ぼくたちの好きな戦争


THE WAR WE LOVED TO PLAY

小林信彦
1986

 久々に読み返していたらウクライナにロシアが侵攻をはじめてしまった2022年2月。喜劇なのに笑えないなと、だからこそこれは小林の純文学的傑作だなと改めて思った。

 再読のきっかけは、先日「暮らしのファシズム 戦争は「新しい生活様式」の顔をしてやってきた」(大塚英一、2021)を読んだからである。大塚は、1940年からの大政翼賛体制の中で、のちに「暮らしの手帖」を興す花森安治や、転向者である太宰治、詩人尾崎喜八などを追いかけながら、「新しい日常」「ていねいな暮らし」をディレクションしてきた文化人たちの危うさを評していた。まだ未読だが、大塚には「大政翼賛会のメディアミックス―「翼賛一家」と参加するファシズム」(2018)という前著がある。それについては、「暮らしのファシズム」でも、マンガ設定として「翼賛一家」が二次創作を前提としたメディアミックスによる参加型誘導装置だったことが触れられている。
 これを読んで、そういえば小林信彦が書いていたなと思い出した次第。

 第二次世界大戦が終わったのは1945年8月。それから41年後に小林信彦が書き下ろした小説「ぼくたちの好きな戦争」である。執筆中と思われる1985年前後は日本では中曽根康弘が首相、アメリカではロナルド・レーガンが大統領という今日の日米の軍事関係を形成する上で重要な時期であった。日本はバブル経済で絶好調、中曽根とレーガンを「ロン・ヤス関係」とあたかも対等かのようにうそぶき、国土を「不沈空母」と例えて日本の軍事増強を正当化した(のちに中曽根はそう言っていないと話す)。つまり、日本は敗戦後、高度成長期を過ぎ、「追いつき追い越せ」から「世界のトップに並んだ」ぐらいな浮かれ具合にあったのである。

 冷戦の対象であるソ連は混乱し、当時はまだ眠れる獅子のままであった中国は道を選びかねていた時代。「戦争」について当事者的ではない形で語られる時代でもあった。たとえば、本書「ぼくたちの好きな戦争」が出版された直後、広告雑誌「広告批評」は1986年8月号で「特集 第三次世界大戦宣伝計画」を出し、表紙を黒塗りにしてみせた。
 広告会社とコピーライターなど広告クリエイターが花形の時代である。

 そんな時代、テレビマンでもあった小林信彦がずっと温めていた戦時を「楽しんでいた」姿を喜劇として描く作品が本書なのである。主人公は東京の下町で代々和菓子屋を営む秋間一家。「家業」を継いだ秋間大介と病弱な息子の誠、大介の弟で売れない画家の公次、その弟で喜劇役者をやっている史郎。舞台は1940年から1945年まで。公次は食うために書いた風刺画が「大政翼賛会」に認められていく。史郎は海外慰問団に入り、東南アジアで前線を楽しみ、そして招集されて前線に立つ。作者小林信彦を反映した誠は戦争という日常の中でのささいなできごとに翻弄される。
 戦争前半は戦争にのめりこみ浮かれ楽しみ喜んでいた人たちがいたのである。
 なぜそのことを書かないのか、戦後の「悲惨な戦争文学」に抜けている視点、人間の欲望や本質といったところを喜劇の形でえぐりだしたい、そういう作者としての思いがこの小説となっている。もうひとつ、この小説にはしかけがある。

 P・K・ディックは天才である。小説「高い城の男」(1962)は、枢軸国日独がアメリカに勝ち、アメリカを東西に分断した社会を描き衝撃を与えた。日本では1965年に一度翻訳され、1984年にハヤカワSF文庫で再度翻訳され、折からのSFブーム、ディックブーム、「1984」ブームの中でヒットした。連続ドラマにもなっている。
 この設定は最近もSF小説の「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」(ピーター・トライアス,2016)で使われている。本書「ぼくたちの好きな戦争」でも第4章、第6章の「虚構」で軍事輸送船に乗っている売れないラジオ作家のシナリオとしてアメリカが負け、アメリカに駐留する日本軍のふるまいを、本編と対照させながら描いている。もちろん、作品末の参考資料リストには「高い城の男」が明示されている。付録についていた扇田昭彦との対談「笑いと仕掛けで描く戦争」でも、このことについて触れており、「つまり、過去の物語で終わりたくないという気持ちです。これは、現在と未来についての物語でもあるわけです」と本作の構成について語る。日米を二極としてこの戦争を書く上での落としどころが必要だったのかもしれない。
 戦争を悲惨に書かないのは難しい。いや、もちろん、本作でも戦争は十分に悲惨だ。肉体は焼け、ばらばらになり、腐敗し、白く浮く。どんなに喜劇的状況でも起きた現象は凄惨である。そこに笑いをねじこんで来る小林の迫力を感じる。

