅうぶんにありそうだし、科学や実験は大好きのようすで、好奇心も旺盛。それは宇宙船の中で、どうもひとりぼっち。記憶は少しずつ、少しずつよみがえってくる。まずは自分の名前から。しかし、状況は待ってくれない。彼はなぜ宇宙船にひとりでいるのか、そして、ここはどこなのだ。なんのためにここにいるのだ。この宇宙船に備え付けられている科学実験施設はなんのために、だれのためにあるのか。男は行動をはじめ、少しずつ記憶を取り戻しながらも、与えられたミッションを果たそうとしはじめる。それは、彼が本質的に「善い人」であり、ユーモアもあり、努力家で、科学が好きで、物事の明るい面を見て行動する力を持っているから。だから、きっとミッションは達成されるに違いない。読者はそれを信じて読み始めていく。
 物語は、男がいる宇宙船と宇宙空間の「現在」と、彼が少しずつ取り戻す地球での過去の「記憶」が交互に出てくる。それは読者にとっても、主人公の男にとってももどかしくもはらはらする答え合わせなのだ。
 そして、「現在」の物語序盤に「………」が起きる。ここからが俄然おもしろい。
 まっすぐな物語だ。まっすぐな、というのは、知性と科学への深い信頼に基づくという意味だ。そういろんなことはあっても、心の内には悪があっても、善性というものがあって、信じようではないか、と思えてくる作品。「火星の人」でもそうでしたね。
 SFとしては、なるほど、であると同時に、そんなご都合主義なことが、でもあるが、そういう分析はどうでもよい。
 読んだ方がいい作品、小説というのは、こういう作品をいうのだ。
 分断と危機の時代に突入したいま、そうではない物語で心を鍛えよう。

TVアニメ「アポカリプスホテル」

春藤佳奈監督 2025

 2025年に放映された全12話のテレビアニメである。監督 春藤佳奈、キャラクター原案は竹本泉が務めている。人類がいなくなった地球で「ホテル銀河楼」という銀座のホテルを維持し、人類と人間のホテルオーナーの帰還、そして、お客様の来館を待ち続けるロボットたちの物語である。ロボットといっても主人公は人間(女性)型のAIアンドロイドでホテリエのヤチヨであり、登場するそのほかのロボットはドアマンロボットがかろうじて人型、ほかは機能に応じた形態をしている。
 さて、何度もくり返すが私はどうしようもない感じのロボットものが好きである。とくに廃墟や人類が不在になった状況というのは好物だ。アニメーションだと、ピクサーの「WALL-E」(アンドリュー・スタントン監督、2009)などがそれにあたる。

 物語はいたってシンプル。人類を含む霊長類を殺すウイルスのような生物物質が大気中に徐々に広がり、人類の生存が困難となってしまった地球。人類は慌てて太陽系外星系に生存の可能性を託し、地球から脱出してしまった。それから100年。人類のいない地球は都市に緑がはびこり、野生動物が暮らす世界となっている。
 しかし、ここ銀座のホテル銀河楼だけは違う。ロボット従業員による運営を行なってきたホテル銀河楼は、人間のオーナーの「すぐに戻ってくる。それまではホテルを頼む」という言葉に忠実に、ロボットたちがホテルを守り続けてきた。宿泊客0、予約0、ホームページ閲覧数0、目標未達であっても、毎日毎日。100年の時を経て、少しずつロボットたちは無期限休職になっていく。つまり、壊れていく。残されたのはホテリエのヤチヨ、ドアマンロボ、ときにはレセプションもこなすハエトリロボ、2体のお掃除ロボ、調理担当ロボ、バーテンロボ、菜園飼育ロボ、ポーターロボ、営繕ロボ、そして、1話で早くも無期限休職扱いとなった温泉掘削ロボである。
 さらには、地球の環境情報を収集しデータ化して宇宙に行った人類に送信する環境チェックロボも登場する。かつては数多くいた環境チェックロボももはや1体しか見当たらないのである。
 ある日100年ぶりの客がホテルに到着する。それは知的地球外生命体であった。そしてホテルに物語がはじまるのである。
 50年後、次の客がやってくる。母星での縄張り争いに敗れた(地球的にぴったりくる表現として)タヌキ星人の一家であった。彼らの来訪によって物語は次々に新たな展開を迎えるのだ。
 ギャグ、パロディ、笑いあり、涙ありのホテル&ロボットエンターテイメントアニメーション。突っ込みどころもたくさんあるが、SFアニメとしては結構正統派だと思う。竹本泉のキャラクター設定も実によろしい。個人的にはオープニングのヤチヨによるダンスが気に入っている。
 本編でも、年単位での時間の制約がないのでウイスキーを大麦から栽培して発酵、熟成させたり、人工衛星ロケットを開発して飛ばしたりと、ホテル業務の合間を縫ってオーナーの夢とホテル経営の充実のためにがんばるヤチヨさんたちである。
 なかでも、ホテルと言えば冠婚葬祭。ちょっとした盛り上がりをみせてくれる。
 ロボット好き、廃墟好き、ホテルドラマ好きにはお薦めしたいSFアニメーションである。

