漫画 BANANA FISH

吉田秋生
1994

 吉田秋生の作品の中で現在までもっとも長編となる作品が「BANANA FISH」である。小学館の「別冊少女コミック」(別コミ)で1985年5月から1994年4月までほぼ9年間にわたり途中休みをはさみながら連載され、単行本は1987年1月に1巻、1994年10月に最終刊の19巻が発行されている。この頃、吉田秋生は、マガジンハウス社の女性誌「Hanako」に月1でオールカラー見開きの「ハナコ月記」を連載していた。また、白泉社の少女漫画誌「LaLa」では「櫻の園」も執筆、連載している。
「ハナコ月記」は身の回りエッセイ的な作品で、それまでの短編作品などにみられる生活感の中のユーモアが前面にでている肩の力の抜けた作品となっている。バブル経済の中での若い新婚夫婦と友人の日常というテーマで、関越自動車道がスキー場から都内までスキー客のために下り線が完全に渋滞したできごとなどが実体験をベースに語られている。
 一方、少し若年層向きの雑誌に書かれた「櫻の園」は、舞台は女子高で「桜の園」を演じる演劇部の少女たちの群像劇。こちらも、それまでの吉田秋生の作品群から決して遠く離れているわけではなく笑いを抑え情感豊かでシリアスな作品に仕上げている。
 吉田秋生はそれまで主に「別コミ」中心に執筆活動を行なっていたが、「BANANA FISH」の直前には、同じ小学館でもよりマニアックな作者、作品の多い「プチフラワー」で「河よりも長くゆるやかに」を執筆している。「別コミ」も個性的な作品が多かったが「プチフラワー」はややSF・ファンタジー系作品が多く、当時住み分けのはっきりしていた男女各漫画誌の中では男性読者もひきつける力をもっていた。
「河よりも長くゆるやかに」のあと、古巣の「別コミ」で連載をはじめたのが「BANANA FISH」である。

 話を本筋に行く前に、いつものように極私的感想から。「BANANA FISH」連載開始の頃は、大学生で少女漫画の多様な世界に再没入しはじめた時期であった。それより以前から好きだった萩尾望都、竹宮恵子、清原なつの、わかつきめぐみ、一条ゆかりといった作品群から、「花とゆめ」「ぶーけ」「プチフラワー」に連載を持つような作者たちに出会った頃である。吉田秋生も単行本の「「河よりも長くゆるやかに」を皮切りに、当時出ていた一通りは読んでいたが、「別コミ」には手を出していなかったのと、単行本が大学卒業、就職時期にかかっていたこともあり第1巻はやや遅れて入手していた。その後も、バブル期の仕事の繁忙、退社、流浪期間、フリーター、就職してふたたびの繁忙、転居に次ぐ転居といった具合で、ほとんどは単行本発行すぐに手に入れていたが、いくつかは版を重ねた後に手にしている。そういったわけで、初読はとぎれとぎれの印象しかなく、単行本が全巻そろってから何回かゆっくり読み直してようやく全体像をつかんだという感じであった。
 このたび実に久しぶりに読み返し、自分自身の時の流れを思い返すことにもなった。
 私は、まだ、生きている。

 それでは本題に入ろう。
 舞台は主にニューヨークの下町。「カリフォルニア物語」と同じであり、同様に社会からはみ出てしまった人たちが主人公である。ただ「カリフォルニア物語」と決定的に違うのは物語の背景、設定であり、その結果生まれる暴力に満ちた世界だ。
 有名な作品であるからあらすじもいらないだろうが、おおまかに触れておくと、ベトナム戦争末期、本国帰還をまつばかりの舞台でひとりの兵士が突然銃を乱射し、仲間の多くを殺してしまう。生き残ったひとりは帰還後フリーのジャーナリストになり、その「事件」を心の片隅に置いていた。1985年ニューヨーク、ストリートキッズの日常を取材しようともくろむ日本人のカメラマン伊部とそのアシスタントとして同行してきた大学生・奥村英二は、白人系が多いグループのリーダー、アッシュと引き合わされる。
 その直後、その場所が襲撃を受け、英二はアッシュとともに逃走をはじめることになる。これがアッシュと英二のふたり約2年に渡る激動の日々の始まりであった。あらゆることに天才的で絶対的なリーダーの素養を持つアッシュと、アスリートとしての将来を絶たれ息苦しい日本から息抜きのようにやってきた英二、まったく異なる生活・文化背景を持つふたりは、お互いの中に自らが「持ち得ない」ものをみる。それはふたりにとっての「救済」となるものだった。
 物語は「バナナフィッシュ」という謎の言葉と薬物、いくつかの事件を皮切りに、血なまぐさい展開をみせる。他のストリートキッズとの抗争、アッシュを自らの後継者かつ隷属者として「創ろうとした」マフィアのボスとの闘い、アッシュは生きるために、そして英二を守るためにひたすら襲いかかる者たち、敵対する者たちを殺し続ける運命となる。
 英二もまた、別の形でアッシュを守ろうとする。

 本筋だけ読めば、ドラッグと暴力、権力者の支配欲、それに立ち向かうジャーナリストと影を負ったヒーローのサスペンスストーリーである。この本筋は、時を経て同じ世界線を描いた「YASHA 夜叉」「イヴの眠り」が書かれており、こちらは近未来SF色の強い作品となる。

「BANANA FISH」は、吉野秋生の代表作といっていいが、注目したいのは初長編「カリフォルニア物語」との相似性だ。
 同じニューヨークを舞台とするが主人公ヒースは故郷のカリフォルニアで親子関係に悩んでいた。厳格な父親は自分を支配しようとしているとしか考えられない。兄とは異母兄弟、母なしで育つ点はアッシュと同じである。ヒースは地元でのできごとがきっかけでニューヨークの下町で暮らす。アッシュもまた、故郷に住むことができなくなり、ニューヨークが彼の地となる。ヒースは兄に反発するがコンプレックスも持つ。そして兄の死と、親しく弟のように接していたイーヴの非業の死。アッシュもまた、異母兄の存在が大きく、その死が苦しみとなる。そして、アッシュを守ろうとして死んだスキッパーや親友の死はアッシュを追い詰めてしまう。
「カリフォルニア物語」のヒースと「BANANA FISH」のアッシュの違いは、その「できごと」の性質だ。アッシュは幼い頃から大人から性的虐待を受け続けた過去を持ち、ストリートキッズのリーダーとして恐れられ、尊敬されてはいても、無償の愛を受けること、感じることのない生を過ごしてきた。少なくともヒースには、ニューヨークでの良くも悪くも日常があり、その中でさらなる心の傷も受けるが周りの人間関係から癒やしも受けることができた。それは「救済」と呼べるほどのものではないが生きていくための心の置きどころとなる。
しかし、英二と会うまでのアッシュにはそのような「癒やし」や「心の置きどころ」の余地はなく、だからこそアッシュは彼に対し無知と無垢な故に対等な他者として接することができた英二に惹かれ、救済を得ることができた。アッシュが英二から救済を得た理由はただひとつ、英二もまたアッシュから救済を得ていたからである。奇跡的な無償の愛とでも言えようか。
 この関係性があるからこそ、客観的に見れば「冷酷な殺人マシーン」であるアッシュのそれこそ暴力に次ぐ暴力の物語が人を引きつけ、美しく昇華する。

