漫画 ゴールデンカムイ

2022
野田サトル

「ゴールデンカムイ」の連載終了(完結)を記念して、このゴールデンウィークに全編無料配信されるというので通しで読むことにした。たしか2年ほど前に途中までを無料配信していて、そのとき一度読んでいたような気がしたが、いつものざる頭、しっかり忘れているので安心だ。

 時代は20世紀初頭、場所は北海道を中心とした作品だが、本編中の回想として幕末から明治維新にかけての新撰組の動きや戊辰戦争五稜郭の戦いなども登場する。本編は日露戦争が終結した2年後の1907年にはじまりおよそ2年弱の間に北海道中をかけまわり、さらには樺太を経て北海道に戻る実にあわただしい物語である。
 物語の筋は、一部のアイヌたちによって集められ、埋蔵された途方もない金塊の手がかりをめぐる主に3つの勢力の争奪戦である。その中で、鍵を握るアイヌの少女アシ(リ)パと、彼女と行動を共にする日露戦争の生き残り「不死身の杉本」を通じて、厳しい自然環境の中で生きるアイヌ民族や北方の少数民族の文化や開発以前の北海道の動植物、風景を漫画という「絵」で語る物語である。
 本筋では、アシ(リ)パと不死身の杉本、大日本帝国陸軍の情報将校鶴見中尉をリーダーとする一派、実は戊辰戦争で死んでいなかった土方歳三をリーダーとする一派の3つの勢力の争奪戦で、その3つの間で裏切りや策謀、変節する登場人物たちや、手がかりとなる者たち、手助けしたり関わりのある者たち、そして主要登場人物たちの過去が複雑にからみあいながら進行していく。
 漫画としては集英社のジャンプ系(ヤングジャンプ掲載)らしく、激しいアクションと暴力に満ちあふれた冒険奇譚である。しかし、舞台の北海道や樺太、そして、アイヌ文化が物語に深みを与え、とりわけ序盤の情景の美しさや動物たちの動き、狩猟・採取、料理のシーンの美しさ、細やかさはじっくりと鑑賞する価値がある。
 また、アイヌ語監修にアイヌ語研究の中川裕教授を迎え、ロシア語にも専門家の監修を迎えるなど、荒唐無稽な物語に終わらせない迫力を感じる。
 この物語の芯には少数民族であるアイヌ民族の現代への道も描かれている。差別され、独自の文化、言語を持つ民族であることを否定されてきたアイヌ民族を「差別し、否定してきた」側から書かれている物語なのだ。その差別はいまだ解消されているとは言えない。差別の解消とは「差別してきた側」の問題である。「ゴールデンカムイ」を通じて学ぶことも多かった。これは決して過去の物語ではない。

 さて、極私的感想だが、私の出自の半分は薩摩にあるので親類には薩摩弁を話す人も多い。当時の軍部は薩摩藩出の者が重用されていたこともあり、薩摩弁もしばしば登場する。薩摩弁が物語の展開の鍵となるシーンもある。薩摩弁が書かれていると、その言葉のイントネーションが頭に浮かんでくる。そして、イントネーションが正しいと文章や単語の意味がとても分かりやすくなる。ちょうど韓国語を文字で見てもまったく分からないのに音で聞いていると知っている単語が出てくるようなものである。あいにくアイヌ語のイントネーションは聞き覚えがないのだが、きっとそういうように日本語と隣接するアイヌ語には近いところと遠いところが混ざっていて、そこに独特の音節が入ってくるのだろうなどと想像してしまう。

「ゴールデンカムイ」を世界が帝国主義時代となり、北海道が開拓期にはいる中での騒乱の物語として読むも良いし、黄金の鍵となる囚人たちに彫られた入れ墨の謎と、その「入れ墨人皮」をめぐる猟奇的なサスペンスとして読むも良い、歴史改変として見るもよかろう。壮大なエンターテイメント作品である。気軽に読むこともできる。
 物語を追ったら、あわせて一コマ一コマに描かれた細やかな絵の中に込められた情報の多さ、深みも味わってみたい。そんな作品であった。

注:この作品は激しい暴力、戦争による大量殺人の情景、人間および動物の死体の毀損や、物語の進行上において必要な差別的言動などが描かれています。人によっては嫌悪感や心理的ショック等を持つ可能性もあります。著者は冷静かつバランスよく書いており、作品にはまったく問題ないと思いますが、人に勧める場合には、その点の留意や配慮が必要かも知れません。

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クロックワーク・ロケット


THE CLOCKWORK ROCKET
グレッグ・イーガン
2011

 あらゆる物語は現実世界で起きた出来事と、その解釈から生まれてくる。それはすべての文学にあてはまり、ファンタジーであれ、SFであれ、その派生物だ。
 現実世界で川上から大きな桃が流れてきたり、竹が光り輝いたり、桃や竹から子どもが出てくることはないが、それさえも現実世界と解釈のたまものである。物語は改変されていく。もしかしたら柴刈りに出かけたのはおじいさんだけでなく、おじいさんもおばあさんもだったのかもしれない。「柴刈り」というが、「柴」は切り株にした広葉樹から生えてくる新しい枝であり、そのやや細い枝を刈り集めるものであったはずだ。繰り返し柴を刈り山を新鮮に保つ技は燃料と様々な材料を安定して調達する手段でもあった。竹も同様にただ山に生えているものではなく、資材、食材として活用されるものであり、今日とは大きく意味を違えている。
 そして、竹を切りに行ったのははたしておじいさんだけだったのか。
 桃太郎はおばあさんが、かぐや姫はおじいさんがそれぞれ見つけるわけだが、近代以前、子どものいない夫婦が血のつながっていない養子をとり、「家=家業」を継がせることは特別なことではなかった。その背景を考えれば、この物語もまた今日とは意味が違ってくるだろう。
「おじいさんは山へ、おばあさんは川へ」という性差による労働区分も産業革命以前と以後、そして今日では違った意味を持つだろう。