 この作品の登場人物の中でもっとも戦争を楽しんでいたのは風刺画作家となり、大政翼賛会の報道関係者の中でも特権的地位を与えられ、航空機を自由に手配できた公次である。「家」と「家長」に反発し、古い因習をことさらに嫌った公次は、風刺画家として戦争を鼓舞する側に回り、バリ島など各地で優雅な日々を過ごしていた。戦争が押し詰まると日本で戦争鼓舞の雑誌編集長となり大本営司令部にも出入りし、情報をつかみ、暮らしに不平不満はなかった。そして敗戦が決定的になると、彼は戦犯から逃れることと、戦後に「何が流行するか」を考え始めるのであった。
 きっとそういう人たちが、戦中戦後にもいたのだろう。

 本書が書かれてから35年が過ぎた。第三次世界大戦はすくなくとも昨年までは起きていなかった。
 2022年が、第三次世界大戦の幕開けとならないよう、戦争を止めろと声を出すほかない。
 どんな喜劇的状況でも、戦争は悲惨すぎるのだ。

 ここ数日のtwitter投稿、漫画家のとり・みき氏はこうつぶやく「戦争はギャグの切れも受けも悪くなるから嫌いだ。戦争反対

 戦争反対。

セミオーシス

セミオーシス
SEMIOSIS
スー・バーク
2018

 傑作です。
 それはさておき、「セミオーシス」日本語では「記号現象」「信号過程」などと訳される記号論の専門用語だとか。
 記号論といえば、学生の頃ジュリア・クリスティヴァの「セメイオチケ 記号の解体学」「セメイオチケ 記号の生成論」を買って読んだが歯が立たなかった。もしかすると授業の教科書だったのかも知れないし、ただ買ってみただけだったのかも知れない。それさえも忘却の彼方。80年代前半の日本ではポスト構造主義などが盛んに著述、翻訳、議論されていた時期で、そういう学問にちょっと首を突っ込んでいたものの、論理的思考が苦手なのか、覚えていて、思考の中で使っているのは「意味するもの/意味されるもの」について意識し続けることぐらい。それはまあ、役に立ったかな。

 さて本題。
 環境の荒廃した地球に愛想を尽かした人たちが、別の場所で人類をやり直したいと考え地球を飛び立った。158年後冬眠から目ざめ着陸した星は、地球より古く、少し重力の大きな惑星だった。動植物が栄えたこの惑星で無事到着した人たちのサバイバルがはじまる。7世代107年の物語。パックスと名付けられたその惑星には、高度な知性を持つ植物がおり、ある植物は新たに来た動物である人類を排除しようとし、ある植物はその動物をうまく支配して自らの繁殖に役立てようとしていた。異質な環境の中で、死者を出しながらも、その土地に適応しようともがく人類。この惑星には先に都市を築き、とうにいなくなった先住の異星人がいた痕跡があった。また、動物たちの幾種類かは高度とまではいかないが知性の片鱗を見せており、限られたセミオーシスを使用していた。果たして人類は、惑星パックスで生き延びられるのか。知性のある植物との関係はどうなっていくのか。先住異星人の謎は解き明かされるのか。さらには、地球を知る第1世代と、パックスしかしらない第2世代やその下の世代の確執はないのか。平和という理想を掲げて入植した人々と惑星をめぐる物語は複雑に絡み合いつつ、6つの章立てで進んでいく。それぞれの章には一人称の「わたし」がいて、それは章ごとに世代も時期も異なり、「わたし」の視点が異なる以上、物語の風味も変わっていく。新しい探検、世代の確執、異種族との文字(視覚的記号)や言葉(音声的記号)とは異なるコミュニケーションプロトコルの発見、殺人事件、紛争…。
 読み手の視点も様々になるだろう。文庫の帯には「新世代のル・グィンが描く、21世紀の『地球の長い午後』」「知性を持つ植物は人類の敵か味方か」「7世代100年、惑星植民者と知的植物のファーストコンタクト年代記」とある。
「ル・グィン」とは「闇の左手」を意識し、異種族間コミュニケーションや今日的な多文化共生志向のようなことを言いたいのだろう。たしかに最初手に取るとき、もしかして環境優先主義的視点で書かれた教条的な作品ではないかとちょっと身構えたところがある。しかし、それは杞憂である。もちろん環境との協調、平和志向、民主主義、多文化共生、他者への寛容と受容などのテーマや表現はふんだんにあるが、同時にそれを達成することの難しさを、その対極の状況を描くことで見事なエンターテイメントであり、思考させる作品となっている。
地球の長い午後」は植物と人間のコミュニケーションを想起させるからか。ここに登場する植物の知性体はその思考パターンは人間っぽいけれど、使われるセミオーシスの描きっぷりはハードSFである。なるほど、そうやって他の植物や動物とコミュニケーションとるのか、記憶や思考を生み出すのか、おもしれー。
「ファーストコンタクト年代記」の表記は火星人が出てくる「火星年代記」も思わせる。リアルな物語なのだけれど、「火星年代記」同様にそこはかとないファンタジー感もある。異星での人間と植物の共生の物語と書くだけで懐かしい感じがしてくる。
 私が思い出したのはデイヴィッド・ブリンの「知性化シリーズ」である。とりわけ、「星海の楽園」で、いくつかの異星種族が禁忌となっている惑星に逃れこっそりと共生している姿である。かつて先住し都市までつくったのにいなくなった異星種族の存在や、主人公たる移住者の「地球はもうだめだから新しい楽園をつくる」という価値観と重なってくる。