「カリフォルニア物語」ではヒースが自らの成長のために旅立ち幕を閉じた。残された者たちに予感だけを残して。
「BANANA FISH」ではアッシュが真の救済を得ることで幕を閉じる。それ以外の終わり方はとれなかっただろう。リアルタイムの読者もまた物語がどこに向かっているのかを悟っていたことを著者が番外編のあとがきで匂わせている。それほどまでに完結した物語だったのだ。

 もちろん長い物語にはアッシュの天敵であり、アッシュに激しい愛憎をみせるマフィアのボス・ゴルツィネ、アッシュの家庭教師でもあったブランカ、英二に「なれなかった自分」をみるユエルン、アッシュに惹かれるがアッシュとの闘いを望むシン、苦悩を抱えた親友のショーター、観察者であり当事者でもあるジャーナリストのマックスなど彼らの視点で語られる物語があり、読む者をひきつけて止まないのである。
 吉田秋生は主人公の周りの人たちを描くのが実にうまい。漫画という絵と文字とコマ割りが生み出すコンテキストを使いこなしているのだ。
 周りの人たちを書くのがうまいということは、番外編、サイドストーリーである短編がたまらなく魅力的になる。それらサイドストーリーは、本編を補完し、本編を読んだ者のみに与えられるご褒美のようなものである。
 幸いにして、「BANANA FISH」には単行本19巻の後半と別冊である「PRIVATE OPINION」としてご褒美が出されている。伊部と英二の物語、ブランカとアッシュの出会い、そして、英二とシンのその後も描かれる。
 シンについては、「YASHA 夜叉」でさらにその後があるのだが、それはまた別のお話…。

 実は「BANANA FSH」には「恋愛」の要素はほとんどない。強いて言えばジャーナリストのマックス・ロボと離婚調停中の妻の関係、ストリートキッズのお目付役のような刑事のチャーリーとショーターの姉の関係があるくらいである。いびつな「恋心」としてはゴルツィネのアッシュに対する執着がある。アッシュは自分の「モノ」でありアッシュがどれほどゴルツィネを忌み嫌っていても、ゴルツィネは最終的にアッシュが自分のいいなりになると信じて疑わない。アッシュはゴルツィネにとって理想の自分であり、自分の投影であり、アッシュに真の自由意志があるとは思っていないのだ。支配欲、独占欲の対象である。マフィアのボスとしてのふるまいであるから物語的には「ふつう」に見えてしまうのだが、登場人物たちの中でもっとも性格的にゆがんだ人物だろう。
 恋愛を持ち込まないことで、この物語は人間の善なる姿と悪なる姿を純化して読者のつきつめる。
 物語の軸はアッシュと英二、アッシュとゴルツィネにある。美しい物語として前者を読むか、悪夢の物語として後者を読むか、すくなくとも2回はくり返して読んで欲しい作品である。

カテゴリー:

アロウズ・オブ・タイム


THE ARROUW OF TIME
グレッグ・イーガン
2017

「時間の矢」というのは不思議なもので、数学でも物理学でも時間の流れの過去と未来に区別はつかないが、エントロピーの増加や因果律という形で人類は時間の矢を感じている。そして、過去は変えられず未来は不確定で、どちらも光速の円錐の外側は知るよしもない。「現在という存在」のみが切れ目なくある、と、感じている。ただ、相対性理論によって「現在」は観測点によって異なることがわかり、分かりやすい例としてウラシマ効果が紹介された。現代のGPSのような精細なシステムにはこの効果による必要な修正が反映されている。さらに、量子論により時間の概念もまた変化するが、いまのところ人類の日常生活に見える形で影響することはない。しかし、現代の科学は「時間」「時間の矢」をもてあましていることだけは確かだ。

 本書「アロウズ・オブ・タイム」は「直交三部作」の第三部であり完結編である。時間と空間が等価となる我らが宇宙とは異なる物理法則で成り立つ宇宙の物語。E=-mc2が成り立つ宇宙で惑星ズークマは直交星団と衝突し破滅する危機を迎えていた。その危機に対し、直交星団と平行方向に巨大世代船「孤絶」を打ち上げ、逆ウラシマ効果によって世代船の中で科学技術を発展させズークマ時間では数年後に何世代もかけた未来の「孤絶」が帰ってきてズークマを救って欲しい。それが願いであり、「クロックワーク・ロケット」の物語であった。そして「エターナル・フレイム」では様々な技術的ブレークスルーを迎え、「孤絶」の人々の生き方を変える可能性、新たなエネルギー源の可能性を見た。そして、本作「アロウズ・オブ・タイム」はついに惑星ズークマを救う解決策とともに「孤絶」を180度回頭させて帰還への長い日々をはじめることとなった。解決策が示されたといってもまだ未知の領域は残されている。そして、社会文化的にも惑星ズークマの生き方とは根本的に変わりつつあった「孤絶」では帰還と救済という本来の目的を果たそうとする人々と、このまま「孤絶」や新天地を求めてそこで生きていくべきだという人々に意見が分かれていた。物理学者のアガタは、その未知の領域、重力と光の関係から、直交宇宙の構造についての研究を続けていた。一方、既知の知見から直交宇宙の特性上ある方法を使えば未来から現在へ情報を送り届けることが可能であることが判明し、「未来からメッセージを受け取る」ための道具が開発されつつあった。そしてこの技術に対して物理的な破壊工作に出る過激組織も登場するのであった。
 前作から数世代のち、繁殖方法が変わったことで人々の意識はずいぶんと変わってきた。それでも「育てる性」としての男性と、「産む性」としての女性という概念は残っている時代。帰還とはすなわちこれから先、母星到着までの世代は「何もすることがない」という意味でもある。加えて未来からメッセージを受け取れるようになったら、本当に何もする気が起きなくなるのではないか?
 どう思います。
 本書では未来から過去への時間の流れという事象と、もうひとつ、孤絶の人々にとっては過去から未来に流れる時間に対し、「孤絶」が帰還の方向を向いたことで直交星とは逆の流れとなってしまい、それまで反物質として振る舞っていた直交物質が、通常物質だけれど「孤絶」の時間に対して逆、すなわち未来から過去に流れるものに変わったという事象が描かれる。何言っているか分かります?分からない人は、1、2作を読もう!
 P・K・ディックの悪夢の世界の再来である
 あらためてディックってすごいなあと感じ入ってしまった。
 しかし、ディックは数学的裏付けなしに書いたが、イーガンは違う。宇宙を数学的、物理学的に作り上げ、そこにこの時間逆転世界を書ききるのである。いやあ、何言ってるのかわかんないね。後半にあるここのところの表現を読むためだけでも、この三部作を読む価値はある。間違いない。
 そしてふと思う。自由意志ってなんだろう、と。

 さて、もちろん本作でももうひとつのテーマ、性と社会が大きな要素を占めている。第二部で徹底して詰めてあるので、本作ではその未来でしかないのだが、これは人類に対する挑戦でもある。これについてもまた第一部からの流れを読んで欲しい。男女問わず。