「クロックワーク・ロケット」はグレッグ・イーガンによる「直交三部作」の第一部である。この直交の宇宙は、地球の存在する現実世界とは異なる物理法則の宇宙である。グレッグ・イーガンは物理法則を少し変えることで新たな宇宙を生み出した。それは、もっとも単純に言えば、E=-mc2の世界である。熱や位置エネルギーが発生するとき、同時に光が生み出される世界である。なんのこっちゃである。
 物理学は現実世界を数式で描き出すものだが、数学はその基礎となる学問体系である。そして、数学からはいくつもの世界の可能性が導き出される。イーガンは、複雑な方程式を持ち出さず、図やその世界で起きるできごとを通じて、別の物理法則世界を読者に垣間見せてくれる。もちろん、ちゃんと勉強した高校生程度の学力があれば、ある程度ついていくことは可能だし、ていねいに読んでいけばそういうおもしろさに気づくことができる。
 しかし、しかしだ諸君。高校数学から離れて40年、大学でも慎重に数学は避け、科学的知識は表面的な理論だけにとどめ、へえええ、おもしろいじゃん、とだけ生きてきた人間に、この直交宇宙を理解するのは簡単ではない。
 簡単ではないから読むのをためらっていた。
 んがしかし、しかしだ諸君。イーガンも長年SF作家としてだてに物語を書いてきたわけではない。魅力的な登場人物を通じて、難しい部分をすりぬけながらも楽しめる作品に仕立てている。さすがである。もしかするとこの宇宙における特異な条件を描いた「白熱光」などより読みやすいかも知れない。
 そして、「クロックワーク・ロケット」はひとりの「女性」の物語であり、少数者、性的弱者、女性問題を正面から扱った作品でもある。
 主人公は惑星ズーグマに生まれたヤルダ。単者である。この世界において、男性と女性は双と呼ばれる対で誕生する。男性のアゼリオと女性のアゼリア、男性のクラウディオとクラウディア。しかし、時に片方の性だけが生まれることもある。それが「単者」だ。単者に求められるのは代理双。すなわち、双の代わりとなる者。双は生殖のために必要なしくみであり、女性は男性の双によって子どもをつくることになる。ただし、これは近親による生殖とは言えない。しくみが違うのだ。詳しくは書かないでおくが、生殖には女性側の死が伴う。つまり、繁殖のためには女性側は死を受け入れなければならないのだ。それはこの世界における自然の摂理であるが、世界が文明化していくにつれ様々なやっかいな問題が生まれてくる。女性として自らの選択で生を選ぶ人たちと、それを喜ばない(伝統的な価値観の)人たち。

 ヤルダはズーグマの自然森林に近い辺境の農村で生まれた。幸い父にめぐまれ、本人が望む教育を受けられることになり、子どもの頃に見た光にまつわる不思議な光景の謎を解くためにヤルダは数学者となっていく。
 ちょうどヤルダが数学者となっていく頃、ズーグマの世界には異変が起きていた。空にこれまでにはない星が時々現れるようになっており、その頻度が徐々に増してきたのである。「疾走星」と呼ばれる星は、ヤルダが研究をはじめるきっかけとなったものであり、そして、疾走星をめぐる研究こそが、ヤルダをズーグマのアインシュタイン的な存在にしていくことになる。単者の女性であるが故に、故郷や大学の町で差別的な扱いを受けたり、意志を否定され、不当な拘束を受けることになっていく。しかし、ヤルダの研究によって、ズーグマがやがて惑星ごと破滅する運命であることが明らかになる。この危機を回避するために、ヤルダたちは途方もない計画に着手する。
 直交世界で、相対論的速度を出すことによって静止座標系に対し時間が無限大に伸びることが分かってきた。つまり、ウラシマ効果の逆である。アインシュタイン宇宙では宇宙船が静止系の地球に対して相対論的速度で離れ、帰ってきた場合、地球でははるかな未来となっているが、その逆、すなわちズーグマを相対論的速度で離れた宇宙船は無限の時間を過ごし、ズーグマにおけるわずか数年の時に戻ってくることが可能となる。その間に、宇宙船の中で世代交代をくり返しながら研究を続け、ズーグマが破滅を防ぐための科学・技術的発見・発明を行なおうというのだ。
 第一部「クロックワーク・ロケット」では、ヤルダが成長し、プロジェクトを軌道に乗せるまでが描かれる。
 イーガンは、新たな宇宙と新たな世界を生み出した。と同時に、そこに現実社会が抱える問題を色濃く反映させている。そして、それをエンターテイメントなSF小説として完成させている。すごいことだ。
 ヤルダに起きる様々なできごと。それは現実社会で女性やマイノリティの人たちが直面する問題である。ヤルダは、自らの生き方を選択し、女性、男性を問わず、それをサポートする人たちとともに生きてきた。かっこいい女性である。

 イーガンの作品に限らず、科学的に難しい部分のあるSFは、もしそれが中長編であれば、難しい部分はある程度読み飛ばしながら流れを追うと良い。それでも、物語を通して得られるところは大いにあるのだ。

 それにしても、数学大事。難しかった。

(2022.4.25)