TVアニメ「スペース☆ダンディ」

総監督 渡辺信一郎(2014)

 アニメ制作会社BONES原作・制作によるSFギャグアニメーションである。2シーズン各13話で構成されており、おおまかなストーリーもあるが、基本的には単話ごとに同じ主人公や登場人物とゲスト登場人物によって繰り広げられる漫画連載型となっている。脚本家やアニメ制作、キャラクターや背景などのゲストクリエイターも多彩だ。
 さて、SFでコメディでギャグでアニメである。様々な作品のパロディ、小ねたが満載で、70年代から00年代までの漫画、アニメ、小説、映画などの知識量や経験値があればあるほどおもしろくなる、噛めば噛むほど味のするスルメのような作品である。この分野は漫画では吾妻ひでお、とり・みきが秀逸だと思っている。いろんな過去作品を経験するうちに、数年、数十年経ってから、あ、あのシーンは、あの映画のパロディだったか、というのを気がつく知的楽しみなのだ。
 もちろん、ほとんどそういう知識がなくても単純に楽しめるのが良質なギャグ作品のいいところだ。まず、その作品の魅力に惹かれ、その上で「あれ、これってもしかしてなにか元ネタあるんだよな」とわからないまでにもおぼろげに背景にあるおもしろさを想像しそして、いつかそれに気がつく(かもしれない)のだ。
 そのためには、作り手側の力量が問われる。漫画だとひとりの作者の力量に依存するところが大だが、アニメーションはたくさんのクリエイターが知識や知恵を集めることができる。それは設定であり、脚本であり、キャラクターであり、背景であり、声優であり、音楽だ。その点で、本作はアニメ界のベテランクリエイターに加え、SF作品で知られる円城塔、漫画家の大友克洋、寺田克也、上条淳士などがゲストキャラクターを設定し、それぞれの漫画風の特徴もアニメーションに生かされている。
 本人ではなくても、わたせせいぞうのバブル青春風シーンや、つげ義春のあまりに有名な「ねじ式」のメメクラゲのパロディなどもあったり。声でクリスペプラーがクリスペプラーっぽく登場したり。
 SFとしても、ひも理論や多元宇宙論、低次元高次元宇宙など設定にはことかかない。ギャグ設定では欠かせない、ギャグだけどしんみりさせたり、ほのぼのさせる「まじめ」回もきちんと織り込んでいる。大人たちが金と時間をかけてやりたいことをおもいっきりやっている。最高。

 さて、少しは設定について触れておこう。「スペース☆ダンディは宇宙のダンディである」。彼はこの宇宙でめずらしい宇宙人を捕獲して、宇宙人登録センターに新しい宇宙人として登録することで報奨金を得る宇宙人ハンターなのだ。宇宙船アロハオエ号に乗り、中古の掃除機AIロボットQTをアシスタントに、第一話で捕まえためずらしくも猫型のないベテルギウス星人通称ミャウと3人が起こすドタバタコメディ、ギャグアニメである。ダンディの生きがいは銀河系各地にあるガールズレストラン「ブービーズ」を全店制覇すること。そして、ダンディは理由はわからないが銀河系を二分する一大勢力のゴーゴル帝国に狙われており、天才科学者のゲル博士と助手のビーが常にダンディを探し、追い詰めようとしている。だが何らかの理由でいつもそのもくろみは失敗してしまう。ダンディたちはゲル博士たちの存在に気がつくことはいまだかつてないのであった。
 毎回ゲスト宇宙人やシチュエーションがある。それは見てのお楽しみだ。
 

「秘本三国志」ほか

「秘本三国志」「諸葛孔明」「曹操」「曹操残夢」(陳舜臣)
「蒼天航路」(原作・原案 李學仁、作画 王欣太)