 大団円を迎えた直交三部作。数学や物理学的説明とそこからくる情景やシーンについては正直言って半分も理解できていない。それこそディックのつじつまの合わない支離滅裂だけど読ませてしまうのと、「私にとっては」何が違うのかというぐらいである。もちろん、大学1年でていねいに線形代数学や物理学の入口を学んだ学生や高校3年の数学Ⅲや物理Ⅱ(今はどう言うのかな?)まできちんと履修し、その上で数学や物理学に対して関心を失わずに来た人であれば私よりは100倍以上楽しめる作品であることは間違いない。
 幼い頃からSFを読んできたけれど、そういう積み重ねが足りてこなかったことを、とても反省する三部作であった。でも、そうでなくても読んで欲しい。私と同じぐらいでも、数学や物理学が大嫌いでも、そこを読み飛ばしても、おもしろいから。

漫画 カリフォルニア物語

吉田秋生
1981

 吉田秋生の初長編作品で、1978年から1981年にかけて別冊少女コミックで連載された作品。1978年頃というと日本が高度成長期だったが第1次オイルショックやドル円関係が大きく変動していた時期である。海外旅行ブームははじまっていてバッグパッカーも生まれていた。若者の文化はほぼすべてアメリカから。そんな時代にまだ大学生だった吉田秋生がカリフォルニアとニューヨークを舞台に描いた作品である。

 私の吉田秋生作品との出会いは1985年、大学生の頃、「河よりも長くゆるやかに」からである。こちらは高校生が主人公で舞台は米軍基地の街・横須賀。オムニバス形式の作品で単行本2冊にまとめられていた。それから当時出ていた作品を一通り読み、その後連載がはじまった「BANANA FISH」を基本的には単行本ベースで追いかけることにしていた。さらにバブル期の雑誌「HANAKO」に連載されていた「ハナコ月記」をほぼリアルタイムでおいかけていたものである。今日まですべての単行本作品(再録集は除く)を読んでいる。つまり吉田秋生の作品群が好きなのだろう。
 十数年あるいは何十年ぶりか本作をひっぱりだしてみた。はじめて読んだのは、ちょうど主人公のヒースと同年代の頃だった。もう40年近く前の話である。まさに「夢みる頃を過ぎても」。

「カリフォルニア物語」の舞台は1975年からの数年間。カリフォルニアとあるが、ほとんどの舞台はニューヨークを中心に繰り広げられる。主人公はヒース・スワンソン。カリフォルニア州サンディエゴでの高校生活を捨て、ニューヨークの下町で新たな人々と出会い、青年から大人へとなっていく。

 あらためて作品を読んでみて、吉田秋生という作家は、人の心の苦しみや痛みと、それに対する許容と心の癒やしを書き続けてきたのだなと思い至った。誰にでもさまざまな心の傷があり、その傷の深さは他者には推し量れないものがある。心の傷は抱えながら生きるしかないが、その苦しみ、痛みをやわらげたり、散らすことはできる。他者との関わり、時間、風景、笑い、日常、そういった癒やしがどこでどのように現れるか、それもまた他者には推し量れないひとりひとりのものである。
 吉田秋生は登場人物の心の傷をはっきりと示し、そして、それを抱えて生きる姿を示す。それが共感をもたらすのだと思う。
 長編デビュー作の本作から「BANANA FISH」シリーズともいえる「イヴの眠り」までは、このひりひりした心の内側を描くのに暴力が重要な役割を占めていた。しかし「海街diary」からは直接的な暴力の要素が姿を消し、より日常性の中にある心の傷に触れるようになっている。著者の変化を感じるが、「海街」と「カリフォルニア物語」を読み合わせることで、そのテーマの一貫性を深く思い知ることになった。

 本作では、まず主人公ヒースの心の傷がある。もっとも深い傷は家族との関係である。大学で教鞭をとり米国有数の弁護士である父、その父の期待に応えエリートコースを歩む年の離れた兄、夫の厳格さに疲れて子どもを置いて去った母。ヒース自身も有能な子どもだったが、母に似て好き嫌いがはっきりした個性の強い性格は、父との確執を生み、父の期待に応えられないこと、兄への劣等感から心に傷を負って育つ。
 そんなヒースは悪友たちとのトラブルを機に家を出てニューヨークに向かう。ニューヨークの下町では若者たちがそれぞれの理由から集まり、日々の暮らしをなんとか立てていた。ヒースは旅の途中で出会ったヒースよりも若い青年のイーヴと出会い、ともに暮らすことになる。イーブもまた家族との関係から深い心の傷を負った孤独な青年だった。
 元海兵隊でゲイのアレックス、アレックスと海兵隊仲間だったリロイ、イーヴと旧知で後にヒースたちの前に現れるトラブルメーカーのブッチと、その妹でヒースに恋するスウェナなど登場人物の多くが何らかの心の傷を負っており、それが物語に深みを与えていく。
 ヒースはニューヨークでの日常の中で心の傷をみつめ、癒やし、一方で新たな傷を負っていく。そしてたとえばイーヴの心を癒やし、同時に苦しめることになる。

 そのなかで皆の心の支えになるのがインディアンと通称される大人の男である。彼の存在なしには救いのない物語となっただろう。名前が示すように彼は抽象的存在であり、精神のバランスの取れた、自分の心の傷をみつめ許容しともに生きることのできる人間である。だからこそ他者の心の傷に敏感であり、適度にやさしく、自分を見失わず、周りに信頼される。ヒースもまた、高校時代にカリフォルニアを訪れていたインディアンに救われ、彼を頼ってニューヨークに行き、暮らすことになる。最初から最後までインディアンの物語でもあるのだ。

 本作には時代を反映したように麻薬があり、暴力があり、ベトナム戦争帰還者があり、貧困と差別が存在している。身近な者の壮絶な死もある。ハードボイルド小説のような世界である。主人公のヒースもインディアンも、しかし、特別な才能の持ち主ではない。事件を解決するわけでも、誰かを積極的に救うわけでもない。ヒースは時に流され、時に自暴自棄になり、時にやさしく、時に理由なく暴れる、どこにでもいる青年である。ただ本来恵まれた生活環境だったこと、顔もスタイルも良く、根っこがとても優しい青年だったこと、そして周りにさまざまな人たちがいる。それだけである。その点では「海街」やその続編で現在も連載が続いている「詩歌川百景」の主人公たちと変わらないのかも知れない。
 吉田秋生の視点は変わっていない。たぶん時が絵柄と物語をより優しくしているだけなのだろう。もっとも、今後の作品は分からないが、老成してきた作者の、それもまた楽しみである。

 では久々にもっとひりひりする天才的主人公が出会った日本人青年によって救われる「BANANA FISH」を読み直すとするか。あ、そうか。アッシュと英二の関係性はヒースとイーヴの相似なのか。

カテゴリー:

エターナル・フレイム

THE ETERNAL FLAME
グレッグ・イーガン
2012


「エターナル・フレイム」は直交三部作の第3作目である。現実のこの宇宙とは違う物理法則の宇宙での物語。
 数学と物理学の探究の物語であると同時に、実は性と出産、子育てをめぐる現代の寓話でもある。前作でもこの後半のテーマが物語の柱にあったが、本作はさらにつきつめて考える材料を与えてくれる。