漫画 ヒャッケンマワリ

漫画 ヒャッケンマワリ
竹田昼
2017

 内田百閒が好きだ。日記や随筆が実に面白い。一時期凝ってしまい旺文社文庫などの古本をあさっていた。旧仮名遣いの文庫だ。たしか90年代最初の頃である。そのころ福武書店が文庫で内田百閒の作品を新仮名遣い出版しはじめていた。1、2冊買ってはみたが、しっくりこなかった。内田百閒は旧仮名遣いに限る。独特の文章は旧仮名遣いを意識して書かれたものだから。別に読んでも読まなくても困る内容ではないのだが、ちょっと疲れたときなどにちょうどよい文章なのである。朝の準備などちいさなところに思いっきりこだわったり、たいへんなことなのに鷹揚にかまえることのできる、それを淡々と味わい深くおもしろく短い文章で表現できるのは内田百閒ならでは。生き方がそのまま文章を生み出している。

 内田百閒を好きな人はやまほどいるもので、映画にもなっている。「まあだだよ」(1993、黒澤明監督)は実にふざけていて良かった。内田百閒らしい「間」が映画に流れている。興行的には振るわずいろいろ言われているが黒澤監督の遺作としてふさわしい作品だと思う。
 内田百閒がらみの漫画で言えば一條裕子氏による「阿房列車」1号~3号が小学館から出版されている。その名の通り、内田百閒の「阿房列車」「第二阿房列車」「第三阿房列車」を原作に漫画化したもので、一條裕子氏の独特の「間」が百閒の文章のおもしろさを存分に引き出していた作品である。あとがきなどを読むと鉄道関係の表現を絵にするのにずいぶんと苦労されたようである。きっと楽しかったのだろう。

 さて、本書「ヒャッケンマワリ」も内田百閒ものの漫画であるが、「原作 内田百閒」ではない。著者曰く、内田百閒が作品や随筆の中で書いている「私」をそのままに受け入れ、平山三郎をはじめ、百閒の周りの著作などを参考にしながら、内田百閒を主人公に書いた「百閒とその周りの出来事」の作品である。それは百閒の実状に迫るわけでもなく、百閒の作品に迫るわけでもなく、ちょっと気になったエピソードを漫画に仕立て上げるという「作業」である。だから突然、世界の旅人・宮脇俊三が登場したりもする。内田百閒の複数の著作を読み込み、確認し、そこから派生して調べ物をして、なおかつ絵にするというとても面倒くさい「作業」だが、たぶんとても楽しいのだろう。この作者は内田百閒という宝物を見つけた趣味人である。その趣味人らしい「間」はどことなく一條裕子氏にも似ている。いや、これは内田百閒の「間」に似ているのだ。
 どうやら内田百閒に深入りした創作者たちは、百閒の「間」に捉えられているようである。
 また内田百閒の著書をいろいろと読み返したくなったが、いくつか親族に貸しているので読みたい気持ちを大切にしてあわてずに待つとしよう。

(2022.4.18)

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巨星


THE ISLAND AND OTHER STORIES

ピーター・ワッツ
2004

「ブラインドサイト」「エコープラクシア」のピーター・ワッツ短編集である。長編2冊は読んだのだが、もう一度読まないとなんとも書けないなあと感想には書いている。おもしろいのだが、「知性」「自由意志」といったものが全体の根底に流れているテーマなのでていねいに読まないと意図がつかめなかったりする。どうにもワッツはこのテーマに「神」というか「宗教」も挟んでくるのでこのあたりが難しいのだ。
 しかし本書は短編集である。短編集の良いところはエッセンスがつまって、たいていがワンテーマだということだ。つまり作者の意図がはっきりしているし、はっきりさせたくないことであればそうとわかる。本書には11作品が収録されているが、そのうち最後の3作品はひとつの連なりになっているので連作中編といってもいいかもしれない。そして、「ブラインドサイト」や「エコープラクシア」にも連なるテーマを扱ってもいる。

「天使」AI兵器が作戦命令の上位司令からの個別手順変更をくり返されるうちに、自らの使命や機能について進化を遂げていくお話し。ちょっとブラック入っています。

「遊星からの物体Xの回想」名作映画「遊星からの物体X」です。ジョン・カーペンター監督版です。映画は人間サイドから描かれていますが、当然「物体X」にも動機と目的があるわけで、そちら側から書かれた作品。映画を見直す前にもう一度これを読んでから見たい。すごくすごく映画がおもしろくなりそう。(悪い見方です)。これを読むためだけでも本書の価値あり!

「神の目」これもブラック入っています。「内心の自由」とか考えさせるお話し。ある犯罪性向があって、それを簡単に判別できて、手術もなしに簡単に取り除けるとしたら、そういう社会を望みますか? 怖い怖い。

「乱雲」生命はどこから生まれるのか? どうやって生まれるのか? もし、地球の雲が生命となりその生存と繁殖のための活動をはじめたら地上はどうなるだろうか? 荒唐無稽な話だけど、やっぱりブラック入ってます。

「肉の言葉」AI技術を使って私そっくりに言語表現を反応する仮想人格をつくれるとしたら作りますか?主人公のウェスコットは「死」を研究する科学者。死んだ恋人キャロルの仮想人格と対話している。彼には現実に同棲している恋人のリンがいて、いまペットの猫が死んだ…。それがきっかけとなってリンはウェスコットの元を去るが…。ウエットウェアとソフトウェアの境界はどこにあるのかな。

