A ROBOT IN THE SCHOOL
デボラ・インストール
2019

中年だめ男ベンがお送りする日常右往左往ロボット物語第3弾である。「ロボット・イン・ザ・ガーデン」で、庭に現れたぽんこつロボット・タングの出自と中年男の失われた青春をさがす旅を行い、「ロボット・イン・ザ・ハウス」では、よりを戻した妻エイミーと生まれたばかりの子どもボニーに、成長期にはいりはじめたばかりでお兄さんになってしまったタングとの日々変化する4人暮らしが舞台。日常とは小さなトラブル、突発的出来事、予想もつかないできごとの繰り返し。人はそうやって生きていく。ところが、そこに突如乱エレガントなロボット・ジャスミンが登場し、ふたたび大きなトラブルに見舞われてしまう。
それから約4年、ベンとエイミーの夫婦、幼稚園から小学校に上がったボニー。ボニーだけが学校に行くのはおかしいと主張するタング、そして「家族」として迎えられたものの、その意味や位置づけ、人間との関係性をいまひとつ理解できないままに読書に夢中になっていく物静かなジャスミン。そんな5人の家族の物語が、第3弾「ロボット・イン・ザ・スクール」である。
人は社会的動物である。つまり、個と個の関係性だけでなく、家族、地域、学校、職場、友人、通りすがりの人、さまざまな場面で関係性を構築、あるいは関係性に応じたふるまいを求められ、それに対する応答の方法でまた新たな関係性(あるいは関係の断絶)が生まれていく。そういう関係性の波の中で生きていく自我のある動物なのである。ロボット、すなわち自律的思考を持ち行動する能力をもつ存在もまた、人に近い社会的存在として存在するが、ロボットを生み出した人間にとって必ずしもロボットは(あるいはAIは)同等とは位置づけられない。自然人と法人(企業とか非営利団体とか)が異なるように、ロボットと人間は人間社会において大きく位置づけが違っている。
「学校に行きたい」という強い願いを持つタングを前に、ベンとエイミーにはその問題が現実として突きつけられる。もちろん、それは学校側や保護者、他の子どもたちにとっても、タングの「妹」である人間のボニーにとっても同じである。
この問題は、「ロボット」という概念が登場し、物語に位置づけられてから長く問われてきた。日本で有名な例は手塚治虫の「鉄腕アトム」と「火の鳥~未来編」であろう。「アトム」は失われた息子の代わりとして生み出され、その親である博士に捨てられ、ロボットしての家族を求め、人間社会とロボット社会の軋轢に苦しみながら人間に寄り添おうとする。「火の鳥~未来編」では人の人格の一部を行動設計に取り入れられたロビタが人との関係性を遮断されたときに、他のロビタが一斉に自殺行為に走っていく。手塚は異質な者であるロボットと人間の社会的関係性がその存在において同等に構築される可能性と、同等には決してなり得ない可能性のどちらに対しても悩み、それを読者に提示したのではないか。
さて、本書「ロボット・イン・ザ・スクール」でも、その問題が複層的に登場してくる。とりわけボニー、タングという常に成長という状況を抱えた「子ども」ならではの社会的関係性に、マイノリティ的な特徴を持つボニーと、そもそも人格を持ったAIで子どもと同様の成長期を持つ異例なタング、ほんとうは大人になりたくないベンという存在が、現代社会の諸相を物語に浮かび上がらせる。もちろん、いまのところ人間と共生する自我を持つロボットという存在はないが、同質のようにふるまうことが求められる社会における属性として同質にはなり得ないマイノリティの問題は本質的には同じである。
親子、兄姉、家族、親族、友人、先生と生徒…。
ボニーも、タングも、ベンも、エイミーも、そして、ジャスミンも、様々な現実と困難にあたり、それを少しだけ乗り越えたり、乗り越えられなかったりしながら、日常を生きていく。喜びもあれば、悲しみもある。出会いがあれば、別れもある。
家族5人、休み期間中にエイミーの仕事で日本に行くことになるので、1巻で登場してきた人物との再会や日本珍道中も楽しめる一作である。
ロボットものではあるが、もはやジュブナイルとは言えなくなっていて、中年男性の大人になるための悩める物語になっている。次巻の「ロボット・イン・ザ・ファミリー」は、本巻のエンディングからの続きになっているので合わせて読むとよいのではなかろうか。