ディアスポラ(再)

ディアスポラ(再)
DIASPORA

グレッグ・イーガン
1997

 再読。読後に以前読んだ後に書いた文章を見返すと2005年にマニラの国際空港で読了している。翻訳がでたばかりでフィリピン出張に持って行ったらしい。16年前のことである。
 いまはまったく違う性質の仕事をしていて、16年経つと16歳年齢を重ねているわけで、経験といまの生活スタイルによって考え方も大きく違っていることを実感している。とはいえ、連続した人格の中にあるわけで、当時の記憶もあるし、人格が大きく変わった感じもしない。では、その連続した私とは何者か?
 本書「ディアスポラ」を読んで、そのことをじんわりと考えるきっかけになった。

 物語は、2975年に、地球のデータセンターにある仮想空間の「コニシ」ポリスで「ヤチマ」と名をもつ孤児が創出されることではじまる。
 当時、人類の多くは、いくつかの仮想空間であるポリスで、データ的存在となり、その不死なる生を生きていた。一部は、そのような存在になることを忌避し、改変のない人間態であったり、たとえば水中生活など様々に変容した改変人間態として物質的生存を行う者たちもいた。また、データ的存在と物質的存在の中間のようなロボット態をとるものたちもいた。そのなかには宇宙を旅している者たちも。
 そういう遠い時代の物語である。

 2996年、地球から100光年先のとかげ座G-1、中性子星連星が異変を起こし、ガンマ線バーストを発生、地球へ到達し、地球上の生態系は壊滅的な打撃を受けた。
 それぞれのポリスのデータセンターは無事であり、その中で生きる人達への被害はなかったが、宇宙には彼らの科学的知識ではまだ分からない大きな謎と危機があることに衝撃を受け、ヤチマは、それを探索するために別のポリスに移り、果てしない探索への旅にでかけることにした。ディアスポラ、離散の旅である。それは、終わりのない旅になったのだった。
 時間が終えるのは4953年まで。そこから先は、そういう時間軸さえ離れていく。
 そうしてヤチマは、ひとつの「宇宙の果ての姿」をみることになる。後半の怒濤の旅はすごいよ。

 たとえば私がある時点で人格(人格と記憶)をデータ的にコピー(クローン)し、ふたりになったとする。その次の時点から私と私’(私コピー)は別々の道を歩き始める。私と私’はその時点までは同じ人物だが、そこから先は似ているけれど違うだろう。そうして次々と私の別バージョンが生まれていき、それぞれの人生を生きたとしても、それぞれの「ひとりの自分」にとってはただひとつの人生であり、別の「私」は決して自分ではない。それでも「別の自分」が「別の生き方」をすることで満足するのだろうか? 同じ指向性をもって分離したのだから、役割分担ができたり、リスク回避ができるだろうけれど、それもまた、それぞれのひとりひとりの人生であり結果でしかない。
 考えてみれば、多元宇宙論的には、それは常に発生しているともいえる。知覚はできないけれど、その時々で別の選択をしている自分と時間軸が発生し、分岐していく。だから、分岐しようがしまいが、コピーが生まれようが生まれまいが、私は私であり、私という人格にとっては私の人生はひとつなのだ。いくつ生まれても、ひとつ。ひとつずつ。
 そういうことを深く考えられる作品だった。

 ま、悪夢のように難しいハードSFだけどね。分からないことが分かるよ。

(2021.06)

万物理論(再)

万物理論(再)
DISTRESS

グレッグ・イーガン
1995

 グレッグ・イーガン初期3作品「観察者問題」作品群の3冊目は本書「万物理論」である。いわゆる物理学の究極理論のこと。相対性理論、量子論から求められる4つの力である電磁気力、弱い相互力、強い相互力、重力のうち、重力をのぞく3つをひとつの形で統一しようとするのが大統一理論。それをふまえて重力までを含めた形で表現しようとしているのが万物理論である。万物理論の研究は、物質とエネルギーの理論だけでなく、重力の研究が量子情報というかたちで「情報」の保存、ひいては、「エントロピー論」も包括するものとして検討を迫られている。
 2019年に人類ははじめてブラックホールの実態としての映像を「見る」ことに成功した。もちろん可視光の話ではなく、地球規模の電波望遠鏡ネットワークとコンピュータの解析によって得られた画像である。しかし、この画像は、ブラックホールによって突きつけられている重力と量子情報、エントロピーについての研究を深めさせることになっていくだろう。
 さて、時は2055年、場所はステートレス。南太平洋中央にある公海上の海底死火山に固着してバイオ技術によって成長を続ける生きた人工の島である。多くの国が、遺伝子特許侵害「国家」だとしてその存在を否認しているが、最大の環境難民受入地であり、無政府主義者の地であり、バイオとコンピュータ科学の先進地でもある。大国政府による侵略や破壊は行いにくいなかで、主にバイオ産業が裏にいるとみられるテロ攻撃はときおり起きていた。このステートレスで国際物理学会が開かれ、「究極理論」の候補とみられる3つの理論を3人の科学者が発表し、議論されることになった。
 主人公の科学ジャーナリストのアンドルー・ワースは、究極理論の最有力候補であるヴァイオレット・モサラの特番をつくるための密着取材をはじめた。身体に記録装置を埋め込み、ネットワークとつながったジャーナリストである。
 アンドルーは、それまでバイオ技術の進展によって生まれた死後直後一時的に記憶を呼び覚ます技術、生命のDNAを別の塩基システムに置き換える技術などを扱った特番を編集していたが、次の番組として世界各地で散発的に発生している奇病のディストレスを扱うよう求められ、その取材から逃れるために他のジャーナリストが準備していた究極理論の取材をもぎとったのだった。

