ドラゴン・レンズマン

ドラゴン・レンズマン
DRAGON LENSMAN
デイヴィッド・カイル
1980
 E・E・スミスのレンズマンシリーズは本編6作、その後、「渦動破壊者」という番外編で成り立っている。「渦動破壊者」が出されたのは1960年。それでも本編からは15年以上離れていて、まさしくサイドストーリーという内容だった。小学生の頃、本編6作を繰り返し読んでいたので、1977年に「渦動破壊者」が出たときには本当に驚いたし、その内容は心躍る感じではなく、少年には少々微妙だったのを覚えている。
 本書「ドラゴン・レンズマン」は、1989年に、「渦動破壊者」の翻訳者、小隅黎氏が訳出したもので、実は、ずいぶん後になってから古書店で入手した作品である。久しぶりに再読。
 内容は、レンズマンシリーズの中心人物であるキムボール・キニスンの最初の異星人相棒であり、第二段階レンズマンとなったヴェランシアのウォーゼルが主人公の作品で、「第二段階レンズマン」と「レンズの子ら」の間に位置するエピソードという話である。ウォーゼルが機械知能との対決をはじめ、様々な事件に関わっていくストーリー。さらに、これまでにはいなかったタイプのレンズマンが登場する。まるでアンドロイドのように機械化されたレンズマン、不思議な能力をもつレンズマン。そして、作品の物議を醸すことになったレンズマン。
 作者のデイヴィッド・カイルはとても難しい仕事にチャレンジしている。たしかに、レンズマンの世界は確立しているし、「語られていない」物語はたくさんある。とくに、この「第二段階レンズマン」から「レンズの子ら」の間には、長い時間があり、その間の銀河パトロール隊の活躍はいくらでも物語があるだろう。原作者のドク・スミスも、語るべき要素を本編にちりばめており、それらをうまく拾い出せば、レンズマンの世界は、その時間軸の範囲内だけでもずいぶんと深めることができる。
 しかし、SFの世界はずいぶんと先に進んでしまい、ドク・スミスが生み出したスペースオペラの姿も変容している。その中で、現代においてレンズマンの世界観を物語として産み落とすのはとても厳しいことだ。このカイルのシリーズは、第二段階レンズマンであるウォーゼル、トレゴンシー、ナドレックの三部作から成り立っているが、ナドレックが主人公となる三作品目の「Zレンズマン」とうとう翻訳されずじまいになっている。
 残念なような、しかたがないような。
 でもね、レンズマンシリーズのファンは、読んで置いた方がいい。入手困難でも。
(2019.8.12)