「帰郷」深海での作業目的のために作り替えられた身体と精神。自ら理由も分からずにある場所へと導かれていく。そして、作り替えられる前の認識を少しずつ蘇らせるが…。ここでも「知性」とか「自由意志」がワッツのテーマであることをうかがわせる。ちょっと怖いお話し。

「炎のブランド」バイオハザードを起こした企業が、それを隠蔽していたがやがて発覚する。そのバイオハザードは組み換え遺伝子の水平伝播による人体発火現象。ブラックユーモアですが、現実にも公害と隠蔽の組み合わせはこれまでも起きていること。だから怖いのだけれど。

「付随的被害」「天使」はAI兵器の進化の話だったけれど、こちらは人間の兵士の反応を高めるため意識に上がる前に反射的に意識に上がり行動するであろう行なうインターセプトシステムを実験的に導入された兵士(ややこしい)の話。作戦行動中に民間人を殺してしまった。システムエラー?それとも、確かめずに殺す意志があったのか?ここでは「自由意志」と「道徳(倫理)」が語られる。そして、ブラック。こういう解決は好きではないが、作品としてよくできている。

 訳者(解説者)によると、以下はSunflowers cycleシリーズの作品群で、時系列としては未訳の長編がホットショットと巨星・島の間に入るらしい。執筆順は全然違うのだが、この短編集では時系列で並べてある。親切。最初の「ホットショット」が少しわかりにくいため、冒頭に訳者による解説がつけられている。それにならって概要を説明すると、ワームホールネットワークを銀河系に構築するため小惑星を改造して時空特異点をつかった光速に近い航行を行なう人類のディアスポラ計画。通常はAIチンプが運行管理を行なうが必要に応じて人間の乗員が目ざめさせられる。5万年を超える片道旅行である。その恒星船のひとつエリオフィラの物語。

「ホットショット」太陽系の太陽は死にかけている。もちろんすぐではない。しかし、人類は地球を離れる必要があった。国連ディアスポラ公社によって祖父母の代から慎重に計画され育てられてきた恒星船の乗員。これから5万年以上の旅に出る、早熟の子どもたち。サンディもそのひとり。すでに自由意志など認められず、しかし、「自分で選択すること」を大人たちに求められる矛盾。サンディは選択の前に危険な観光体験である太陽ダイブを望む。太陽ダイブに使われるのは、サンディが乗り込む小惑星改造宇宙船エリオフォラの推進システムのプロトタイプ。ワームホールを利用した投石機だ。それで太陽から水星まで一気に帰ってくる。サンディはそこで未来をみつける。

「巨星」旅立ちから数百万年が過ぎていた。恒星船エリオフィラの内部でハキムと「ぼく」が目ざめさせられた。すでに赤い恒星スルトと巨大な氷惑星トゥーレと無数のデブリの星系内にいたが、エリオフィラが目的とするワームホールゲート構築がAIチンプによりおこなわわれているふしはない。そして、エリオフィラはスルトに衝突するコースをとっている。「ぼく」はかつてこの船で起きた「反乱」には加担せず、AIチンプとのリンクを唯一保っていた。ハキムはリンクを焼き切っている。だからぼくだけが知っていることも多い。そしてこの星系でのトラブルに気がついたAIチンプが「ぼく」を起こし、必要からハキムを起こしたのだ。エリオフィラとミッションを守るために。
未訳の長編の後日談。そして、ここでも「自由意志」と「認識」の問題が。

「島」サンディが起こされた。数千年ぶりのこと。そこには肉体年齢で20歳ぐらいのディクスがいて、自らを「息子」と名乗っていた。そして、AIチンプとリンクしている。目ざめさせられた星系では恒星の方から信号が届いていた。それは知性を感じさせるものであり、そのためにサンディが起こされたのだ。恒星をとりまくダイソン球的生命。それはワームホールゲート構築船エリオフィラに止まれと叫んでいた。ゲート構築を中断、移動し、ダイソン球的生命体を守ろうとするサンディ。ただかたくなに数億年前の地球で指示されたプログラムを果たそうとそれを拒むAIチンプと、AIチンプとリンクし、チンプに従うばかりのディクス。
 AIチンプと乗員たちの果てのない抗争はいまだ続いていた。
 永遠の時間の中で垣間見た彼らが構築したネットワークを通過する人類の末裔あるいは他の知的生命体。しかし、エリオフィラと接するものはなく、孤独のままに宇宙の熱死までこのミッションを続けるのだろうか。
 サンディは自らの運命を呪い、そして運命に生きる。

 ピーター・ワッツは「自由意志」や「意識」「認識」というところにこだわる。ほとんどそのために作品を書いているとしか思えない。そこのところがちょっとわかりにくくなるので、メインのストーリーが複雑に見えてしまう。メインのストーリー展開と、そこで繰り広げられる「自由意志」の問題を頭の中で整理して切り分けながら読むと、とても面白いことに気がつく。短編だからこそ、わかること。長編だと頭がぐちゃぐちゃしてくる。心して長編も読み直したい。

(2022.4.18)

映画 ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密

デイビッド・イェーツ監督 2022

 映画「ファンタスティック・ビースト」シリーズ3作品目であり、ハリー・ポッターシリーズの前日譚らしくなってくるのがこの3作品目である。だってホグワーツ魔法魔術学校の校長先生ダンブルドアの秘密ですから。

