ビット・プレイヤー

ビット・プレイヤー
BIT PLAYERS AND OTHER STORIES

グレッグ・イーガン
2019

 日本オリジナル編纂の短編集。「七色覚」「不気味の谷」「ビット・プレイヤー」「失われた大陸」「鰐乗り」「孤児惑星」所収。「鰐乗り」と「孤児惑星」は長編「白熱光」と同じ未来史の物語で、「鰐乗り」は「白熱光」でエピソードとして簡単に語られるエピソードの詳細。
 さて、グレッグ・イーガンの長編はたいてい難解でおもしろいのだが、中短編は難解な部分の書き込みが少ない分だけストーリーに入り込める。そうして気がつくのがグレッグ・イーガンのストーリーの柱には人間(知性体)の関係性のありようが書かれていることだ。SFとしての世界の背景設定や技術の上に、その環境にいる知性体と知性体の関係性が語られるわけだが、愛や友情、他者との距離感、出会い、別れ、喜び、悲しみ、満足感、喪失感、快不快、信頼、不信。そのレイヤーは、21世紀に生きる私達とは異なるが、二者あるいは多くの者同士の関係性はそれほど大きくは異ならない。そして、それは、「物語」の基本に忠実だということでもある。歌や口伝、文字の発明後は言葉として紡がれてきた「物語」は人と人との関係性、自己認識、世界とのつながりのありようがくり返し表現されてきた。普遍的なテーマである。

 表題作「ビット・プレイヤー」は、世界が大災厄で重力が横向きになったという世界突然「目覚め」た主人公が、その世界のルール、矛盾、単純さ、不合理さに気がつき、自分が何ら記憶を持っていないのに一定の行動がとれるという状況に直面し、そこが仮想世界であること、そして、自分達がプレイヤーとなっていることに気がつく。そこから物語が激しく展開するが、それは読んでの楽しみ。しかし、主人公とともに世界のありようを知り、その世界と対峙していき、あいまいだった自己を確立していくというのは、物語の王道ではないだろうか。
「ビット・プレイヤー」について考えていたら、まだ見ていないのだが、2021年夏に公開された映画「フリー・ガイ」(監督ショーン・レヴィ、主演ライアン・レイノルズ)があることを知る。こちらは、ゲーム空間のモブキャラが自意識を芽生えさせ、自己のありようと状況に疑問を持ち、世界に関わっていく物語らしい。この映画が、「ビット・プレイヤー」と関係あるのかないのか分からないが、見てみたい映画である。

「鰐乗り」では、永遠とも思える時間を共に過ごした夫婦関係にある人類のカップルが自ら死を迎えることを決め、そのための最後の探求に乗り出す姿が描かれる。時間も空間も拡張した世界で、永遠の生を持ち、死を選択する理由とは、その際、パートナー同士の関係とは。銀河規模の壮大なスケールで語られるテーマは、それだ。

(2021.7.25)

ゼンデギ(再)

ゼンデギ(再)
ZENDEGI
グレッグ・イーガン
2010

 グレッグ・イーガンの長編では異色作。なにが異色かというと、わかりやすい作品になっていることだ。技術的な外挿には、脳の活動状態をスキャンし、魂はもっていないがふるまいは本人と同じようになる「疑似人格」をアバターとして構築できるかどうか? というのがもっとも大きくて、グレッグ・イーガンが主流にしている数学・物理学をベースにしたスーパーハードSFとは異なり、普通小説の中の近未来ジャンルといっても通じるような作品となっていること。じゃあ、グレッグ・イーガンの導入にいいかどうかというと、そうでもない。優れた作品だが、最初に触れるならば、がつんとイーガンらしい他の長編作品からあたるか、アイディアが凝縮された短編・中編から入るのがおすすめ。
 ゼンデキのような「人の心」や「つながり」についての作品は短編・中編のなかでもみられていて、長編では感じられないイーガンの小説家としての深みを感じられる。そんな作品を長編として書き下ろしたのが本書「ゼンデギ」であり、生きること、生きることを実感すること、実体験することの喜びと苦しみ、幸せと悲しみが描かれている。