渦動破壊者

渦動破壊者
THE VORTEX BLASTER
E・E・スミス
1960
 1977年8月にレンズマンシリーズ第7巻として小隅黎氏により訳出されたのが本書「渦動破壊者」である。12歳のときだ。奇遇にも、レンズマンシリーズを文庫ですべて揃えたのが1977年のことである。小学生の時からジュブナイルでなじんでいたレンズマンシリーズを大人向け!の文庫で読み終わり、まあ分からないところもあったものの楽しんでいたところに、6巻ではなく7巻があったというのだ。びっくりだね。はじめて読んだときには、正直言って、「レンズマン」が活躍しないのでがっかりした記憶がある。
 主人公のニール・(ストーム)・クラウドは天才核物理学者。原子爆発により発生し、人間にはコントロールできない「渦動」により最愛の妻を失ったクラウドは、宇宙の各地で起きる渦動による被害を食い止めようと、渦動を破壊する方法を考えつく。それには、電子計算機でさえ追いつかないほどの速度で渦動の変動周期を予測し、正確に爆弾を渦動に投下する必要があった。簡単にできる話ではない。しかし、天才クラウドは、まさしく考えるより早く予測のための高度な方程式を解き、対応することができる能力を持っていた。かつてレンズマンになれなかった男は、いま、どのレンズマンにも、電子装置にもできない渦動破壊者として宇宙に知られることになったのだ。
 レンズマンが追う宇宙的な麻薬犯罪組織の陰謀などにも巻き込まれつつ、クラウドは宇宙船渦動破壊号にメンバーを揃え、やがてパートナーも得ながら、渦動を破壊し、なおかつ、その宇宙の深遠なる謎にも迫るのであった。
 さて、宇宙は奇遇でできている。
 ものすごく久しぶりにレンズマンシリーズを読み返し、本書「渦動破壊者」を読みつつ、たまたま電車に乗る機会があり、「SFマガジン創刊700号記念アンソロジー海外編」を本棚から手にとって、最初の「○○○」アーサー・C・クラーク、小隅黎訳1947年作品を読んでいた。未読の方には申し訳ないのでタイトルは伏せ字にしておくが、恒星の中に生きる知的生命体がコロナとともに冷たい宇宙空間に放出され、惑星の重力に引かれながらもエネルギーがないためにやがて消滅してしまうという話なのだが、「渦動破壊者」のアイディアの中にも、そういう要素が入っている。
 人類など炭素やメタンといった「冷たい」物質でできた生命系とは別に、太陽とかあるいは太陽系ならば木星といった「熱い」場所で、電離化した物質やエネルギーでできた生命体があるのではないか、というSFでは欠かせない問いである。
 原子力時代の訪れとともに、「渦動破壊者」はひとつの大きな物語として、核というテーマで遊んでいる。もちろん、今となっては「渦動」はあり得ないし、核で遊ぶのはもってのほかなのだが、そういう時代だったことも思い起こさせてくれる。
 そして、今頃気がつくのだが、小隅黎氏は、新訳レンズマンシリーズの前に「渦動破壊者」を訳していたのだ。むしろ、「渦動破壊者」のあと、時間をおいて「小隅版レンズマン」を順番に新訳したということか。これも新たな気付き。さらに気がつく。「渦動破壊者」も小隅黎氏自身による再訳されていることに。
 あともうひとつの気付き。ドク・スミスは、冒頭の献辞に「ボブ・ハインラインへ 称賛と尊敬をこめて」とある。1890年生まれのドク・スミスは、1960年に70歳。1907年生まれのハインラインは53歳。この頃、ハインラインは「太陽系帝国の危機」「銀河市民」「夏への扉」「大宇宙の少年」「宇宙の戦士」など次々に傑作をものにしている。
 ドク・スミスは1965年に亡くなっているが、この「スペースオペラの父」は本当にSFが大好きだったんだな。
(2019年7月)

三惑星連合軍

三惑星連合軍
TRIPLANETARY
E・E・スミス
1948
 レンズマンシリーズ6冊の最終刊であり、シリーズの前日譚であり、レンズマン以前の話であり、書かれたのが最初の1934年である作品が本書「三惑星連合軍」である。
 で、本シリーズは新訳の小隅黎訳と旧訳小西宏訳がある。小隅訳はシリーズ最初の「銀河パトロール隊」しか読んでいなくて、子どもの頃から小西訳だけを読んできた。翻訳の初版は1968年! 手元には1977年19版!がある。SFと文庫本には良い時代だ。19版って!1965年生まれの私は、本書を12歳の頃に読んでいる。最初にレンズマンシリーズに遭遇したのは10歳前後に小学校の図書館で読んだジュブナイル。その本筋は、この三惑星連合軍をベースにレンズマンの色づけがしてあったように思う。もう40年以上前の遠い記憶だ。
 本書「三惑星連合軍」では、シリーズ全体の背景を地球の歴史から書き起こす。それはもちろん仮想、空想の物語であり、アトランティス、ローマの次は第1次世界大戦の1918年、第2次世界大戦の1941年、第三次世界大戦と続き、第三部で三惑星連合軍の物語が語られる。レンズマンシリーズだが、まだレンズはない。シリーズ5作品目の「ファーストレンズマン」が「三惑星連合軍」と「銀河パトロール隊」の間に入るのだ。
 どうしてこういう出版になったかというと、書かれたのは「三惑星連合軍」の主要部分が最初だけど、太陽系を軸にした「三惑星」は評判が悪く、その後書かれた「銀河パトロール隊」は「銀河」だから評判が良くてシリーズ化され4部作が第2次世界大戦をまたぐ形で出版され、大成功をもたらす。そこで、この4部作に、前史である「三惑星連合軍」と、そのミッシングリングにある「ファースト・レンズマン」が書かれ、整理されて出版となった、そういうわけである。
 一度でも「レンズマン」に触れているならば「三惑星」からだと時系列的に正しいが、やはり出版順に読む方がいいような気がする。
 新訳は読んでいないが、正直言って、訳は古い。50年前だもん、古くて当然。
 心の中で翻訳し直して読もう。
「レンズマン」シリーズの主人公であるキニスンの先祖がたくさん登場するから、楽しみにしていて。
(2019年7月)