 1作目「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」(2016)は1926年、魔法動物学者のニュート・スキャマンダーがニューヨークに船で到着し、騒動を起こす物語。ジョニー・デップが演ずるゲラード・グリンデルバルドが最後に登場し、ハリー・ポッターシリーズとのつながりを強く意識させる物語であった。グリンデルバルドは長期にわたって収監されていた監獄でヴォルデモートに殺されるのだ。ちなみにニュートは教科書「幻の動物とその生息地」の著者である。


 2作目「ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生」(2018)の舞台は1927年のパリ。主人公のニュートは兄のテセウスや同級生で学生時代の恋人かつ今や兄の婚約者のリタ・レストレンジから魔法省に入るよう圧力をかけられていた。前作のニューヨークでの大騒動により旅行禁止命令の下にあったのである。ニュートはホグワーツ魔法魔術学校時代の恩師ダンブルドアから脱走したグリンデルバルドの追跡を要請される。ダンブルドアとグリンデルバルドは血の盟約によりお互いに闘うことはできないが、ダンブルドアはグリンデルバルドの純血主義に懸念を抱いていた。
 そこでニュートはこっそりパリに向かう。同行者は、前作で騒動に巻き込まれたのにも関わらず忘却術から脱した非魔法族のジェイコブ。ある意味他者とコミュニケーションをとれないニュートの唯一の親友。パリでの不穏な空気のもと、ニュートは恋人未満のティナと和解し、ジェイコブは相思相愛のクイニーと離ればなれになり、グリンデルバルドはパリで力を取りもどしていく。なんといっても、不死者ニコラス・フラメルが生きて登場したのがポッターシリーズファンには嬉しいかも。

 そして本作「ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密」である。時は1930年代前半頃。舞台は主にベルリン。つまり現実の人間世界ではヒトラーが台頭し、政権を樹立する頃であろう。そういう雰囲気の描き方である。国際魔法連盟は次のリーダーを決める選挙の時を迎えていた。グリンデルバルドは徐々に勢力を広げつつあった。血の盟約の支配下にあり直接グリンデルバルドと戦えないダンブルドアは、ニュート、ニュートの助手のバンテイ、ニュートの兄で先の大戦の英雄テセウス、マグル(非魔法使い)でニュートの親友のジェイコブ、それに、呪文学の先生ユーラリー、前作で登場したエチオピアの魔法名家のユスフの5人でチームを結成し、未来を読めるグリンデルバルドに、「計画のない計画」で対抗する。果たしてグリンデルバルドを止められるのか。
 という物語。
 アルバス・ダンブルドアの弟アバーフォースやホグワーツ魔法魔術学校も登場して、いよいよポッターシリーズらしくなってきた。
 しかし、物語としては1、2作以上に恋愛ものと言える。1作目から続いているニュートとティナの物語、ジェイコブとクイニーの物語、それに、若き日のダンブルドアとグリンデルバルドの物語。ほかにもアルバスとアバーフォースのこじれた関係などもあるのだけれど、それらが大人のファンタジーとして物語の中心にある。そして、いままでのところ世界最大の戦争だった第二次世界大戦の予兆。そういう意味ではすかっとはしないのが第3作である。

 しかし、このシリーズの主役はあくまで「魔法動物」たち。ニュートの相棒ニフラーのテディとボウトラックルのピケットがこれまで以上に大活躍。さらには、カニのようなやつが恐怖と笑いを誘い出す。前作ではカッパやウー(ズーウー)が登場したが、本作では「麒麟」である。「麒麟が来る!」が物語の鍵を握っていたりする。ヨーロッパ的な空想動物たちから、アジアに拡がってきて、これからまだまだ妖怪的な存在が登場するのではないだろうか。その映像化に期待。もうストーリーは置いて、ニュートの魔法動物ワールドだけを、BBCの動物映画シリーズのように流しっぱなしにしてくれたらかなり売れるのではないかと思うような感じもする。

 さて、娯楽映画にいちいち難しいことを付け加えなくても純粋に楽しめばいいのだが、本作でようやくはっきりとダンブルドアとグリンデルバルドの恋愛関係が語られた。しかも「特別なこと」ではなく、あたりまえのように書かれている。ファンタジー映画での同性愛はあまり明確に語られてこなかっただけに時代の変化を感じる。はっきり言う、これはとてもいいことだ。中国では上映に際し関係性を明言した6秒ほどのシーンをカットしたという。とても残念なことである。しかし、時代は変わる。人間関係の多様性を柔軟に受容できる世界になるよう、後退しないよう、この映画を言祝ぎたい。

兵士よ問うなかれ

SOLDIER,NOT ASK
ゴードン・R・ディクスン
1967

 1965年のヒューゴー賞中短編部門受賞作を長編化したもので、「ドルセイ」「ドルセイへの道」に続くチャイルド・サイクルシリーズの1冊である。日本では文庫化が1985年である。1965年の長編賞はフリッツ・ライバーの「放浪惑星」、フランク・ハーバードの「デューン砂の惑星」が1966年である。
 チャイルド・サイクルシリーズは、人類が種として成長する過程を、その転換点となる個人に焦点を当てて描こうとした作品群であり、端的に言えば、宇宙時代を迎えて人類はいくつかの特殊な性質をもつ集団に分化していった。戦闘的要素に特化したドルセイ、個人が全体として信仰にゆだねる友邦世界、形而上学にすぐれた異邦世界など、それら政治・社会・文化の分離に対し、旧地球では旧来の人類が存在していた。このシリーズでは、これら別々の道を歩んでいる人類が再統合し、さらなる進化をめざすという道を描こうとしたようである。
 そして、本書「兵士よ問うなかれ」はもっともそのことについてはっきり書かれている作品と言える。
 日本では、先にイラストレイテッドSFとして外伝的な「ドルセイ魂」「ドルセイの決断」が翻訳され、その後、本編である「ドルセイ!」「ドルセイへの道」が翻訳、この「兵士よ問うなかれ」はそれらに続いて翻訳された。訳者あとがきを読む限り、この後も刊行予定が決まっており、おそらくは翻訳に入っていただろうが、残念ながら本書が日本では最後の訳出となってしまった。