 そう、世界はバイオ技術とコンピュータ・インターネット技術によって大きく変わってしまった。生き方も、仕事も、選択も。都市の役割は減っていき、人々は個の多様性を尊重するようになっていたが、一皮むけば貧富の差はあり、格差はあり、そして、カルト宗教も変わらず多くの人々の心を捉えていた。世界は変わっても、人はそうそう変わらないのだ。
 いまここにほんものの究極理論が誕生しようとしている。それは観察者問題の解決でもある。量子の状態の重ね合わせは、観察者の観察によって解消され、量子はその状態に固定される。対生成した量子は相互に重ね合わされており、それは距離を問わない。では、「観察」とはなにか?
 いくつかのカルト宗教は、究極理論が生まれること、すなわち究極理論が理解されることにより、この宇宙が「観察された」ことになり、宇宙が、世界が、変わってしまうことを恐れ、この研究の仕上げを防ごうと科学者たちを脅迫し、ときには殺害すら計画していた。不穏な空気の中で、はたして究極理論は完成するのか、そして、その結果何が起きるのか? さまざまな思惑、陰謀、事件に巻き込まれていくアンドルーがそこに見たものは?
 という作品。
 正直なところ、本書を最初に読んだ2004年と、2021年の現在までに一般の科学誌や解説書はいくつもいくつも出ている。もちろん、究極理論はまだまだ先だし、統一理論もいまひとつのところにあるが、冒頭に紹介したように科学的研究は少しずつ近づいているようだ。
 かつて天動説から地動説が誕生し、それを人々が受け入れ、理解するまでの時間。
 かつて相対性理論が誕生し、光速不変やE=mc2を人々が受け入れ、理解するまでの時間。
 あるいは個人的な感覚で言うと、はじめてパソコンにOS(オペレーションシステム)が導入され、ハードウエアをソフトウエア的に扱えるようになったとき、その概念を理解するまでの時間。
 パラダイムシフトには、個人や社会が「腑に落ちる」までの時間を必要とするのだ。
 そうやって考えてみると、1995年の段階で、これを書いているグレッグ・イーガンはあらためてすごい。

(2021.5)

宇宙消失(再)

宇宙消失(再)
QUARANTINE

グレッグ・イーガン
1992

 2004年以来の再読。発表されたのが1992年なのでほぼ30年前の作品である。30年前といえば、1992年の30年前は1962年。
 1962年といえば、高度成長期に入ったばかりの頃で、電話は各家庭にはなく、テレビは普及期前でモノクロだった。通信はもっぱら手紙、緊急時は電報。マスメディアは戦前からあったラジオと新聞が主で、テレビは1964年の東京オリンピック(!)を機に普及することになる。ラジオも真空管からトランジスタラジオに置き換わっていった時期である。計算は、そろばんが主力で、理数工学系だと計算尺を使っていた。せいぜい機械式計算機が使われていた頃で、電卓はまだ登場していない。トランジスタをつかったコンピュータが開発された時期である。音楽はレコードの時代である。録音はオープンリールテープを使うしかなく、いわゆるカセットテープはこの年に開発・規格化されたばかりである。
 1992年になると、携帯電話が普及期に入る。ビジネスの現場では呼び出し用のポケットベルから携帯電話への移行がはじまるが、携帯電話にメール等の機能はなく、電話のみであった。メディアの主力はテレビに移るが新聞・雑誌も隆盛を誇っていた。電卓はひとり何台も持っていたり、パーソナルコンピュータも、windows3.1の登場によってユーザインターフェースが格段によくなり、通信はモデムを使った電話回線を使い、インターネットではない会員制の通信ネットワークが主力であった。しかし、インターネットが今後普及するという確固たる予感は世間を賑わしていた。音楽はCDが主で、カセットが主流で、MDが普及直前の頃である。
 2021年の現在、携帯電話はモバイルデバイス(スマートフォン、スマホ)となり、デジタル化した通信環境とコンピュータ技術、集積回路技術によって、電話・メール・SNS、動画撮影、配信、金融サービス、商業サービスなど仕事、暮らしのあらゆる面でほぼ不可欠なデバイスになってきた。メディアは、ついにテレビ事業者の衰退がはじまり、インターネットを活用した配信事業者が映画・テレビ・新聞・ラジオ・音楽メディアの機能を統合し、モバイルデバイスが受信装置として普及する。モバイルデバイスは同時に、コンテンツ作成、発信装置でもあり、マスメディアの力は相対的に弱くなっていく。映像も、音楽も、さらには、書籍までデジタル化・配信化され、生活様式を大きく変えてきた。