ファースト・レンズマン

ファースト・レンズマン
FIRST LENSMAN
E・E・スミス
1950
 レンズマンシリーズの5作品目だが、前日譚でもある。レンズマンシリーズの本編は1~4作で、最初に書かれたのが6作目と位置づけられる「三惑星連合軍」。評伝によると、この作品が太陽系内の話だったことから、当時太陽系を出るようなSFが少なく、E・E・スミスにはスカイラークシリーズ同様に銀河系を飛び出すような作品が望まれており、やや評判を落としたことから、銀河系しかも隣の銀河系も含む大宇宙を舞台にしたレンズマンシリーズが誕生したという。それで、単行本シリーズ化するにあたって、レンズマンシリーズの前日譚として「三惑星連合軍」があり、その続編で、なおかつ、レンズマンシリーズとつなぐ作品として本書「ファースト・レンズマン」が書き下ろされたらしい。つまり、加筆・補筆はあるものの、本書が長篇のレンズマンシリーズ最終作でもある。
 そう思うと感慨深い。
 話としては、三惑星連合軍のリーダーであるバージル・サムスが、アリシア星に行き、メンターによってレンズとミッションを得て、ファースト・レンズマンの称号を得たところから、太陽系を超えた「銀河パトロール隊」を結成するにいたるまでを描いた作品となる。また、レンズマンシリーズの「敵」であり、当初の最大の問題とされていた麻薬シオナイトの宇宙的問題が提起されるのも本作品の特徴。
 第2次世界大戦直後のアメリカで書かれた作品であることを、繰り返し留意して読む必要がある。アメリカは連合軍の遅れて来たリーダーとしてヨーロッパ、アジアで、ドイツ、日本という枢軸国と戦い、自由と民主主義を標榜して、総力戦でこれに勝利した。
 負けた側の国の人間として言うのもなんだが、日本は世界においては遅れて来た帝国主義、植民地主義であり、負けるべくして負けたのだが、この戦争により、世界中が疲弊したことは間違いない。日本は加害者であり、被害も大きかったが、アジア・ヨーロッパ、そして、最初は関係ないとそっぽを向いていたアメリカもまた大きな被害を受けている。
 話は遡るが、第1次大戦後、国際連盟が成立し、その中で、万国アヘン条約というのが結ばれている。麻薬を取り締まるための国際条約である。1912年に調印された。その後、幾多の議定書決議、条約調印、批准があった。そして、第2次世界大戦後、国際連合がつくられる。1946年「麻薬に関する協定、条約及び議定書を改正する議定書」ができ、1961年には「麻薬に関する単一条約」が調印された。
 という、現実世界の歴史的背景を知っておいた上でだが、本書「ファースト・レンズマン」1967年4月初版、1977年5月第18版の小西宏訳285ページをちょっと引用させてもらおう。
さあここだ。出典は不明だが—いくつかの資料が、フーバーという人物の報告をとりあげている。西暦一九四〇年から五〇年ごろのことだ。聞きたまえ。『この議定書は』–フーバーは世界的規模での麻薬取締りに関する協定のことをいっているのだ–『五十二カ国によって署名された。その中にはU・S・S・R』–これはロシアのことだ–『および、その衛星諸国も含まれていた。国際協定に対して共産主義国が』–共産主義については、きみのほうがよく知っているだろう」
「独裁の一形態で、失敗に終わったということだけは知っている」
「『–共産主義国が単なる言葉以上の協力を示したのは、これがはじめてだった。この協定が維持されたことは、当時の政治情勢を考慮に入れれば、全加盟国が次のような五つの注目すべき点で、国家主権を放棄する義務を負ったわけであり、まことにおどろくべきことである。
『第一 他国の全加盟国の麻薬取締官をして、すべての地域および水域に、自由、秘密かつ無登録で入国し、無制限に旅行し、かつ退去することを許す。
『第二 要求に応じて、既知の犯罪者および密輸品が妨害なしに領土に出入りすることを許す。
『第三 他のどの加盟国が立てた麻薬取締計画にも、主導者としてではなく、従属者として、完全に協力する。
『第四 要求に応じて、いかなる麻薬取締り作戦に関しても、完全な秘密をまもる。そして、
『第五 上記の事項すべてについて、中央麻薬取締局に、完全かつ継続的に情報を提供する』
 しかもだな、パージ、これは成功したらしいのだ。(略)」
 以上が引用である。
 これを読むと、スミスがいかに麻薬に対して嫌悪し、なんとかできないかと思っていたのだということが分かる。と同時に、いくつかの疑問が湧いてくる。まず、フーバーが大統領だとすると、フーバーは1929~33年の1期のみを務めた共和党の大統領(フーヴァー)であり、執筆当時はその後のルーズベルト、トルーマンの民主党時代だったのである。それから、当然ながら、スミスが書いたような議定書はない。
 ただ、当たり前だが、スミスにとっては生きた現実の歴史であるロシアがソ連に変わったことは書かれており、そして、やがてロシアに戻ることを示唆している。
 54歳にして、2019年にして、ちょっともう、この本の筋立てには飽きたなあと思いながら読んでいて、この1ページにはとても引っかかった。なぜスミスはここを書いたのだろう。話としては、「銀河パトロール隊」が北アメリカ(現アメリカ合衆国)、太陽系(三惑星連合)を超えた銀河系における最高政治軍事執行機関となる必要性や必然性と、民主主義や自治との関係を、当時の価値観なりに表現するために挿入された架空のエピソードなわけであるが、それにしても、こういう話を持ってくる必然性はないのだ。
「銀河パトロール隊」という、ある意味でレンズマンによるプラトン的な選民独裁社会、警察国家化を成立させるための方便でもあるのだが、そして、戦後、アメリカの立ち位置はそれに近いことを望んでいたのかも知れないが、スミスは何を考えたのだろう。
 当時の人たちは、ここをどう読んだのだろう。気になる。
 このように歴史的作品であることは間違いない。
 現在のSFや社会状況とは大きく価値観も異なるが、いつ、どのような現実社会背景で書かれたのかを踏まえて読めば読む価値のある作品である。
(2019.5.26)