 さて、SF世界では、アシモフの「ファウンデーション」やハーバードの「デューン」を例に出すまでもなく作者によるひとつの未来史が描かれることが多い。チャイルド・サイクルシリーズも、ある意味では「未来史」なのだが、作者のディクスンは未来史としては捉えておらず、人類のありよう、哲学的志向性のようなものを書きたかったようである。とはいえ、「ファウンデーション」で「歴史心理学」が出てくるように、本シリーズでも「個体発生学」という形而上学的分析が出てくる。特定の個人が人類の成長上の焦点になることが分析されるのである。

 本書では、それはタム・オリンである。地球人で幼い頃「破滅」の精神を植え付けられ、それに反発するようにすべての管理や支配から逃れるために努力して星間ニュースサービスのニュースマン・ギルドに入ることが認められた若者。しかし、その入社(?)直前に妹と訪れた「最終百科事典」見学コースで、最終百科事典を完成させ運営する可能性を持つ特殊能力の持ち主であることが発覚。タム・オリンは、「最終百科事典」プロジェクトに縛り付けられることを嫌い、世界で最も自由になる可能性の高いニュースマン・ギルドで高い地位を得ることを望む。そのためには幾多のスクープが必要である。そのためにタム・オリンは戦場に取材に向かう。そして、ある出来事を経て、彼はただの取材者から、信仰に裏付けられた「友邦世界」を絶滅させるために自らの能力を発揮するおそるべき復讐者に変わっていくのであった。

 本書のエピソードは、「ドルセイ!」や「ドルセイの決断」「ドルセイ魂」で語られたいくつかのエピソードのサイドストーリーとなり、前作をより深く理解するしかけになっている。その点では、本書が翻訳された中では一番おもしろい。

 同時に、それぞれの作品で語られた主題が本書でもくり返される。
 ドルセイ人では、それは、
 最小の人的被害で最大の効果を上げること。
 死よりもドルセイ人としての名誉を守ること。
 だったと理解しているが、宇宙に出て分離したそれぞれの文化でも同じような志向性がみられるのだ。
 言い換えると、
 最小の人的被害で最大の効果を上げること。
 死よりも人類としての名誉・尊厳・発展を守ること。
 といった感じだろうか。
 アメリカン・ヒーローの原点といったところかも知れない。
 信念に基づく自己犠牲は美しい。
 しかし、それほど美しいものなのだろうか。その行為はやむにやまれぬものであり、二項対立の中で解決できない矛盾を抱えてしまった結果なのではないだろうか。そうして、そうならないように努力することが、なにより大切なのではないか。
 半世紀以上前に書かれた作品を読みながら、「人類、成長しねーなー」と思い、戦争を止めるのに「戦争反対」とささやくしかできない自分を悔しがるのであった。

(2022.4.3)

ドルセイ魂

THE SPIRIT OF DORSEI

ゴードン・R・ディクスン
1979

 ディクスンの「チャイルド・サイクル」シリーズのひとつで外伝的な作品「ドルセイの道」と並ぶのが本書「ドルセイの魂」である。アマンダ三世がハル・メインに話す過去の物語として2中編「アマンダ・モーガン」と「兄弟たち」が所収されている。
「アマンダ・モーガン」はアマンダ一世が93歳の頃、まだドルセイが傭兵軍人惑星として自立を始めたばかりの頃、アマンダ三世からは2世紀も前のできごとである。ドルセイの主な大人の男たちは傭兵として各地に出ていた。残るのは老人と女性と子ども。かつての冬のでかせぎ地域のような状況である。そこにつけこみ、地球政府が侵略部隊を派遣、ドルセイを占領し、ドルセイ人たちを惑星から追放し分散、軍人惑星を解体するのが目的である。
 ドルセイを開拓してきた中心人物の一人、アマンダはこの侵略部隊を相手に交渉し、戦略を練り、そして、彼らを敗退させた歴史上の人物であった。いかにして、圧倒的な軍事力を持つ者たちを退けたのか。ここにも、「ドルセイ」作品群に示される「最小の人的被害で最大の効果を上げること」が冷徹に示される。
 もうひとつの作品「兄弟たち」は、イアン・グレイムとケンジー・グレイムの話である。「ドルセイの決断」のサイドストーリーであったイアンとケンジーの双子の兄弟と、その幼なじみであるアマンダ二世の愛の物語は、誰もが信じていたケンジーとアマンダの結婚が彼らの成長により失われ、そして、アマンダは実はイアンをひそかに愛していたこと、それはイアンには受け入れることができなかったことが描かれている。
 光を受け持つケンジーと、影を受け持つイアン。双子でありながら、その性格はまったく逆であるが、お互いにお互いを信頼し、深い兄弟愛で結ばれていた。そのケンジーが銃弾に倒れ、イアンはケンジーとドルセイの名誉を守るための行動をとる。それは、ドルセイ人ではない人たちには一見理解しがたい行為であるが、終わってしまえば実にドルセイらしい行為であった。やはりここでも、「ドルセイの決断」で感じたとおり、ドルセイならではの倫理観が明確にされる。
 最小の人的被害で最大の効果を上げること。
 死よりもドルセイ人としての名誉を守ること。