 最後に、セミオーシスに戻ろう。人間同士のコミュニケーションでも言葉が違うと意思疎通がとても困難になる。さらに身振り手振り、しぐさ、顔の表情、服装、髪型、匂いなど身体的、文化的なコミュニケーションがあり、同じ表現でも意味が違ったり、解釈が分かれたりする。まして異なる生物との間のコミュニケーションは大変難しい。とりわけ知的生命体同士の場合には、やりとりされる情報が多くなる。人類の場合、数学でのコミュニケーションを想定している。整数からはじまるプロトコルだ。しかし、それが果たして適切なのかどうかすら分からない。ただ、異星知性が存在し、情報を受け取れる状況にあるならば、技術的開発が行なわれている「はず」だから、その基礎となる数学は持っている「はず」なので、そこからはじめるのが確実ではないかと推察しているのだ。はたしてそうかな? スー・バークはどんな答えを用意しているだろうか。

(2021.2.21)

スタープレックス

スタープレックス
STARPLEX

ロバート・J・ソウヤー
1996

 時は2094年、場所は地球から53000光年離れた異星知性体イブ族の母星からさらに368光年離れた星系で調査作業をしている宇宙船スタープレックス号。1年前に就航したこの巨大な宇宙船は、イブ族、地球の人類・イルカ族、地球から7万光年離れた惑星リーボロを母星とするウォルダフード族が資金供与してリーボロ軌道上で建造された。この3つの母星にとって史上最大の宇宙船であり、各種族合計1000名の乗員が「ショートカット」の探査と他の知性体とのファーストコンタクトを目的に乗船している。
 ショートカットとは、この宇宙に何者かによって設置された恒星間ゲートのようなものであり、そのショートカットに何者かが故意であれ偶然であれ入り込んだ時点で起動する仕組みになっている。そして進入角によって到達する出口のショートカットが異なる。分かりやすく言うと「どこでもドア」だ。このショートカットを発見し、利用可能にするためには、実空間で休眠しているショートカットにたどり着き、入口として開く必要がある。イブ族、人類・イルカ族、ウォルダフード族は惑星連邦を組んで、既知可能な宇宙を広げようとしていたのだった。
 主人公はキース・ランシング。人類の社会学者でありスタープレックス号の指揮官でもある。その妻のクラリッサ・セルバンテスは生命科学部門の責任者でスタープレックスのナンバー2のひとり。もうひとりのナンバー2はジャグ・カンダロ・エン=ペルシュ、ウォルダフード族であり物理科学部門責任者である。つまり、ショートカットを含む天文領域の調査はジャグが主導権をとり、内部のエコシステムおよび生命が存在する可能性がある場合の調査責任はセルバンテスにある。そして、キース・ランシングは全体を調整する役割がある。ウォルダフード族は人類に対してあまり好感を持っていない。しかも、キースとクラリッサは夫婦。ジャグはキースが生命科学部門をひいきしていると怒り狂っている。キースはスタープレックス号のミッションを果たさなければならない。冒頭から異種族間のいざこざの気配あり

 大元ネタは「宇宙船ビーグル号の冒険」(A・E・ヴァン・ヴォークト、1950)である。科学調査探検船であるビーグル号も乗員1000人なんだよ。
 あと80年代フレデリック・ポールの「ゲイトウエイシリーズ(ヒーチーシリーズ)」も彷彿とさせる壮大な展開が待っている。同時代的にはスティーヴン・バクスターの「ジーリーシリーズ」の感じもある。
 ストーリーはタイムラインとしては2系列に書かれている。ひとつは、主人公のキース・ランシングが会議のためにひとりでショートカットに突入したら予定とは違う奇妙な場所に出現してしまい、そこで不思議なガラスのような男とキースの過去から現在までを対話する流れ。そこではキースの人生を追うことで世界の過去から現在、未来が語られる
 もうひとつのタイムラインはキースが会議が必要になる大きな出来事のタイムライン。その出来事はキースがショートカットに入る前から入った後まで連続して描かれる。
 異星人との諍い、ショートカットを通過してきた恒星の存在と異質な生命体、そして語られる宇宙の創世から未来への道
 壮大。
 だけど、どれもこれもネタバレになるので書けない。
 後書きの解説で大野万紀氏が本書で解き明かされるおもな謎やアイディアを15上げている。
 ちょっとだけ上げておくと、
 4 ダークマターの正体とはなにか。
 9 銀河の渦状肢はどうしてできたのか。
 14 この宇宙で人間原理はなぜ有効なのか。

 なんだかこれだけみるとグレッグ・イーガンばりではないか。でも、本書は軽めのハードSF。エンターテイメント重視。これをシリーズものにせず、単発で書いて作品としてすっきりしちゃうのがロバート・J・ソウヤーという作家なのだろうな。

