スターシップ・イレヴン

スターシップ・イレヴン
Linesman
S・K・ダンストール
2015
人類は数百年前にラインと出会った。ライン、それはエネルギーであり、物質でもあり、人類の行動範囲を格段に広げるものであった。ラインを使い、ボイド空間に出入りすることで光速を超えて船を飛ばすことができるようになった。ラインは10のレベルがあり、人類はラインを1~10まで区分した。数字が小さいラインはクルーの健康維持や軽作業、通信などを担い、数字が大きくなるほどに船のエンジンやボイド空間への入出などの重要な役割を担う。そして、ラインの調子を整えることができるのは、ラインズマンと呼ばれる天性の才能と訓練を受け、ラインズマン・ギルドで承認されたものだけ。彼らは、カルテル・マスターに雇用され、宇宙船のメンテナンスを引き受ける。そのなかでもレベル10のラインズマンはライン10を認識し、その修正ができる少数の特別な存在。
主人公のイアン・ランバートは、ライン10のひとりで、そして、現在のところ宇宙船のメンテナンスを請け負えるただひとりの男である。なぜなら他の高位のラインズマンはすべて「合流点」とよばれる未知の存在の調査にでかけているからだ。イアンも合流点の調査を望んでいたが、カルテル・マスターが許さず、ただひとり、さまざまな宇宙船のラインを、ラインと関わるエンジンや機器類を治していた。カルテル・マスターがイアンを合流点に行かせないのは、彼がいれば儲かるからだが、イアンは他のラインズマンとは大きく異なる点があった。彼は歌うことでラインの「気持ち」を知り、そして「治す」のだ。他のラインズマンはラインに感情や思考があるとは思っていないし、ラインは曲がったところをまっすぐにするのが仕事だと思っている。
ランシア帝国のスラムで育ったイアンは、多くのラインズマンとは異なり、自己流でラインズマンとしての能力を育て、後に訓練されたときも自己流を変えることができなかった。
そのイアンに転機が訪れる。ランシア帝国の若き皇女ミシェルが、イアンを事実上買い取り、そして、ミシェルや緊張関係にある同盟星の政界、軍関係者とともに特殊な任務につくことになったのだ。それは、人類の3勢力の戦争を防ぎ、そして、合流点など、人類が理解できない存在のなぞを解き明かすためのミッションは、それまで孤独だったイアンを変え、人類を変えるのであった。
物語としては、人類の戦争ものだ。実際の戦闘もある。宇宙船はボイド空間を使って他の星系に移動できるが、同時に2隻が同じエリアに出現すると星系規模での空間破壊が起きてしまう。そのためゲート管理が必要になった世界、というのが条件。つまり、一度に1隻ずつ。星系・惑星の連合や同盟といった政治・軍レベルの緊張と陰謀と争い、経済的紛争、ラインズマンをめぐる、あるいはラインズマン同士の勢力争い。そういうものが、そういうものと無関係でいたいイアンを取り巻く。
積極的意思を持たない主人公イアンを中心に敵も味方も濃い人たちが動き回って結果的にイアンとラインをめぐる大騒動につながるという物語で、焦点を絞り切れていない気もするが、「ライン・ユニバース」がシリーズ化されれば、人類間、人類と未知の種族(エイリアン)、ラインという存在の真実など、広げようはいくらでもあると思う。
長ーい開幕ストーリーを読んでいた気分。
(2020.1.5)