レンズの子ら

レンズの子ら
CHLDREN OF THE LENS
1954
E・E・スミス
 レンズマンシリーズ本編は「宇宙パトロール隊」「グレー・レンズマン」「第二段階レンズマン」そして、本書「レンズの子ら」の4部で構成される。他にも数作あるし、派生作品もあるが、ベースはこの4作である。もっとも先に書かれたのは、前日譚として位置づけられる「三惑星連合軍」であり、「ファースト・レンズマン」は本編4部とを繋ぐ作品として書き起こされたものである。
 つまり、「スターウォーズ」と似た構成なのである。スターウォーズシリーズは、エピソード4、5、6を本編として、その前日譚が描かれ、そして、後日譚が描かれ、サイドストーリーが展開している。そして家族の物語でもある。
 レンズマンシリーズの本編は、キニスンとクラリッサの夫婦と子どもたちの物語であり、最後は、その筋立てが1940年代のアメリカ的家族像であるが、愛の賛歌である。
 結局、大規模な戦いと、愛なのだ。
 前作から20年後、ひとりの男の子、4人、二組の双子の女の子という5人の子どもたちに恵まれたキニスンとクリス。第二銀河系の「超最高基地」をベースに第二銀河系の銀河調整官となったキニスンは多忙な日々を送るが、子どもたちは生まれたときから超常的な能力を持ち、それぞれの特性を伸ばして成長していた。息子のクリストファー(キット)はレンズマン養成学校を卒業するなりグレー・レンズマンとしてミッションに入り、4人の娘達は、誰にも知られることなく、また、アリシアでレンズを受け取ることなく、必要に応じて自らレンズを身につける能力を開発していた。この5人こそ、アリシアのメンターが永劫の時間をかけて優生操作をしてきた結果として生まれた地球人にして地球人ではない銀河の後継者たちなのである。それは、アリシア人が究極の悪として敵対し、倒すことができなかったエッドール人を滅ぼすための武器でもあった。そして、5人はそのことを自覚し、第二段階レンズマン以下の精神では受け止めることができないこの究極悪の存在を受け止め、それを倒すことが使命であると知っていた。彼ら5人は第三段階能力を持ちうる存在であったのだ。
 ということで、究極の善と悪の最後の戦いが幕を切って落とされるのである。
 もちろん、主人公はキムボール・キニスン本人。最愛の妻クラリッサも活躍し、それをとりまく第二段階レンズマンの異星人も大活躍。壮大なスペースオペラは、壮大に幕を下ろす。そして、この作品が書かれる頃には、第2次世界大戦もアメリカの勝利によって終わりを告げており、アメリカの「正しさ」が世界を支配しようとしていたのであった。
 E・E・スミスは1890年に生まれ、1965年に没しているが、このレンズマンシリーズは1937年から執筆発表されている。時代背景を考えると、ナチスドイツが台頭しつつあり、アジアでは日本が中国に戦争をしかけた頃である。アメリカはモンロー主義をとり、中立を保っていたが、関係国はアメリカの動向に常に気を配っていた。アメリカはすでに大国だったのだ。そういう社会背景や文化的背景を踏まえないと読みにくいところもあるが、これぞスペオペでもある。
 筋立てや物語の設定などは、現代では陳腐であるが、これらを開発・発明したのはE・E・スミスである。だから、作品を馬鹿にしてはいけない。その影響力の大きさを忘れないように、私もこの人生でもう一度ぐらいは読むのだ。
(2019.5.18)