 舞台は第一部が2012年のシドニーからイラン。第二部は2027年~28年のイラン。
 主人公はオーストラリア人のジャーナリスト・マーティン。パキスタンでの取材記者活動を終え、シドニーに戻って1年、イランでの次の総選挙を前にイランがどのような選択をするのか、緊張が高まるテヘランに向かう。
 本書が書かれたのは2010年で、2009年に実際に起きたイランでの大統領選挙前後の混乱を受けて書かれている。さて、当時大統領だったアフマディネジャド氏は2期8年、次のロウハニ氏も2013年から2期8年。そして先日2021年6月にはライシ氏の当選が決まった。イランの選挙は立候補者を監督者評議会が資格審査をすることになっており、ロウハニ氏の後継候補が立候補できなくなるなど、ロウハニ氏の穏健路線は否定され、事実上の評議会による指名となった。その結果、2021年の大統領選挙は投票率が5割を割り込むなど、現状に対して国民が無関心、もしくは、棄権による沈黙の抗議を示すことになった。
 ゼンデギの世界では、2012年に、イランの民主化、公正な社会を求める人達が立ち上がり、その結果、2027年の時点では比較的公正で民主的なイスラム国家に移行することができた社会が描かれている。もちろん、フィクションであり、自由民主主義体制にいるグレッグ・イーガンの視点でもある。
 それはさておき、2027年、経済復興を遂げたイランで、マーティンはイラン人の女性と結婚し、子どもを育てていた。電子書籍が中心になる社会で、「紙の本」にこだわり、テヘランに書店を開いて暮らしていた。しかし、妻が事故で亡くなり、イラン人の友人らの手を借りながら子育てをすることになる。
 イランでは、バーチャルゲーム空間ゼンデギを運営する会社が世界のVRゲーム市場をリードしており、マーティンはときどき子どものジャヴィードとともに、その世界で冒険をするようになった。しかし、自らの死期を知ったマーティンは、イラン社会の中で、死後も子の成長に関わり続けるため、ゼンデギのなかにジャヴィード専用のヴァーチャル・マーティンを形成できないかと、ゼンデギの技術者と模索をはじめるのだった。
 というのがストーリー。ね、そんなにややこしい話ではないでしょう。
 とりわけ、2021年の今、人工知能の学習手法ディープラーニングの進化や脳科学、生命科学の驚異的な伸張を見ている今では、書かれた2010年や、私が最初の「ゼンデギ」を読んだわずか5年前以上に分かりやすくなっている。
 生命科学の驚異的伸張は、新型コロナウイルス感染症 CORVID-19のワクチン開発がわずか1年足らずで行なわれ、その主流がmRNAワクチンであり、それを世界の多くの人が接種するというその1点でも明かだ。事実は空想より奇なり。

 ところで、不死の物語というのは、物語のはじまりから続く永遠のテーマであり、それは、人間が持つ究極の願望・欲望である。不死にはいろんな形がある。完全な不死(不老)とは、その個人が理想とする状態が続くことである。理想の肉体、理想の精神、消えない記憶、理想の暮らし。しかし、世界は変わっていく。理想の不死者は変わりゆく世界と対峙しなければならない。
 不完全な不死は、バンパイアやゾンビ、妖怪など、死に限りなく近く変容した者として描かれる。それは人間と対峙し、人間に追われる者たちだ。
 人間以外の存在として、神の世界や悪魔の世界がある。天国や黄泉、地獄である。それもまた不死の一形態だが、変わることのない世界、変わることのない待遇であり、静止的世界になってしまう。
 そこで、物語は「異世界」を誕生させた。別の世界であれば、死も不死も自由に描けるであろう。その「異世界」の物語は、コンピュータとインターネット空間の登場により、ヴァーチャルリアリティとして存在を許されるようになり、物語の新たな場所として選ばれた。そして、可能性としてのヴァーチャル空間における不死が語られるようになり、存在の電脳化が物語に登場する。その登場には二通りあって、完全な存在と不完全な存在がある。完全な存在とは、いま現実にいる「私」を、その「意識」「認識」と「環境」ともどもにアップデートし、現実というレイヤーと、仮想空間というレイヤーに違和感を持たない状態である。仮想空間を維持するサーバが止まらない限り、私は「不死」であるし、仮にサーバが突然、バックアップを含めて停止しても、「私」はすぐにはそのことに気がつかない。再開したときに現実空間が時間経過を起こしていたら、そこに「中断」があったことを知るだけだ。一方、不完全な存在もあり得る。たとえば、「記憶の一部」「認識の一部」をデータ化して、仮想的な人格「私」をつくりだし、仮想空間内やあるいは、現実空間とのアクセスポイントにおいて、あたかも「私」のように振る舞う人工知能というものだ。それは「私」のように振る舞うが、「私」としての意識は持たない。
 この仮想空間における完全な存在と不完全な存在の形態は無数に展開でき、これが新しい物語を生んでいる。
「ゼンデギ」もまた、そのひとつの形である。
 そして、オチはイーガンらしく整えられている。
 それはディックの作品でもみることができるキリスト教的救済の姿である。
 さて、どんなオチか、楽しみに!(決して宗教的終わり方ではありません)

(2021.06.30)

白熱光(再)

白熱光(再)
Incandescence

グレッグ・イーガン
2008

 再読した。これこそSFだけど、あまりに難しすぎる。物語は偶数章と奇数章でふたつの世界を行き来する。はるか未来、人類出自、非人類出自、実体出自、非実体出自に関わらず、量子的データとして存在と意識を仮想化した知的生命体は融合世界の中で生きていた。光速の壁は相変わらずだが、自らの量子データをノード間で送信することで旅をし、時間と空間を超えて関わりをもつことができるようになった世界。融合世界で「人々(ここでは知的生命体の個々を差す)」はときに実体として暮らし、ときに非実体のままで暮らしていた。当然バックアップもとられ、ある意味での不死は保証された世界である。もちろん、過去に戻ることはできないので、旅をすれば、そのノードの数や距離時間によって動かなかった人々と動いた人々の間での時間はずれていく。そういうことが当たり前の世界。融合世界はしかし銀河中心部にだけはネットワークをもたなかった。銀河中心部は孤高世界といい、融合世界からのアクセスや調査、探査を一切受け付けない謎の「人々」が支配しており、独自のネットワークを持っていることだけは分かっていた。銀河中心部を通れなければ、銀河の反対側に行くためにはかなりの迂回したノードを通らなければならない。そこで、長い時間の中で、融合世界の人々は、量子データの秘匿性などにリスクを持ちながらも、孤高世界のネットワークを一部利用して銀河中心部を抜ける方法を見つけた。しかし、あくまでも、孤高世界に「途中下車」することは許されず、孤高世界は相変わらずよくわからないままであった。