 本書の舞台は2067年。いまから46年後の世界である。この世界では2034年に突然太陽系全体が暗黒の球体に包まれ、太陽と惑星を除く光が空から消えた。それはバブルと呼ばれ、地球人類と太陽系外との接触は不可能になった。もっとも、人類はせいぜい有人で火星探査を行った程度であり、太陽系外の探査もほとんど進んでいなかった。バブルをつくった存在、その目的については不明で、それは、地球上に様々な仮説と、カルト宗教を生むことになる。
 2067年、いまのモバイルデバイスのようなものはモッドと呼ばれ、大脳神経系に神経を改変するプログラムをインストールすることで、さまざまな機能を発揮することができるようになっている。いわゆるゲームのプログラムもあれば、通信、ナビ、仮想コンピュータ、ある特定の思想を信念として持たせたり、警備員や兵士として必要な機能とそのための感情抑制などをもたらすプログラムもあった。主人公のニックは元警官で、警官としてのモッドを頭に入れたままフリーの探偵のような仕事をしていた。
 ある日、先天性の脳機能障害で完全隔離された入院生活を続けているローラが病院から失踪し、その彼女を捜索して欲しいという依頼が入る。誘拐されたのか?
 そこから、ニックの、そして、この世界の事件がはじまるのであった。

 テーマは初期のグレッグ・イーガンのテーマとも言える量子論における観察者問題。量子のふるまいは「観察」があったときのみ、重ね合わせ状態が収縮する。では「観察」とはなにか、という問いである。
 バブルに閉じ込められた地球と人類、警察をやめるきっかけになった妻カレンへの絶望的な喪失感を感じないよう自分を閉じ込めたニック。一方、病院に閉じ込められたはずなのに失踪したローラ。「量子論的観察」について実験体となり、自らを研究室に閉じ込めたチュン・ポークウィ。それぞれの重ね合わせと収縮とは?奇想天外とはこのこと。読んだ後、世界を見渡すとちょっと呆然としてしまう。
 その衝撃は2004年の頃より、今の方が大きいかも知れない。

 ところで、舞台はオーストラリア大陸にあるニュー・ホンコン(新香港)。2029年に建国された。2027年の中華人民共和国編入30周年に香港の基本法が停止され抗議デモは武力鎮圧された。その後不法出国者が急増、近隣諸国は難民キャンプに押し込めたが、2026年にアボリジニ部族が連合して独立したアーネムランド部族連合が北オーストラリアの土地の一部を香港人に譲渡した。建国の条件は、経済活動の利益の一部をアーネムランドに分配すること。これをきっかけに国際投資が集まり、新香港は独立国としてナノテクとITの経済大国となったのである。ということなのだ。
 2021年のいま、実際の香港は、基本法停止には至らないものの、中国の政治介入を受け、民主派リーダーたちへの弾圧が続いている。しかも、出国もままならず、たとえ外国にいても、中国政府が訴追できる法律をつくり、安心して亡命・難民生活を過ごすことさえできなくしている。
 SF作家の未来構想力は、そのストーリーがいかに現実離れしていても、こうして世界の可能性をみせてくれる。

(2021.5)

順列都市(再)

順列都市(再)
PERMUTATION CITY

グレッグ・イーガン
1994

 2004年以来の再読。この直前に短編集の「ビット・プレイヤー」を読んで、あらためて一通り読み返そうかなと思った次第。

 2045年、ポール・ダラムは違法な実験をはじめた。脱出不可能な状態のコピーを作成したのだ。コピーとは、ある時点の記憶、人格を記録し、仮想ネットワーク上にダウンロードすること。コピーは、仮想空間での存在が耐えられないときには自ら消去する権利を持つのだが、ポールは自らのコピーを脱出不能な状態に起き、「意識」についての実験をはじめた。コピーは、コンピュータ上のソフトウエアとして存在している。そこにおける意識は連続しているのか、不連続なのか。たとえば、ものを数えるときゆっくり1、2、3と声に出すとする。では、1と2の間に、そのコピーの演算を一時中断しても、コピーの「意識」に気がつくことはない。1と2の間に、演算を行う物理的なコンピュータを東京と大阪に分散して行っても、「意識」が気がつくことはない。では、「意識」は1、2、3と数えているつもりでも、その演算は3、2、1と逆行しているのかもしれない。
 では、この現実世界の「私」の意識はどうなのだろう。

