AUTOUR DE LA LUNE
ジュール・ヴェルヌ
1869

月は地球上の生命にとって実に不思議な存在だ。もちろん人間にも。満月に空を見上げる。空に上りはじめた月のなんと大きく見えることか。写真を撮ると、なぜか見たように大きくは写らない。錯視である。それでも不思議だ。まるで手に届くような月。月の陰影もまた人の想像力をかき立てる。20世紀後半、天体望遠鏡を手にした多くの子どもたちはまずまっさきに月を探す。もちろん私もそのひとりだ。月のクレーターのくっきりした姿を見て、えもいえぬ郷愁と満足感を得るのだ。その体験は実に神秘的であり、好奇心をかきたてるものであった。
4歳の頃、白黒テレビから月に降り立つ宇宙飛行士のぼんやりした姿を見た。人類は月に降り立った。それは人が待ち望んだ瞬間だった。月世界人はいない(知っている)、月に大気はない(知っている)。それでも、月は手に届きそうで届かない特別な場所、人類を宇宙に引きつける原動力となった存在なのである。
19世紀、フランスのヴェルヌが月旅行を科学的に小説にした。「月世界へ行く」である。大きな大砲をこしらえ、それに乗って大砲クラブ会長のバービケーン、装甲板鋳造家のニコール大尉のふたりのアメリカ人と、芸術家で冒険家のフランス人ミシェル・アルダンの3人が月へ旅立つのである。186×年12月11日、ロッキー山脈山頂に設置された大砲に、3人の搭乗者と2匹の犬、1年分の食料、数カ月分の水、数日間のガスなどが積み込まれた。
はじめての宇宙船(砲弾)、はじめての地球圏脱出、はじめての宇宙空間。1800年代後半の科学知識を動員してくみ上げられた砲弾の中の冒険譚、ドラマが繰り広げられる。はたして彼らは月にたどりつくことができるのか、月に降り立つのか、そして地球に帰ってこられるのだろうか。
真空ではなく、エーテルに満ちた宇宙を想定されていた時代の物語である。
21世紀の科学的知識からみれば、突っ込みどころは満載だが、当時の科学、技術、産業をふまえて読めば、これぞサイエンスフィクションであろう。
そして、SF小説が未来を予見する人類の想像力の結集であることを、近代SFのはじまりから明らかにしてくれるのだ。
いまの宇宙ロケットだって、ある意味で大砲の派生物である。とても大きな大砲の砲弾に入って宇宙に飛ぶというのは、ロケット/ミサイルから生み出された宇宙ロケットの概念そのものだ。ファンタジックな手法ではなく、科学、技術にもとづいた発想の展開なのである。
読んで良かった。古典は大事だ。