 奇数章は、この融合世界で「何か新しく、自分が長く打ち込めるなにか」をもとめていたDNA出自のラケシュが、孤高世界によって孤高世界のなかで強制的に実体化させられ、伝言をもたされてきたというラールから、孤高世界でDNA出自の小惑星がみつかり、そのルーツを探し、知的生命体がいれば、DNA出自者としてそのあり方について責任を持って対応して欲しいというオファーを受ける。ラケシュと友人の非DNA系出自であるパランザムは孤高世界からの招待を受けることにした。それは最低でも5万年を失う旅でもあった。ラケシュは孤高世界の中でDNA出自の生命体を見つけ、そこに遺伝子操作の跡を確認し、その足跡をたどることにした。


 偶数章は、ほかのSFでいえば「竜の卵」(1980 ロバート・L・フォワード)のようなものである。「竜の卵」は中性子星上の知的生命体を描いた作品だが、「白熱光」の偶数章は同じように高い重力、光の海の中に浮かぶ特殊な環境に生きる知的生命体の物語である。その世界は破片(スプリンター)と呼ばれ、かつての環境世界がいくどか分離しているその破片であると伝えられている。彼らはそこで生存のための仕事を行ない自ら産児制限をして生きていた。光に満ちた世界で、光は生存のために欠かせないエネルギーであると同時に、彼らを殺すものでもあった。主人公のロイは、他の人々と同様にギルド的なグループに所属し農場での仕事をしていたが、ある日ザックという老人に出会う。彼はこの世界の不思議な重力のあり方について自ら機械をつくり研究している孤高の人であった。一人で仕事をしているというのは基本的にあり得ないことだったが、ザックが語る世界の不思議さとその探求についてなぜか心を惹かれたロイは、やがてザックとともに、スプリンターの重力について研究し、幾何学を深めていくことで古典的力学からはじまり、やがて仲間を増やし特殊相対性理論、一般相対性理論へと知見を深めていく。その動機は、やがてふたたびスプリンターが割れ、世界が崩壊するかも知れないという予測であった。実際にスプリンターは危機にあったのだ。世界を守るため、ザック、ロイ、そして彼らの元に集まってきた人々は計算し、実験し、理論を構築し、それに基づいて、世界を救うすべを探し続けるのである。

 奇数章は、ラケシュの探求の物語なのでそれほど難しくない。また、奇数章は偶数章で描かれているような世界を外から描き出すので全体の物語の理解にもつながる。
 偶数章は、幾何学として、スプリンターの重力場とそれがどのように作用するのかを、ロイとともに捜す旅である。数式は出てこないが、独自の言葉で、この地球とは異なる特殊な重力環境において、ニュートン力学からアインシュタインの相対性理論までを語るのだから、まあ、頭がぐるぐるになってしまう。正直なところ何が書かれているのか分からない。分からないけれど、実際に起きているスプリンターでの出来事はおぼろげに理解できるのだから、なんとか読み進めることは可能だ。物理学に素養が深ければ、そして、ゆっくり理解する時間と楽しみがあれば、「白熱光」は1年はたっぷり遊べる作品なのかもしれないが、ざっくり読もうとすれば、なんとか読み進めることはできる。知恵熱出たけど。
 そして、一見すると奇数章と偶数章は接点がないようだが、ないわけではないし、いろんな種明かしも含まれている。それを正しく読み取っているかどうかは分からないが、こういうことかあ、と勝手に解釈している。

 それにしても、すごいじゃないか。銀河系中心部にある巨大なブラックホールや密集した星々、銀河辺縁の広大な時空に広がる知的生命体のネットワーク、そのなかでの生き方、存在の意味。この地球というたったひとつの世界で、わずか100年弱の生、たかだか数千年の記録しか持たない人類にとってみれば、果てしない物語である。果てしない物語であっても、個にとっては出会いであり、旅であり、日常の繰り返しや非日常への対応の連続でしかないのだ。それは「でしか」ないものだが、それこそが生なのだ。
 さあ「白熱光」を読んで、呆然としよう。

(2021.6.27)

シルトの梯子(再)

シルトの梯子(再)
SCHILD’S LADDAER

2001
グレッグ・イーガン

 短編集「ビットプレイヤー」を読み終えて、突然イーガン熱に感染してしまう。邦訳されている長編を著作順に読み返すことにした。まずは「宇宙消失」(1992年)、舞台は21世紀後半、太陽系が他の宇宙空間から何者かによって隔離され星の光を失った世界で観察者問題を扱った作品。続いて「順列都市」(1994)、やはり21世紀中葉の物語でこちらは外側の中ではなく仮想世界からはじまる物語。やはり観察者問題も含まれているがそれ以上に究極の不老不死の物語でもある。「万物理論」(1995)もまた21世紀中葉の物語で、タイトル通り相対論・量子論から行き着いた物質・エネルギー・情報を統一的に語る究極の理論を発表する、すなわち知的生命体による「観察の成立」を描いた作品であり、前2作と合わせて「観察者問題」3部作とも言える。