 前作「クロックワーク・ロケット」は、近代に入ったばかりの惑星ズーグマは過去になかった天体現象が頻発しはじめる。その研究をするうちに、それが惑星ズーグマを近々破壊してしまう天体現象であることに気がつき、対策のために世代船「孤絶」を打ち上げるまでの物語。直交宇宙では現実の宇宙と異なり逆ウラシマ効果が成り立っていたのだ。世代船「孤絶」の中で経過する時間は対静止系のズークマより「早く」過ぎるため「孤絶」の中で研究を進めズークマ破滅から人々を救う対処方法を発見してから帰還することで、出発よりわずか数年で未来の「孤絶」がズークマを救うというプロジェクトである。ちなみに、現実宇宙におけるウラシマ効果とは静止系に対して相対論的加速をしている対象の時間が遅くなることから、現実世界で「孤絶」のようなことをすると地球に戻ったとき浦島太郎のように超未来になってしまう。その逆の効果が得られるのだ。
 解説によると、前作「クロックワーク・ロケット」は現実世界の特殊相対性理論に相当するものを発見し、本作「エターナル・フレイム」は量子力学相当、次作「アロウズ・オブ・タイム」は一般相対性理論相当を発見し、物語が進むことになっているそうである。

 本作「エターナル・フレイム」で物語はいよいよ「世代船SF」らしくなっていく。世代船といえばハインラインの「宇宙の孤児」(1963)である。「宇宙の孤児」は目的を見失って荒れてしまった宇宙船の物語であるが、本作はみな母星を助けるという目的は見失っていない。秩序だった世界ではあったが世代船物語は制約条件の物語であり、「孤絶」では恒常的な食糧不足とそれに伴う産児制限が女性たちを苦しめていた。
 直交世界でズーグマの人々は、双と呼ばれる男女一組の対になって出生する。自然状態では2つの対、すなわち4人が生まれるが、母体が飢餓状態にあると1つの双、すなわち2人しか生まれない。周辺環境に合わせたしくみとして組み上がっているのである。「孤絶」では女性たちは常に飢餓状態を選択せざるを得ない状況に置かれていた。男たちはふつうに食事をしているのに、である。
 生物学者のカルロは双のカルラの飢えの苦しみを見ていた。それもあり飢餓状態を作らなくても何らかの方法で1組の双しか生まれないようにする方法はないかと「孤絶」内の動物を使って研究を続けていた。
 一方、カルラは女性として自らに課している慢性的な飢餓状態に苦しみながら、物理学者として物質のふるまいについての研究を続けてきた。そして学生のひとりパトリシアのアイディアで物質とエネルギーにまつわる新たな発見の時を迎えようとしていた。
 同じ頃、天体学者のタマラは「孤絶」に近づく「物体」を発見する。それは直交物質でできた小天体であり、将来の資源・エネルギー不足が想定される「孤絶」にとっては可能性の塊でもあった。しかし、放っておけば「物体」は「孤絶」との最接近後に離れ去ってしまう。タマラを中心に「物体」を「孤絶」の位置から離れないよう軌道修正させるプロジェクトがスタートした。
 タマラには、畑で農業をする双のタマロと父のエルミニオがいた。彼らはタマラが「孤絶」を一時的にも離れ危険な探査を行なうことに危惧する。もしタマラが死んでしまったら、タマロは代理双を見つけない限り子どもを持つことができなくなるからだ。エルミニオはタマラの決断を自分勝手だと非難する。そして、犯罪が行なわれる。
 男性であり生物学者のカルロ、女性であり物理学者であるカルラ、女性であり天体学者であるタマラ、この3人を軸に、「孤絶」の政治を行なう評議会、保守的な考え方の人たち、革新的な考え方の人たちなど様々な人物が「孤絶」という限られた不安定でかつ目的をもつ空間の中でそれぞれにぎりぎりの選択をとっていくのである。

 直交宇宙のズーグマの人々の生態は現実世界の地球の人類とは大きく異なる。目もあり口もあり脳もあるが、手足は意志の力で複数発生させることができるし、呼吸の必要もない。ただ、熱を放散させる必要性が高いので、運動の抑制や休息時に身体を冷やすための工夫も必要である。たとえば宇宙空間にいくと直交宇宙では真空で身体の熱を廃熱できないので冷却空気をまとうための冷却袋に身体を入れる必要があったりする。
 もっとも異なるのが繁殖方法である。繁殖方法が異なれば、親子関係、夫婦(?)関係なども当然異なってくる。しかし、それ以外は人類と同じような思考、行動をとるように描かれている。きわだって異なる部分こそ、作家がテーマを込めた部分である。だから、この部分は物語を展開させるために奇をてらう部分ではなく、作家が思いを込めた本質の部分であるのだ。

 直交三部作を読む上で、現代物理学や高等数学の知識があるにこしたことはない。知識が深ければ深いほど、理解があればあるほど、直交三部作は「別の物理法則をあてはめたら宇宙は、生物は、どのようなふるまいをするのか」について楽しむことができるだろう。しかし、それらを知らなくても、理解できなくても、直交三部作をおもしろく読むことはできる。そのためには、分からないところは字面だけをおいかけて読み飛ばすという独特の読書方法が必要なのだが、それさえ身についていれば大丈夫。イーガンもそんな読者を見捨ててはいない。
 最初に書いたとおり、直交三部作は、少なくとも第二部まで読んだところでは、数学的物理学的実験の物語であると同時に、産む性としての女性がそれ故に社会から差別的に扱われ続け、その自立を妨げられ続けているという現実の社会に対する物語でもある。そこのところは前者が難しすぎて分からなくても読めるはずなので、それを中心に読んでもまったく問題ないし、読む価値がある。

 かくいう私も相対性理論や量子論、宇宙論などは表面的になぞり、一般化された知識を持つ程度に過ぎず、たとえばディラックの波動方程式などはまったくといっていいほど分からない。放送大学の物理学の講義とか見ていても、数式が繰り込まれたりして変化していく過程をぼんやりと分からないままに見ているのがオチであり、つまり現実世界の数式と直交世界の数式のどっちがどっちかも分からないありさまである。
 それでも、その直交宇宙の物理法則については言葉で書かれていることをすなおに受け取り、カルラたちがわくわくしながら試行錯誤して発見することには半分以上目をつぶって読み進めれば、そこに描かれる物語は実におもしろかったりするのだ。
 本書のおもしろさを半分しか分かっていなくても、他の多くのハードSFの何倍かはおもしろいのだから全部理解したらものすごくおもしろいのだ。だから恐れずに読み進めるとよいと思う。

(2022.5.8)

漫画 ゴールデンカムイ

2022
野田サトル

「ゴールデンカムイ」の連載終了(完結)を記念して、このゴールデンウィークに全編無料配信されるというので通しで読むことにした。たしか2年ほど前に途中までを無料配信していて、そのとき一度読んでいたような気がしたが、いつものざる頭、しっかり忘れているので安心だ。

