究極のSF

FINAL STAGE

アンソロジー
1974

 1970年代にはいり、ふたりのSF編集者バリー・N・マルツバーグとエドワード・L・ファーマンは大胆な企画にとりかかる。13人のSF作家にそれぞれひとつずつのテーマを与え、そのテーマについての「決定版」を書くよう依頼したのである。それだけではない。作品とともに、そのテーマへの感想、作品リスト(テーマの古典、作品を書く上で影響を受けたもの、なお、1篇以上は自作を含むこと)の提出も求めたのである。
 頼まれて引き受けた作家も大変だったろう。
 結果的に、70年代の時代的雰囲気をたっぷりふくませて、ちょっと理屈っぽい作品がそろった。ひとつひとつを語るのは野暮である。まず、目次を転載。

ファースト・コンタクト
「われら被購入者」フレデリック・ポール
宇宙探検
「先駆者」ポール・アンダースン
不死
「大脱出観光旅行?」キット・リード
イナー・スペース
「三つの謎の物語のための略図」ブライアン・W・オールディス
ロボット・アンドロイド
「心にかけられたる者」アイザック・アシモフ
不思議な子供たち
「ぼくたち三人」ディーン・R・クーンツ
未来のセックス
「わたしは古い女」ジョアンナ・ラス
「キャットマン」ハーラン・エリスン
スペース・オペラ
「CCCのスペース・ラット」ハリー・ハリスン
もうひとつの宇宙
「旅」ロバート・シルヴァーバーグ
コントロールされない機械
「すばらしい万能変化機」バリー・N・マルツバーグ
ホロコーストの後
「けむりは永遠に」ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア
タイム・トラベル
「時間飛行士へのささやかな贈物」フィリップ・K・ディック

 実は、本書は個人的にやらかした1冊である。たぶん2回。都合3回購入していると思われる。最初は、個人的ディックブームの時に買って、その後、同作品が別の作品集に載っていたので手放した(と思う。すでに忘却の数十年前)。
 次に、表紙がリニューアルされていて、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの名前に惹かれて買ってしまった。そして読んでいる。本棚にあった。
 そして、最近、古書店で売られていて、「お、なつかしい表紙、でも読んでいなかったな」と思って買ってきて読んで、いまここにいる。
 これから増えていくんだろうなあ。そのための備忘録としての読書録であるのだが。
 ひとは忘れる。老いる。そして、死ぬ。
 死んだら、もう、読むことはできない。忘れることもない。書くこともないが。

 それはともかく、「究極」と問われると、「死」を連想するものであるのだろうか。そういう構成の作品も多い。
 ひとつだけ紹介するならば、死を乗り越える短編としてハリー・ハリスンの「CCCのスペース・ラット」を推したい。テーマは「スペースオペラ」であり、実際にスペースオペラであるが、ドクターE・E・スミスをはじめとするスペースオペラの古典を徹底的に笑い飛ばすのが70年代の古典スペオペへの敬意と決別宣言なのであろう。ちなみに、ジョン・スコルジーが2012年に発表した長編「レッドスーツ」も同じテーマである。スペースオペラは古典ゆえにパロディ化しやすいのだ。

ドラマ エクスパンス 巨獣めざめる

 人類が太陽系に進出して200年。人類は、地球、月、火星、小惑星帯から木星系、土星系とその生存圏を広げ、「人々はそこで子を産み、育て、そして死んでいった」のである。
 このドラマは、分かりやすく言えば、モビルスーツが存在しない「機動戦士ガンダム」である。
 低重力の小惑星や宇宙船での暮らし、戦闘宇宙船同士の戦闘などが劇場公開映画さながらの映像で繰り広げられるのである。「スター・ウォーズ世界」のような派手さはないが、映像のリアリティはとても高い。実におもしろい作品である。最近の海外SF映画のしっとりした宇宙の映像と同じぐらいの品質がある。長いドラマだから描写もじっくりとしていてとても良い。良作である。

 まず、背景。
 地球-月圏は国連が統治、火星はテラフォーミング途中だが自治権を持つ共和国となり、地球圏と資源や権力をめぐる闘争とそのための軍拡競争を続けている。小惑星帯の人々は「ベルター」と呼ばれ、主に準惑星のケレスの内部、地球近傍小惑星のエロスの内部、土星の衛星フェーベの内部、木星の衛星ガニメデ、宇宙船建造用大型宇宙ステーションのティコを生存の拠点とし独立と自治を模索していたが、現実には地球および火星の支配と搾取にあえいでいた。
 地球圏は人口増加と環境悪化に苦しんでおり、資源調達の上でも小惑星帯を管理下に置きたかったし、火星はテラフォーミングのために小惑星帯が調達する水などが欠かせない。
 ベルターの内惑星系(火星と地球圏)への不満は高まり、外惑星同盟(OPA)という非公式軍事組織が地球、火星双方に対しテロや資源調達宇宙船の海賊行為をくり返していた。
 地球と火星は戦争になるのか。ベルターたちは漁夫の利を得て独立できるのか。事件と陰謀、政治家や軍人の思惑の中で、物語は複雑に進んでいく。氷運搬船の副長でしかなかった主人公のジム・ホールデンは、その優しくまっすぐな性格ゆえに、事件に巻き込まれ、を自らも戦い、傷つきながら、身近な人たちを守るため、人々を破滅から救うため、自分にできることに取り組み続けるのであった。まるで、「ガンダム世界」のブライト・ノア艦長やアムロ・レイ君のように…。

 いろいろ語る前に、このドラマの制作上の話を整理しておこう。「エクスパンス」の原題は「THE EXPANSE」であり、意味としては「ひろがり」すなわち、人類が宇宙に拡張していく姿といった意味を持つ。日本語タイトルは「エクスパンス 巨獣めざめる」となっているが、これは第一部の原作小説「Leviathan Wakes」の邦訳タイトル「巨獣めざめる」から来ている。小説はジェームズ・S・A・コーリー名義で書かれているが、ドラマ「エクスパンス」のプロデューサーふたりの合作ペンネームであり、小説とドラマの親和性は高い。
 小説としては現在までに9巻まで出版されているが、邦訳はこの第一部「巨獣めざめる」のみである。第一部の邦題が「巨獣めざめる」だったがためにちょっとややこしいことになっている。実は「巨獣」などいない。本書で出てくる「Leviathan=巨獣」はティコ・ステーションで建造中の超巨大恒星間世代船の名前であり、ある宗教団体が新天地を目指して旅立つためのものである。この世代船は第一部の後半で動くのだが、物語全体にとってはひとつのエピソードに過ぎない。「巨獣めざめる」はこのドラマにとってはぜんぜん実態をしめさないのである。残念ながら。
 ちなみに「巨獣めざめる」はSF小説としても傑作である。あいにく続編は翻訳されていないが。
 ドラマに戻ろう。wikiなどに整理されているが、シーズン1~3はアメリカのSF・ファンタジー専門チャンネルsyfyで2015年から2018年にかけて放送された。2018年5月にsyfyがシーズン4の製作中止を発表。日本ではNetflixがシーズン1、2を独占配信したがシーズン3は配信せず2018年9月に配信AmazonPrimeビデオを停止。そしてAmazonPrimeビデオがシーズン4の継続を発表し、シリーズ1からの独占配信をスタートした。シーズン6は2021年12月~配信され全62話で制作を終了した。
 ドラマと原作小説はシーズンと各巻の内容がほぼ一致しており、第7巻は1~6シリーズの約30年後からの舞台設定となっている。現在は9巻まで刊行。シーズン7以降が製作されるかどうかは未定である(終了とみられている)。
 興味深いのはAmazon社の戦略としてベースは英語ながら、日本語吹き替え版をはじめ、中国、韓国、イタリア、ブラジル、スペイン、フランス、ポルトガル、アラビア語などなど、ものすごく多言語に対応しているのである。字幕も各国語があり、そういう遊び方も用意されている。これはとても勉強になるなあ。余談だけど。