(2022.2.5)

TVアニメ LISTENERS

リスナーズ
2020

監督 安藤裕章 構成 佐藤大 脚本 じん、佐藤大、宮昌太朗
https://listeners.rocks/

ロック音楽をテーマ&モチーフにしたボーイミーツガールのロボットアニメ」だ。
 すごくおもしろかったけれど、対象は誰だ?という気もする。
 全12話で、1960年代~00年代のロック、しかもプログレからプリンスまでがモチーフになり、レコードジャケットで見たことのある構図の絵などが平気でどんどん出てくる作品だ。私は20代になるまでほとんど「洋楽」に縁がなく、せいぜいビートルズ、ローリングストーンズを聞くぐらいだったのだが、高校から大学にかけての友人とそのお兄さんがプログレ者だったり、高校の先輩が「プログレ友の会」なるものをつくっていたりと周りにはたしかにいた。
 そして2020年代の現在、音楽はレコード、CDといったマテリアル時代を経て配信の時代を迎え、古い楽曲が、当時生まれてもいなかった、ひょっとすると親や祖父母の時代の楽曲までも「再発見」されて突然の再ヒットする時代になっている。だから、この作品のモチーフたちも、「再発見」にふさわしく、この作品を通して「再発見」されることもあるのだろう。
 でも、私の世代、あるいは、構成した佐藤大の世代にとっては、時代そのものだったりする。

 作品の話。一言で言えば「ロックな交響詩篇エウレカセブン」だ。構成・脚本の佐藤大は、TVアニメ交響詩篇エウレカセブンの構成・脚本も手がけている。この作品は海外SF小説、音楽などをモチーフに世界と個の存在を発見していく作品なのだが、まあそれはいい。
 どちらの作品も異質な存在である少女と、世界の広さを知らない少年が出会い、世界が異質さを分断していることを知り、その分断を極めて個人的に乗り越えていこうという物語でもある。

 本作LISTENERSの世界では、人類をおびやかす「ミミナシ」という巨大な影のような生命体が存在する。ミミナシを倒すのは「イクイップメント」と呼ばれる戦闘メカで、それを操縦するのは身体にプラグを持つプレイヤーと呼ばれる特殊な能力者である。10年前の世界規模の闘いによって荒廃した街リバチェスタで姉とともに暮らす少年エコオ・レックは、世界中から集まる廃棄物から有価値品を探し出すジャンク拾いで暮らしていた。エコオは、10年前にミミナシと闘っていたジミというプレイヤーのことを鮮明に記憶し、ジャンクパーツを集めてイクイップメントのコアとなるアンプを自作するのが唯一の生きがいでもあった。そんなある日、鉄道で輸送された廃棄物の中から記憶消失のプレイヤーの少女と出会う。名を持たない彼女にミュウと名付けたその日、ミミナシがリバチェッタを襲い、エコオのアンプをミュウがプラグインしてイクイップメントを機動、闘いを始めるのであった。それはふたりの旅の始まり。ミュウが自らの正体を知る旅、エコオがミュウとジミを出会わせるために選んだ旅。その旅は、世界を再び揺り動かす旅となっていくのだった。

 エコオは、さびれた田舎で生まれ育ち、外に出て行くことも考えず/考えられず、このままジャンク拾いで一生を終えるものだと達観している。心の奥には言葉にならない何かを抱えているがそれが何かは自分でも分かっていない。ジミへの憧れ、イクイップメントへの憧れ。しかし、その憧れは「自分とは縁のないもの」として深く心の奥にしまっておくものだったのだ。
 エコオはミュウとの旅の途中で何度も自我を否定していく。ミュウに引っ張られ巡り会う人や状況に対して自分はふさわしくないと、あくまでもミュウのために付き合っているだけだと、ミュウに対しても、手の届かない言ってしまえば「お客様」のような気持ちでしかなかった。しかし、心の奥底には希望と願いが生への渇望があったのだ。
 一方のミュウは自分が何者かを知らない。そして、出会う人たちからいくつものラベルをつけられる。その中で、最初についたラベルであり、押しつけがましくないラベルである「ミュウ」のことをとても大切にしている。ミュウにとってエコオの最初のプレゼントはとても大切な思い出であるのだ。
 ということで、出会いはするけれど、恋愛にはちょっと遠い若者たちの旅の物語だ。

 それにしても声優陣がぜいたく。鍵になる老人は銀河万丈。エコオを動かすおっさんは千葉繁。田中敦子に山寺宏一まで出ている。

 この作品、元ネタについてざっくりと解説も公式でされている。非公式のファンサイトではもっとディープな解説もある。
 公式の解説はこちら。https://listeners.rocks/

 AmazonPrime ビデオで配信中とか。
(2022.2.8)