 じゃーん、三国志である。SFではない。ここのところ、陳舜臣の「三国志」ものをずっと読み直したり、新たに読んだりしていた。頭の中では、何回か読んでいる王欣太の漫画「蒼天航路」のキャラクターを思い浮かべながら、陳舜臣ならではの「三国志」に浸っていたのである。
 さて、どこから話をしようか。そもそも、私はいわゆる三国志の原典とされる陳寿の「三国志」はもとより羅貫中の「三国志演義」も読んでいない。それゆえ偏っている。
 たぶんきちんと最初に読んだのは「秘本三国志」で、その次におそらく「蒼天航路」を読み、その後になって陳舜臣の「曹操」や「諸葛孔明」そして今回、「曹操残夢」を手に入れてはじめて読んだのである。
 まず、それぞれの執筆時期を確認しておこう。
「秘本三国志」文藝春秋「オール読物」1974年~1977年連載。その後単行本、1982年に文春文庫。
「諸葛孔明」季刊連載後中央公論社1991年。1993年に中公文庫。
「曹操 魏の曹一族」初期季刊連載、その後月刊連載、中央公論社1998年、2001年に中公文庫」
「曹操残夢 魏の曹一族」「中央公論」2004年~2005年 中央公論社2005年。文庫化もされている。
「蒼天航路」講談社「モーニング」1994年~2005年。単行本、文庫本ほか。

 陳舜臣については書きたいことが山ほどある。もともとは、神戸を舞台にした推理小説ものや中国を紹介したエッセイなどをぽつぽつと読んでいて、文章がきれいで軽妙な語り口、緩急をつけた展開は読んでいて実に心地よい。戦前の神戸に生まれ、戦後に一時台湾で暮らし、その後、あらためて神戸に戻り、その後作家としてデビュー。その出自もあり、広くアジアを俯瞰した視点、戦前から現代までの時間をも俯瞰した視点、その上で、人間の機微やものごとの細部にこだわった作風。極微から極大を縦横無尽に、読者を置いてきぼりにせず読み切らせるすごい作家だと思っている。とはいえ多くを読んでいるわけではなく、思い立ったときに読みたくなる作家の一人だ。

 さて、三国志であるが、おもしれーなーと思ったのが「蒼天航路」である。漫画ならではの表現を存分に生かして若き日の曹操から曹操の死までを連載話数409話でど派手に描ききっている。曹操を中心にしてはいるが、いとこであり盟友である隻眼の夏侯惇、軍師であり漢の名士の出である荀彧は少年の時代から登場し、トリックスター的な描き方がされている。曹操側の二大巨漢として典韋、許褚が描かれる。許褚は少年の頃に出会うまるで横綱のような設定で、曹操の死の間際まで最側近のボディーガードをつとめ、典韋は角のある巨漢で、途中戦死するが、それまで曹操のボディーガードの要であった男である。 そのほかにも、曹操側には軍師、戦士ともども人物がそろっているが、敵の描き方も、曹操側以上にすさまじい。
 まずは、前半の姦雄である董卓と呂布。とくに呂布は本能の超人戦士として描かれ、印象的である。次に群雄の時代、幼なじみでもある袁紹と同じ袁家の袁術。最初に天子を僭称した袁術は、登場時はまだ人間的であったが、だんだんと猿顔に描かれ、天子僭称の際にはまったくの猿として描かれている。これぞ漫画である。袁紹もまた、当初は漢の名家として出自としても軍力としても最有力の大人物として描かれているが、袁紹が最後曹操と直接対決する頃には、姿形も変わり、それが曹操を本気で怒らせてしまう。これもまた絵の力である。
 もちろん、「三国志」といえば蜀の劉備、関羽、張飛である。関羽、張飛はなるほどというキャラクターとなっているが、劉備の描き方には特徴がある。キャラクターそのものは、大耳と長い腕というくらいでそれほどの特徴はないが、行動としては逃げる、泣く、はったりをかます、時々、人の心を打つ檄を飛ばすといった具合である。劉備らしいといえば劉備らしいなあと思わされるところがさすがである。
 そして、蜀と言えば、軍師・諸葛孔明も物語には欠かせないが、かの人こそ、「蒼天航路」最大のファンタジー的描かれ方をしている。曹操に出会うまでの間、諸葛孔明とその周りの事物、出来事はすべて幻想の中にある。中国幻想の世界、桃源郷、あやかし、それらすべてが混ざったもの、それが諸葛孔明とその世界である。かわいそうに曹操に出会うことでけがされ、人に落ちていき、我らが知る諸葛孔明となっていくのであった。作者の王欣太は諸葛孔明とは無意識に曹操になろうとしてしまった人物として描いている。
 呉の孫権は、虎をペットとする少年として登場する。呉の人々も美男子として名高い周瑜はきちんと美青年として描かれているし、魯粛もまた魯粛らしい。ちなみに、諸葛孔明の兄であり呉に尽くした諸葛瑾はしっかりと騾馬面となっている。
「蒼天航路」は大きな正史や演義などを引きつつ、青年誌コミック向けに劇画になりがちなところを劇画調にならないよう、かといって斬り合いと謀殺の話にばかりならないよう戦いのシーンを中心にエロティックな要素も挟みつつ、荒唐無稽を荒唐無稽に読ませないぎりぎりのところで読ませる漫画文化の作品となっていた。現代的に言えばキャラ付けがしっかりしていて、なおかつ、数十年の年齢の変化をうまく物語に乗せることでキャラがさらに立っているといえる。そこが印象深く、小説である陳舜臣の「秘本三国志」ほかを読む上で、この王欣太の「蒼天航路」のキャラクターで脳内に動いてもらうことで、たくさんの登場人物が変容して生き生きとするのである。
 まあ、正統な読み方とは言えないが、なにぶんにも似たような名前の人たちがたくさん出てくるのでちょうどよいのだ。