 物語の話に戻そう。
 シーズン1は導入であるが、ちょっとだけややこしいミステリー仕立てになっている。最初のうちは鍵となる設定が匂わせてあるだけで隠されており意味分かりにくいのでとっつきにくいかもしれない。可能ならば小説版を読んでから見ると「おおおっ」ってなるのだが。ここはがまんして最初の5話ぐらいまで見続けて欲しい。後悔しないから。
 注目して欲しいのは登場人物である。
 何人かの登場人物を鍵として物語はすすむ。
 シーズン1では主人公はふたりいる。
 ひとりは全体の主人公であるジム・ホールデン、もうひとりは準惑星ケレスの治安機関である地球の警備企業(民間警察)のジョー・ミラー警部。ケレス生まれのベルター。彼が上司から地球の富豪の娘で家出しているジュリー・マウを親元に帰すために捜査・誘拐するよう求められる。ジュリーを追う過程でミラーは小惑星帯を巻き込む大きな謎につきあたっていく。このミラー警部パートがいまひとつ分かりにくいのだが、抑えておくポイントは、ミラーはほとんど宇宙に出たことがないケレス生まれのベルターであり、なおかつ、地球資本の民間警察に雇われている「ベルターの敵」とみられていることだ。そういう複雑な立場のなかで、彼は捜索対象のジュリー・マウに執着していく。これが後のストーリーの重要な鍵となる。

 次に、ジュリー・マウとその父親や家族。すなわちマウ家。ジュリー・マウはシーズン1冒頭に登場している。唐突に登場し、それから物語がちょっと飛ぶのでこの冒頭部分はできれば覚えておくといい。エクスパンスの真の意味に通じる鍵は「マウ家」がにぎっている。それは、プロト分子。どうやら人類発のものではなく、高度な異星文明が関わっている物質らしいのだ。プロト分子は、エクスパンスシリーズが太陽系と人類の物語を超えていくことを示唆する。物語のひとつの方向性に、「高度な異星文明との邂逅」があることが物語を楽しくしてくれる。ただ、「エイリアン」や「スターウォーズ」「スタートレック」にはならない。あくまで正統派のSF設定はくずされていない。

 ジム・ホールデン。不思議な主人公である。太陽系をのろのろと長い月日をかけて往復する氷運搬船の副長。地球生まれの元兵士で、人が傷ついたり殺されることが大嫌い。曲がったこと、隠しごとも嫌い。兵士を辞めたのも、そんな性格故。流れ流れてベルターの場末の輸送船に乗っている。しかし、乗っていた宇宙船カンタベリー号がテロで爆破され、その直前に出されていた難破船によるSOS確認のため離船していたために少数のクルーとともに生き残り、火星軍の反抗を疑い、それを全世界の放送し、火星軍に追われ、やがて火星軍の最新鋭AI搭載小型戦艦タチ号を(結果的に)盗み、ロシナンテ号と名付けて船長になる。そうして、地球圏、火星圏、小惑星圏において時にヒーロー、時に裏切り者、時に名もなき戦士、調停者として物静かに活躍することになる。
 ジム・ホールデンの主な仲間には、ベルターでOPA親派だった天才メカニックエンジニアのナオミ・ナガタ、元火星軍兵士でロシナンテ号のパイロットとなるアレックス・カマル、地球人でナオミをボスと決めて従うちょっとヤバい感じの地球人エイモス・バートン。つまり、ロシナンテ号は、地球人、火星人、ベルターが出自や立場に関わりなく動き回る特殊な存在になるのだった。

 そのほか、たくさんの登場人物が主要登場人物ばりに出てくるが、鍵となり、その発言や行動を覚えておいた方がいい人物があと3人いる。いずれも女性である。
 ひとりは、地球人のクリスジェン・アヴァサララ。国連事務次長としてシーズン1から登場する。かつて軍人の息子を失い、自らも紛争を調停する力を持ちながら、たくみに動いては戦争回避を模索する政治家。若い頃はものすごい美人だった感じで、歳を重ねても美しさがやどる。出自はインド系とみられ、ハスキーボイスで交渉し、策謀し、物語をぐいぐいと動かしていく。
 次に、ボビー(ロベルタ)・ドレーパー。火星人で火星海兵隊の下士官。純粋な国粋主義者(火星第一主義者)で、それ故に地球を憎み、早く敵と戦いたくてうずうずしている若い兵士である。火星の先端技術で開発されたアーマースーツを着こなして闘うが、やがて大きな秘密に触れ、ひとつの鍵を握る存在になる。シーズン2から登場。
 最後に、カミーナ・ドラマー。ティコ・ステーションの保安責任者として登場するベルター。大物たちの副官的な存在としてキャラクターは立っていても見過ごしそうだけれど、初登場のシーズン2以降、折に触れ登場し、重要な役割を担うようになる。心に大きな傷を持つが力強い女性でもある。

 物語は、地球と火星は戦争をするのか。小惑星帯はどっちにつくのか、あるいは独立するのか。太陽系での戦争とはどういうものか。まさしく直球のスペースオペラが繰り広げられる。それは陰謀と策謀と議論であり、政治闘争でもあるから舞台劇の様相もあるし、宇宙戦争という映像表現もある世界だ。

 しかし、人々は日常に生きている。気候変動と環境汚染、人口爆発の中で苦しむ地球の姿。地球に近いという地の利を活かして開発された月。テラフォーミングが可能だからと移住し、火星を故郷とする火星人の思考、生活。さらには、小惑星帯の様々な生活形態。窮乏するなかで思想が生まれ、行動が生まれてくる。そして、日常は続くのだ。大きな宇宙船、小さな宇宙船、準惑星の内部、巨大宇宙ステーションの内部、ガニメデの表面…。その姿。

 もうひとつ、未来の物語、SFとしての「高度な異星文明」の産物プロト分子をめぐる人間たちの欲望と熱望。何に使えるのか、どう使えるのか、果たして「使いこなせるのか」。それは武器になるのか、エネルギーになるのか、救済になるのか。そして、プロト分子を生み出した存在とは? 物語はそこから展開する。

 とはいえ、シーズン6まで主要な舞台のほとんどは太陽系内であり、その中での人間と人間の物語である。恋愛もある、友情もある、死もあれば生もある。政治もあれば、精神世界もある。出自による差別もある、心の傷もある。そして、赦しも、救いもある。
 なんといっても、主人公が追われたり、殺されそうになるのにもかかわらず、「殺したくない、傷つけたくない、多くの人たちが苦しんだりするのを見たくないし、それを止めたい」という、個人では手に余る欲望・性格・性質の持ち主だからやっかいだ。なのに、そんなジム・ホールデンしか船長としてみんなをまとめられないし、みんなもそんなホールデンだからいろいろあっても最終的には信頼しているし、他の多くの人たちも結果的にそうなる。
 まあ、ホールデンの元で戦闘に巻き込まれる登場人物からすると「命、いくつあっても足りない」感じはするだろうが。

 とにかく、舞台は23世紀。一部の特権階級を除き、個々人にとってはとても厳しく、辛い人生を送る世界だけれど、でも、人類はすくなくとも太陽系まで生存圏を伸ばした。
 できれば、見てみたい。本当の未来の宇宙世紀を。

ヴァルカンの鉄槌


VULCAN’S HAMMER
フィリップ・K・ディック
1960

 ディック作品群最後の長編翻訳だそうだ。2015年に翻訳出版されている。初出は1960年。55年の時を経ての初翻訳。どうしてかというと、ディックだからだ。ディックは多作で、どうしようもない作品から名作と呼ばれる作品まで主にSFを書いてきた。とくに日本とフランスで評価されている作家だが、作品によっては設定が破綻していたり、ストーリーが破綻していたり、登場人物の人物像が破綻していたり、まあひどい。それほどひどくても読ませる力を持つのがディックである。とくに気持ちがざわついていたり、落ち着きどころがないときに、「現実」を考えたり、「世界」を考え、「生きる力」を思い出させてくれる。
 それだけではない、チープなSFガジェットを使いながら、誰にも思いつけないストーリーを展開する。仮想空間やシンギュラリティ、AI、人格の仮想化など、現在のネット社会になってようやくその概念や可能性、そこから派生する諸問題について、ディックは1960年代から深く掘り下げていた。もちろん、上記のような用語は明示されず、当時の科学、SF用語を使ってである。思想、宗教、社会、ディックの関心は幅広く、それらはディックの頭の中で解釈され、再構成されて物語となる。

 その作品群は、短編も長編も映像化されたり映像化の原作、あるいはヒントとなっている。もっとも有名なのは、原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」である。言うまでもない「ブレードランナー」(リドリー・スコット監督 1982)がある。「ブレードランナー」はもちろん過去のSF作品の影響も受けているが、公開から40年経った現在でも映画史に残る名作であり、ディック作品が映像化された初の作品でもある。残念ながらディック自身は楽しみにしたこの映画の完成を待つことなく亡くなってしまった。
 その後も、「トータル・リコール」「マイノリティ・リポート」「スキャナー・ダークリー」といった映画化、あるいは「高い城の男」「エレクトリック・ドリームズ」といったドラマ化もされているし、おそらく今後もされることだろう。