「ディアスポラ」(1997)は30世紀にはじまり、仮想人格化された世界の人類と現実世界で肉体を持った人類、現実にアクセスするためのアバター(ロボット)にダウンロードした人格などが登場する新たな物語。広い意味での人類はすでに太陽系外へと旅立ち、そして、別の知的生命体の痕跡を追って時間の制約のない究極の旅を行なう物語。いくつかの短編も組み入れたオムニバス的作品でもある。

 本書「シルトの梯子」(2001)は、「はじめにグラフありき、」ではじまるざっくり2万年後の人類世界。人類は仮想世界に生きていた。実体化をせずに生まれ、生き続けるものもいれば実体化を基本として生きるものもいた。彼らはそれでも人類であり、すべてのルーツは地球にあった。宇宙を語る究極理論としてサルンペト則の検証をしていたキャスはこの理論の正しさを証明するための実験を提起した。しかし、実験はこの宇宙とは異なる時空を生み出し、こちら側の宇宙を次第に浸食してしまう。600年後、この「ミモザ真空」を完全に消滅させようとする一群と「ミモザ側」の宇宙にアクセスして浸食拡大を止めようという一群が最前線の実験宇宙船「リンドラー」に集まり、相互監視の下で研究とアプローチをくり返していた。
 という物語である。「順列都市」が書かれた90年代前半は80年代後半からの電脳世界というか仮想人格化された世界や仮想人格化そのものが舞台となったSFが多数登場した。その前にもたとえばディックが80年代前半にも仮想人格を書いていたが、本格化したのがサイバーパンクと連動した時期であろう。それらを受けて物理的制約である光速の壁を超えずに情報として移動する手段が生み出され、仮想人格をベースとした社会について書かれるようになる。「ディアスポラ」や「シルトの梯子」はそれをうまく展開したSFであり、仮想人格による宇宙と知的生命体の関わりを発展させた作品でもある。
 5作品を振り返ってみると、どの作品も大オチには究極の大風呂敷が広げられていて、なんというか「知覚可能な宇宙」を軽々と超えていってしまう。本作なんて、最初の第一部で「知覚可能な宇宙」ではない時空を「知覚可能な宇宙」の中に(?)生み出してしまうのだから、大風呂敷が前提になってしまっている。もちろん、大オチにはさらなる大風呂敷が待っているわけだが。これを読ませつつ、人間の物語に仕立て上げるのだから、グレッグ・イーガンがおもしろいわけだ。
 ただ、そこに書かれている現実の物理学・数学理論と、SFとして導入された理論は正直言って難しい。スーパーハードSFと言われる所以でもある。ここにひっかかってしまうと前提としての量子論や数学が入っていない凡人にとってはとても読みにくいものとなってしまう。そこは幼い頃からのSF読みの技能発揮しかない。適当に読み飛ばすという必殺技の登場である。心の奥底に、もっと基礎勉強をすればいいのに、もっと丁寧に読めばもっともっと楽しいのに、と、罪悪感にも似たさみしさを抱えながらも、この先のストーリーがどうなるのかに気を取られ読み飛ばす悪徳的快感。著者・翻訳者には大変申し訳ない読み方であるが、それでいいのだ。でないと読めなくなってしまう。
 そうやって読んでいくと、想像の遙か上を行く宇宙の可能性が開けてくる。
 それと同時に、50代後半になってしまったSF読みは、いま自分が生きているこの場もまた、宇宙のなかであり、不思議な時空のなかであり、奇跡のような切片であることを感じることができるのだ。
 手に届かない知識と思考をがっぷり四つで受け止められないが、その残照を浴びるだけでも、人生は楽しめる。そうして、もう少しだけ、もう少しだけ、その高みに近づきたいとも思うのだ。それもまた、こういった物語の価値だろう。人生に光を与え、人生に目的を与えてくれる。SFに限らず、すべての良質な物語は、そのような性質を持つ。
 SF、万歳。

ディアスポラ(再)

ディアスポラ(再)
DIASPORA

グレッグ・イーガン
1997

 再読。読後に以前読んだ後に書いた文章を見返すと2005年にマニラの国際空港で読了している。翻訳がでたばかりでフィリピン出張に持って行ったらしい。16年前のことである。
 いまはまったく違う性質の仕事をしていて、16年経つと16歳年齢を重ねているわけで、経験といまの生活スタイルによって考え方も大きく違っていることを実感している。とはいえ、連続した人格の中にあるわけで、当時の記憶もあるし、人格が大きく変わった感じもしない。では、その連続した私とは何者か?
 本書「ディアスポラ」を読んで、そのことをじんわりと考えるきっかけになった。

 物語は、2975年に、地球のデータセンターにある仮想空間の「コニシ」ポリスで「ヤチマ」と名をもつ孤児が創出されることではじまる。
 当時、人類の多くは、いくつかの仮想空間であるポリスで、データ的存在となり、その不死なる生を生きていた。一部は、そのような存在になることを忌避し、改変のない人間態であったり、たとえば水中生活など様々に変容した改変人間態として物質的生存を行う者たちもいた。また、データ的存在と物質的存在の中間のようなロボット態をとるものたちもいた。そのなかには宇宙を旅している者たちも。
 そういう遠い時代の物語である。