 このことをきっかけとして、ポール・ダラムは、新しい仮想世界を生み出し、一部のコピー化した超富裕層に働きかけ、存在としての「不死」を提示する。

 2050年、マリアは仮想空間でのセル・オートマトン世界における人工生命の自発的突然変異、すなわち自律的進化のきっかけをつくることに成功した。ポール・ダラムは、マリアに仮想世界において自律的に生命を生み出し、高次形態に進化しうる仮想惑星と生命の種子ともいえる条件のプログラム設計を依頼する。

 すべては、ポール・ダラムが生み出そうとしている、この宇宙の寿命より長く広がりより大きい「永遠で無限」の仮想世界のために。

 発表されてから30年近く、2045年もそれほど遠い世界ではなくなった
 若手だったイーガンももはやSF界の重鎮である。
 世界は想像よりもゆっくりすすみ、人工生命、仮想空間、仮想人格化といった技術はどれも研究開発の俎上に乗っているが、いまだブレークスルーにまでは至っていない。

 さて、本書のテーマはなんだろうかと改めて考えてみる。以前は「観察者問題」ではないかと思っていたが、それはそれで背景にある。アイディアの飛躍はここにあるのだから。それにしても、新しい世界を生み出すまでの前半と、生み出されてからの後半の話の飛びっぷりはすごい。登場人物が少ないだけに世界描写が迫ってくる。アイディアのホップステップジャンプで奇想天外を読ませ切るところがイーガンの本領発揮だ。

 一方で、もうひとつのテーマは、「他者の存在」である。ひとりで存在すること、だれかと存在すること、誰かが存在することと自分が存在すること。無限の時間が与えられたとき、その時間を前にして、自意識は自分だけで耐えることができるのだろうか。イーガンは、「たぶん耐えられない」という答えを出す。神は存在しなくても生きていけるが、自分と関わる他者が存在しなければ生きていけないのだ。

「あなたは心底、昔の世界を知っているだれかが必要なのですね」

 アイディアとストーリーをそぎ落としたところに、この言葉が世界を集約していくのだ。

(2021年5月2日)

ナイン・フォックスの覚醒

NINEFOX GAMBIT

ユーン・ハ・リー
2016

 原題は、「九尾の狐のギャンビット」。ギャンビットとは、チェスの初期でポーン(歩駒)をわざと失い、長期的に優位に立つ戦略のこと。なるほど。原題を理解すると、ストーリーの狙いがよく分かる。
 ファンタジースペースオペラなのかな?
 基本的には宇宙ミリタリーSFのカテゴリーに入るのかな?
 主人公は星間専制国家六連合の軍人ケル・チェリス。兵士でありながら、戦略に欠かせない数学の天才でもある。別の道をとることもできたのに進んで兵士になったとも言える。この世界は、「暦法」によって物理法則が決まり、計算式とその解をうまく使い、フォーメーションと武器を効果的に使うことで敵を攻撃することができる。しかし、異端とよばれるちがう「暦法」は、別の法則によるため、攻撃のあり方が変わってくる。つまり、「暦法」という場と「数学」という術による魔法的世界ともいえる。
 主人公のケル・チェリスは、軍人として作戦を受け、異端を攻撃し、異端が拡張するのを防ぐのが仕事である。
 この世界でもっとも恐れられている軍人がいる。かつて作戦を完遂するために無数の兵士と民間人を犠牲にした司令官シュオス・ジェダオである。彼は肉体を失った状態で永遠ともいえる静止・監禁状態にあった。
 いま、このシュオス・ジェダオの監禁を解き、その力をもって解決すべき戦略上の危機が訪れた。ケル・チェリスはシュオス・ジェダオの力を授けられ、仮ではあれ司令官として大規模な軍を率いていくのであった。
 ファンタジースペースオペラなのかな?
 ミリタリーSFだよね。
 あれ、途中からAIロボットの存在感が増してきたり。
 ん、これは魔法なのかな?