 そういった背景があるので、この多作の作家の作品は、そのすべてが翻訳されたのである。はっきり言えば、その作品の中には二番煎じや粗い作品もある。だいたい、初期のディックの作品の多くは2作品抱き合わせのチープな小説として売られていたもので、決して人気作家とは言えなかった。ディック自身、食べるために書くといった状況だったのだ。
 そんな初期の作品の中でも見過ごされてきたのが本書「ヴァルカンの鉄槌」である。

ヴァルカンの鉄槌」の世界は1960年代終わりに第一次核戦争がはじまり1992年に終わったあと、世界連邦政府が誕生し、1993年からはアメリカ・ソ連(いまのロシア連邦の前身)・イギリスが共同で開発したスーパーコンピュータの「ヴァルカン3号」が重要政策の意思決定を行なうことに世界が合意したのである。人間では間違う選択を避けるため、コンピュータに人類の行く末を託したのである。
 ヴァルカン3号は連邦において世界各地の政治を行なう弁務官のリーダーである統轄弁務官ひとりがアクセスすることになっていた。
 そして現在は2029年。2年前にできた「癒やしの道」教団がヴァルカン3号を壊し、世界を変えようと画策していた。能力主義の格差社会と思想管理社会に辟易として、「癒やしの道」に参画する者も多くいたのである。

 ほら。21世紀を予感させるでしょ。もちろん、世界は統一されていないし、核戦争もなんとか回避されて現在まで来た。超大型コンピュータのようなシステムに収斂しなかった替わりに、ネットワーク社会における意志決定の仕方は人間の能力の範囲を超えて行なわれるようになってきた。格差は広がり、思想や行動は結果的に管理されるようになっており、レイシズムをはじめ差別的な排除思想が力をつけている。
 ちょっとストーリーの設定を置き換えれば、今に通じる物語である。
 読み方によっては「ターミネーター」みたいな感じもあるが、なんといっても本作品は1960年に発表されたものなのだ。
 すごくないですか。(いや、まず読んでください)。
 量的には長編というより中編ぐらいのボリュームで、ストーリーもそれほどひねっていないので、素直に読めます。ご都合主義的なところはありますが、気にしないこと。そんなことを初期のディックに求めてはいけません。

時を紡ぐ少女

CREWEL
ジェニファー・アルビン
2012

 続き物だったのか。2012年に発表され2015年に翻訳出版された「時を紡ぐ少女」を手に取った。ジェニファー・アルビンのデビュー作とのこと。若い女性が主人公のSFファンタジー的な作品である。ファンタジー作品の「ドラゴンの塔」(ナオミ・ノヴィク)を読んだことがあるのだが、冒頭の展開は似たパターンで、特殊な能力を持った少女が(望まないながらも)その才能故に選ばれ、意に染まない形で故郷や両親から引き離され、新しい生活をはじめることになる。そして、そこでその才能故の様々なできごとに巻き込まれていく…。性別問わず、ひとつの物語の定形であろう。

「時を紡ぐ少女」の世界はアラス。その世界では男性中心の政府組織が実態として社会の独裁的管理を行なっている。完全なる階層社会で、情報は統制され、多くの人々はその情報と教育のままに自らの暮らしに不満を言うこともなく、疑問も抱かずに暮らしている。
 この政府組織と社会を維持しているのが「刺繍娘」たちである。アラスの世界には目に見えない「糸」があり、それは人の命、世界の景観、環境を示すものである。織り上げられた世界に刺繍を施し、糸を抜き、刺し、世界は維持されている。天候も操作される。農作物の収穫も、その物流も、刺繍娘たちの操作で可能である。「刺繍娘」たちは、織機によって糸を見ることができ、糸を操作する力を持つ能力者である。
 主人公のアデリス・ルイスの能力はそれだけではなかった。彼女は織機がなくても糸が見え、それを操作する力さえも持っている。その力は時間をも操作するものであった。
「刺繍娘」にはすべてが与えられる。美しい衣服、最高級の食事、優雅な暮らし。それはアラスの一般の人々にとって憧れであり、偶像(アイドル)であった。
 両親や妹から引き離され、望んでいない「刺繍娘」として力尽くで選ばれたことに対し、アデリスは反抗する。権力者に対しても反抗的な態度のアデリス。権力者である織庁長官のコルマックは無理矢理にもアデリスを従わせようとする。なぜならアデリスこそはアラスの未来を左右する鍵だから。

 アデリスはアラスの世界で希有な「自由意志」を持つ娘として描かれる。同時に多感で恋愛に盲目になりながらも自分を貫く姿も描かれる。作中には登場人物の同性愛も描かれており、恋愛観には21世紀の作品らしさもうかがえるが、ヤングアダルト作品の範疇になるのだろう。恋愛観だけでなく、男性支配社会、女性の権利といった社会的問題もファンタジーを通じて問題提起している作品でもあり、ル・グィンを思わせるところもある。

 世界が織物と糸に操作される世界は、単純にファンタジーとして成立する。
 しかし、どことなくSFとしての世界観の要素を伺わせている。
 アラスはどのようにして成り立ち、織物や糸と世界の関係はどのようなものなのか、後半に進むにしたがって世界の「本当の姿」が少しずつ語られていく。アデリスは少しずつ世界の「本当の姿」に気づいていく。
 あとは答え合わせだ。

 情報化された仮想世界はもはやファンタジーと区別がつかない。進みすぎた科学は魔法と区別がつかない。
「おそらくこういうことではないかな」という答え合わせへの期待。

 しかし、本作ではあと一歩のところで答え合わせが行なわれない。
「続く」のである。
 もちろん、少女アデリスの成長譚として話はひとつの区切りにはなるのだが、「続く」のである。いやむしろ「さあここから物語がはじまりますよ」で終わるのである。
 置き去りにされてしまった。

 著者紹介を読むと本作の翌年2013年に続編「ALTERED」、2014年に3巻目の「UNRAVELED」が発表されている。本作は2015年に邦訳されているので訳者の方は少なくとも2巻までは確実に読まれた上で訳されているのだろう。
 残念ながらその後の翻訳出版は止まっているようである。訳者の方は多方面の翻訳でご活躍だから、おそらくは出版社の販売上の都合であろう。売れなければ続巻が出ないというのはよくあることだが、この、あえて言えば中途半端なエンディングで読めなくなるのはちょっと辛い