 2996年、地球から100光年先のとかげ座G-1、中性子星連星が異変を起こし、ガンマ線バーストを発生、地球へ到達し、地球上の生態系は壊滅的な打撃を受けた。
 それぞれのポリスのデータセンターは無事であり、その中で生きる人達への被害はなかったが、宇宙には彼らの科学的知識ではまだ分からない大きな謎と危機があることに衝撃を受け、ヤチマは、それを探索するために別のポリスに移り、果てしない探索への旅にでかけることにした。ディアスポラ、離散の旅である。それは、終わりのない旅になったのだった。
 時間が終えるのは4953年まで。そこから先は、そういう時間軸さえ離れていく。
 そうしてヤチマは、ひとつの「宇宙の果ての姿」をみることになる。後半の怒濤の旅はすごいよ。

 たとえば私がある時点で人格(人格と記憶)をデータ的にコピー(クローン)し、ふたりになったとする。その次の時点から私と私’(私コピー)は別々の道を歩き始める。私と私’はその時点までは同じ人物だが、そこから先は似ているけれど違うだろう。そうして次々と私の別バージョンが生まれていき、それぞれの人生を生きたとしても、それぞれの「ひとりの自分」にとってはただひとつの人生であり、別の「私」は決して自分ではない。それでも「別の自分」が「別の生き方」をすることで満足するのだろうか? 同じ指向性をもって分離したのだから、役割分担ができたり、リスク回避ができるだろうけれど、それもまた、それぞれのひとりひとりの人生であり結果でしかない。
 考えてみれば、多元宇宙論的には、それは常に発生しているともいえる。知覚はできないけれど、その時々で別の選択をしている自分と時間軸が発生し、分岐していく。だから、分岐しようがしまいが、コピーが生まれようが生まれまいが、私は私であり、私という人格にとっては私の人生はひとつなのだ。いくつ生まれても、ひとつ。ひとつずつ。
 そういうことを深く考えられる作品だった。

 ま、悪夢のように難しいハードSFだけどね。分からないことが分かるよ。

(2021.06)

万物理論(再)

万物理論(再)
DISTRESS

グレッグ・イーガン
1995

 グレッグ・イーガン初期3作品「観察者問題」作品群の3冊目は本書「万物理論」である。いわゆる物理学の究極理論のこと。相対性理論、量子論から求められる4つの力である電磁気力、弱い相互力、強い相互力、重力のうち、重力をのぞく3つをひとつの形で統一しようとするのが大統一理論。それをふまえて重力までを含めた形で表現しようとしているのが万物理論である。万物理論の研究は、物質とエネルギーの理論だけでなく、重力の研究が量子情報というかたちで「情報」の保存、ひいては、「エントロピー論」も包括するものとして検討を迫られている。
 2019年に人類ははじめてブラックホールの実態としての映像を「見る」ことに成功した。もちろん可視光の話ではなく、地球規模の電波望遠鏡ネットワークとコンピュータの解析によって得られた画像である。しかし、この画像は、ブラックホールによって突きつけられている重力と量子情報、エントロピーについての研究を深めさせることになっていくだろう。
 さて、時は2055年、場所はステートレス。南太平洋中央にある公海上の海底死火山に固着してバイオ技術によって成長を続ける生きた人工の島である。多くの国が、遺伝子特許侵害「国家」だとしてその存在を否認しているが、最大の環境難民受入地であり、無政府主義者の地であり、バイオとコンピュータ科学の先進地でもある。大国政府による侵略や破壊は行いにくいなかで、主にバイオ産業が裏にいるとみられるテロ攻撃はときおり起きていた。このステートレスで国際物理学会が開かれ、「究極理論」の候補とみられる3つの理論を3人の科学者が発表し、議論されることになった。
 主人公の科学ジャーナリストのアンドルー・ワースは、究極理論の最有力候補であるヴァイオレット・モサラの特番をつくるための密着取材をはじめた。身体に記録装置を埋め込み、ネットワークとつながったジャーナリストである。
 アンドルーは、それまでバイオ技術の進展によって生まれた死後直後一時的に記憶を呼び覚ます技術、生命のDNAを別の塩基システムに置き換える技術などを扱った特番を編集していたが、次の番組として世界各地で散発的に発生している奇病のディストレスを扱うよう求められ、その取材から逃れるために他のジャーナリストが準備していた究極理論の取材をもぎとったのだった。

 そう、世界はバイオ技術とコンピュータ・インターネット技術によって大きく変わってしまった。生き方も、仕事も、選択も。都市の役割は減っていき、人々は個の多様性を尊重するようになっていたが、一皮むけば貧富の差はあり、格差はあり、そして、カルト宗教も変わらず多くの人々の心を捉えていた。世界は変わっても、人はそうそう変わらないのだ。
 いまここにほんものの究極理論が誕生しようとしている。それは観察者問題の解決でもある。量子の状態の重ね合わせは、観察者の観察によって解消され、量子はその状態に固定される。対生成した量子は相互に重ね合わされており、それは距離を問わない。では、「観察」とはなにか?
 いくつかのカルト宗教は、究極理論が生まれること、すなわち究極理論が理解されることにより、この宇宙が「観察された」ことになり、宇宙が、世界が、変わってしまうことを恐れ、この研究の仕上げを防ごうと科学者たちを脅迫し、ときには殺害すら計画していた。不穏な空気の中で、はたして究極理論は完成するのか、そして、その結果何が起きるのか? さまざまな思惑、陰謀、事件に巻き込まれていくアンドルーがそこに見たものは?
 という作品。
 正直なところ、本書を最初に読んだ2004年と、2021年の現在までに一般の科学誌や解説書はいくつもいくつも出ている。もちろん、究極理論はまだまだ先だし、統一理論もいまひとつのところにあるが、冒頭に紹介したように科学的研究は少しずつ近づいているようだ。
 かつて天動説から地動説が誕生し、それを人々が受け入れ、理解するまでの時間。
 かつて相対性理論が誕生し、光速不変やE=mc2を人々が受け入れ、理解するまでの時間。
 あるいは個人的な感覚で言うと、はじめてパソコンにOS(オペレーションシステム)が導入され、ハードウエアをソフトウエア的に扱えるようになったとき、その概念を理解するまでの時間。
 パラダイムシフトには、個人や社会が「腑に落ちる」までの時間を必要とするのだ。
 そうやって考えてみると、1995年の段階で、これを書いているグレッグ・イーガンはあらためてすごい。