星々からの歌

星々からの歌
ノーマン・スピンラッド

SONGS FROM THE STARS
1980

 1970年代は、戦争や核、あるいは環境汚染、高度で強大な科学技術産業に対する忌避感と抑圧から解放されたいという思想、運動が盛んであった。自給自足的なコミューン、従来の価値観に制約されない自由恋愛、新たな生き方を模索する人々。それはアメリカでも、日本でも存在した。その価値観から多くの小説や映画、音楽などの芸術も生まれてきた。
 この時代、第二次世界大戦の記憶がまだ色褪せておらず、米ソ冷戦、ベトナム戦争、中東戦争など、第三次世界大戦にいつ発展してもおかしくない世界状況でもあり、それは同時に全面核戦争への恐怖でもあった。
 そして、1960年代以降、核戦争後の地球を描く小説がSFの一部を占めることになった。

 本書「星々からの歌」は、核戦争後の地球と、オルタナティブな思想を融合させた作品のひとつである。
 本書の世界は核戦争後の地球。放射能に汚染された世界で人類は生存可能なごくわずかな土地で暮らしていた。原子力などの「黒い科学」から決別し、いくつかのギルド的グループが専門的な役割を果たしつつ交易をして過ごす社会。精神的な自由を大切に生きることを選んだ人々。「太陽と筋肉と風と水の掟」である。
 しかし、実際には太陽電池や無線など科学の力は彼らの生活に欠かせないものとなっていた。それらの出もとが黒い可能性には気づきながらも自分も他人もごまかして生きる社会でもあったのだ。
 いま、通信を担うサンシャイン族が扱っている無線通信設備が「黒い」技術であるとの告発があった。いままでであればそのような告発は行なわれなかった。それが原因で交易の中心地であるラ・ミラージュは混乱していた。誰かがこれまでの社会のありようを変えようとしているのだ。
 正義の審判者として、黒い噂の真偽を見極め審判を行なうよう招聘されたのは、クリアー・ブルー・ルー。イーグルと呼ばれる太陽電池を積んだ自家用グライダーで空を飛ぶことが好きで、人好きのする若き審判者である。
 彼は、サンシャイン族のリーダーで世界規模の情報ネットワークの構築をもくろむサンシャイン・スーとともに、その謎を解き、「正義の」審判を下すために新たな道を模索するのだった。
 それだけであれば閉ざされた地球の再生の物語となるのだが、ここに「星々からの歌」が挿入されてくる。手に届かない宇宙からのメッセージ。それがどんな意味を持つのか。
 ということでやがて話は地球軌道上に残された核戦争前の衛星と、そこに残されたメッセージにまでたどり着く。
 果たして人類はどのような道を選ぶのであろうか。

 私は、核なき世界、「太陽と筋肉と風と水の掟」の思想に共感を持つ。一方で、科学技術の進化も好きだ。しかし、原子力技術・兵器の存在と壊滅的放射能汚染の危機、人工化学物質の氾濫、開放系でのバイオ技術の暴走、生命特許などの社会的抑圧は地球と人類にとって決してよい方向にあるとは言えない。そのバランスをとるのは実に難しい
 「正しさ」ではなく、思想と志向の共有が問われるからだ。

 だから、本書のような作品はちょっとむずがゆいような感じを受けてしまう。
 なぜならば主人公のルーとスーの思想と志向が、選択をしてしまうからだ。
 たとえば宮崎駿の漫画・映画「風の谷のナウシカ」にもそういう側面があった。
 映画と漫画は同じ作者とは思えないほど正反対の選択をナウシカに与える。しかし、どちらにせよ「ナウシカ」が選択者となってしまう。ナウシカは直接的には人類を変えないが、ナウシカの存在がやがて人類の思想・志向に変容をもたらす。
「太陽と筋肉と風と水の掟」も、「黒い科学」も、集約された個人や小集団が選択権を持ってしまうのだ。果たしてそれはバランスの取れた世界のあり方と言えるだろうか。
 確かに人類はリーダーが存在するとそれに従属してしまいたがる特徴がある。だが、それでいいのか?
 そうならない思想・志向を模索すること。
 エンターテイメントの小説である本書を読みながら、ついそんなことを思ってしまった。

 ピース。

映画 SF巨大生物の島

映画 SF巨大生物の島
Mysterious Island

監督 サイ・エンドフィールド
1961

オリジナルトレイラー youtubeより。これみれば、これでいいかなって思ったり。

 長年の課題作だった。1980年代に過去のSF映画作品などを集めたB級特撮映画特集の雑誌か何かで見たのが最初。ジュール・ヴェルヌの「神秘の島」が原作(原案)とされる作品。
 特撮映画の歴史的作品だと思っていたが、巨大生物あんまり出てこない。牡蠣、カニ、鳥、ミツバチと、もひとつくらい。あとネモ船長(巨大ではない)。
 物語は、アメリカ南北戦争のさなか1860年代に南軍の捕虜となっていた北軍の兵士が嵐の中、気球を奪って逃げ出したところ数日間風に飛ばされて太平洋の南海の孤島にたどり着く。そこは不思議な火山島。
 ということで、牧歌的な離れ小島の暮らしがはじまるのであった。
 途中、海賊に残された男が使っていた岩場を見つけたり、漂流してきた小舟のイギリス貴族美女ふたりを助けたり、山羊の群れを見つけて飼ったり、とにかく脱出用の船をつくらなきゃと頑張ったり、いろいろあります。
 ゆるーい気持ちです。
 ほのぼのとします。
 でも、火山が噴火したり、歴史的人物が登場したりと、なかなかなもんです。
 のちの特撮映画にも影響を与えたのではないかしらん。
 「ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘」とか近いものがあるかなとも思うけれど、wikiなどによると実はこの映画劇場公開されず、1970年にテレビ吹き替え放映がはじめだそうでした。うーんどうなんだろう。