「スター・レッド」と萩尾望都初期SF作品

 人生に「もし(if)」は、ない。
 それは出会えるべくして出会ったのだろう

 SF作家としての萩尾望都の名を世に知らしめた「11人いる!」は別冊少女コミック1975年9月~11月号に連載された。
 1975年の冬のことである。
 小学校5年生の私は小学校近くの耳鼻咽喉科に通院していた。その病院の待合室はたいへん混雑していてテレビからは大相撲中継、あたりには少年漫画や少女漫画、週刊誌などがいくつか並べられていた。その中に表紙の破れた少女漫画雑誌があり、宇宙の絵がちらりと見えていた。すでに「SF」というジャンルが自分の好きな小説やアニメ、漫画のカテゴリーであることは自覚していたし、妹がふたりいたので、自宅で「LaLa」や「なかよし」などの少女漫画誌を読むことに抵抗はなかったが、当時はまださすがに人前で少女漫画誌を手に取るのは「はずかしい」少年であった。でも、どうしてもその絵が気になり、なるべく目立たないように目立たないようにその雑誌を手に取り、ページをめくった。
 それが「11人いる!」だった。
 頭を殴られたような衝撃と、「目からうろこ」とはこのことだ。
 こんなストーリー、表現世界があったとは。身体が弱くて、読書委員の少年「私」が少女漫画とSFの親和性にめざめた瞬間であった。
 とはいえ、「はずかしい」は続く。なんとか通院中に「11人いる!」を無事読み終えることができたものの、少女漫画のコミックコーナーははるか近寄りがたく、万一同級生の男子、女子にみつかったらどうなるか考えただけで、それはそれは恐ろしい場所で会った。しかも、「はぎおもと」の「もと」も読めない少年である。うずくような気持ちを抑え込み、日々は過ぎていく。
 が、神は私を見捨てない。
「11人いる!」は「大人向け」の小学館文庫として翌年の夏に刊行され、「続・11人いる!」も翌1977年に小学館文庫から出たのである。読みたい。思いは募る。
 そして、中学校1年のとき、ついに「精霊狩り」を含めた小学館文庫の3冊に手を伸ばしたのであった。背中を押したのは「週刊少年チャンピオン」である。1977年8月、「百億の昼と千億の夜」の連載開始。少年誌に掲載する作家である。遠慮はいらない。
 この世の春である。その年の暮れから翌年にかけて「百億の昼と千億の夜」は少年チャンピオンコミックスとして単行本化され、同級生たちに話を振っても(たとえ彼ら彼女らが読まなくても)問題なくなったのである。
 そうなると、こっちも気が大きくなる。とはいえ、中学校からもっとも離れた書店に足を運び、「トーマの心臓」や「ポーの一族」を、心臓バクバク言わせながら立ち読みし、ついには書店主と目を合わせないようにしながらレジ台に差し出すのであった。
1978年12月にはレイ・ブラッドベリの同名短編集「ウは宇宙船のウ」と同じタイトルで集英社漫画文庫から萩尾望都による短編作品集が刊行される。
 これには、(今様に言えば)、「萌えた」。
 夢中になって読んでいたブラッドベリの作品が萩尾望都の少女漫画風SF作品になっているのだ。「ウは宇宙船のウ」「霧笛」「集会」「宇宙船乗組員」…。それらは「11人いる!」の世界であり、「精霊狩り」の世界そのままであった。SFすごい、ブラッドベリすごい、萩尾望都最高!
 そして運命の時が来る。1980年3月、高校受験の直前に本屋の新刊コーナーに「スター・レッド」の第1巻が並ぶ。震える手。もちろん、少年誌以外の萩尾望都の連載作品のことなどなにひとつ知らない。まだ少女漫画誌を平気で買えるほどではなかったのだ。
 白い髪、赤い目、赤い服。明らかにSFを感じさせる魅惑的な表紙とタイトル。
 なんとか受験終了まで待って購入。
 至福である。

 私は「火星」に目がない。元をたどれば古田足日・作、田端誠一・絵のSFえどうわ「ぽんこつロボット」にあるような気がする。たしかあのロボットは火星に行ったのだ。しかし、自覚的に「火星」にとりつかれたのは「スター・レッド」のおかげである。それ以前、ブラッドベリの「火星年代記」や、古典中の古典バローズの「火星の大元帥カーター」やウエルズの「宇宙戦争」だって読んでいる。とはいえ「火星」を希求した作品として「スター・レッド」に勝るものはない。あるとしたら、後のキム・スタンリー・ロビンスンによる「レッド・マーズ」「グリーン・マーズ」「ブルー・マーズ」の3部作まで待たなければならない。
「スター・レッド」は初期の萩尾望都のSF作品の頂点にある。

 さて、「スター・レッド」を21世紀にもなってまだ読んでいない幸せな読者のために簡単に紹介しておくと、時は24世紀。人類は他星系まで進出していたが、その他星系の人類とのかつての戦争により地上の多くが放射能により汚染し、人々は基本的にドームシティで不自由なく生活していた。レッド・星(セイ)は、ニュー・トーキョー・シティの上区のチーム(暴走族みたいな感じの)リーダー。美しき闘いの神であった。セイには隠さなければならない秘密があった。セイは白い髪を黒く染め、赤い目に黒目のコンタクトをつけた火星人の生き残りであった。火星での人類の末裔である「火星人」は、白い髪と赤い目が特徴で、人類の敵として十数年前に滅ぼされたと考えられていた。
 火星は21世紀に人類の植民地として開発されたが、そこでは子どもが生まれなかったため植民は放棄され、その後は犯罪者の流刑地となっていた。やがて犯罪者送致も減り、放棄され、無人の惑星になったと考えられていた。
 十数年前、再び火星に目が注がれ、新たな植民者を送り込み、ドームシティを建設することになった。しかし、到着してみると火星は無人ではなく、生存者がいて、彼らは地球ではまれなテレポーテーションなどの超能力をもつ人々になっていた。地球人たちは、この「火星人」たちが厳しい環境下で生き抜き、子孫を残してきたこと、その能力に注目し、火星人の子どもを実験体として確保したが、その結果、地球人と火星人の争いが起こり、火星人たちは滅ぼされたのである。
 セイは、そのたったひとりの生き残りであり、徳永博士の娘として地球人のふりをして生きていたのだ。セイのほんとうの願いはひとつ。火星に戻ること。生き残りを探し、火星で生きていくこと。その思いは誰にも言えず、実現可能性もなかった。
 そのセイの前に、エルグと名乗るひとりの青年が姿を現す。彼はセイの正体を見破り、そして彼女が断れない提案を…。

 萩尾望都のSF作家としての傑作は、言うまでもなく「11人いる!」である。書きたい作品をはじめて自由に書いていいと言われて生まれた傑作であろう。漫画家としての確固たる地位を確立したのは「ポーの一族」に違いないが、読者の幅を広げた作品は「11人いる!」だ。
 一方、SFファンタジーと言える「精霊狩り」シリーズは、軽やかな作風の中に、超能力者(精霊)を魔女狩りする社会を描き、風刺的な視点も持ち合わせていた。
 光瀬龍原作の「百億の昼と千億の夜」に取り組んだのは、萩尾望都が書きたかったSF作品である「11人いる!」を経て、自分がどこまで書けるかを試したかったのではないだろうか。この作品で少女のような阿修羅王像を描き、宇宙の創世から終末の果てまでを光瀬龍の世界に乗って萩尾望都作品に仕上げたことで、オリジナルの「スター・レッド」を生む土壌ができたのではないか。同様に、ブラッドベリの「ウは宇宙船のウ」も、萩尾望都が書きたかった世界を広げるための作品群ではなかったろうか。もちろん、原作のある両作品とも萩尾望都に親和性があるが、その後の作品の深みは、このあたりにあるのではなかろうか。
 そして「スター・レッド」は、そんな初期の萩尾望都SFの集大成であり、今も色褪せない傑作である。「百億の昼と千億の夜」の阿修羅王のようなセイとエルグ。宇宙の創世からの善と悪のありよう。超能力やマイノリティへの迫害。巨大な運命へのあらがい。時間と空間を超えた広い視点の物語と、小さな人間と人間の関係性の物語が織りなす世界観。
 そして、「ポーの一族」や「トーマの心臓」を含む初期のすべての作品に共通するような「喪失感」。

 萩尾望都の作品には常に「喪失感」がつきまとう。永遠に失われたパートナー、故郷、過去、時間、未来…。なにか失われたこと失われつつあることに対して主人公や登場人物はあらがい、苦悩し、闘い、時に喪失感を受け入れる。受け入れたことで希望が生まれることもあれば、受け入れたことでさらに失われることもある。
「スター・レッド」では、セイが失われた火星を希求し、エルグはセイの中に自らが失ったものをみる。狂ったコマンドは殺してしまった恋人を希求した。火星人の敵である火星人研究局のペーブマンでさえ、火星人に傷つけられたプライドを取り戻せない空白という動機を持つ。セイの喪失感は、エルグが理解し、セイのそばにいた人間である「詩人」サンシャインは漠然と気がつきセイの心の支えとなる。
 喪失感と共感が、萩尾望都の宇宙には満ちている。
 それが砂と岩の惑星・火星の赤く冷たい風景と通じ合う。
「スター・レッド」は難しい物語ではない。セイとエルグの失った者同士の恋の物語と言ってもいいし、超能力ものと言ってもいい。あるいは、人類をはるかにしのぐ深遠な宇宙の物語でもある。火星をめぐる地球人と火星人になってしまったふたつの人類の抗争の物語としてもいい。21世紀のSFとしても十分通じる設定と構成である。
 現代の技術で、ハリウッド的なSF特撮映画に仕立ててもいい。配信サービス事業者が連続ドラマにしても立派に成り立つ。いやむしろ現代の映像技術があるからこそ、やって欲しいぐらいだ。