 ということで陳舜臣の三国志である。
 世の評価としては「諸葛孔明」を名著としてあげているようであるが、私としてはなにより「秘本三国志」を押したい。陳舜臣もまた曹操を推している。乱世の姦雄であり、悪名は高くとも、間違いなく漢を終わらせ、魏をもって中国を統一させた天才である。しかし、三国志は中国各地で同時期にいくつもの出来事が起こり、それが相互に影響を与えていく。それを作者が物語の神の目として筆を進めることもできるが、陳舜臣はここにふたりの架空の人物を登場させた。それは道教の一派である五斗米道のリーダーである張魯の母・小容と、小容の元で張魯とともに育てられた陳潜である。古典において張魯の母は美しく巫術にたけた人物として描かれているそうだが、これに名を与え、かつ、三国志の事件の現場にいることが不自然にならない存在として小容の遣い手に陳潜を用意した。陳潜に洛陽にある白馬寺と縁を結ばせることにより、道教と仏教、漢の人々と月氏をはじめ西方や北方の多様な人々との接点をもたせている。三国志の情報通、裏の操作者としてそれぞれの出来事に深みを与えるのである。小容はときに曹操や劉備、諸葛孔明らの相談役にもなり、ときに仕掛け人にもなるのであった。推理小説が得意で、人の機微や出来事の背景にある動機というものに関心の深い陳舜臣ならではの登場人物である。小容という存在をもって全体を俯瞰し、こんにちの中国の思想的背景にも関連させながら、登場人物の心を動きを描いている。まったくのフィクションだが、これが実におもしろい。
 それだけではない。まだ若き作者・陳舜臣も登場する。小説の中で、裏方が楽屋話をするのである。これは下手をすればあざとく、あやうくなるが、陳舜臣のそれは実に効果的だ。正史や演義だけでなく、それまでに語られてきた話とのつじつまや戦時中、戦後、現代につながるまでの歴史の一端とのつながりや奇縁を短い言葉でさらりと伝え、連載の各話に花を添えるのである。ときには戦時中の帝国日本軍のふるまいについてちくりと触れることもある。連載されていたのは1970年代。第二次世界大戦終戦から30年前後のことである。まだ多くの人たちの記憶に残っている出来事だったのだ。
「秘本三国志」は、曹操の死後、蜀の諸葛孔明が亡くなるところで物語を終える。もちろん、小容もそこにいるのだ。
「諸葛孔明」は「秘本三国志」完結から14年後に上梓される。物語は諸葛亮の父で泰山郡の行政高官であった諸葛珪が次男の誕生の報を受け、執事の甘海に「亮」と名付けるよう言付けるところから始まる。この甘海こそが、その後長年にわたって諸葛孔明の師であり情報源となるのである。「秘本三国志」の小容、陳潜のような存在だ。ただここで違うのは、諸葛孔明自身が、曹操、劉備、孫権をはじめとする世の中の動きを把握し、ことを動かす能力を持っていたことである。諸葛孔明とその妻で有能な発明家でもある綬が表の存在であり、かつ、三国志全体の設計者となるが、そこには裏の存在の甘海がおり、そして、今回は五斗米道よりも白馬寺を中心とする浮屠(仏教)の思想が深く関わることになる。物語は諸葛孔明の誕生からその死まで。三国志のあらゆる局面を縦断、横断しながら描き出されていく。たしかに(本物を読んでいないけれど)いかにも三国志らしい三国志である。よくこなれた小説だ。「秘本三国志」と「諸葛孔明」の間には、日本の高度経済成長、オイルショック、バブル経済という大きな流れがあり、中国もまた大きな政治的経済的変容の時期でもあったのだ。そういった時代背景が小説にも反映されている。陳舜臣の時代感覚というところでもあろう。