(2021.5)

宇宙消失(再)

宇宙消失(再)
QUARANTINE

グレッグ・イーガン
1992

 2004年以来の再読。発表されたのが1992年なのでほぼ30年前の作品である。30年前といえば、1992年の30年前は1962年。
 1962年といえば、高度成長期に入ったばかりの頃で、電話は各家庭にはなく、テレビは普及期前でモノクロだった。通信はもっぱら手紙、緊急時は電報。マスメディアは戦前からあったラジオと新聞が主で、テレビは1964年の東京オリンピック(!)を機に普及することになる。ラジオも真空管からトランジスタラジオに置き換わっていった時期である。計算は、そろばんが主力で、理数工学系だと計算尺を使っていた。せいぜい機械式計算機が使われていた頃で、電卓はまだ登場していない。トランジスタをつかったコンピュータが開発された時期である。音楽はレコードの時代である。録音はオープンリールテープを使うしかなく、いわゆるカセットテープはこの年に開発・規格化されたばかりである。
 1992年になると、携帯電話が普及期に入る。ビジネスの現場では呼び出し用のポケットベルから携帯電話への移行がはじまるが、携帯電話にメール等の機能はなく、電話のみであった。メディアの主力はテレビに移るが新聞・雑誌も隆盛を誇っていた。電卓はひとり何台も持っていたり、パーソナルコンピュータも、windows3.1の登場によってユーザインターフェースが格段によくなり、通信はモデムを使った電話回線を使い、インターネットではない会員制の通信ネットワークが主力であった。しかし、インターネットが今後普及するという確固たる予感は世間を賑わしていた。音楽はCDが主で、カセットが主流で、MDが普及直前の頃である。
 2021年の現在、携帯電話はモバイルデバイス(スマートフォン、スマホ)となり、デジタル化した通信環境とコンピュータ技術、集積回路技術によって、電話・メール・SNS、動画撮影、配信、金融サービス、商業サービスなど仕事、暮らしのあらゆる面でほぼ不可欠なデバイスになってきた。メディアは、ついにテレビ事業者の衰退がはじまり、インターネットを活用した配信事業者が映画・テレビ・新聞・ラジオ・音楽メディアの機能を統合し、モバイルデバイスが受信装置として普及する。モバイルデバイスは同時に、コンテンツ作成、発信装置でもあり、マスメディアの力は相対的に弱くなっていく。映像も、音楽も、さらには、書籍までデジタル化・配信化され、生活様式を大きく変えてきた。

 本書の舞台は2067年。いまから46年後の世界である。この世界では2034年に突然太陽系全体が暗黒の球体に包まれ、太陽と惑星を除く光が空から消えた。それはバブルと呼ばれ、地球人類と太陽系外との接触は不可能になった。もっとも、人類はせいぜい有人で火星探査を行った程度であり、太陽系外の探査もほとんど進んでいなかった。バブルをつくった存在、その目的については不明で、それは、地球上に様々な仮説と、カルト宗教を生むことになる。
 2067年、いまのモバイルデバイスのようなものはモッドと呼ばれ、大脳神経系に神経を改変するプログラムをインストールすることで、さまざまな機能を発揮することができるようになっている。いわゆるゲームのプログラムもあれば、通信、ナビ、仮想コンピュータ、ある特定の思想を信念として持たせたり、警備員や兵士として必要な機能とそのための感情抑制などをもたらすプログラムもあった。主人公のニックは元警官で、警官としてのモッドを頭に入れたままフリーの探偵のような仕事をしていた。
 ある日、先天性の脳機能障害で完全隔離された入院生活を続けているローラが病院から失踪し、その彼女を捜索して欲しいという依頼が入る。誘拐されたのか?
 そこから、ニックの、そして、この世界の事件がはじまるのであった。

 テーマは初期のグレッグ・イーガンのテーマとも言える量子論における観察者問題。量子のふるまいは「観察」があったときのみ、重ね合わせ状態が収縮する。では「観察」とはなにか、という問いである。
 バブルに閉じ込められた地球と人類、警察をやめるきっかけになった妻カレンへの絶望的な喪失感を感じないよう自分を閉じ込めたニック。一方、病院に閉じ込められたはずなのに失踪したローラ。「量子論的観察」について実験体となり、自らを研究室に閉じ込めたチュン・ポークウィ。それぞれの重ね合わせと収縮とは?奇想天外とはこのこと。読んだ後、世界を見渡すとちょっと呆然としてしまう。
 その衝撃は2004年の頃より、今の方が大きいかも知れない。