第二段階レンズマン

第二段階レンズマン
SECOND STAGE LENSMAN
1953
E・E・スミス
 レンズマンシリーズ3巻目は「第二段階レンズマン」新しい巻が出るごとに、主人公も敵も一段階上昇するのは古典スペースオペラSFの基本。「少年ジャンプ」の基本か?
 発行年は1953年だが、初出は第2次世界大戦前後。優生思想、女性は銃後または軍の看護部隊という設定は時代を反映していて、たとえば、男女ともタバコをよく吸っている。これも時代が反映されたもの。そのあたりは理解していないと読みにくいし、私が最初に読んだ40年前よりも2019年の今の方がより「読めなく」なっているだろう。
 それだけではない、SFをはじめ、娯楽小説も進化した。心理描写、設定の必然性、SFにおける外挿、伏線など、小説技法も高度化している。
 それでも、レンズマンシリーズは歴史的にのこす価値のある作品である。
 それは、後のたとえば「スタートレック」や「スターウォーズ」などにも明らかに影響を与えているし、スペースオペラの壮大さは、なによりここから始まったのである。
 アリシアのメンターの導きにより、レンズと主人公キムボール・キニスン本人の持つ最大限の能力を開発・拡張し、第二段階レンズマンとなったグレー(独立)レンズマン。他にも第二段階レンズマンとなった龍のようなヴェランシア人ウォーゼル、リゲル人トレゴンシーと連携しながら、宿敵の宇宙海賊ボスコーンを追い詰めていく。
 ストーリーのパターンは同じ。それもまた読者の安心材料でもあるのだろう。
 正義は勝つのである。そして、新たな強大な敵の影が見えるのである。
 じゃーん。
(2019.5.18)