 その「人的被害」や「死」とは、自分・自軍・守るべき対象、敵・敵軍のすべてに対して冷徹に適用される。言ってしまえば、闘わずして勝つのがもっとも望ましく、一方で、名誉のためなら大量虐殺も厭わない。
 繰り返しこの主題が書かれている。チャイルド・サイクルシリーズの中心的作品である「ドルセイ!」では読み取りにくいこの部分こそ、ディクスンが書きたかったことではないのだろうか。
 そして、それは、冷戦下におけるアメリカの価値観と実によくマッチしていたのではないだろうか。

(2022.3.27)

ドルセイの決断

LOST DORSEI

ゴードン・R・ディクスン
1980

 ディクスンの「チャイルド・サイクル」シリーズのひとつで外伝的なものだが、日本では本編よりも先に訳されているらしい。文庫版では中編「ドルセイの決断」、短編「戦士」と、サンドラ・ミーゼルによるディクスンとチャイルド・サイクルシリーズ評および、当時の最新作「最終百科事典」の部分訳が掲載されている。文庫版は1984年に発行。

「戦士」では、軍人惑星ドルセイの名家グレイム家の双子の司令官の弟で血管に氷が流れていると評されるイアン・グレイムがドルセイ人としての名誉を果たすための1日を描いた作品。「ドルセイ魂」所収の「兄弟たち」で見せた振る舞いに似た作品である。
「ドルセイの決断」は、やはり「ドルセイ!」に登場するドルセイ人士官のコルンナ・エル・マンとドルセイの女神たるアマンダ二世が惑星セタに迫る革命を調停するために訪れる話。原題の「ロストドルセイ」とは、ドルセイ人でありながらドルセイすなわち軍神であることをやめた男のことである。セタのナハール領地においてナハール軍の陸軍軍楽隊長を務めるマイケル・ド・サンドヴァルはロストドルセイであった。故に軍楽隊長であり、武器を捨てた男である。革命が迫る中、ナハールの領主が陣取る丘陵の上で、他の軍人たちはこぞって革命に加わるため逃亡し、残されたのはアマンダ二世とコルンナ、現地の司令官を務めていたイアンとケンジーのふたり、それに、異邦世界人の大使であるパドマ、それに領主ら一部の人間。そして、逃亡しなかった軍楽隊の隊員たちである。革命を先導しているのは「ドルセイ!」で主人公ドネルの敵となったセタのウィリアム家。つまり、これは「ドルセイ!」の前日譚とも言える。
 しかし、この物語の本当の主人公はずっと脇で見え隠れする軍楽隊長マイケル。ドルセイに生まれ育ち、ドルセイ人の軍事に優れた肉体と能力を持ちながら武器を楽器に置き換えた男。しかし、軍楽隊員がほとんど残ったように、彼は「軍」を育てる力を持っていた。もっとも、その軍は武器を扱うのが苦手だったわけだが。そして、武器を捨てたマイケルは、ドルセイ人としての誇りと、武器を捨てるにいたった信念との間で揺れ動く。そんな彼が下した決断とは。
 ここで背景を知っておかねばならないのは、ドルセイ人にとって、軍は自らの信念の体現であり、傭兵として契約をし、軍を育て、戦略を練り、闘いに勝利するまでが彼らの生きるすべてなのだが、そこにはドルセイならではの倫理観が存在している。
 それは、つきつめれば、次のふたつである。
 最小の人的被害で最大の効果を上げること。
 死よりもドルセイ人としての名誉を守ること。

 その「人的被害」や「死」とは、自分・自軍・守るべき対象、敵・敵軍のすべてに対して冷徹に適用される。言ってしまえば、闘わずして勝つのがもっとも望ましく、一方で、名誉のためなら大量虐殺も厭わない。一歩間違えれば凶戦士であり、その反面、優秀な政治家ともなり得る。
 きわめてアメリカ的な存在とも言える。
 そして、このドルセイらしからぬ振る舞いのドルセイ人の行為こそ、そのことを明確にする。自己犠牲は決して美しいものではない。自己犠牲はそれ以外の他者によって赦しとなり社会の昇華をもたらす。映画「アルマゲドン」がきわめてアメリカ的な映画であり、大ヒットしたように、この作品に描かれる自己犠牲は極めて個人的な信念に基づく振る舞いであっても、自己犠牲故に感動に書き換えられるのである。
 それをどう捉えるのか、それは読者次第ではなかろうか。

(2022.3.27)