 ところで、舞台はオーストラリア大陸にあるニュー・ホンコン(新香港)。2029年に建国された。2027年の中華人民共和国編入30周年に香港の基本法が停止され抗議デモは武力鎮圧された。その後不法出国者が急増、近隣諸国は難民キャンプに押し込めたが、2026年にアボリジニ部族が連合して独立したアーネムランド部族連合が北オーストラリアの土地の一部を香港人に譲渡した。建国の条件は、経済活動の利益の一部をアーネムランドに分配すること。これをきっかけに国際投資が集まり、新香港は独立国としてナノテクとITの経済大国となったのである。ということなのだ。
 2021年のいま、実際の香港は、基本法停止には至らないものの、中国の政治介入を受け、民主派リーダーたちへの弾圧が続いている。しかも、出国もままならず、たとえ外国にいても、中国政府が訴追できる法律をつくり、安心して亡命・難民生活を過ごすことさえできなくしている。
 SF作家の未来構想力は、そのストーリーがいかに現実離れしていても、こうして世界の可能性をみせてくれる。

(2021.5)

順列都市(再)

順列都市(再)
PERMUTATION CITY

グレッグ・イーガン
1994

 2004年以来の再読。この直前に短編集の「ビット・プレイヤー」を読んで、あらためて一通り読み返そうかなと思った次第。

 2045年、ポール・ダラムは違法な実験をはじめた。脱出不可能な状態のコピーを作成したのだ。コピーとは、ある時点の記憶、人格を記録し、仮想ネットワーク上にダウンロードすること。コピーは、仮想空間での存在が耐えられないときには自ら消去する権利を持つのだが、ポールは自らのコピーを脱出不能な状態に起き、「意識」についての実験をはじめた。コピーは、コンピュータ上のソフトウエアとして存在している。そこにおける意識は連続しているのか、不連続なのか。たとえば、ものを数えるときゆっくり1、2、3と声に出すとする。では、1と2の間に、そのコピーの演算を一時中断しても、コピーの「意識」に気がつくことはない。1と2の間に、演算を行う物理的なコンピュータを東京と大阪に分散して行っても、「意識」が気がつくことはない。では、「意識」は1、2、3と数えているつもりでも、その演算は3、2、1と逆行しているのかもしれない。
 では、この現実世界の「私」の意識はどうなのだろう。

 このことをきっかけとして、ポール・ダラムは、新しい仮想世界を生み出し、一部のコピー化した超富裕層に働きかけ、存在としての「不死」を提示する。

 2050年、マリアは仮想空間でのセル・オートマトン世界における人工生命の自発的突然変異、すなわち自律的進化のきっかけをつくることに成功した。ポール・ダラムは、マリアに仮想世界において自律的に生命を生み出し、高次形態に進化しうる仮想惑星と生命の種子ともいえる条件のプログラム設計を依頼する。

 すべては、ポール・ダラムが生み出そうとしている、この宇宙の寿命より長く広がりより大きい「永遠で無限」の仮想世界のために。

 発表されてから30年近く、2045年もそれほど遠い世界ではなくなった
 若手だったイーガンももはやSF界の重鎮である。
 世界は想像よりもゆっくりすすみ、人工生命、仮想空間、仮想人格化といった技術はどれも研究開発の俎上に乗っているが、いまだブレークスルーにまでは至っていない。

 さて、本書のテーマはなんだろうかと改めて考えてみる。以前は「観察者問題」ではないかと思っていたが、それはそれで背景にある。アイディアの飛躍はここにあるのだから。それにしても、新しい世界を生み出すまでの前半と、生み出されてからの後半の話の飛びっぷりはすごい。登場人物が少ないだけに世界描写が迫ってくる。アイディアのホップステップジャンプで奇想天外を読ませ切るところがイーガンの本領発揮だ。

 一方で、もうひとつのテーマは、「他者の存在」である。ひとりで存在すること、だれかと存在すること、誰かが存在することと自分が存在すること。無限の時間が与えられたとき、その時間を前にして、自意識は自分だけで耐えることができるのだろうか。イーガンは、「たぶん耐えられない」という答えを出す。神は存在しなくても生きていけるが、自分と関わる他者が存在しなければ生きていけないのだ。

「あなたは心底、昔の世界を知っているだれかが必要なのですね」

 アイディアとストーリーをそぎ落としたところに、この言葉が世界を集約していくのだ。

(2021年5月2日)