 私的な話に戻そう。高校時代にもまだ少女漫画誌には手を出さず、次第に当時別冊的に出され始めていた「ビッグコミックスピリッツ」などを読み始めていた。SFといえばもっぱら創元、ハヤカワ、サンリオの文庫であり、テレビアニメは「ガンダム」がはじまり、「イデオン」「マクロス」と次第に年齢層を上げていく。出身地に映画館が1つしかなかったこともあり映画には恵まれなかったが、この時期には「未知との遭遇」や「スターウォーズ」もはじまっていた。少女漫画誌は相変わらず妹たちの「LaLa」や「なかよし」だったが、そこにはSFマインドを持つ清原なつのが作品を発表しはじめており、初期にはSF的作品を書いていたわかつきめぐみなども登場していた。
 私が萩尾望都と再開するのは大学生になってからである。地方都市に進学し、精神的自由と開放を得て、無尽蔵に名画座で映画を見、そして、気になっていた少女漫画誌にも手を出し始める。「花とゆめ」「ぶーけ」「プチフラワー」など。80年代の新しい作家たちに交じって、「プチフラワー」に萩尾望都の姿があった。それはまた別の話である。

 もし、小学校5年生のあの日、「11人いる!」の扉絵に出会わなかったら、今ごろどうなっていたのだろう。「スター・レッド」を手に取らなかったら、どうなっていただろう。
 考えること自体がナンセンスだ。
 いまだに(主に海外作品だが)SF小説を追いかけ、少女漫画とよばれるカテゴリー(もはやそんなカテゴリー分け自体がナンセンスになってきたが)に傾倒し、飽きることも倦むこともない人生を送っていられる。小説や漫画や映画といったコンテンツの中で、限りない世界を楽しみ、いくつもの世界を楽しめる。
 その扉を開けてくれたのは、間違いなく萩尾望都の作品だったのだ。
 そして、そのなかで、人間社会におけるマイノリティやカテゴライズへの偏見や差別に対する立ち位置を教えてくれたのも、萩尾望都の作品である。

 いまこそ、あらためて萩尾望都を。
 そう願ってやまない。

「11人いる!」 小学館文庫版1976年7月
「精霊狩り」 小学館文庫版 1976年12月
「続・11人いる!」 小学館文庫 1977年
「百億の昼と千億の夜」 少年チャンピオンコミックス 1977年11月、1978年1月
「ウは宇宙船のウ」 集英社漫画文庫 1978年12月
「スター・レッド」 フラワーコミックス 1980年3、6、8月

われらはレギオン4 驚異のシリンダー世界

HEAVEN’S RIVER

デニス・E・テイラー
2020

 しまったあああ。三部作じゃなかった。続編あるんだ。おおっと、「リングワールド」が出てきちゃった。リングワールドを旅するボブ!
 人類の版図を広げるため人格を持ったAIとして2133年に地球を出発したボブ。ボブはかつて人間で、プログラム会社の社長で、SFオタクだ。肉体を失いAIプログラムとしての仮想人格になったことに順応し、ボブ自身にとって快適な仮想空間と現実世界とのアクセスを確立、ついでに自分をコピーして仲間を増やすことにした。ボブがボブをうみ、ボブ2、ボブ3、ボブ2の2、ボブ2の3となっていくとややこしいのでオリジナルAIボブ以降はそれぞれ名前をつけて分かりやすくしてきた。ある時点では同じであっても、その後の体験や状況によって行動も思考も変わっていくことになる。後に単純に並列化するというわけにはいかない。つまり、ボブとボブ2は別人格なのである。

 しかし、ボブはボブ。順応性と社会性に富んだ希有な性格なので、ボブが他のボブを忌避することはない。一緒に仕事をしても大丈夫、気心の知れた関係なのだ(あたりまえだ)。しかししかし、いやしかし。コピーするのは直系のボブだけではない。ボブ2の3の2の1の2…と、約20数世代後のボブたちの中にはずいぶんボブらしくないボブも出てくる。なんといってもボブたちは1万人にもなっているのだ。最近まではボブの総会は、議論百花繚乱でも落とし所がとれたのだが、どうもそうもいかなくなってきたりする。いやあ困ったね。

 困ったと言えば、ボブの初期のクローンであるベンダーが行方不明になったままだ。ベンダーは初期の古いタイプの通信手段と移動手段でエリダヌス座デルタ星系からうさぎ座ガンマ星Aをめざして旅立ち、2296年1月時点のボブにとってはベンダー行方不明から100年以上となっていた。ベンダーの方向に向けては最新の超光速通信設計図も送信しているが反応はない。超光速通信が使えれば帯域が確保できれば自身を「送る」ことだってできるのに、それもできない。調べてみたらベンダーは途中でうさぎ座イータ星系に方向転換しており、そこには巨大構造物をうかがわせる痕跡があった。さては先に邂逅した巨大な敵アザーズなのか?そのリスクもありつつも、ベンダーを探し出すためボブはしかたなく約35年かけて実際にうさぎ座イータ星系まで旅をした。そこにあったのは星系をぐるりと取り巻く円環。3つのひもがくみ上げられたようなリングワールドであった。半径90キロ、全長約16億キロメートルのシリンダー世界
 探査機を飛ばしたら攻撃されて全滅。遠隔で調査すると、そのシリンダー世界と外界との出入りはほとんどない状態であった。そこで、ボブは星系の外惑星系の外で超光速通信設備をつくり、ボブの元に集まってもらったチームとともベンダー捜索の旅をはじめるのであった。
 ほとんど閉鎖系となっているその世界には川のネットワーク沿いに水陸両方を使って生きる異星種族クインラン人たちの世界だった。ボブたちは作戦をねり、クインラン人に偽装したロボットをアバターにして侵入を図る。はたしてベンダーはこの世界にいるのか。
 一方、この間にボブたちの世界で起きてる騒動の顛末は!
 100光年の幅があってもある程度の同時間性、コミュニケーションの双方向性を確保できるボブたちの世界で2332年11月~2334年12月までの冒険の物語。すげーや。

 SF小説、映画、ドラマが大好きすぎるデニス・E・テイラーが、すべてのSFファンに送る正統なるスペースオペラの続編。スペースオペラだけど、SFとしての土台はかなりしっかりしているので安心して「遊べる」作品だ。
 もう一度、やはりSF大好きなSF作家ラリイ・ニーヴンの「ノウンスペースシリーズ」の長編、短編を読みたくなるじゃないか。

漫画 BANANA FISH

吉田秋生
1994

 吉田秋生の作品の中で現在までもっとも長編となる作品が「BANANA FISH」である。小学館の「別冊少女コミック」(別コミ)で1985年5月から1994年4月までほぼ9年間にわたり途中休みをはさみながら連載され、単行本は1987年1月に1巻、1994年10月に最終刊の19巻が発行されている。この頃、吉田秋生は、マガジンハウス社の女性誌「Hanako」に月1でオールカラー見開きの「ハナコ月記」を連載していた。また、白泉社の少女漫画誌「LaLa」では「櫻の園」も執筆、連載している。
「ハナコ月記」は身の回りエッセイ的な作品で、それまでの短編作品などにみられる生活感の中のユーモアが前面にでている肩の力の抜けた作品となっている。バブル経済の中での若い新婚夫婦と友人の日常というテーマで、関越自動車道がスキー場から都内までスキー客のために下り線が完全に渋滞したできごとなどが実体験をベースに語られている。
 一方、少し若年層向きの雑誌に書かれた「櫻の園」は、舞台は女子高で「桜の園」を演じる演劇部の少女たちの群像劇。こちらも、それまでの吉田秋生の作品群から決して遠く離れているわけではなく笑いを抑え情感豊かでシリアスな作品に仕上げている。
 吉田秋生はそれまで主に「別コミ」中心に執筆活動を行なっていたが、「BANANA FISH」の直前には、同じ小学館でもよりマニアックな作者、作品の多い「プチフラワー」で「河よりも長くゆるやかに」を執筆している。「別コミ」も個性的な作品が多かったが「プチフラワー」はややSF・ファンタジー系作品が多く、当時住み分けのはっきりしていた男女各漫画誌の中では男性読者もひきつける力をもっていた。
「河よりも長くゆるやかに」のあと、古巣の「別コミ」で連載をはじめたのが「BANANA FISH」である。

 話を本筋に行く前に、いつものように極私的感想から。「BANANA FISH」連載開始の頃は、大学生で少女漫画の多様な世界に再没入しはじめた時期であった。それより以前から好きだった萩尾望都、竹宮恵子、清原なつの、わかつきめぐみ、一条ゆかりといった作品群から、「花とゆめ」「ぶーけ」「プチフラワー」に連載を持つような作者たちに出会った頃である。吉田秋生も単行本の「「河よりも長くゆるやかに」を皮切りに、当時出ていた一通りは読んでいたが、「別コミ」には手を出していなかったのと、単行本が大学卒業、就職時期にかかっていたこともあり第1巻はやや遅れて入手していた。その後も、バブル期の仕事の繁忙、退社、流浪期間、フリーター、就職してふたたびの繁忙、転居に次ぐ転居といった具合で、ほとんどは単行本発行すぐに手に入れていたが、いくつかは版を重ねた後に手にしている。そういったわけで、初読はとぎれとぎれの印象しかなく、単行本が全巻そろってから何回かゆっくり読み直してようやく全体像をつかんだという感じであった。
 このたび実に久しぶりに読み返し、自分自身の時の流れを思い返すことにもなった。
 私は、まだ、生きている。