 時代は20世紀初頭、場所は北海道を中心とした作品だが、本編中の回想として幕末から明治維新にかけての新撰組の動きや戊辰戦争五稜郭の戦いなども登場する。本編は日露戦争が終結した2年後の1907年にはじまりおよそ2年弱の間に北海道中をかけまわり、さらには樺太を経て北海道に戻る実にあわただしい物語である。
 物語の筋は、一部のアイヌたちによって集められ、埋蔵された途方もない金塊の手がかりをめぐる主に3つの勢力の争奪戦である。その中で、鍵を握るアイヌの少女アシ(リ)パと、彼女と行動を共にする日露戦争の生き残り「不死身の杉本」を通じて、厳しい自然環境の中で生きるアイヌ民族や北方の少数民族の文化や開発以前の北海道の動植物、風景を漫画という「絵」で語る物語である。
 本筋では、アシ(リ)パと不死身の杉本、大日本帝国陸軍の情報将校鶴見中尉をリーダーとする一派、実は戊辰戦争で死んでいなかった土方歳三をリーダーとする一派の3つの勢力の争奪戦で、その3つの間で裏切りや策謀、変節する登場人物たちや、手がかりとなる者たち、手助けしたり関わりのある者たち、そして主要登場人物たちの過去が複雑にからみあいながら進行していく。
 漫画としては集英社のジャンプ系(ヤングジャンプ掲載)らしく、激しいアクションと暴力に満ちあふれた冒険奇譚である。しかし、舞台の北海道や樺太、そして、アイヌ文化が物語に深みを与え、とりわけ序盤の情景の美しさや動物たちの動き、狩猟・採取、料理のシーンの美しさ、細やかさはじっくりと鑑賞する価値がある。
 また、アイヌ語監修にアイヌ語研究の中川裕教授を迎え、ロシア語にも専門家の監修を迎えるなど、荒唐無稽な物語に終わらせない迫力を感じる。
 この物語の芯には少数民族であるアイヌ民族の現代への道も描かれている。差別され、独自の文化、言語を持つ民族であることを否定されてきたアイヌ民族を「差別し、否定してきた」側から書かれている物語なのだ。その差別はいまだ解消されているとは言えない。差別の解消とは「差別してきた側」の問題である。「ゴールデンカムイ」を通じて学ぶことも多かった。これは決して過去の物語ではない。

 さて、極私的感想だが、私の出自の半分は薩摩にあるので親類には薩摩弁を話す人も多い。当時の軍部は薩摩藩出の者が重用されていたこともあり、薩摩弁もしばしば登場する。薩摩弁が物語の展開の鍵となるシーンもある。薩摩弁が書かれていると、その言葉のイントネーションが頭に浮かんでくる。そして、イントネーションが正しいと文章や単語の意味がとても分かりやすくなる。ちょうど韓国語を文字で見てもまったく分からないのに音で聞いていると知っている単語が出てくるようなものである。あいにくアイヌ語のイントネーションは聞き覚えがないのだが、きっとそういうように日本語と隣接するアイヌ語には近いところと遠いところが混ざっていて、そこに独特の音節が入ってくるのだろうなどと想像してしまう。

「ゴールデンカムイ」を世界が帝国主義時代となり、北海道が開拓期にはいる中での騒乱の物語として読むも良いし、黄金の鍵となる囚人たちに彫られた入れ墨の謎と、その「入れ墨人皮」をめぐる猟奇的なサスペンスとして読むも良い、歴史改変として見るもよかろう。壮大なエンターテイメント作品である。気軽に読むこともできる。
 物語を追ったら、あわせて一コマ一コマに描かれた細やかな絵の中に込められた情報の多さ、深みも味わってみたい。そんな作品であった。

注:この作品は激しい暴力、戦争による大量殺人の情景、人間および動物の死体の毀損や、物語の進行上において必要な差別的言動などが描かれています。人によっては嫌悪感や心理的ショック等を持つ可能性もあります。著者は冷静かつバランスよく書いており、作品にはまったく問題ないと思いますが、人に勧める場合には、その点の留意や配慮が必要かも知れません。

カテゴリー:

クロックワーク・ロケット


THE CLOCKWORK ROCKET
グレッグ・イーガン
2011

 あらゆる物語は現実世界で起きた出来事と、その解釈から生まれてくる。それはすべての文学にあてはまり、ファンタジーであれ、SFであれ、その派生物だ。
 現実世界で川上から大きな桃が流れてきたり、竹が光り輝いたり、桃や竹から子どもが出てくることはないが、それさえも現実世界と解釈のたまものである。物語は改変されていく。もしかしたら柴刈りに出かけたのはおじいさんだけでなく、おじいさんもおばあさんもだったのかもしれない。「柴刈り」というが、「柴」は切り株にした広葉樹から生えてくる新しい枝であり、そのやや細い枝を刈り集めるものであったはずだ。繰り返し柴を刈り山を新鮮に保つ技は燃料と様々な材料を安定して調達する手段でもあった。竹も同様にただ山に生えているものではなく、資材、食材として活用されるものであり、今日とは大きく意味を違えている。
 そして、竹を切りに行ったのははたしておじいさんだけだったのか。
 桃太郎はおばあさんが、かぐや姫はおじいさんがそれぞれ見つけるわけだが、近代以前、子どものいない夫婦が血のつながっていない養子をとり、「家=家業」を継がせることは特別なことではなかった。その背景を考えれば、この物語もまた今日とは意味が違ってくるだろう。
「おじいさんは山へ、おばあさんは川へ」という性差による労働区分も産業革命以前と以後、そして今日では違った意味を持つだろう。

「クロックワーク・ロケット」はグレッグ・イーガンによる「直交三部作」の第一部である。この直交の宇宙は、地球の存在する現実世界とは異なる物理法則の宇宙である。グレッグ・イーガンは物理法則を少し変えることで新たな宇宙を生み出した。それは、もっとも単純に言えば、E=-mc2の世界である。熱や位置エネルギーが発生するとき、同時に光が生み出される世界である。なんのこっちゃである。
 物理学は現実世界を数式で描き出すものだが、数学はその基礎となる学問体系である。そして、数学からはいくつもの世界の可能性が導き出される。イーガンは、複雑な方程式を持ち出さず、図やその世界で起きるできごとを通じて、別の物理法則世界を読者に垣間見せてくれる。もちろん、ちゃんと勉強した高校生程度の学力があれば、ある程度ついていくことは可能だし、ていねいに読んでいけばそういうおもしろさに気づくことができる。
 しかし、しかしだ諸君。高校数学から離れて40年、大学でも慎重に数学は避け、科学的知識は表面的な理論だけにとどめ、へえええ、おもしろいじゃん、とだけ生きてきた人間に、この直交宇宙を理解するのは簡単ではない。
 簡単ではないから読むのをためらっていた。
 んがしかし、しかしだ諸君。イーガンも長年SF作家としてだてに物語を書いてきたわけではない。魅力的な登場人物を通じて、難しい部分をすりぬけながらも楽しめる作品に仕立てている。さすがである。もしかするとこの宇宙における特異な条件を描いた「白熱光」などより読みやすいかも知れない。
 そして、「クロックワーク・ロケット」はひとりの「女性」の物語であり、少数者、性的弱者、女性問題を正面から扱った作品でもある。
 主人公は惑星ズーグマに生まれたヤルダ。単者である。この世界において、男性と女性は双と呼ばれる対で誕生する。男性のアゼリオと女性のアゼリア、男性のクラウディオとクラウディア。しかし、時に片方の性だけが生まれることもある。それが「単者」だ。単者に求められるのは代理双。すなわち、双の代わりとなる者。双は生殖のために必要なしくみであり、女性は男性の双によって子どもをつくることになる。ただし、これは近親による生殖とは言えない。しくみが違うのだ。詳しくは書かないでおくが、生殖には女性側の死が伴う。つまり、繁殖のためには女性側は死を受け入れなければならないのだ。それはこの世界における自然の摂理であるが、世界が文明化していくにつれ様々なやっかいな問題が生まれてくる。女性として自らの選択で生を選ぶ人たちと、それを喜ばない(伝統的な価値観の)人たち。