三体

三体
THREE-BODY PROBLEM
リウ・ツーシン
2006
 読んだ。壮大な序曲である。1967年、文化大革命に揺れた中華人民共和国。その大波に翻弄された科学者の親子がいた。そして、40数年後、その科学者の子が殺された。その科学者だけでなく、世界中の基礎科学者が次々となぞの死を遂げている。
 ワン・ミャオはナノマテリアルの開発責任者。ある日、軍警察関係者が職場を訪ねてくる。そして、事態が動き出し、ワンは巻き込まれていく。基礎科学者ではないのに、ワンは命を狙われていく。そして、ある組織が接触し、ワンにナノマテリアルの開発をやめるよう働きかける。断るワンに、その組織は言う。「あなたのために宇宙を動かしてあげる」。そして、宇宙が動いた。壮大すぎる。
 中国語の作品にどうして英訳者の大森望さんが入っているのか不思議だったが、あとがきを読んで納得。中国語で執筆、その後、英訳されアメリカでヒット、日本ではすでに中国語訳が出版されていないまでも存在。中国語版はSF翻訳者ではない方々によるもの。しかも、中国語版と、その後の英語版では構成が少し異なっていて、著者は英語版の流れが本意だとも言う。そこで、日本に存在していた中国語訳と英語版をベースに、SF翻訳者である大森氏が逐文チェックしながら整理。手間のかかる仕事になったとのこと。
 それだけに英語版とも中国語版とも違う日本版となった。
 発表されたのが2006年。中国の経済社会が沸き立っていた時期。文革についても(ある程度は)書けるようになったのだなあ。中国が主な舞台だし、文革期が物語の導入や登場人物の動機を形成しているけれど、作品としてはとてもインターナショナルだし、SFとしてはハード中のハードと言ってもいい。荒唐無稽でもある。エンターテイメント。すごいね。
 続編はまだー。
(2019.12)

静かな太陽の年

静かな太陽の年
THE YEAR OF THE QUIET SUN
ウィルスン・タッカー
1970
 2019年11月の私は「静かな太陽の年」を読んだ。ややこしいことだ。
 本書は、1914年生まれのウィルスン・タッカーが1970年に発表したタイムトラベルSFである。作者56歳の頃の作品である。ちなみに、それ以前はほとんど1950年代に書かれているので、久しぶりの作品とも言える。
 ここからがややこしい話で、本書は1978年を「現在」に据え、事件としては1980年、1999年から2000年代初頭のアメリカを舞台に展開する。
 つまり、作者タッカー目線で言えば、1970年以前の視点で、1978年を予測・想像し、そこから1980年、そして21世紀頭を描いたものである。
 そして、本書が訳されたのは1983年のことで、1931年生まれの中村保男氏の訳による。私が少年の頃に読んだSFの中で中村氏が訳した作品は多い。中村氏は2008年に亡くなっている。
 さて、1980年代頭はSFブームの頃で、次々に海外SFが翻訳され、日本の作家もヒットを飛ばしていた。そんな時期である。しかし、この作品はそれほど国内で売れたとも思えない。再版もかかっていなかった。それなのに、2018年9月、初版が出てから16年の歳月を経て、再版されている。実に不思議なこともあるもんだ。
 読者の私は、今回が初読。いまは2019年であり、この作品の舞台の「現在」からみれば45年後、描かれた2000年代初頭からも10年は過ぎている。
 そもそも、1978年の「現在」の描写さえ、歴史的には違っている。だって1970年の作品だから。
 だから、どんな視点で読めばいいのか分からない。笑う?現実の世界との違いを考える?
 たとえば、1970年当時激しかったベトナム戦争は幸いなことに終わっている。