 ちょっとだけネタバレになるけれど、巨大生物の島の秘密を調べて世界の食料問題を解決し、戦争のない世界にしたいという登場人物の思いが語られるのだけれど、冷戦下のアメリカらしいなあ。そして、巨大生物だけでなく、火山の噴火で島がなくなるとか、ちょっと現代ともリンクしていたりする。

 もひとつ、巨大巻き貝を背負ったりします。後半の見所です。

ジュール・ヴェルヌ読まなきゃ。たぶんジュブナイルで50年ほど前に読んだと思うけど。

(2022.1.23)

巨獣めざめる(再) 

巨獣めざめる(再)
ジェイムズ・S・A・コーリイ

LEVIATHAN WAKES
2011

 自分にびっくりした。以下の文章を書いてから保存しようとしたらファイル名(タイトル)がすでにあるとコンピュータ様が私に告げた。同じタイトルの作品あったっけ?とチェックしたら、なんと読んでいた。2013年のことだ。翻訳が出たばかりだから新刊を買って読んだのだろう。まったく完全に失念していた。だからネットで古本を買って読んだのだ。まっさらな気持ちで。内容も覚えていなかった。まったく。すごい忘却能力。

 2013年に読んだ記録はこちら。

 ではここからが2022年の私だ。

 2022年最初に読んだSF。モビルスーツの出てこない宇宙世紀のガンダム的世界といえば通りはいいだろうか。人工衛星コロニーの替わりに人々の主な生活の場は地球、火星、月、そしていくつかの小惑星をくりぬいてできた小惑星コロニーなど。そこには太陽系内の交易があり、政治があり、人々の暮らしがあった。ガンダム風に言えば「人はそこで子を産み、育て、そして死んでいく」場なのだ。それは特別なことではなく、世代は変わり、考え方も、体型も、それぞれの場所に応じて変わっていく。人類は新たな時代を迎えていた。

 最初に言っておく。おもしろいぞ。
 そしてもうひとつ言っておく。どうして続編を訳さないのだ?
 さらに言っておく。amazon prime video のオリジナル作品として映像化されシリーズが見られるぞ。The Expanse シリーズだ。読み終わってから気がついた。
 近々見るけどその前に続編が読みたい。

 さて。

 太陽系が人類の住処となり地球と火星の間に緊張が起きてから150年。当時は小惑星帯もまだ遠かったが、やがて鉱物資源にめぐまれた小惑星帯から木星衛星系、土星衛星系、そして天王星衛星まで人類の居住空間は拡張していった。あいかわらず二大人類惑星である地球と火星は緊張関係にあり、小惑星帯の人々はつねに両惑星からの圧力にさらされていた。そんな時代の物語。

 主人公はふたり。ひとりは土星と小惑星帯の間で氷の塊を運ぶ輸送船カンタベリー号の副長ジム・ホールデン。仕事は単調、船は100年超のおんぼろ。そこで働くのはわけありの者たちばかり。火星の小型輸送船スコピュリ号の救難信号を受けて数名のクルーとともに確認と救助に向かったところからホールデンにとっては休まることのない事件に巻き込まれていく。

 もうひとりは小惑星帯と外惑星系の玄関口となる小惑星ケレスの警察事業を請け負う民間企業に勤務する古株の刑事ミラー。いまは地球出身でなぜだかケレスの刑事として転職してきたハブロックと組んでいる。ミラーは通常の業務とは別に株主の便宜をはかるための仕事を命じられる。家出した一人娘ジュリー・マウを探しだし連れ帰ること。すなわち誘拐請負。うんざりするような仕事でも断れる状況ではない。しかし、ジュリーを追いかけるうちにミラーもまたとほうもない事件に巻き込まれていく。

 事件の舞台は小惑星帯。小惑星帯で起きた海賊事件は、小惑星帯と火星の緊張を生み、それを傍観していた地球と火星の緊張を生み、やがて全面戦争の危機が迫る。
 そのきっかけをつくるのは、そういう政治的な自覚のない素直で隠しごとの嫌いなおじさんホールデン。
 それが原因で起きる太陽系規模のできごとにふりまわされ刑事としての自信もなくしえらい目に合うのがミラー刑事。
 鍵を握るのはジュリー・マウの存在。