 ヤルダはズーグマの自然森林に近い辺境の農村で生まれた。幸い父にめぐまれ、本人が望む教育を受けられることになり、子どもの頃に見た光にまつわる不思議な光景の謎を解くためにヤルダは数学者となっていく。
 ちょうどヤルダが数学者となっていく頃、ズーグマの世界には異変が起きていた。空にこれまでにはない星が時々現れるようになっており、その頻度が徐々に増してきたのである。「疾走星」と呼ばれる星は、ヤルダが研究をはじめるきっかけとなったものであり、そして、疾走星をめぐる研究こそが、ヤルダをズーグマのアインシュタイン的な存在にしていくことになる。単者の女性であるが故に、故郷や大学の町で差別的な扱いを受けたり、意志を否定され、不当な拘束を受けることになっていく。しかし、ヤルダの研究によって、ズーグマがやがて惑星ごと破滅する運命であることが明らかになる。この危機を回避するために、ヤルダたちは途方もない計画に着手する。
 直交世界で、相対論的速度を出すことによって静止座標系に対し時間が無限大に伸びることが分かってきた。つまり、ウラシマ効果の逆である。アインシュタイン宇宙では宇宙船が静止系の地球に対して相対論的速度で離れ、帰ってきた場合、地球でははるかな未来となっているが、その逆、すなわちズーグマを相対論的速度で離れた宇宙船は無限の時間を過ごし、ズーグマにおけるわずか数年の時に戻ってくることが可能となる。その間に、宇宙船の中で世代交代をくり返しながら研究を続け、ズーグマが破滅を防ぐための科学・技術的発見・発明を行なおうというのだ。
 第一部「クロックワーク・ロケット」では、ヤルダが成長し、プロジェクトを軌道に乗せるまでが描かれる。
 イーガンは、新たな宇宙と新たな世界を生み出した。と同時に、そこに現実社会が抱える問題を色濃く反映させている。そして、それをエンターテイメントなSF小説として完成させている。すごいことだ。
 ヤルダに起きる様々なできごと。それは現実社会で女性やマイノリティの人たちが直面する問題である。ヤルダは、自らの生き方を選択し、女性、男性を問わず、それをサポートする人たちとともに生きてきた。かっこいい女性である。

 イーガンの作品に限らず、科学的に難しい部分のあるSFは、もしそれが中長編であれば、難しい部分はある程度読み飛ばしながら流れを追うと良い。それでも、物語を通して得られるところは大いにあるのだ。

 それにしても、数学大事。難しかった。

(2022.4.25)

漫画 ヒャッケンマワリ

漫画 ヒャッケンマワリ
竹田昼
2017

 内田百閒が好きだ。日記や随筆が実に面白い。一時期凝ってしまい旺文社文庫などの古本をあさっていた。旧仮名遣いの文庫だ。たしか90年代最初の頃である。そのころ福武書店が文庫で内田百閒の作品を新仮名遣い出版しはじめていた。1、2冊買ってはみたが、しっくりこなかった。内田百閒は旧仮名遣いに限る。独特の文章は旧仮名遣いを意識して書かれたものだから。別に読んでも読まなくても困る内容ではないのだが、ちょっと疲れたときなどにちょうどよい文章なのである。朝の準備などちいさなところに思いっきりこだわったり、たいへんなことなのに鷹揚にかまえることのできる、それを淡々と味わい深くおもしろく短い文章で表現できるのは内田百閒ならでは。生き方がそのまま文章を生み出している。

 内田百閒を好きな人はやまほどいるもので、映画にもなっている。「まあだだよ」(1993、黒澤明監督)は実にふざけていて良かった。内田百閒らしい「間」が映画に流れている。興行的には振るわずいろいろ言われているが黒澤監督の遺作としてふさわしい作品だと思う。
 内田百閒がらみの漫画で言えば一條裕子氏による「阿房列車」1号~3号が小学館から出版されている。その名の通り、内田百閒の「阿房列車」「第二阿房列車」「第三阿房列車」を原作に漫画化したもので、一條裕子氏の独特の「間」が百閒の文章のおもしろさを存分に引き出していた作品である。あとがきなどを読むと鉄道関係の表現を絵にするのにずいぶんと苦労されたようである。きっと楽しかったのだろう。

 さて、本書「ヒャッケンマワリ」も内田百閒ものの漫画であるが、「原作 内田百閒」ではない。著者曰く、内田百閒が作品や随筆の中で書いている「私」をそのままに受け入れ、平山三郎をはじめ、百閒の周りの著作などを参考にしながら、内田百閒を主人公に書いた「百閒とその周りの出来事」の作品である。それは百閒の実状に迫るわけでもなく、百閒の作品に迫るわけでもなく、ちょっと気になったエピソードを漫画に仕立て上げるという「作業」である。だから突然、世界の旅人・宮脇俊三が登場したりもする。内田百閒の複数の著作を読み込み、確認し、そこから派生して調べ物をして、なおかつ絵にするというとても面倒くさい「作業」だが、たぶんとても楽しいのだろう。この作者は内田百閒という宝物を見つけた趣味人である。その趣味人らしい「間」はどことなく一條裕子氏にも似ている。いや、これは内田百閒の「間」に似ているのだ。
 どうやら内田百閒に深入りした創作者たちは、百閒の「間」に捉えられているようである。
 また内田百閒の著書をいろいろと読み返したくなったが、いくつか親族に貸しているので読みたい気持ちを大切にしてあわてずに待つとしよう。

(2022.4.18)

カテゴリー:

巨星


THE ISLAND AND OTHER STORIES

ピーター・ワッツ
2004

「ブラインドサイト」「エコープラクシア」のピーター・ワッツ短編集である。長編2冊は読んだのだが、もう一度読まないとなんとも書けないなあと感想には書いている。おもしろいのだが、「知性」「自由意志」といったものが全体の根底に流れているテーマなのでていねいに読まないと意図がつかめなかったりする。どうにもワッツはこのテーマに「神」というか「宗教」も挟んでくるのでこのあたりが難しいのだ。
 しかし本書は短編集である。短編集の良いところはエッセンスがつまって、たいていがワンテーマだということだ。つまり作者の意図がはっきりしているし、はっきりさせたくないことであればそうとわかる。本書には11作品が収録されているが、そのうち最後の3作品はひとつの連なりになっているので連作中編といってもいいかもしれない。そして、「ブラインドサイト」や「エコープラクシア」にも連なるテーマを扱ってもいる。

「天使」AI兵器が作戦命令の上位司令からの個別手順変更をくり返されるうちに、自らの使命や機能について進化を遂げていくお話し。ちょっとブラック入っています。

「遊星からの物体Xの回想」名作映画「遊星からの物体X」です。ジョン・カーペンター監督版です。映画は人間サイドから描かれていますが、当然「物体X」にも動機と目的があるわけで、そちら側から書かれた作品。映画を見直す前にもう一度これを読んでから見たい。すごくすごく映画がおもしろくなりそう。(悪い見方です)。これを読むためだけでも本書の価値あり!