 しかし、中東情勢は悪化を続けていた。そして、2019年のいま、アメリカが表立ってイスラエル寄りの政策を強く打ち出すようになり、緊張は高まっている。周辺のインド・パキスタン、イラン・シリア・トルコ・イスラエルなどの中東、南西アジア情勢も決して静かではない。
 1970年代、アメリカの宇宙開発は月から軌道上に後退し、そして月は忘れ去られていった。1970年にそんなことを誰が思っただろうか。スペースシャトル計画はその先への一歩だと、アポロ計画はさらなる月探検への道だと、みんな思っていたのではなかろうか。
 この作品では、ベトナム戦争は米中紛争へと発展している。中東戦争も悪化、アメリカは戦時下だ。
 この作品に書かれた近未来は、私たちにとっての過去だが、最悪の世界を見せる。核が繰り返し使われた世界。1970年代、このようなディストピアを描く作品は決して荒唐無稽でも、過剰な悲観思想でもなかった。それほどまでに、米ソ冷戦と核戦争への恐れは強かったのであり、人々はそのハルマゲドンを現実に迫るものとして実感していたのだ。
 それは日本でも同様であり、高度経済成長期の浮かれた中にも、常に一抹の不安として存在し、空を見上げていたのだ。実は、2019年のいまでもその状況は本質的には変わっておらず、とくに1990年代に米ソ冷戦が終わり、新たな世界のありようを平和裏に描けるという夢があっという間に消え、世界各地の紛争と、覇権なきテロ、そして、アメリカ、中国、ロシア、EUの台頭と緊張が分かりにくくも、新たな緊張を生んでいる。
 それでも、なんとか世界大戦はまぬがれている。がけっぷちなことは変わらないのだ。
 さて、本書では、1978年にタイムマシン「換時機」がアメリカの一部局で開発され、2000年頃の未来を確認するために3人の人間を送り込む準備が進められていた。ひとりは主人公のブライアン・チェイニィ。統計学者であり、未来学者であり、紀元前に書かれた巻物の物語を現代訳して物議を醸しているうんちく好きで、どこか引っ込み思案なところのある男。それに、空軍と海軍から来た若い少佐。戦争が続くおかげで昇進を早めたが、分析などが得意な者たちである。もうひとり、3人の調整役であるヒロインのカトリーナことカスリン・ヴァン・ハイゼ。若く、美しく、聡明かつ任務に厳しい女性である。
 実利性が薄いと考えられ、議会からは秘密のプロジェクトの予算が削られ、かろうじて新しい大統領に理解されてぎりぎりの予算で運営されているプロジェクトである。
 大統領は、自分が再選されるかどうかを知りたかったので、予定の行き先の変更を求める。そして、3人は最初の目的時間である1980年を訪れるのだ。
 この換時機は、大量の電力を消費して時間に穴を開け、その真空状態に機器と人を飛ばす。帰るときも同様である。行きと帰りの時間差は61秒、そして、滞在時間は50時間と定められた。チェイニィをはじめ未来を見る者たちはそこで何を見るのか、そして、カトリーナに淡い恋心を抱くチェイニィの思いは。
 近未来予測SFとしては、すでに過去なので答え合わせは簡単。そうならなくて良かったね、だが、訳者あとがきにもある通り、本書の執筆の動機であり本当のテーマは人種差別問題にある。1960年代半ば、アメリカにおける黒人差別と暴動が激しかったなかで、人種差別の醜さと、抑圧された人々の怒りの可能性を描いている。しかし、そのテーマはずっと隠され、本書のエンディング近くでようやく明らかになる。(ネタバレじゃん)と思われるかも知れないが、そうではない。
 物語の設定上、2回3回と送り出す時間やその間隔、人選など、良く考えればおかしいじゃないかと思わせるところも大きいが、過去改編ではなく「未来改編」の物語なのでタイムパラドックスはうまく回避している。
 1970年に書かれたことを忘れなければ、おもしろい1冊。
 でも、なんで2018年に再版されたのかな?
(2019年11月))