 果たして太陽系で壊滅的戦争が起きるのか、止められるのか
 そして、その影にある不審な動きとは。
 冒頭のプロローグでは、宇宙船内で起きた異様な状況が語られる。人体が変容し生きてうごめく肉となっている。そこにかろうじて頭が残っており助けをつぶやく。このプロローグが何を意味しているのか。大きな謎を残したまま物語はふたりの主人公を通して動き始めるのだった。

 作品としてうまいところをついている。主人公のひとりは世界情勢に大きく関わっているのだが、それはあくまでもきっかけであって本人にはまったくその自覚がない。そして、むしろ巻き込まれているだけだという思いがある。実際にその通りでただ巻き込まれただけなのだが、大声で「俺は巻き込まれたー、これはおかしいぞー」と太陽系中にアピールするもんだから「きっかけ」になってしまうだけなのだ。それも1度でなく2度3度。太陽系中で知らない者がいないぐらいの人間になってしまう。でも、本人には自覚がない。気にしているのはクルーのことと自分のことだけ。
 だから、この時代の非日常的な日常を通して太陽系時代を楽しめる
 もうひとりの主人公もくたびれた刑事という役柄上から時には体制側、時には知りすぎた男としてこの世界の日常を描く。
 起きている出来事は大きくても、おっさんふたりの動きは主体的というより流された結果に腹を立ててあたふたしているだけなのだ。しかも、その行動が世界の動きに影響を与えてしまう。このバランスがよくできている。

三体3 死神永生

三体3 死神永生
DEATH’S END

リウ・ツーシン
2010

 いまから15年ほど前、中国で中国語SFとして発表され、英語をはじめさまざまな言語に翻訳された衝撃の現代小説「三体」と「三体2 黒暗森林」はSF読みだけでなく、現代小説として世界的なヒット作となった。文化大革命の時代に物語はじまり、現代を超え、近未来につづく異星文明「三体世界」と、科学技術でははるかに遅れている人類の物語。三体世界は、太陽系・地球を新たな生存空間とするため、大規模な艦隊を発信させるとともに、高次元量子コンピュータを地球上に展開させ、人類の科学技術の発展を阻害し、世界に攪乱と混乱をもたらしていた。

 物語は、三体世界との遭遇と、脅威の認識(「三体」)、三体世界の近未来に約束された侵攻という状況にさらされた人類社会の変化と、対抗し人類を守るためのさまざまな動き(「黒暗森林」)、そして、本作「死神永生」では、かろうじて人類壊滅を避けられたものの三体世界との緊張関係が続くなかで、前作で明らかになった宇宙の知的種族の行動規範が人類のあり方を変えていく姿が描かれていく。

 第二部の前作でも風呂敷は大きかったが、第三部はSF的制限解除といった様相を呈していく。現代宇宙論の柱である高次元宇宙、ひも理論、多元宇宙論、グレッグ・イーガンばりの「物理法則」「数論」までも駆使して、荒唐無稽といえば思いっきり荒唐無稽だが、それを思わせない筆力と展開で最後まで押し切っていく。
 まあ、ちょっとはご都合主義的な部分を感じなくもなかったが、そのくらいご愛敬。一緒にだまされていこう。

 最後の解説で、この第三部は「あまり売れないだろうから、前2作とちがって一般受けは気にせずSFにする」みたいなことを作者が言っていたと紹介があった。まさにまさに。とはいえ、イーガンよりも分かりやすく、ヴァーナー・ヴィンジ(遠き神々の炎)、ジョン・E・スティス(レッドシフト・ランデブー)、スティーヴン・バクスター(ジーリーシリーズ)、デイヴィッド・ブリン(知性化シリーズ)、グレゴリイ・ベンフォード、フレデリック・ポール…。日本にも翻訳されてきた数々のSF作家が挑戦した宇宙を描ききる作品たち。これらのひとつの総集編のような作品である。

 もし、ハードSFは難しくて読みにくいと思って避けている人がいたら、ぜひこの「三体」シリーズを手に取って欲しい。
 2部まではぜんぜん難しくない。へええええ、なるほどおおお。ぐらいな感じでもうゲームとかスマホとかヴァーチャルリアリティとかデジタル時代に生きる21世紀人なら「現代小説」として読めちゃう。そして、第二部まで読んだら、そりゃあ続編が読みたくなるから。だって、さらにおもしろくなるんだもん。一緒に時間と宇宙を旅しようぜ。

(2021.12.30)