 あ、でも、なんとなく「デューン」シリーズのような世界の創世感はあるなあ。
 あと現代的なのは、ジェンダーや多様性に対する価値観かな。
 RPGゲームのような感じもするし。
 3部作の第一作目だということなので、ちょっと保留。

(2021.4)

銀河核へ

銀河核へ
THE LONG WAY TO A SMALL, ANGRY PLANET
ベッキー・チェンバーズ
2014
 最高におもしろいスペース・オペラ。こういうのが読みたかった。SFが21世紀の価値観に彩られている。様々な酸素呼吸型の異星人種と地球人が一緒に過ごす世界での日常の仕事と暮らし。クライマックスを除き、なにか極めつけに特異なことが起きるわけではない。ただ生態と思考方法が異なる人達が同じ宇宙船や宇宙船の外の世界で関係を結ぶ。浅い関係、深い関係、知らないが故の誤解、片方だけの理解、相互理解。物語というのは大抵そういうものでできているが、まったく生態が異なる異星人種と、銀河規模では遅れている人類という世界だからこそ、いろんなことがよく理解できる。とてもやさしい視点に包まれた冒険小説。
 さて物語。地球はもはや生存に適さないぐらいに汚れてしまった。人類集団のうち、富裕な者たちは火星に移住し、そうではない生き残った者たちは離郷船団であてどなく新たな地を求めて旅立った。その後、人類はほろぶ直前に銀河共同体に属する種族のひとつに発見され、かろうじて銀河共同体の一員として加わることを許された。
 物語はそれから数百年後にはじまる。
 この銀河共同体は、各星系間を超次元を用いたトンネルのようなものを使って時間の制約なしに往来し、銀河共同体の一体性を保っている。しかし、このトンネルを建設するには、トンネル建造船がその目的地まで実空間でたどり着き、そこから、もよりのネットワークハブのようなところまで接続させる必要がある。逆に言えば、もよりのハブのようなところまではトンネルを使って行けるが、そこから目的地までは結構長い月日を航行しなければならないのだ。
 小さな仕事ばかり請け負っていたトンネル建造船ウェイフェアラーのアシュビー船長は離郷船団出身の人類。確実、堅実な仕事ぶりで知られていたが、事務経理作業の信頼性を高める必要があった。そこで求人をかけて雇用したのが、火星出身のローズマリー・ハーバー。若く、まだ宇宙経験も浅いが、銀河共同体の異星種族の言葉にある程度精通し、事務関係の仕事もできる期待の新人だ。事務専門員を雇用したことでウェイフェアラーには、銀河共同体政府から大きな仕事が舞い込んできた。現在、共同体に加盟していない内部紛争の激しい種族の一派と加盟協定を結んだので、彼らが支配する銀河核周辺部に新たなトンネルを作って欲しいと。まだ紛争の残る地域であるが、危険はないと言われ、長い長い旅に出ることとなった。
 ウェイフェアラー号は人類中心の船で、船長とローズマリーのほかにも気難しい土星の衛星出身の藻類学者、気がよくて腕の立つ独立植民地出身の機械技師、AIにぞっこんのコンピュータ技師という人類の乗組員がいる。それ以外にも、エイアンドリスク人の明るいパイロット、グラム人のやさしい医師兼料理人、シアナット・ペアとよばれて他者と関わりを持たない超次元ナビゲーター、それに、みんなに愛されているAIのラヴィーがいて、気持ちいい食堂がついていた。そこで、少しずつそれぞれの人達と関わり、関係性を深めていくローズマリー。主人公のローズマリーをはじめ、ひとりひとりに過去の物語があり、現在とつながっていく。
 特異なことが起きないといっても、強盗あり、犯罪あり、恋愛あり、秘密ありで飽きることはない。
 ローズマリーを中心とした、それぞれの人々の物語である。
 生態や考え方が異質だから、忌避し、差別する。それが人類の歴史だった。
 しかし、お互いを知的生命体として理解する、理解しようと努力することで、その負の思考が愚かなことだったと分かる。コミュニケーションと相互理解は、世界を動かす正の原動力なのだ。
 いや、堅苦しい話しにしてしまったが、ほんとうに軽い冒険小説であり、難しいことは何もない冒険活劇、スペース・オペラなのだ。
 気持ちいい「スターウォーズ」とでも言おうか。
 よい物語に出会った。
(2021.2)