接続戦闘分隊 暗闇のパトロール

接続戦闘分隊 暗闇のパトロール
THE RED First Light
リンダ・ナガタ
2013
 このところ最近のミリタリーSFを立て続けに読んでいる。「宇宙兵士志願」「強行偵察」(マルコ・クロウス)「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」「メカ・サムライ・エンパイア」(ピーター・トライアス)そして、本書「接続戦闘分隊」である。ほかの4冊はなんとなくついでに読んだのだが、本書は「読みたかった」一冊である。なぜなら著者がリンダ・ナガタだから。「極微機械ボーア・メイカー」(1995)「幻惑の極微機械」(1997)はナノマシンを技術的中心において近未来と遠未来を描いた対のような作品であった。リンダ・ナガタは不条理に左右される主人公を描く。その中で、できることをみつけ、生きようとする。かなり不条理で、かなりえらい目に合うのだが、とにかく生き残り、そして、何かを達成しようとする。その能力や機会を与えられたから、逃げない。
 そういう作品の芯に流れる指向性がとても心地よいのだ。
 そのリンダ・ナガタのミリタリーSFである。
 主人公のジェームズ・シェリーは、上流階級の若者だったが、とあることから軍に所属することになり、接続戦闘分隊の現場将校として闘うことになる。接続戦闘分隊は、部隊間で情報が接続されるとともに、指揮官は本部にいる指導官に常に監視と指揮、アドバイスを受けることになる。ただし、現場の戦場にいて、実際戦い、そして、時に傷つき、死ぬのは接続戦闘分隊の兵士達である。彼らは外骨格のようなボディーアーマーをつけて超人的な力を得て闘う。その最前線の指揮官であり、軍曹の支援を受けて現場をまとめ、ミッションを達成するのが仕事である。
 シェリーは他の兵士達とは異なり、接続デバイスを目に埋め込んでいる。このデバイスはもともとは軍の物ではなく、金を持った若者だからできたことだ。しかし、軍が使用している装着型のデバイスと親和性がある。違いはミッション以外でも常に指導官に見られていること。
 そしてもうひとつ、シェリーのもとで、兵士は死なない。シェリーは「予感」を持つからだ。「勘」といってもいい。何か危機を感じると指揮官の指示に従わず、自分の予感を信じて行動し、危機を脱する。この予感は不思議なぐらいあたる。超能力? いや、そういうのが入る隙のないぐらいのミリタリーSFなのだ。なぜ? しかし、この能力はとても使える。シェリーに名声も与える。
 ますます軍を抜けにくくなるシェリー。
 軍という立場にありながら、本来ハイソサエティーのリベラリストとして軍を嫌っている視点を持ち、世界について、戦争・紛争が起きることについて考えをめぐらすシェリー。リンダ・ナガタらしい展開である。
 たしかにミリタリーSFで、ミリタリーSFが嫌いな人は受け付けない作品だが、人間の善なる可能性を信じる小説としてミリタリーSFを超えていると思う。
 様々なネット技術の先に、紛争の先にある、支配/被支配の関係は現実にも存在する。だから、こういう作品はおもしろい。
 そして、作品としては、とても軽く、読みやすく、エンターテイメントに満ちている。円熟した作者が、説教くさくなく、その精神を作品に込めた良作である。おすすめ。
(2019.10)

メカ・サムライ・エンパイア

メカ・サムライ・エンパイア
MECHA SAMRAI EMPIRE
ピーター・トライアス
2018
「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」の続編。あれから6年が過ぎた1994年に物語ははじまる。主人公のふじもと・まこと(マック)は1976年生まれ。1984年に両親を内戦で亡くし、養父母に育てられた。18歳のいま、進路の岐路に立たされている。メカパイロットを志望しているが成績は決して良くない。いや、悪くはないのだが。
 という主人公の軍人成長物語である。ミリタリーSFの王道。舞台は、ドイツと日本が連合国に勝った世界。
 前作は、「高い城の男」を強く意識していたが、前作「USJ」で舞台設定はできたということで、本作は思いっきりミリタリーSF、ジャパニメーションをしている。
 テレビアニメシリーズ向き。良い意味でも悪い意味でも。
 出てくるのは、「機動戦士ガンダム」ばりのモビルスーツと、「エヴァンゲリオン」ばりの生体モビルスーツ。巨大メカ対生体メカ。ちょっとゴシック、ちょっとスチーム、歴史改変だからできるゆがんだ技術発展の社会。そして、戦勝国皇国日本と戦勝国ナチスドイツの緊張が高まるのであった。つづくのか。
(2019.10)

強行偵察 宇宙兵士志願2

強行偵察 宇宙兵士志願2
マルコ・クロウス
LINES OF DEPARTURE
2014
 続編は5年後。主人公のアンドリュー・グレイスンが二等軍曹に昇進し、軍との再契約を済ませたところから物語はスタート。70光年線近くにあった人類のコロニーはもはやなく、数年前に数百あった人類のコロニーは次々と異星種族のコロニー人類殲滅、再テラフォーミング(異星種族向け)で人類が住める環境ではなくなっていった。もはや人類のテリトリーは30光年線まで戻り、コロニーの残りは69。とうてい勝てる相手ではないが、それでもコロニーをぎりぎりまで守り、可能ならば異星種族の足を止めるために、人類は闘っていた。しかし、そのような異星種族による人類駆除を前にしても、北アメリカ連邦と中国ロシア同盟の戦いは終わらず、相変わらず、敵は人類同士でもあった。
 しかも悪いことに、地球上の状況は悪化の一途を辿る。人類は2年前だからたぶん2111年頃に300億人となり、北アメリカには30億人がひしめいていた。これまでまがいなりにもコロニーという新天地を提示し、閉塞した地球上の気候、環境、生活への逃げ道をみせることで抑えていた社会は、コロニー行きの中止、食糧配給の削減、社会資本の低下などで、この5年でさらに悪化し、もはや無秩序同然となっていった。このままでは、人類は自ら滅亡の道をたどりかねないとさえ思われる事態である。
 という背景の中、グレイスンは宇宙艦船の戦闘管制員という専門技術スタッフになり、最前線の現場から艦船の攻撃力を操作する重要な位置を占めるにいたっている。恋人のハリーは中尉に昇進し、そのたぐいまれなるパイロットの能力を戦闘飛行学校での指導教官という形で活かしている。
 で、成長したハリーの激しい戦闘の物語である。地球での母との再会、ハリーとの関係、かつての上官との共闘など、軽い読み物として順調に物語は進んでいく。ちょっとご都合主義的なところはあるけれど、ご都合主義だからできる物語なのだ。気にすんな。
 とにかく、この作品群の特徴は、地球は惨憺たる有様で、人類はえらい目に合っているってことだ。そこが読みどころ。
 あと100年、何とかしようぜ兄弟。
 このままシリーズ化して7作品まで出ているらしいが、翻訳されるのか?
(2019.10)