ドルセイへの道

NECROMANCER

ゴードン・R・ディクスン
1962

「チャイルド・サイクル」シリーズのひとつ。前日譚にあたるのかな。原題は「魔術師あるいは予言者」。時代は21世紀、宇宙時代の幕開けである。主人公のポール・フォーメインは鉱山技師。人口増加で求職難の地球において、鉱山技師は特殊能力者であり、その人材確保に苦労していた。5年前の海難事故で幻聴などに悩まされていたポールは、厳しい学業と訓練により手にした鉱山技師の職でいよいよ鉱山に降りる日が来た。幻聴はささやく。「降りてはいけない」と。その言葉通り、彼は事故に遭い、片腕を失ってしまう。そして、ポールの残された右腕は信じられないほどに発達し、そもそもの頑健強力な身体に常人を超えた右腕を持つ男になったのである。左手の再生は通常の方法ではうまくいかず、ポールは「第二の法則」と呼ぶ人間の真の力を引き出すことを標榜する礼拝ギルドの元を訪ねることにしたのだった。しかし、その礼拝ギルドは地球の管理社会や宇宙開発のあり方に対抗する組織の隠れ蓑であった。
「ドルセイ!」で描かれた宇宙に拡散する過程で人類が12に分離するその背景を描いた作品である。
 冷戦下のアメリカはソ連(ソヴィエト連邦)との核戦争の危機におびえていた。世界は第三次世界大戦の危機を迎えると同時に、ユーリ・ガガーリンが1961年に友人宇宙飛行を行ない、それがアメリカのアポロ計画をもたらし、宇宙開発競争がはじまった時期でもある。宇宙開発と戦争は双子である。核戦争の鍵を握る「大陸間弾道ミサイル」は、宇宙開発における「ロケット」そのものである。その発射技術、制御技術は、まったく同じと言ってもよい。1945年に第二次世界大戦が日本の降伏を持って終結し、国際連合が構成され、世界は統合を模索し平和を誓ったその舌の根も乾かぬうちから、全人類を破滅に追いやろうという軍拡と冷たい戦争をはじめたのである。
 そういう時代感を踏まえて読めば、この作品の意義は格段に上がってくる。
 そして、なんということだろう。21世紀の今でさえも。

(2022.3.27)

ドルセイ!

DORSEI!

ゴードン・R・ディクスン
1960

 1983年に邦訳された「ドルセイ!」を2022年に読む。83年といえば大学生で、本は買い放題していた頃なのに手にも取らなかった。ミリタリーSFはあまり読まないし、シリーズもので手に取る感じではなかったのだ。たまたま4冊一度に入手できたのでまとめて読んでみた。最初から余談だが、訳者が今住んでいる町の近所に(当時)お住まいだったようである。昔の奥付には著者や訳者の住所が書かれていたりする。インターネット以前の時代である。
 本題に入ろう。本作の訳者あとがきによると、「ドルセイ!」は著者のディクスンが「チャイルド・サイクル」と名付け、14世紀から24世紀までの全12作大河ドラマで、著者構想では歴史小説3、現代小説3、SF6作品とのことである。
 ちなみに、日本では本書「ドルセイ!」「ドルセイの道」(1962)「ドルセイの決断」(1980)「ドルセイ魂」(1979)と、「兵士よ、問うなかれ」(1968長編版)が邦訳されており、未訳として「The Final Encyclopedia」 (1984)、「The Dorsai Companion 」(1986)、「The Chantry Guild」 (1988)、「Young Bleys」 (1991)、「Other」 (1994)、「Antagonist」 (2007,with David W. Wixon)がある。
 ディクスンといえば、私が思い浮かべるのは軽妙な笑えるSFである。なかでも「ホーカ」シリーズはなかなかの名作だと思う。
 そのディクスンがもっとも力を入れていた作品群が「チャイルド・サイクル」であり、人間と歴史・文化・哲学・政治(軍事)のありようと幼年期の終わりを描く予定であったらしい。だから、「ドルセイ!」は私が誤解したようなミリタリーSFではないらしい。「らしい」というのは、やはりミリタリーSFだからだ。それは宇宙に分化した人類のひとつ惑星ドルセイのドルセイ人が軍人として傑出した特徴を持つ人たちであり、小説のタイトル通りドルセイ人が主人公であるからだ。
「ドルセイ!」では、惑星ドルセイで軍人としての訓練を受けて育った名家グレイム家の若き士官候補生ドナル・グレイムが主人公である。ドルセイの中でも優れた軍人を排出するグレイム家においても、ドナルの才覚は傑出したものがあった。それは余人には理解できないもので超一流の推理力というか直感力のようなものであり、的確以上に現状や他者の動きを把握することができる能力である。その能力故の行動は、それ故に彼を最高の軍人にするかも知れなかったし最悪の軍人にするかもしれなかった。
 西暦2403年、600億の人類は12の異なった世界、文化、人たちに分裂していた。その中で、ドルセイ人たちは各世界から傭兵として請われ、その契約金をもって惑星を維持し、栄えさせていたのだ。
 ドナルもまた最初の契約を結ぶため星間の超豪華客船に乗り込んでいた。彼はそこで世界への影響力を持つ惑星セタの皇太子ウィリアムとの間に関わりを持つことになる。それはやがてドナルを高みに押し上げ、巻き上がった世界の混乱を平定し、分裂した世界がつながるきっかけを生むことになる。そんなドナルの軍人としての半生が描かれる。
 成長譚というにはドナルが特別すぎる。ミリタリーSFというには戦闘シーンは少なく、人間ドラマや戦略ドラマ風である。

 著者が望んだ「チャイルド・サイクル」という言葉より「ドルセイシリーズ」という言葉の方が当時は先行していたようである。アメリカではとても人気が高い作品だったようだが、日本ではさほどでもなかった。そのため後半は未訳となっている。
 今回4作品を読んだのだが、時系列は異なるものの同じ登場人物が主従を変えながら次々に登場してくる。また作品中で描かれる描写の中に、別の作品のエピソードの前後が書かれていたりする。それぞれのエピソードは丹念に書かれるというより余地が多い。まるで「ギリシャ神話」辞典を読んでいるかのような気になることもある。だから読み下すのには時間がかかる。さほど長い作品ではないがそういう積み重なる面白さを楽しめるかどうかが鍵である。

 それにしても、歴史はたしかに語っているし、21世紀の現在になってもこの地球上で人類同士の侵略行為が起きているのだが、武力なき外交というのはありえないものなのだろうか。

(2022.3.27)