果てなき護り

果てなき護り
THE FOREVER WATCH
デイヴィッド・ラミレス
2014
sideA
「世代船」といえばSFの王道。地球を離れた超大型の宇宙船が新天地を目指して長い長い旅を続けている。世代交代する中で、世代船しかしらない世代は時に目的を失い、時に、外の世界である宇宙があることを実感しない。ハインラインの「宇宙の孤児」(1963、元は1941年の2作品)は昭和の頃、日本で何度かジュブナイル作品として紹介されていて、ものすごく印象に残っている。そんな香りがただようのが本作「果てなき護り」である。地球を出て347年、乗船しているスタッフはその「能力」に応じて仕事が割り振られている。能力とは、いわゆる超能力であり、テレパシー、物質移動能力、運動能力の強化、治癒力など、天性の能力に加えて、インプラントを挿入し、世代船のエネルギーを引き出して、その能力を強化することができる。
 女性は出産の義務があり、その間は仕事を休むことになる。出産しても、子どもと面会することはなく、また、妊娠・出産の期間は事実上昏睡状況に置かれるので失われた時間となる。
 数万人の人々の能力は大きな格差があり、そして、その階級ごとに、世代船の中でいける場所や情報へのアクセスが限られている。
 船内のルールに違反するとときに「再調整」により記憶を失い、別人格となって生きることにもなる。
 ハナ・デンプシーは、高い能力を持つため、若くして都市計画局の行政官をつとめているエリート。ある事件で知り合った無口で無骨な警察官のバレンズと少しずつ恋に落ちていた。周りからは、格差のある関係をめずらしがっているがハナは気にしていない。
 上司が不審な殺され方をした後、閑職に追われたバレンズは、上司の死の犯人や、その特異な死体の状況を追いかけ始めた。やがてそれはハナも巻き込み、世代船の隠された秘密に迫る大事件につながっていくのだった。
 というのがあらすじ。
 そもそもどうして人類は地球に住めなくなったのか? 目的地の惑星カナンはどうやって選択されたのか? 世代船で出産が義務なのはなんとなくわかるが、どうして妊娠期間を通じて昏睡状態におかれるのか? 人類がどうやって能力を獲得するにいたったのか? 遠き未来、それらの疑問を胸に読み進めていくことになる。
 大丈夫、全部回収されるから。
 そうねえ、全然舞台は違っているけれど、世界設定とかキャラクター設定を見ているとアニメ版の「攻殻機動隊」シリーズが好きな人にはおすすめできる。解説によると作者のデイヴィッド・ラミレスも日本のアニメが大好きだそうだし。
(2021.2)
sideB
 世代船について
 人類が他の星系に移住し、その版図を広げていくにはどのような方法があるだろうか。SFではさまざまな手法が生み出されてきた。もっとも大きな障害は距離と速度。既知宇宙は広大で、地球太陽系が属する銀河系だけでも直径10万光年以上。光の速さで10万年以上の距離である。通常の移動手段でどこまで光速に近づけられるか。
 人類が地球上にホモ・サピエンスとして登場したのが約20万年前とされる。言語の誕生から数万年経って記録としての文字が誕生したのは約5000年前とされる。そこから人類の進化は急速だったが、記録に残るこの間の変化を考えると、数百年、数千年を必要とする世代船は、そのものが人類の生存空間として、そのなかで人類は社会的、生物的に変化をしてしまうだろう。その変化と世代船という技術を前提とした閉鎖生態系であり移動手段の維持とメンテナンスはとても難しいものになる。
 卑近な例で言うと、原子力発電所の放射性廃棄物の保管問題である。10万年にもおよぶというその管理を、実際にどのようにすればいいのか。文明が変わり、言語が変わるなかで、科学技術的退化の時期が来た場合、その危険性や意味を理解してもらえるだろうか。むしろ、「掘るな」と書かれると「宝か?」と思われるかも知れない。
 世代船は、物語としては実に面白いが、実は現実味がない方法である。
 では、最近のSFではどうしているのか。
 ひとつは冷凍睡眠方式。これなら文化的変化を止められるし、出発世代がそのままなので目的も共有できている。問題は、船の維持管理と操船。コンピュータ任せにするのか、それが自律意識を持ったAIなのか、それとも少数の人間が交代で目覚めるのか。そこに事件が発生する。
 次に分かりやすいのが播種船方式。受精卵だったら小さくて済む。必要に応じて成長させ、増やしていくことも簡単だ。出発時に残る側の取り残されるという精神的なトラウマも起きない。問題は、やはり操船と、到着した後の第一世代をどのように育て、教育し、開発と社会を形成するか、となる。目的共有も難しいことになるだろうし、リスクも大きくなるので、播種船方式の場合には、数も必要になるだろう。
 播種船方式と冷凍睡眠方式の変形として、データ化された精神とナノテクによる肉体の形成技術を併用して送るという方式もある。
 映画「インターステラー」では、ホワイトホールで時空を超えて別の銀河星系に行くことでその問題を解決しているが、行き先が生存可能かどうかが分からないという難題を抱えていた。