宇宙兵士志願

宇宙兵士志願
マルコ・クロウス
TERMS OF ENLISTMENT
2014
 最近、翻訳SFが売れないからなのか、そもそも本が売れていないからなのか、翻訳されるSFのなかでミリタリー系が多い気がする。いや、多い。間違いなく、多い。ミリタリー系はミリタリー系としての需要がある。それは分かる。分かるんだけど、なんだかなあ。でもって新兵物はあいかわらずの人気。「宇宙の戦士」(ハインライン)にはじまり、「エンダーのゲーム」「終わりなき戦い」「老人と宇宙」「戦士志願」などなど。あまたの作者が手を染めている。実際名作も多い。ここに上げた5作品はどれもおすすめだ。ある意味深い。
 さて、ドイツからアメリカに移住した作者。ドイツ軍歴をもつだけに、迫真の新兵訓練。舞台は22世紀2108年。世界は中国系とアメリカ系に二分され、第三次世界大戦後、世界の荒廃は進み、人の格差は大きくなり、主人公のアンドリュー・グレイスンは公共住宅エリアでかつかつの福祉的生活しか知らないままに成長してきたのだった。希望は宇宙に出ること。そして、今の絶望的ななにもない生活から抜け出すこと。その唯一の道は、軍に志願すること。軍に志願し、新兵訓練を経て軍人として雇用されれば、その生活から抜け出すことができる。
 しかも、新兵訓練の初日から、本物の食べものを腹一杯食べることができるのだ。
 最高!
 新兵訓練の小隊は男女混成。まあ、それがあたりまえの社会。
 やがて配属され、紛争の現場に入り、現実を目の当たりにし、それでも生き抜く術を身につけ、失敗し、なんとか生き延び(主人公だから)、もてる能力をフルに発揮し、望みを少しずつ(ちょっとズルしつつ)勝ち取っていく。そんなストーリー。
 ほんと、どうなるんだろうね。これから先。
 いつまでもちゃんと飯が食えるのだろうか?
 いつまでもちゃんと医療が受けられ、いまのふつうの暮らしが続けられるのだろうか?
 人口はやがて80億、90億、100億となる。
 農地は減り、気候変動がすすみ農業が厳しくなる。つまり食料、本物の食料が減る。
 水が不足する。エネルギー開発の手立てが限られている。
 21世紀初頭、結構きわどいところにいる。
 そんなとき、この「宇宙兵士志願」を読んで、笑っておくと良い。
 そして、考えるのだ。
 どうやって生き延びる?
 戦士としてではなく、人間として。
 この手の作品は、ネタバレすると面白くないから、なーんにも書かない。
「老人と宇宙」「戦士志願」を楽しく読める人にはおすすめ。
(2019.10)

高い城の男(再)