「神の目」これもブラック入っています。「内心の自由」とか考えさせるお話し。ある犯罪性向があって、それを簡単に判別できて、手術もなしに簡単に取り除けるとしたら、そういう社会を望みますか? 怖い怖い。

「乱雲」生命はどこから生まれるのか? どうやって生まれるのか? もし、地球の雲が生命となりその生存と繁殖のための活動をはじめたら地上はどうなるだろうか? 荒唐無稽な話だけど、やっぱりブラック入ってます。

「肉の言葉」AI技術を使って私そっくりに言語表現を反応する仮想人格をつくれるとしたら作りますか?主人公のウェスコットは「死」を研究する科学者。死んだ恋人キャロルの仮想人格と対話している。彼には現実に同棲している恋人のリンがいて、いまペットの猫が死んだ…。それがきっかけとなってリンはウェスコットの元を去るが…。ウエットウェアとソフトウェアの境界はどこにあるのかな。

「帰郷」深海での作業目的のために作り替えられた身体と精神。自ら理由も分からずにある場所へと導かれていく。そして、作り替えられる前の認識を少しずつ蘇らせるが…。ここでも「知性」とか「自由意志」がワッツのテーマであることをうかがわせる。ちょっと怖いお話し。

「炎のブランド」バイオハザードを起こした企業が、それを隠蔽していたがやがて発覚する。そのバイオハザードは組み換え遺伝子の水平伝播による人体発火現象。ブラックユーモアですが、現実にも公害と隠蔽の組み合わせはこれまでも起きていること。だから怖いのだけれど。

「付随的被害」「天使」はAI兵器の進化の話だったけれど、こちらは人間の兵士の反応を高めるため意識に上がる前に反射的に意識に上がり行動するであろう行なうインターセプトシステムを実験的に導入された兵士(ややこしい)の話。作戦行動中に民間人を殺してしまった。システムエラー?それとも、確かめずに殺す意志があったのか?ここでは「自由意志」と「道徳(倫理)」が語られる。そして、ブラック。こういう解決は好きではないが、作品としてよくできている。

 訳者(解説者)によると、以下はSunflowers cycleシリーズの作品群で、時系列としては未訳の長編がホットショットと巨星・島の間に入るらしい。執筆順は全然違うのだが、この短編集では時系列で並べてある。親切。最初の「ホットショット」が少しわかりにくいため、冒頭に訳者による解説がつけられている。それにならって概要を説明すると、ワームホールネットワークを銀河系に構築するため小惑星を改造して時空特異点をつかった光速に近い航行を行なう人類のディアスポラ計画。通常はAIチンプが運行管理を行なうが必要に応じて人間の乗員が目ざめさせられる。5万年を超える片道旅行である。その恒星船のひとつエリオフィラの物語。

「ホットショット」太陽系の太陽は死にかけている。もちろんすぐではない。しかし、人類は地球を離れる必要があった。国連ディアスポラ公社によって祖父母の代から慎重に計画され育てられてきた恒星船の乗員。これから5万年以上の旅に出る、早熟の子どもたち。サンディもそのひとり。すでに自由意志など認められず、しかし、「自分で選択すること」を大人たちに求められる矛盾。サンディは選択の前に危険な観光体験である太陽ダイブを望む。太陽ダイブに使われるのは、サンディが乗り込む小惑星改造宇宙船エリオフォラの推進システムのプロトタイプ。ワームホールを利用した投石機だ。それで太陽から水星まで一気に帰ってくる。サンディはそこで未来をみつける。

「巨星」旅立ちから数百万年が過ぎていた。恒星船エリオフィラの内部でハキムと「ぼく」が目ざめさせられた。すでに赤い恒星スルトと巨大な氷惑星トゥーレと無数のデブリの星系内にいたが、エリオフィラが目的とするワームホールゲート構築がAIチンプによりおこなわわれているふしはない。そして、エリオフィラはスルトに衝突するコースをとっている。「ぼく」はかつてこの船で起きた「反乱」には加担せず、AIチンプとのリンクを唯一保っていた。ハキムはリンクを焼き切っている。だからぼくだけが知っていることも多い。そしてこの星系でのトラブルに気がついたAIチンプが「ぼく」を起こし、必要からハキムを起こしたのだ。エリオフィラとミッションを守るために。
未訳の長編の後日談。そして、ここでも「自由意志」と「認識」の問題が。

「島」サンディが起こされた。数千年ぶりのこと。そこには肉体年齢で20歳ぐらいのディクスがいて、自らを「息子」と名乗っていた。そして、AIチンプとリンクしている。目ざめさせられた星系では恒星の方から信号が届いていた。それは知性を感じさせるものであり、そのためにサンディが起こされたのだ。恒星をとりまくダイソン球的生命。それはワームホールゲート構築船エリオフィラに止まれと叫んでいた。ゲート構築を中断、移動し、ダイソン球的生命体を守ろうとするサンディ。ただかたくなに数億年前の地球で指示されたプログラムを果たそうとそれを拒むAIチンプと、AIチンプとリンクし、チンプに従うばかりのディクス。
 AIチンプと乗員たちの果てのない抗争はいまだ続いていた。
 永遠の時間の中で垣間見た彼らが構築したネットワークを通過する人類の末裔あるいは他の知的生命体。しかし、エリオフィラと接するものはなく、孤独のままに宇宙の熱死までこのミッションを続けるのだろうか。
 サンディは自らの運命を呪い、そして運命に生きる。

 ピーター・ワッツは「自由意志」や「意識」「認識」というところにこだわる。ほとんどそのために作品を書いているとしか思えない。そこのところがちょっとわかりにくくなるので、メインのストーリーが複雑に見えてしまう。メインのストーリー展開と、そこで繰り広げられる「自由意志」の問題を頭の中で整理して切り分けながら読むと、とても面白いことに気がつく。短編だからこそ、わかること。長編だと頭がぐちゃぐちゃしてくる。心して長編も読み直したい。

(2022.4.18)

映画 ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密

デイビッド・イェーツ監督 2022

 映画「ファンタスティック・ビースト」シリーズ3作品目であり、ハリー・ポッターシリーズの前日譚らしくなってくるのがこの3作品目である。だってホグワーツ魔法魔術学校の校長先生ダンブルドアの秘密ですから。

 1作目「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」(2016)は1926年、魔法動物学者のニュート・スキャマンダーがニューヨークに船で到着し、騒動を起こす物語。ジョニー・デップが演ずるゲラード・グリンデルバルドが最後に登場し、ハリー・ポッターシリーズとのつながりを強く意識させる物語であった。グリンデルバルドは長期にわたって収監されていた監獄でヴォルデモートに殺されるのだ。ちなみにニュートは教科書「幻の動物とその生息地」の著者である。


 2作目「ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生」(2018)の舞台は1927年のパリ。主人公のニュートは兄のテセウスや同級生で学生時代の恋人かつ今や兄の婚約者のリタ・レストレンジから魔法省に入るよう圧力をかけられていた。前作のニューヨークでの大騒動により旅行禁止命令の下にあったのである。ニュートはホグワーツ魔法魔術学校時代の恩師ダンブルドアから脱走したグリンデルバルドの追跡を要請される。ダンブルドアとグリンデルバルドは血の盟約によりお互いに闘うことはできないが、ダンブルドアはグリンデルバルドの純血主義に懸念を抱いていた。
 そこでニュートはこっそりパリに向かう。同行者は、前作で騒動に巻き込まれたのにも関わらず忘却術から脱した非魔法族のジェイコブ。ある意味他者とコミュニケーションをとれないニュートの唯一の親友。パリでの不穏な空気のもと、ニュートは恋人未満のティナと和解し、ジェイコブは相思相愛のクイニーと離ればなれになり、グリンデルバルドはパリで力を取りもどしていく。なんといっても、不死者ニコラス・フラメルが生きて登場したのがポッターシリーズファンには嬉しいかも。