サイバー・ショーグン・レボリューション

サイバー・ショーグン・レボリューション
CYBER SHOGUN REVORLUTION

ピーター・トライアス
2020

 タイトルが80年代ポップス的じゃないですか。邦題だろうと思ったら、原題そのまま。
「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」「メカ・サムライ・エンパイア」に続く、歴史改変ロボットSFシリーズ第三弾。かの名作「高い城の男」(フィリップ・K・ディック)と同じように、日本とドイツが第二次世界大戦に勝利し、アメリカを分割支配する世界。同じように日本領アメリカが舞台。しかも、巨大ロボットもの。小競り合いを続け緊張が続く日独間。大日本帝国支配に対する抵抗運動も起きている世界。巨大ロボットが究極兵器として軍により開発され、そのパイロットは特殊な訓練を受けている。さらに、ドイツが開発したバイオロボットは機械と生体の融合体。もうどろどろ。
 第一作目は、「高い城の男」を意識した歴史改変ロボット小説、第二作目は、ミリタリーSF、それに続く本作「サイバー・ショーグン・レボリューション」は、タイトル通り、内なる革命の物語である。日本領アメリカの実効支配を行なう軍部での権力闘争と、ドイツ領アメリカと高まる緊張関係、大日本帝国本国と日本領アメリカ支配層の緊張関係、そこに登場した伝説のナチスキラー(暗殺者)ブラディマリー。彼女は、ナチス要人暗殺のプロとして知られてきた。いま、日本領アメリカでの権力闘争が実戦に発展した後、さまざまな陰謀がうずめくなかでブラディマリーがあるときは人を助け、あるときは組織を壊滅させていく。彼女は何者なのか、その動機は、そして、権力闘争がいきつく果てに、この世界の幸せはあるのか。
 基本は巨大ロボットと、そのパイロットたちの物語だから、安心して読んで。エンターテイメントよ
 それにしても、戦争に勝者はなく、正義はないけれど、大日本帝国やナチスドイツが勝利しなくてよかったと思っているよ。いかなる政治体制でも実権を持つ「王」を抱えた国や体制は責任を「王」に預けるため組織がピラミッド状になり、次第に抑制が効かなくなる。権力はなんらかの形で交換可能な「偽りの王」に一時的に預けるものであり、常に交換されることで社会を硬直にさせないことが大切だ。交換を武力などの強制力で行なうのは結局のところ倒す側も倒される側も「王」を志向することになる。
 だから、民主主義的システムが人類社会にとって有効なのだ。
 しかし、偽りの民主主義的システムが増えていることも事実。
 身近であっても、「王」を求めないことが大切。

(2021.12.10)

三体2 黒暗森林

三体2 黒暗森林
THE DARK FOREST

リウ・ツーシン
2006

 中国SF「三体」の第二部「黒暗森林」である。前作を読んでいるにこしたことはないが、本作だけでも十分に楽しめると思う。
 地球-人類は異星知的種族三体文明の侵攻危機を控えていた。すでに、高次元で人工知性を持ち低次元では陽子としてふるまう智子(ソフォン)によって地球上で人類が秘密を持つことができず、また、量子にまつわる研究や技術開発を発展させることができなくなっていた。物語は、人類が新たな紀元として定めた危機紀元3年に始まる。「三体艦隊の太陽系到達まで、あと4.21光年」であることは分かっている。
 いまだ地球重力圏を満足に越えることができない人類社会は、それでも、来たるべき宇宙戦争に備えるため、宇宙軍をつくり、地球全体が戦時体制へと向かっていた。
 さらに、智子(ソフォン)対策としての奇策・面壁者計画を発動させる。地球全体から選別された4人の専門家に、人類が持ちうる最大限のリソースと権限を与え、その要求についての検討は行なわれるが、真の意図については他の誰にも分からないようにしなければならないという驚愕すべき計画である。はたして、この4人の人間たちは何を考え、どう行動するのか。それは、三体文明との戦争に勝つことができるのだろうか。
「黒暗森林」では、冷凍睡眠技術を織り交ぜつつ、三体艦隊が着実に太陽系に進む200年以上の歳月が語られる。その間に、人類社会と地球は絶望、暗黒、再興の波を超えていく。
 それは、想像を絶する変容である。現代人と同じ思考を持つ冷凍睡眠から目ざめた人達と、新しい思考を持つ人達の違いはどうなのだろう。主要な登場人物の何人かは、時を越え、飛び飛びに未来を見ることになる。彼らは過去の英雄なのか、使い道のない石器時代の生き残りなのか。
 壮絶な人間ドラマの果ての宇宙戦争。
 前作とはまったく違うが、その風呂敷の大きさは前作をはるかに超えている。
 21世紀初頭のSF総集編という感じ。

 200年か。200年前は1821年。中米でヨーロッパからの独立がすすんだ年。伊能忠敬が日本地図をまとめた頃。蒸気機関が発達し、蒸気船や鉄道などが拡がり始める直前の時代。電気技術は基礎科学と基礎開発の時代。第1次の産業革命のさなか。工業化のはじまり。
 2021年。インターネットとコンピュータ技術の爆発の時代。人工知能が本格的に活動をはじめる直前の時代。社会、国家、生活、労働が大きく変わりそうな予感の時代。
 同時に人類活動の影響が地球の環境や生態系を大きく変え、危機が訪れようとしている時代。
 2221年。さて、どうなっているのだろうか?エネルギー問題と地球環境・生態系の問題がこれから200年の間のどこかで大きなギャップを生むことになる。解決が先か、破滅的事象が先か。人類はこの暗黒の宇宙で生き延びることができるのだろうか。

(2021.11.15)