高い城の男
THE MAN IN THE HIGH CASTLE
フィリップ・K・ディック
1962
 2007年に再読して、詳細なあらすじや感想を書いていた。
http://www.inawara.com/SF/H291.html
 読み直した理由はたったひとつ。「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」(ピーター・トライアス 2016)を読んだから。21世紀の「高い城の男」と評され、日本とドイツの枢軸国側がアメリカなど連合国側に勝利した、「日本の占領下にあるアメリカ」を描いた作品である。「高い城の男」の舞台は1962年。一方の「USJ」は1988年。それだけでも、ずいぶんと違う。「高い城の男」の世界は、戦後の成長が起きなかったアメリカであり、「USJ」の世界はものすごく経済と科学技術の成長があり、そして退廃的だ。
「USJ」はどちらかといえば、「ブレードランナー」に親和性がある。
 しかし、「高い城の男」を再読して思った。たしかに、同じところがある。主題は同じなのかも知れない。
「高い城の男」をその設定やディックならではの世界の真実性と虚構性の混在をはぎとってみれば、そこには「人の救済」が描かれている。誰かが誰かのために救済するのではなく、誰かのちょっとした意図しない善意がそれを受ける人にまったく伝わることなく誰かを救済しているのだ。それは「高い城の男」で描かれ、「USJ」でも描かれている。ディックの作品ではよく描かれている。この「意図しない善意」を分かりやすく「本意ではないが意図をもって行った行為が善意であり救済になる」形で描いたのが「ブレードランナー」という作品であった。
 ディックは「救済」についてずっと考えていたのだと思う。誰かを救おうとして行った行為ではなく、「救済」はどこにでもころがっていて、それは、誰かのなんとなくの「善意」であったり「行為」であったりするのだ。
「高い城の男」では、終わりの方でいくつかの殺人が起きる。そして、殺人をきっかけとした「救済」が起きる。殺した人は罪の意識をもったりもたなかったりするが、殺人がきっかけとなって、一見無関係な人が救済される。ディックらしい書きぶりである。
 2007年に感想を書いたとき、いまよりももしかすると賢かった私は、こう書いている。
—幾人かの登場人物がそれぞれの価値観から、「徳を積む」としかいいようのない行為をしていることに注目したい。人種でもなく、身分でもなく、地位でもなく、ただ人間としてできうる自分のためだけでない行為をするのだ。それがまがいものの世界に住んでいることを自覚していたディックが終生持ち続けた希望である—
 今回読み直していて、この「徳を積む」行為は、意図的でなかったのかもと思えてきた。意図的でなくても、徳を積むことはできるのだ。そして、それは「よく生きたい」という思いがあればこそなのだ。なんとむつかしいことだろう。でもディックはあきらめるな、と言う。
(2019.10)

ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン

ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン
ピーター・トライアス
UNITED STATES OF JAPAN
2016
 この10年、日本は東日本大震災、ゆるやかな経済的衰退、高齢化、人口減少、相対的な海外との経済格差など、それ以前からの長い閉塞感にある。その中でうんざりした人々には、「日本すごい」「他国は劣っている」といった、狭量なナショナリズムが蔓延している。いまの政権はそのナショナリズムによって維持され、「日本すごい」「やることは間違っていない」といった姿勢を拡大再生産している。この「ゆるい」ナショナリズムは、次第に個人の世界観の拡大投影となって自分と国=政権・権力・権威を重ね合わせ、その全能感を一方的に共有しはじめている。自覚なき全体主義者の誕生である。
 そういう世界の中で生きるのはうんざりするのだが、もともと、この社会の中にはそれを求める要素があって、それが顕在化してきただけとも言える。
 身近な異文化である韓国、中国を嫌悪し、戦後の権威となっているアメリカを同盟者として擁護する姿勢、マイノリティ、少数者、外国人、非日本語話者を見下す醜さ。女性や子ども、老人、病人にまでそういった姿勢をあからさまにしているえげつなさ。
 恥ずかしさ。
 恥ずかしいので、こういうタイトルの作品は読むのを躊躇してしまう。ディックファンとして、20代の頃から「高い城の男」で「もしアメリカが日本に負けていたら」という仮想社会と、その虚構感を読んでいたにもかかわらず。
「21世紀の高い城の男」と評判の作品である。作者本人もディックと「高い城の男」に謝意を述べている。そういう意味では、最初から読むのに抵抗を持つ必要はない、そんなことは分かっていた。それでも、読むまでに心理的な抵抗が続いた。いや、買うまでに心理的な抵抗が続いたのだ。本屋で、いつまでも平積みにされている「日本がアメリカに勝った世界」を読みたがる戦後70余年の日本の人たち。それだけで気色悪い。でも、きっと読んだ方がいい。3年が過ぎて、ようやく手に取る。ますます気色悪い社会が生まれつつある中で。
 舞台はアメリカ・ロサンジェルス1988年に始まる。プロローグの40年後のことだ。主人公は石村紅功、通称ベン。中国人・日本人ミックスの父と日本人の母から生まれ、幼い頃に両親を告発した功績をもつ。大日本帝国大尉として検閲局に勤務する。彼の前に登場するのは特別高等警察の槻野昭子。ベンがかつて師事した上司六浦賀将軍のゆくえを探す捜査につきあわされることになる。六浦賀将軍の娘の動向をさぐり、六浦賀将軍が開発し、流布したUSAというゲームプログラムの出元を押さえるために。USAは、その名の通り、アメリカが日本に勝利した架空の世界で広げられるゲームである。アメリカ人の独立抵抗組織がUSAを活用しているというのだ。
 片腕のガンアーム、巨大人型兵器とそのパイロットなど、日本のアニメやガジェットがふんだんに盛り込まれていく中で、たしかに21世紀の「高い城の男」の物語が展開されていく。もちろん、ディックよりはるかに分かりやすく、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」をもとに映画「ブレードランナー」ができたように、「高い城の男」が「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」になったのかも知れない。もういちど「高い城の男」を読み直す必要があるようだ。いまだから、こそ。
(2019.10)
 