 そして本作「ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密」である。時は1930年代前半頃。舞台は主にベルリン。つまり現実の人間世界ではヒトラーが台頭し、政権を樹立する頃であろう。そういう雰囲気の描き方である。国際魔法連盟は次のリーダーを決める選挙の時を迎えていた。グリンデルバルドは徐々に勢力を広げつつあった。血の盟約の支配下にあり直接グリンデルバルドと戦えないダンブルドアは、ニュート、ニュートの助手のバンテイ、ニュートの兄で先の大戦の英雄テセウス、マグル(非魔法使い)でニュートの親友のジェイコブ、それに、呪文学の先生ユーラリー、前作で登場したエチオピアの魔法名家のユスフの5人でチームを結成し、未来を読めるグリンデルバルドに、「計画のない計画」で対抗する。果たしてグリンデルバルドを止められるのか。
 という物語。
 アルバス・ダンブルドアの弟アバーフォースやホグワーツ魔法魔術学校も登場して、いよいよポッターシリーズらしくなってきた。
 しかし、物語としては1、2作以上に恋愛ものと言える。1作目から続いているニュートとティナの物語、ジェイコブとクイニーの物語、それに、若き日のダンブルドアとグリンデルバルドの物語。ほかにもアルバスとアバーフォースのこじれた関係などもあるのだけれど、それらが大人のファンタジーとして物語の中心にある。そして、いままでのところ世界最大の戦争だった第二次世界大戦の予兆。そういう意味ではすかっとはしないのが第3作である。

 しかし、このシリーズの主役はあくまで「魔法動物」たち。ニュートの相棒ニフラーのテディとボウトラックルのピケットがこれまで以上に大活躍。さらには、カニのようなやつが恐怖と笑いを誘い出す。前作ではカッパやウー(ズーウー)が登場したが、本作では「麒麟」である。「麒麟が来る!」が物語の鍵を握っていたりする。ヨーロッパ的な空想動物たちから、アジアに拡がってきて、これからまだまだ妖怪的な存在が登場するのではないだろうか。その映像化に期待。もうストーリーは置いて、ニュートの魔法動物ワールドだけを、BBCの動物映画シリーズのように流しっぱなしにしてくれたらかなり売れるのではないかと思うような感じもする。

 さて、娯楽映画にいちいち難しいことを付け加えなくても純粋に楽しめばいいのだが、本作でようやくはっきりとダンブルドアとグリンデルバルドの恋愛関係が語られた。しかも「特別なこと」ではなく、あたりまえのように書かれている。ファンタジー映画での同性愛はあまり明確に語られてこなかっただけに時代の変化を感じる。はっきり言う、これはとてもいいことだ。中国では上映に際し関係性を明言した6秒ほどのシーンをカットしたという。とても残念なことである。しかし、時代は変わる。人間関係の多様性を柔軟に受容できる世界になるよう、後退しないよう、この映画を言祝ぎたい。

兵士よ問うなかれ

SOLDIER,NOT ASK
ゴードン・R・ディクスン
1967

 1965年のヒューゴー賞中短編部門受賞作を長編化したもので、「ドルセイ」「ドルセイへの道」に続くチャイルド・サイクルシリーズの1冊である。日本では文庫化が1985年である。1965年の長編賞はフリッツ・ライバーの「放浪惑星」、フランク・ハーバードの「デューン砂の惑星」が1966年である。
 チャイルド・サイクルシリーズは、人類が種として成長する過程を、その転換点となる個人に焦点を当てて描こうとした作品群であり、端的に言えば、宇宙時代を迎えて人類はいくつかの特殊な性質をもつ集団に分化していった。戦闘的要素に特化したドルセイ、個人が全体として信仰にゆだねる友邦世界、形而上学にすぐれた異邦世界など、それら政治・社会・文化の分離に対し、旧地球では旧来の人類が存在していた。このシリーズでは、これら別々の道を歩んでいる人類が再統合し、さらなる進化をめざすという道を描こうとしたようである。
 そして、本書「兵士よ問うなかれ」はもっともそのことについてはっきり書かれている作品と言える。
 日本では、先にイラストレイテッドSFとして外伝的な「ドルセイ魂」「ドルセイの決断」が翻訳され、その後、本編である「ドルセイ!」「ドルセイへの道」が翻訳、この「兵士よ問うなかれ」はそれらに続いて翻訳された。訳者あとがきを読む限り、この後も刊行予定が決まっており、おそらくは翻訳に入っていただろうが、残念ながら本書が日本では最後の訳出となってしまった。

 さて、SF世界では、アシモフの「ファウンデーション」やハーバードの「デューン」を例に出すまでもなく作者によるひとつの未来史が描かれることが多い。チャイルド・サイクルシリーズも、ある意味では「未来史」なのだが、作者のディクスンは未来史としては捉えておらず、人類のありよう、哲学的志向性のようなものを書きたかったようである。とはいえ、「ファウンデーション」で「歴史心理学」が出てくるように、本シリーズでも「個体発生学」という形而上学的分析が出てくる。特定の個人が人類の成長上の焦点になることが分析されるのである。

 本書では、それはタム・オリンである。地球人で幼い頃「破滅」の精神を植え付けられ、それに反発するようにすべての管理や支配から逃れるために努力して星間ニュースサービスのニュースマン・ギルドに入ることが認められた若者。しかし、その入社(?)直前に妹と訪れた「最終百科事典」見学コースで、最終百科事典を完成させ運営する可能性を持つ特殊能力の持ち主であることが発覚。タム・オリンは、「最終百科事典」プロジェクトに縛り付けられることを嫌い、世界で最も自由になる可能性の高いニュースマン・ギルドで高い地位を得ることを望む。そのためには幾多のスクープが必要である。そのためにタム・オリンは戦場に取材に向かう。そして、ある出来事を経て、彼はただの取材者から、信仰に裏付けられた「友邦世界」を絶滅させるために自らの能力を発揮するおそるべき復讐者に変わっていくのであった。

 本書のエピソードは、「ドルセイ!」や「ドルセイの決断」「ドルセイ魂」で語られたいくつかのエピソードのサイドストーリーとなり、前作をより深く理解するしかけになっている。その点では、本書が翻訳された中では一番おもしろい。

 同時に、それぞれの作品で語られた主題が本書でもくり返される。
 ドルセイ人では、それは、
 最小の人的被害で最大の効果を上げること。
 死よりもドルセイ人としての名誉を守ること。
 だったと理解しているが、宇宙に出て分離したそれぞれの文化でも同じような志向性がみられるのだ。
 言い換えると、
 最小の人的被害で最大の効果を上げること。
 死よりも人類としての名誉・尊厳・発展を守ること。
 といった感じだろうか。
 アメリカン・ヒーローの原点といったところかも知れない。
 信念に基づく自己犠牲は美しい。
 しかし、それほど美しいものなのだろうか。その行為はやむにやまれぬものであり、二項対立の中で解決できない矛盾を抱えてしまった結果なのではないだろうか。そうして、そうならないように努力することが、なにより大切なのではないか。
 半世紀以上前に書かれた作品を読みながら、「人類、成長しねーなー」と思い、戦争を止めるのに「戦争反対」とささやくしかできない自分を悔しがるのであった。

(2022.4.3)