シンギュラリティ・トラップ

シンギュラリティ・トラップ
デニス・E・テイラー
THE SINGULARITY TRAP
2018
 読み終わってから、作者が「われらはレギオン」3部作の人だったと気がつき、合点がいく。舞台は近未来の太陽系。主人公は、地球での収入増が見込めず、近い将来破綻が予測される家族の夫であるアイヴァン・プリチャード君。プログラム専門家だ。一発逆転のためにアステロイドベルトで鉱物を採鉱する採鉱船に乗ることにした。鉱物にめぐまれた小惑星を発見すれば大金持ちも夢じゃない。過去の探索で失敗し、破綻寸前の採鉱船マッド・アストラの株を買い、専門要員として乗り込むことになった。
 そのはるかはるか昔、人類が地球上に進化し登場するはるか昔のこと、恒星系から恒星系へ旅を続ける自動航行船が太陽系に入り、そこで地球上での生命活動の兆候を発見し、知的生命体の出現に備えて遠くの小惑星に「密使」をしかけ、そしてまた別の恒星系へと飛び立っていった。
 王道のテイラーにとってここからしばらくは予想通りの展開。ある有望な小惑星を発見し、そこの所有権を確保するために2重小惑星に乗り込んだマッド・アストラ号とアイヴァン君。小惑星のひとつばビンゴ!大当たりで、乗員全員が大金持ちになること間違いなしの上物。ところだ、小惑星のもうひとつで、「密使」と接触し、アイヴァン君に変化が!!! えらいこっちゃ、ばれると採鉱船ごと隔離される。とはいえ、地球や軌道上の宇宙港を汚染する可能性は否定できない。お金は欲しい、アイヴァン君の様子は気になる。
 さあ、どうする、どうなる。
 という物語だ。
 そこから先は、テイラーお得意のユーモア満載ごり押しストーリー。
 それにしても、「密使」を置いた先行宇宙知性体の目的は何だ?
 宇宙では何が起きているのか。
 1冊で話がとても大きくなるぞ。
 とてもお得かもしれない。
 もともと、オーディオブック用に書かれた作品だけに流れが分かりやすく、ハラハラドキドキも基本に忠実。小説の組み立ての勉強になる。
 物語が大衆化していくことはいいことだ。
 さて、原題のシンギュラリティ・トラップだが、その言葉通り、人類はシンギュラリティを迎える直前の状況である。はたしてシンギュラリティは人類に何をもたらすのか。この20数年、多くのSF作家がこの問いを物語にしてきた。それは地球上で完結することはなく、常に宇宙規模の話となっていく。本作品は太陽系とはいえ宇宙空間で宇宙船が主舞台なのでシンギュラリティについて考える上でも興味深い舞台設定になっている。
 シンギュラリティで生まれる知性は、人類をどう扱うのだろうか。
(2021.1)

地を継ぐ者

地を継ぐ者
INHERIT THE EARTH
ブライアン・ステイブルフォード
1998
 22世紀の終わり、一度荒廃した都市と地球は再生の道を歩んでいた。気候変動によって傷んだ自然環境はナノテクや技術開発、さらには、疾病と紛争によって人口が減ったこともあり、回復に向かっていた。
 ナノテクと生化学技術、遺伝子工学技術によって不死ではなくとも不老超長寿となったごくわずかの高齢者たちが企業、金融を支配していたが、それ故に、後の世代から恨まれており、彼らはエリミネーターと呼ばれる非組織の殺人者たちに常に狙われていた。
 若い世代は先行世代に実質的に支配され、経済的な成功は難しく、長寿は保証されていても、仕事も生きがいもないという状況にあった。エリミネーターは、そんな世代間の固定化しかねない不安と不満から生まれたのである。
 若い世代の中には、自分達が怪我や病気に対して強いこと、簡単には死なないことから、ナイフなどを使った個人対戦をヴァーチャルリアリティの映像作品として公開し、スリルと興奮を売っているストリートファイターと呼ばれる者もいた。世界は徐々に仮想化もしている。
 さかのぼって22世紀初頭、世界は激動していた。2度に渡る経済格差と世代間の深刻な対立による紛争は地球上のあらゆる都市に荒廃をもたらした。とくに、人類が妊娠不能に陥ったウイルスは絶望と混乱をもたらし、そしてそこに新たな希望と秩序が訪れる。人工的な出産技術体制と不老不死への技術革新が鍵であった。それはしかし新たな世代間対立を生むだけであったのだ。
 地を継ぐ者とは、地球という「地」を誰が継承するかということである。企業と個人、先行世代とやがて不老不死が確立するであろうという現行世代の対立の狭間で物語は進む。
 主人公は人工出産技術を確立し、50年ほど前に死んだコンラッド・ヘリアーの息子で、その継承者になることを嫌い、その息子であることを隠して生きる仮想環境デザイナーをしているデーモン・ハート。先行世代と現行世代の狭間で、支配する者と支配される者の狭間にいる元ストリートファイターである。
 物語は、彼の育ての親たちのひとりがエリミネーターに誘拐されたことではじまる。デーモンは父の同僚たちが複数の養父母となって父の後継者となるべく育てられていたのだが、彼自身はそれを嫌ったのだ。しかし、養父母であることは変わりない。そして、エリミネーターは死んでいるはずのコンラッド・ヘリアーは生きていると主張をはじめた。デーモンは、この誘拐事件とその背後にある動機に向かって動き出さざるを得なくなる。それは「地を継ぐ者」=未来を選択するできごとになっていく。
 不老不死というのは、人類が物語を手にしたはじめころからのひとつの大きなテーマであって、老いて死ぬ運命にある者と不死者の関係性の物語は繰り返し生み出されてきた。個人的には先日ようやく読み終わった「光の王」(ロジャー・ゼラズニイ 1967)は不死・転生者の物語であり、たとえば「メトセラの子ら」(ロバート・A・ハインライン 1941,1958)、なんてのもある。20世紀終わり頃からのSFになるとすぐに仮想化されちゃうので不死は当たり前になっていて、時折実体化するのもいいね、なんて感じだ。そんななかにあって、本書では、不老不死社会になる直前のもやもやを描いた作品で、とても興味深い。
 21世紀初頭のいまだと、そういう社会を大きく変える技術的な転換点はまだまだで、通信技術、エネルギー技術、移動体・交通技術、生化学、生物科学など、ちょっと先は見えているけれど、具体化するにはどれもまだ足りないという時代である。そんな時代だからこそ、SFには変わりゆく世界の光と影を指し示す力があり、新たな物語が生まれる力を持つと思う。
 COVID-19パンデミックの世界にあって、人々の行動変容とともに、良き世界に変わる前に、世界が引きこもることで、人々の流れが滞り、目が外に向かなくなり、独裁や支配を求める者たちが息を吹き返しつつある。
 何か大きな世界的イベントが発生すれば、それに伴い、たいてい悪い方向に世界は進むが、その先には必ず希望があり、しかしそれは自らの手で切り開いていくしかない。
 物語はそういうことを繰り返し繰り返し伝えてゆく。SFの面白さであり使命でもある。
2021.01