女の国の門

女の国の門
THE GATE TO WOMEN’SCOUNTRY
シェリ・S・テッパー
1988
 ずいぶん前に古本屋で入手していた未読の一冊。ようやく読了。読み始めると一気だった。「大戦争後」の世界もの。かつて核戦争が起き、人類はほぼ滅亡状態になった。いまも核の影響は各地に残っている。そんな世界。小さな社会集団が独自の文化を形成し、生存を保っている。スタヴィアの世界は、塀に囲まれた女の国。男は5歳になると塀の外にある男達の兵舎に送られ、15歳になると一度だけ女の国で母親と面会し、選択を告げることになる。外で男として、兵士として生きるか、臆病者として女の国に戻り、そこでどこか別の女の国の従僕として生きるかという選択である。そして、男達が女達と直接交わるのは謝肉祭の二週間。その間に男達と女達は出会い、恋に落ち、あるいは、ゲームとしてお互いを知る。
 女の国はいくつかあって、それぞれに同じような社会システムとなっている。
 もちろん、規範にはずれた人たちはいて、ならずものの小集団、ジプシーとよばれる小集団、旅芸人一座などがそれにあたる。
 スタヴィアの生涯を通じて、女の国とは、兵士と従僕とは、その社会のしくみ、危機、人類を生き残らせるための思想が語られる。
 話としてはおもしろいが、今日的にはちょっとつらい作品だ。ひとつは、性的マイノリティを完全に否定している。そもそも男女二項対立の社会構造になっている。
 その背景には、男達は戦い、社会を急速に変え、戦いを拡大し、自分と他者と世界を壊す存在であり、女達は産み、協調し、世界を守り、育てる存在として位置付いている。従僕とは男性の攻撃性を、非理性性を排除した望ましい姿であり、独立はしていても女達に従属する存在として描かれる。
 1988年発表という時期を考えても、少々古くさい。
 あとがき解説によると、作者は1929年生まれ。つまり発表当時59歳。50歳代後半に執筆した作品である。第2次世界大戦が、アメリカによる広島、長崎への原爆投下をもって終結したのが16歳の時。その後、10代の終わりから20代の前半をソ連との冷戦、核開発、核実験、そして朝鮮戦争、ベトナム戦争を見てきている。そのことを考えると、ずっとたまりにたまっていた怒りが作品になったとも言える。
 物語そのものは、スタヴィアという女の国でも傑出した人物の波乱に満ちた半生を軸に、作者が構築した世界を鮮やかに描き出している点でおもしろい。
 冒険あり、陰謀あり、恋愛あり、親子間の複雑な関係ありで、決して教条主義的な作品ではない。
 性的マイノリティのことなど、そういう古い社会思想があることを理解した上で、当時議論を呼んだ作品を読むのも大切な読書体験だと思う。
(2019.9.30)