 それでは本題に入ろう。
 舞台は主にニューヨークの下町。「カリフォルニア物語」と同じであり、同様に社会からはみ出てしまった人たちが主人公である。ただ「カリフォルニア物語」と決定的に違うのは物語の背景、設定であり、その結果生まれる暴力に満ちた世界だ。
 有名な作品であるからあらすじもいらないだろうが、おおまかに触れておくと、ベトナム戦争末期、本国帰還をまつばかりの舞台でひとりの兵士が突然銃を乱射し、仲間の多くを殺してしまう。生き残ったひとりは帰還後フリーのジャーナリストになり、その「事件」を心の片隅に置いていた。1985年ニューヨーク、ストリートキッズの日常を取材しようともくろむ日本人のカメラマン伊部とそのアシスタントとして同行してきた大学生・奥村英二は、白人系が多いグループのリーダー、アッシュと引き合わされる。
 その直後、その場所が襲撃を受け、英二はアッシュとともに逃走をはじめることになる。これがアッシュと英二のふたり約2年に渡る激動の日々の始まりであった。あらゆることに天才的で絶対的なリーダーの素養を持つアッシュと、アスリートとしての将来を絶たれ息苦しい日本から息抜きのようにやってきた英二、まったく異なる生活・文化背景を持つふたりは、お互いの中に自らが「持ち得ない」ものをみる。それはふたりにとっての「救済」となるものだった。
 物語は「バナナフィッシュ」という謎の言葉と薬物、いくつかの事件を皮切りに、血なまぐさい展開をみせる。他のストリートキッズとの抗争、アッシュを自らの後継者かつ隷属者として「創ろうとした」マフィアのボスとの闘い、アッシュは生きるために、そして英二を守るためにひたすら襲いかかる者たち、敵対する者たちを殺し続ける運命となる。
 英二もまた、別の形でアッシュを守ろうとする。

 本筋だけ読めば、ドラッグと暴力、権力者の支配欲、それに立ち向かうジャーナリストと影を負ったヒーローのサスペンスストーリーである。この本筋は、時を経て同じ世界線を描いた「YASHA 夜叉」「イヴの眠り」が書かれており、こちらは近未来SF色の強い作品となる。

「BANANA FISH」は、吉野秋生の代表作といっていいが、注目したいのは初長編「カリフォルニア物語」との相似性だ。
 同じニューヨークを舞台とするが主人公ヒースは故郷のカリフォルニアで親子関係に悩んでいた。厳格な父親は自分を支配しようとしているとしか考えられない。兄とは異母兄弟、母なしで育つ点はアッシュと同じである。ヒースは地元でのできごとがきっかけでニューヨークの下町で暮らす。アッシュもまた、故郷に住むことができなくなり、ニューヨークが彼の地となる。ヒースは兄に反発するがコンプレックスも持つ。そして兄の死と、親しく弟のように接していたイーヴの非業の死。アッシュもまた、異母兄の存在が大きく、その死が苦しみとなる。そして、アッシュを守ろうとして死んだスキッパーや親友の死はアッシュを追い詰めてしまう。
「カリフォルニア物語」のヒースと「BANANA FISH」のアッシュの違いは、その「できごと」の性質だ。アッシュは幼い頃から大人から性的虐待を受け続けた過去を持ち、ストリートキッズのリーダーとして恐れられ、尊敬されてはいても、無償の愛を受けること、感じることのない生を過ごしてきた。少なくともヒースには、ニューヨークでの良くも悪くも日常があり、その中でさらなる心の傷も受けるが周りの人間関係から癒やしも受けることができた。それは「救済」と呼べるほどのものではないが生きていくための心の置きどころとなる。
しかし、英二と会うまでのアッシュにはそのような「癒やし」や「心の置きどころ」の余地はなく、だからこそアッシュは彼に対し無知と無垢な故に対等な他者として接することができた英二に惹かれ、救済を得ることができた。アッシュが英二から救済を得た理由はただひとつ、英二もまたアッシュから救済を得ていたからである。奇跡的な無償の愛とでも言えようか。
 この関係性があるからこそ、客観的に見れば「冷酷な殺人マシーン」であるアッシュのそれこそ暴力に次ぐ暴力の物語が人を引きつけ、美しく昇華する。

「カリフォルニア物語」ではヒースが自らの成長のために旅立ち幕を閉じた。残された者たちに予感だけを残して。
「BANANA FISH」ではアッシュが真の救済を得ることで幕を閉じる。それ以外の終わり方はとれなかっただろう。リアルタイムの読者もまた物語がどこに向かっているのかを悟っていたことを著者が番外編のあとがきで匂わせている。それほどまでに完結した物語だったのだ。

 もちろん長い物語にはアッシュの天敵であり、アッシュに激しい愛憎をみせるマフィアのボス・ゴルツィネ、アッシュの家庭教師でもあったブランカ、英二に「なれなかった自分」をみるユエルン、アッシュに惹かれるがアッシュとの闘いを望むシン、苦悩を抱えた親友のショーター、観察者であり当事者でもあるジャーナリストのマックスなど彼らの視点で語られる物語があり、読む者をひきつけて止まないのである。
 吉田秋生は主人公の周りの人たちを描くのが実にうまい。漫画という絵と文字とコマ割りが生み出すコンテキストを使いこなしているのだ。
 周りの人たちを書くのがうまいということは、番外編、サイドストーリーである短編がたまらなく魅力的になる。それらサイドストーリーは、本編を補完し、本編を読んだ者のみに与えられるご褒美のようなものである。
 幸いにして、「BANANA FISH」には単行本19巻の後半と別冊である「PRIVATE OPINION」としてご褒美が出されている。伊部と英二の物語、ブランカとアッシュの出会い、そして、英二とシンのその後も描かれる。
 シンについては、「YASHA 夜叉」でさらにその後があるのだが、それはまた別のお話…。

 実は「BANANA FSH」には「恋愛」の要素はほとんどない。強いて言えばジャーナリストのマックス・ロボと離婚調停中の妻の関係、ストリートキッズのお目付役のような刑事のチャーリーとショーターの姉の関係があるくらいである。いびつな「恋心」としてはゴルツィネのアッシュに対する執着がある。アッシュは自分の「モノ」でありアッシュがどれほどゴルツィネを忌み嫌っていても、ゴルツィネは最終的にアッシュが自分のいいなりになると信じて疑わない。アッシュはゴルツィネにとって理想の自分であり、自分の投影であり、アッシュに真の自由意志があるとは思っていないのだ。支配欲、独占欲の対象である。マフィアのボスとしてのふるまいであるから物語的には「ふつう」に見えてしまうのだが、登場人物たちの中でもっとも性格的にゆがんだ人物だろう。
 恋愛を持ち込まないことで、この物語は人間の善なる姿と悪なる姿を純化して読者のつきつめる。
 物語の軸はアッシュと英二、アッシュとゴルツィネにある。美しい物語として前者を読むか、悪夢の物語として後者を読むか、すくなくとも2回はくり返して読んで欲しい作品である。

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アロウズ・オブ・タイム


THE ARROUW OF TIME
グレッグ・イーガン
2017

「時間の矢」というのは不思議なもので、数学でも物理学でも時間の流れの過去と未来に区別はつかないが、エントロピーの増加や因果律という形で人類は時間の矢を感じている。そして、過去は変えられず未来は不確定で、どちらも光速の円錐の外側は知るよしもない。「現在という存在」のみが切れ目なくある、と、感じている。ただ、相対性理論によって「現在」は観測点によって異なることがわかり、分かりやすい例としてウラシマ効果が紹介された。現代のGPSのような精細なシステムにはこの効果による必要な修正が反映されている。さらに、量子論により時間の概念もまた変化するが、いまのところ人類の日常生活に見える形で影響することはない。しかし、現代の科学は「時間」「時間の矢」をもてあましていることだけは確かだ。