ナイン・フォックスの覚醒

NINEFOX GAMBIT

ユーン・ハ・リー
2016

 原題は、「九尾の狐のギャンビット」。ギャンビットとは、チェスの初期でポーン(歩駒)をわざと失い、長期的に優位に立つ戦略のこと。なるほど。原題を理解すると、ストーリーの狙いがよく分かる。
 ファンタジースペースオペラなのかな?
 基本的には宇宙ミリタリーSFのカテゴリーに入るのかな?
 主人公は星間専制国家六連合の軍人ケル・チェリス。兵士でありながら、戦略に欠かせない数学の天才でもある。別の道をとることもできたのに進んで兵士になったとも言える。この世界は、「暦法」によって物理法則が決まり、計算式とその解をうまく使い、フォーメーションと武器を効果的に使うことで敵を攻撃することができる。しかし、異端とよばれるちがう「暦法」は、別の法則によるため、攻撃のあり方が変わってくる。つまり、「暦法」という場と「数学」という術による魔法的世界ともいえる。
 主人公のケル・チェリスは、軍人として作戦を受け、異端を攻撃し、異端が拡張するのを防ぐのが仕事である。
 この世界でもっとも恐れられている軍人がいる。かつて作戦を完遂するために無数の兵士と民間人を犠牲にした司令官シュオス・ジェダオである。彼は肉体を失った状態で永遠ともいえる静止・監禁状態にあった。
 いま、このシュオス・ジェダオの監禁を解き、その力をもって解決すべき戦略上の危機が訪れた。ケル・チェリスはシュオス・ジェダオの力を授けられ、仮ではあれ司令官として大規模な軍を率いていくのであった。
 ファンタジースペースオペラなのかな?
 ミリタリーSFだよね。
 あれ、途中からAIロボットの存在感が増してきたり。
 ん、これは魔法なのかな?

 あ、でも、なんとなく「デューン」シリーズのような世界の創世感はあるなあ。
 あと現代的なのは、ジェンダーや多様性に対する価値観かな。
 RPGゲームのような感じもするし。
 3部作の第一作目だということなので、ちょっと保留。

(2021.4)

銀河核へ

銀河核へ
THE LONG WAY TO A SMALL, ANGRY PLANET
ベッキー・チェンバーズ
2014
 最高におもしろいスペース・オペラ。こういうのが読みたかった。SFが21世紀の価値観に彩られている。様々な酸素呼吸型の異星人種と地球人が一緒に過ごす世界での日常の仕事と暮らし。クライマックスを除き、なにか極めつけに特異なことが起きるわけではない。ただ生態と思考方法が異なる人達が同じ宇宙船や宇宙船の外の世界で関係を結ぶ。浅い関係、深い関係、知らないが故の誤解、片方だけの理解、相互理解。物語というのは大抵そういうものでできているが、まったく生態が異なる異星人種と、銀河規模では遅れている人類という世界だからこそ、いろんなことがよく理解できる。とてもやさしい視点に包まれた冒険小説。
 さて物語。地球はもはや生存に適さないぐらいに汚れてしまった。人類集団のうち、富裕な者たちは火星に移住し、そうではない生き残った者たちは離郷船団であてどなく新たな地を求めて旅立った。その後、人類はほろぶ直前に銀河共同体に属する種族のひとつに発見され、かろうじて銀河共同体の一員として加わることを許された。
 物語はそれから数百年後にはじまる。
 この銀河共同体は、各星系間を超次元を用いたトンネルのようなものを使って時間の制約なしに往来し、銀河共同体の一体性を保っている。しかし、このトンネルを建設するには、トンネル建造船がその目的地まで実空間でたどり着き、そこから、もよりのネットワークハブのようなところまで接続させる必要がある。逆に言えば、もよりのハブのようなところまではトンネルを使って行けるが、そこから目的地までは結構長い月日を航行しなければならないのだ。
 小さな仕事ばかり請け負っていたトンネル建造船ウェイフェアラーのアシュビー船長は離郷船団出身の人類。確実、堅実な仕事ぶりで知られていたが、事務経理作業の信頼性を高める必要があった。そこで求人をかけて雇用したのが、火星出身のローズマリー・ハーバー。若く、まだ宇宙経験も浅いが、銀河共同体の異星種族の言葉にある程度精通し、事務関係の仕事もできる期待の新人だ。事務専門員を雇用したことでウェイフェアラーには、銀河共同体政府から大きな仕事が舞い込んできた。現在、共同体に加盟していない内部紛争の激しい種族の一派と加盟協定を結んだので、彼らが支配する銀河核周辺部に新たなトンネルを作って欲しいと。まだ紛争の残る地域であるが、危険はないと言われ、長い長い旅に出ることとなった。
 ウェイフェアラー号は人類中心の船で、船長とローズマリーのほかにも気難しい土星の衛星出身の藻類学者、気がよくて腕の立つ独立植民地出身の機械技師、AIにぞっこんのコンピュータ技師という人類の乗組員がいる。それ以外にも、エイアンドリスク人の明るいパイロット、グラム人のやさしい医師兼料理人、シアナット・ペアとよばれて他者と関わりを持たない超次元ナビゲーター、それに、みんなに愛されているAIのラヴィーがいて、気持ちいい食堂がついていた。そこで、少しずつそれぞれの人達と関わり、関係性を深めていくローズマリー。主人公のローズマリーをはじめ、ひとりひとりに過去の物語があり、現在とつながっていく。
 特異なことが起きないといっても、強盗あり、犯罪あり、恋愛あり、秘密ありで飽きることはない。
 ローズマリーを中心とした、それぞれの人々の物語である。
 生態や考え方が異質だから、忌避し、差別する。それが人類の歴史だった。
 しかし、お互いを知的生命体として理解する、理解しようと努力することで、その負の思考が愚かなことだったと分かる。コミュニケーションと相互理解は、世界を動かす正の原動力なのだ。
 いや、堅苦しい話しにしてしまったが、ほんとうに軽い冒険小説であり、難しいことは何もない冒険活劇、スペース・オペラなのだ。
 気持ちいい「スターウォーズ」とでも言おうか。
 よい物語に出会った。
(2021.2)