「曹操 魏の一族」は、曹操24歳、任地を勝手に離れて故郷の譙県に行き、いとこの夏候惇に私兵の育成について聞くところからはじまる。「諸葛孔明」とはちがい曹操が後漢の没落と群雄たちによる乱世のはじまりを予感させる躍動感あふれる始まりである。この「曹操」でも、陳舜臣は裏の存在を用意する。その筆頭が紅珠である。曹操のいとこであり、幼なじみであり、同姓故に結婚はできない思い人であるという設定の女性だ。宋皇后の兄の嫁となったが、宋皇后失脚により宋一族が粛正された際に殺されることになる。しかし、曹操の父・曹嵩の暗躍により曹操と曹仁のふたりが身重の紅珠を救って匈奴に預けることとなった。つまり、死んだことにされた女性である。実在の人間だが名前は不明なので陳舜臣が紅珠という名を与えているし、死んだはずが生きていることにしたのだ。紅珠が「秘本三国志」の小容のような存在になるが、同時に陰の恋人で姉御肌の幼なじみという位置づけも得ることで曹操の政治、軍事、私生活のすべてにおける対話者ともなるのである。
 もうひとり、浮屠(仏教)の寺である白馬寺に属していた群旋が登場する。「秘本三国志」の陳潜や「諸葛孔明」の甘海のような存在だが、曹操と同年生であり交易の民であるソクドの出自という位置づけを持ち、より深く曹操の覇道に関わる役割を持つ。そして物語は曹操の臨終の場面で終わるが、そこにもまた紅珠と群旋の姿があるのであった。
 陳舜臣はこのような人物を登場させることにより、主人公の曹操をはじめ主要登場人物や歴史の流れの波をこしらえるのだ。そこが陳舜臣の技というところであろう。
 直接の続編となる「曹操残夢」はおそらく陳舜臣自身も思っていたより執筆に時間がかかったのであろう。かなり時間が空いている。そのため出版されたことに気づかずにいて、今回が初読となってしまった。はじまりは、前作の直後からで、当然のように紅珠が出てくる。物語としては、曹操の息子・曹丕により漢から魏への禅譲がなされ文帝の世となり、曹一族の頂点を極めるのである。そこから先、呉、蜀を滅ぼし、中国統一を果たすが、魏は司馬氏によって晋へと禅譲され、短い王朝に幕を閉じるのである。「曹操残夢」では、さすがに紅珠も年をとったので、その息子の曹宙が物語の回し手として登場する。曹宙は本来は紅珠の死により生まれるはずのなかった歴史上架空の人物である。そして、物語として本来は紅珠の夫である宋氏の名を持つはずだったが母方の曹姓を使っていたのである。魏の時代において曹の姓は役に立つのだ。もうひとり意外な人物が物語の回し手になる。この人についてはここでは述べないでおくが、途中から「へええ」となる。曹操後の三国志はある意味で「諸葛孔明」の物語になっていくところもあるのだが、あくまで曹一族の物語であるため、曹植などの存在が大きく扱われたりもしている。題材としては書きにくいところもあっただろう。だからこその「へええ」だ。そして、ちょっとだけだが「倭」も登場する。そう「魏」志「倭」人伝なのだ。そういうのを楽しみに、陳舜臣晩年の円熟味を味わうとよいのだ。

 ということで、楽しく流れに遊ぶならば「蒼天航路」、出来事の「背景」や人の機微といった深みを感じるなら陳舜臣三国志を。おもしろいぞ三国志。

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