 本書「アロウズ・オブ・タイム」は「直交三部作」の第三部であり完結編である。時間と空間が等価となる我らが宇宙とは異なる物理法則で成り立つ宇宙の物語。E=-mc2が成り立つ宇宙で惑星ズークマは直交星団と衝突し破滅する危機を迎えていた。その危機に対し、直交星団と平行方向に巨大世代船「孤絶」を打ち上げ、逆ウラシマ効果によって世代船の中で科学技術を発展させズークマ時間では数年後に何世代もかけた未来の「孤絶」が帰ってきてズークマを救って欲しい。それが願いであり、「クロックワーク・ロケット」の物語であった。そして「エターナル・フレイム」では様々な技術的ブレークスルーを迎え、「孤絶」の人々の生き方を変える可能性、新たなエネルギー源の可能性を見た。そして、本作「アロウズ・オブ・タイム」はついに惑星ズークマを救う解決策とともに「孤絶」を180度回頭させて帰還への長い日々をはじめることとなった。解決策が示されたといってもまだ未知の領域は残されている。そして、社会文化的にも惑星ズークマの生き方とは根本的に変わりつつあった「孤絶」では帰還と救済という本来の目的を果たそうとする人々と、このまま「孤絶」や新天地を求めてそこで生きていくべきだという人々に意見が分かれていた。物理学者のアガタは、その未知の領域、重力と光の関係から、直交宇宙の構造についての研究を続けていた。一方、既知の知見から直交宇宙の特性上ある方法を使えば未来から現在へ情報を送り届けることが可能であることが判明し、「未来からメッセージを受け取る」ための道具が開発されつつあった。そしてこの技術に対して物理的な破壊工作に出る過激組織も登場するのであった。
 前作から数世代のち、繁殖方法が変わったことで人々の意識はずいぶんと変わってきた。それでも「育てる性」としての男性と、「産む性」としての女性という概念は残っている時代。帰還とはすなわちこれから先、母星到着までの世代は「何もすることがない」という意味でもある。加えて未来からメッセージを受け取れるようになったら、本当に何もする気が起きなくなるのではないか?
 どう思います。
 本書では未来から過去への時間の流れという事象と、もうひとつ、孤絶の人々にとっては過去から未来に流れる時間に対し、「孤絶」が帰還の方向を向いたことで直交星とは逆の流れとなってしまい、それまで反物質として振る舞っていた直交物質が、通常物質だけれど「孤絶」の時間に対して逆、すなわち未来から過去に流れるものに変わったという事象が描かれる。何言っているか分かります?分からない人は、1、2作を読もう!
 P・K・ディックの悪夢の世界の再来である
 あらためてディックってすごいなあと感じ入ってしまった。
 しかし、ディックは数学的裏付けなしに書いたが、イーガンは違う。宇宙を数学的、物理学的に作り上げ、そこにこの時間逆転世界を書ききるのである。いやあ、何言ってるのかわかんないね。後半にあるここのところの表現を読むためだけでも、この三部作を読む価値はある。間違いない。
 そしてふと思う。自由意志ってなんだろう、と。

 さて、もちろん本作でももうひとつのテーマ、性と社会が大きな要素を占めている。第二部で徹底して詰めてあるので、本作ではその未来でしかないのだが、これは人類に対する挑戦でもある。これについてもまた第一部からの流れを読んで欲しい。男女問わず。

 大団円を迎えた直交三部作。数学や物理学的説明とそこからくる情景やシーンについては正直言って半分も理解できていない。それこそディックのつじつまの合わない支離滅裂だけど読ませてしまうのと、「私にとっては」何が違うのかというぐらいである。もちろん、大学1年でていねいに線形代数学や物理学の入口を学んだ学生や高校3年の数学Ⅲや物理Ⅱ(今はどう言うのかな?)まできちんと履修し、その上で数学や物理学に対して関心を失わずに来た人であれば私よりは100倍以上楽しめる作品であることは間違いない。
 幼い頃からSFを読んできたけれど、そういう積み重ねが足りてこなかったことを、とても反省する三部作であった。でも、そうでなくても読んで欲しい。私と同じぐらいでも、数学や物理学が大嫌いでも、そこを読み飛ばしても、おもしろいから。

漫画 カリフォルニア物語

吉田秋生
1981

 吉田秋生の初長編作品で、1978年から1981年にかけて別冊少女コミックで連載された作品。1978年頃というと日本が高度成長期だったが第1次オイルショックやドル円関係が大きく変動していた時期である。海外旅行ブームははじまっていてバッグパッカーも生まれていた。若者の文化はほぼすべてアメリカから。そんな時代にまだ大学生だった吉田秋生がカリフォルニアとニューヨークを舞台に描いた作品である。

 私の吉田秋生作品との出会いは1985年、大学生の頃、「河よりも長くゆるやかに」からである。こちらは高校生が主人公で舞台は米軍基地の街・横須賀。オムニバス形式の作品で単行本2冊にまとめられていた。それから当時出ていた作品を一通り読み、その後連載がはじまった「BANANA FISH」を基本的には単行本ベースで追いかけることにしていた。さらにバブル期の雑誌「HANAKO」に連載されていた「ハナコ月記」をほぼリアルタイムでおいかけていたものである。今日まですべての単行本作品(再録集は除く)を読んでいる。つまり吉田秋生の作品群が好きなのだろう。
 十数年あるいは何十年ぶりか本作をひっぱりだしてみた。はじめて読んだのは、ちょうど主人公のヒースと同年代の頃だった。もう40年近く前の話である。まさに「夢みる頃を過ぎても」。

「カリフォルニア物語」の舞台は1975年からの数年間。カリフォルニアとあるが、ほとんどの舞台はニューヨークを中心に繰り広げられる。主人公はヒース・スワンソン。カリフォルニア州サンディエゴでの高校生活を捨て、ニューヨークの下町で新たな人々と出会い、青年から大人へとなっていく。

 あらためて作品を読んでみて、吉田秋生という作家は、人の心の苦しみや痛みと、それに対する許容と心の癒やしを書き続けてきたのだなと思い至った。誰にでもさまざまな心の傷があり、その傷の深さは他者には推し量れないものがある。心の傷は抱えながら生きるしかないが、その苦しみ、痛みをやわらげたり、散らすことはできる。他者との関わり、時間、風景、笑い、日常、そういった癒やしがどこでどのように現れるか、それもまた他者には推し量れないひとりひとりのものである。
 吉田秋生は登場人物の心の傷をはっきりと示し、そして、それを抱えて生きる姿を示す。それが共感をもたらすのだと思う。
 長編デビュー作の本作から「BANANA FISH」シリーズともいえる「イヴの眠り」までは、このひりひりした心の内側を描くのに暴力が重要な役割を占めていた。しかし「海街diary」からは直接的な暴力の要素が姿を消し、より日常性の中にある心の傷に触れるようになっている。著者の変化を感じるが、「海街」と「カリフォルニア物語」を読み合わせることで、そのテーマの一貫性を深く思い知ることになった。

 本作では、まず主人公ヒースの心の傷がある。もっとも深い傷は家族との関係である。大学で教鞭をとり米国有数の弁護士である父、その父の期待に応えエリートコースを歩む年の離れた兄、夫の厳格さに疲れて子どもを置いて去った母。ヒース自身も有能な子どもだったが、母に似て好き嫌いがはっきりした個性の強い性格は、父との確執を生み、父の期待に応えられないこと、兄への劣等感から心に傷を負って育つ。
 そんなヒースは悪友たちとのトラブルを機に家を出てニューヨークに向かう。ニューヨークの下町では若者たちがそれぞれの理由から集まり、日々の暮らしをなんとか立てていた。ヒースは旅の途中で出会ったヒースよりも若い青年のイーヴと出会い、ともに暮らすことになる。イーブもまた家族との関係から深い心の傷を負った孤独な青年だった。
 元海兵隊でゲイのアレックス、アレックスと海兵隊仲間だったリロイ、イーヴと旧知で後にヒースたちの前に現れるトラブルメーカーのブッチと、その妹でヒースに恋するスウェナなど登場人物の多くが何らかの心の傷を負っており、それが物語に深みを与えていく。
 ヒースはニューヨークでの日常の中で心の傷をみつめ、癒やし、一方で新たな傷を負っていく。そしてたとえばイーヴの心を癒やし、同時に苦しめることになる。