光の王

光の王
LOAD OF LIGHT
ロジャー・ゼラズニイ
1967
 長編「わが名はコンラッド」はたしか高校生の頃に読んで、神話な要素などがまったく分からず、きつねにつままれたような気がする。ロジャー・ゼラズニイは、読むのに深めの教養が試されるので悩ましいSF作家だ。
 話は変わるが、小学生の頃、夏目漱石の「吾輩は猫である」に手を出して、出だしでなんとなく詰まって以来、高校、大学、社会人となんども手を出しては読み進められなかったが、その理由はいまだもってわからないし、いまだもって読み終わっていない。そういう物語もあれば、読まなければ、読みたいと思いつつ実のところ読んでいない作品もある。
 本書「光の王」は私にとっての長年の課題作だった。
 たいていの翻訳SFは好き嫌いせずに読んできたつもりだが、この「光の王」は「猫」以上に私の心のとげとなっていた作品である。読みたい、読むと面白いに違いない、でもなんとなく手が出ない。話題にもなっているし、ヒューゴー賞もとっている。なぜだ、なぜ手が出ないのか。
 「光の王」翻訳書が出たのが1985年。大学生の頃で、一番本を読んでいた時期なのに。
 その後、2005年に新装版として再版されたものをようやく古書として入手。
 2021年の最初に読む本とした。
 
 出版されてから半世紀以上経つのだが、作品に古さはまったくない。
 ファンタジー要素満載のSFだからだ。
 舞台は人類が植民した異星。超能力にも似た属性を持ち、転生をくり返すことで不死となっている初期入植者たちは神々となり天上世界で暮らし、科学技術の独占と能力によって地上の人たちを導いていた。見方によっては支配していた。この独占に対して、広く技術の公開、神々の失墜を模索し、神々と対立してきたのが主人公のサム、シッダールタとも、仏陀とも呼ばれた初期入植者のひとりである。
 現住生命体、市井の人々、神々が、魔法と科学の融合した世界で広げる神々同士、神々と悪魔、ゾンビ、人間の闘い。その中で語られる人生、生命、死、愛、裏切り、自然観、社会観…。これを何らかの啓示的な作品として読むのもいいが、実はそうではない。
 壮大なヒロイックファンタジーなのだ。
 いまならば映像化するといいだろう。そういう作品。
 たくさんの言葉のひとつひとつが、映像としてよみがえる。そういう作品。
 だから、苦労して読み終わったのだが、もう一度読んでみたい。でも、ちょっとだけ疲れるのは映像化が当たり前になってしまった現代に生きているからだろうか。
 楽してはいけない。想像力は、自分で鍛えなければ。
 言葉で想起される想像力を鍛えるのには最適の1冊である。
 もう一度、読もう。
2021.1.3