 そのなかで皆の心の支えになるのがインディアンと通称される大人の男である。彼の存在なしには救いのない物語となっただろう。名前が示すように彼は抽象的存在であり、精神のバランスの取れた、自分の心の傷をみつめ許容しともに生きることのできる人間である。だからこそ他者の心の傷に敏感であり、適度にやさしく、自分を見失わず、周りに信頼される。ヒースもまた、高校時代にカリフォルニアを訪れていたインディアンに救われ、彼を頼ってニューヨークに行き、暮らすことになる。最初から最後までインディアンの物語でもあるのだ。

 本作には時代を反映したように麻薬があり、暴力があり、ベトナム戦争帰還者があり、貧困と差別が存在している。身近な者の壮絶な死もある。ハードボイルド小説のような世界である。主人公のヒースもインディアンも、しかし、特別な才能の持ち主ではない。事件を解決するわけでも、誰かを積極的に救うわけでもない。ヒースは時に流され、時に自暴自棄になり、時にやさしく、時に理由なく暴れる、どこにでもいる青年である。ただ本来恵まれた生活環境だったこと、顔もスタイルも良く、根っこがとても優しい青年だったこと、そして周りにさまざまな人たちがいる。それだけである。その点では「海街」やその続編で現在も連載が続いている「詩歌川百景」の主人公たちと変わらないのかも知れない。
 吉田秋生の視点は変わっていない。たぶん時が絵柄と物語をより優しくしているだけなのだろう。もっとも、今後の作品は分からないが、老成してきた作者の、それもまた楽しみである。

 では久々にもっとひりひりする天才的主人公が出会った日本人青年によって救われる「BANANA FISH」を読み直すとするか。あ、そうか。アッシュと英二の関係性はヒースとイーヴの相似なのか。

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エターナル・フレイム

THE ETERNAL FLAME
グレッグ・イーガン
2012


「エターナル・フレイム」は直交三部作の第3作目である。現実のこの宇宙とは違う物理法則の宇宙での物語。
 数学と物理学の探究の物語であると同時に、実は性と出産、子育てをめぐる現代の寓話でもある。前作でもこの後半のテーマが物語の柱にあったが、本作はさらにつきつめて考える材料を与えてくれる。

 前作「クロックワーク・ロケット」は、近代に入ったばかりの惑星ズーグマは過去になかった天体現象が頻発しはじめる。その研究をするうちに、それが惑星ズーグマを近々破壊してしまう天体現象であることに気がつき、対策のために世代船「孤絶」を打ち上げるまでの物語。直交宇宙では現実の宇宙と異なり逆ウラシマ効果が成り立っていたのだ。世代船「孤絶」の中で経過する時間は対静止系のズークマより「早く」過ぎるため「孤絶」の中で研究を進めズークマ破滅から人々を救う対処方法を発見してから帰還することで、出発よりわずか数年で未来の「孤絶」がズークマを救うというプロジェクトである。ちなみに、現実宇宙におけるウラシマ効果とは静止系に対して相対論的加速をしている対象の時間が遅くなることから、現実世界で「孤絶」のようなことをすると地球に戻ったとき浦島太郎のように超未来になってしまう。その逆の効果が得られるのだ。
 解説によると、前作「クロックワーク・ロケット」は現実世界の特殊相対性理論に相当するものを発見し、本作「エターナル・フレイム」は量子力学相当、次作「アロウズ・オブ・タイム」は一般相対性理論相当を発見し、物語が進むことになっているそうである。

 本作「エターナル・フレイム」で物語はいよいよ「世代船SF」らしくなっていく。世代船といえばハインラインの「宇宙の孤児」(1963)である。「宇宙の孤児」は目的を見失って荒れてしまった宇宙船の物語であるが、本作はみな母星を助けるという目的は見失っていない。秩序だった世界ではあったが世代船物語は制約条件の物語であり、「孤絶」では恒常的な食糧不足とそれに伴う産児制限が女性たちを苦しめていた。
 直交世界でズーグマの人々は、双と呼ばれる男女一組の対になって出生する。自然状態では2つの対、すなわち4人が生まれるが、母体が飢餓状態にあると1つの双、すなわち2人しか生まれない。周辺環境に合わせたしくみとして組み上がっているのである。「孤絶」では女性たちは常に飢餓状態を選択せざるを得ない状況に置かれていた。男たちはふつうに食事をしているのに、である。
 生物学者のカルロは双のカルラの飢えの苦しみを見ていた。それもあり飢餓状態を作らなくても何らかの方法で1組の双しか生まれないようにする方法はないかと「孤絶」内の動物を使って研究を続けていた。
 一方、カルラは女性として自らに課している慢性的な飢餓状態に苦しみながら、物理学者として物質のふるまいについての研究を続けてきた。そして学生のひとりパトリシアのアイディアで物質とエネルギーにまつわる新たな発見の時を迎えようとしていた。
 同じ頃、天体学者のタマラは「孤絶」に近づく「物体」を発見する。それは直交物質でできた小天体であり、将来の資源・エネルギー不足が想定される「孤絶」にとっては可能性の塊でもあった。しかし、放っておけば「物体」は「孤絶」との最接近後に離れ去ってしまう。タマラを中心に「物体」を「孤絶」の位置から離れないよう軌道修正させるプロジェクトがスタートした。
 タマラには、畑で農業をする双のタマロと父のエルミニオがいた。彼らはタマラが「孤絶」を一時的にも離れ危険な探査を行なうことに危惧する。もしタマラが死んでしまったら、タマロは代理双を見つけない限り子どもを持つことができなくなるからだ。エルミニオはタマラの決断を自分勝手だと非難する。そして、犯罪が行なわれる。
 男性であり生物学者のカルロ、女性であり物理学者であるカルラ、女性であり天体学者であるタマラ、この3人を軸に、「孤絶」の政治を行なう評議会、保守的な考え方の人たち、革新的な考え方の人たちなど様々な人物が「孤絶」という限られた不安定でかつ目的をもつ空間の中でそれぞれにぎりぎりの選択をとっていくのである。

 直交宇宙のズーグマの人々の生態は現実世界の地球の人類とは大きく異なる。目もあり口もあり脳もあるが、手足は意志の力で複数発生させることができるし、呼吸の必要もない。ただ、熱を放散させる必要性が高いので、運動の抑制や休息時に身体を冷やすための工夫も必要である。たとえば宇宙空間にいくと直交宇宙では真空で身体の熱を廃熱できないので冷却空気をまとうための冷却袋に身体を入れる必要があったりする。
 もっとも異なるのが繁殖方法である。繁殖方法が異なれば、親子関係、夫婦(?)関係なども当然異なってくる。しかし、それ以外は人類と同じような思考、行動をとるように描かれている。きわだって異なる部分こそ、作家がテーマを込めた部分である。だから、この部分は物語を展開させるために奇をてらう部分ではなく、作家が思いを込めた本質の部分であるのだ。

 直交三部作を読む上で、現代物理学や高等数学の知識があるにこしたことはない。知識が深ければ深いほど、理解があればあるほど、直交三部作は「別の物理法則をあてはめたら宇宙は、生物は、どのようなふるまいをするのか」について楽しむことができるだろう。しかし、それらを知らなくても、理解できなくても、直交三部作をおもしろく読むことはできる。そのためには、分からないところは字面だけをおいかけて読み飛ばすという独特の読書方法が必要なのだが、それさえ身についていれば大丈夫。イーガンもそんな読者を見捨ててはいない。
 最初に書いたとおり、直交三部作は、少なくとも第二部まで読んだところでは、数学的物理学的実験の物語であると同時に、産む性としての女性がそれ故に社会から差別的に扱われ続け、その自立を妨げられ続けているという現実の社会に対する物語でもある。そこのところは前者が難しすぎて分からなくても読めるはずなので、それを中心に読んでもまったく問題ないし、読む価値がある。

 かくいう私も相対性理論や量子論、宇宙論などは表面的になぞり、一般化された知識を持つ程度に過ぎず、たとえばディラックの波動方程式などはまったくといっていいほど分からない。放送大学の物理学の講義とか見ていても、数式が繰り込まれたりして変化していく過程をぼんやりと分からないままに見ているのがオチであり、つまり現実世界の数式と直交世界の数式のどっちがどっちかも分からないありさまである。
 それでも、その直交宇宙の物理法則については言葉で書かれていることをすなおに受け取り、カルラたちがわくわくしながら試行錯誤して発見することには半分以上目をつぶって読み進めれば、そこに描かれる物語は実におもしろかったりするのだ。
 本書のおもしろさを半分しか分かっていなくても、他の多くのハードSFの何倍かはおもしろいのだから全部理解したらものすごくおもしろいのだ。だから恐れずに読み進めるとよいと思う。

(2022.5.8)