グレー・レンズマン

グレー・レンズマン
GRAY LENSMAN
1951
E・E・スミス
「銀河パトロール隊」に続く、レンズマンシリーズ第2巻が「グレー・レンズマン」である。「銀河パトロール隊」を再読したときに、けっこういろんなことを書いたのだが、今確認すると2007年のことであった。現在2019年。12年もの間、レンズマンから離れていたことになる。大人は忙しいのな。「銀河パトロール隊」は当時出ていた小隅黎新訳版のことに触れていたが、結局新訳版を買ったのはこの1冊のみで、手元には1966年の小西訳版しかない。奥付をみると、1966年7月に初版、1977年3月に27刷となっている。すごいね。このころはじめて読んだのだから、40年以上前の話だ。前にも書いたけれど10回以上は読んでいるので内容は読み進むにつれてかなり覚えていることに気がつく。私の記憶の中で、キムボール・キニスンが動き出す。気分的には、キニスンを見守り、クラリッサとくっつけようと画策するヘインズ最高基地司令とか、ホーヘンドルフ候補生学校長、レーシー軍医総監のようなリタイア老兵たちの方に意識が飛んでしまう。年をとったということか。
 シリーズ作品群の中で、おそらく本作「グレー・レンズマン」がもっとも派手である。もちろん、作品舞台はシリーズの本編である第3巻「第二段階レンズマン」第4巻「レンズの子ら」に向かって壮大になっていくのだが、キムボール自身のアクション、活躍、宇宙での戦闘、諜報活動、危機、ロマンスそのいずれをとっても派手である。前作の活躍で「この」銀河系での麻薬・暴力ネットワークの壊滅の一歩を踏み出した銀河パトロール隊は、キニスンをグレー・レンズマンすなわち誰の指示も受けず、銀河パトロール隊のあらゆるリソースを使用できる独立レンズマンに任命された。その最初の仕事が、前作の敵ボスコーンの真の上位者を突き止めることだ。キニスンはボスコーンの本拠を、第二銀河系ランドマーク星雲にあると推測し、その探索に乗り出す。乗船するのは新造艦ドーントレス号。銀河一早く、それでいて火力と防御力にすぐれた巨大宇宙船である。その船にはレンズマンが10人「も」乗船し、それ以外にも最高の乗員が集まっていた。
「あとがきの解説」で厚木淳氏が書いていたのだが、E・E・スミスが「スカイラーク」ではじめて太陽系を超え、その後の作品で太陽系内にとどまっていたことに読者が反発、そうして再び、銀河系に舞台を移した「銀河パトロール隊」が誕生し、人気を博したとしている。「グレー・レンズマン」では銀河間の空間を超え、隣の銀河系まで旅をするのだから、大きく出たもんだ。
 そして、もうひとつすごいのは、キニスンだけをおいかけると、この銀河系と、ボスコーンのいる第二銀河系を本作だけで3往復しているのである。すごくないか?
 いま、そんなのどんな作家でも書けない。もちろん、あまりに物理法則を無視しているからだけれど、1890年生まれのドク(Dr)スミスにとっては、天文学、物理学の発展の歴史の中にいて、第1次世界大戦、第2次世界大戦を生き抜いてきたのだから、想像のつばさはどこまでも広げられ、無視することも、うまく使うことも容易だったのでしょう。
 先述の厚木氏によれば、「レンズマン4部作」(あとの2部は前日譚)は1937年から1947年に連載されており、ちょうど第2次世界大戦をはさんだ時期の作品である。本書の出版年は1951年となっているが、これは6部作の単行本化の時期であるという。
 そう考えると、本書にあるような敵は徹底的に殲滅するという姿は、時代的にそれほどおかしくはない。
 科学的設定、タバコ、女性の扱い、異星人への扱いなど、いまでは認められないところも多々ある。それは時代の変化であり、人類の進歩の証である。古典SF、SFに限らず、古典的な小説はそういった作者の時代背景を含めて丁寧に読み解く部分も必要になるのだろう。本作を現代風に書き換えることは可能だと思う。ただ、古典SFには、その時代背景、未来への憧憬、当時のエンターテイメントの考えなどが反映されており、歴史の中で埋没させるにはもったいない資料でもある。
 何も考えずに読むこともできるが、そういう読み方はできなくなってきた、21世紀前半である。
(2019.5.7)

廃墟都市の復活

廃墟都市の復活
A DARKLING PLAIN
フィリップ・リーブ
2006
「移動都市」が映画化されるというので棚ざらしにされていたシリーズ第4部が翻訳されてうれしい。うれしいけれど、第三部の「氷上都市の秘宝」を読んだのは2010年。このザル頭にとっては、遠い忘却のかなた。第二部の「略奪都市の黄金」と第三部の間には15年の間があったのに、第三部と本作「廃墟都市の復活」の間はわずか半年。続き物じゃあないですか。しかも本作はシリーズ総まとめ、いろんな人たちが再登場するのですよ。困った困った。困ったけれど、読み始めたのは帰省中。つまり、手元に過去作品はない。えいや勢いで読むしかない。読む。
 お、トムがいた。最初の主人公だ。
 あ、ヘスターとシュライク、トムとヘスターは夫婦だった。
 や、レン。トムとヘスターの娘。前作と本作の主人公。
 う、ストーカー・ファン、なんか前作でやらかしていたような。
 ということで、まずシリーズ1作目から読むべし。
 読んだ人だけに、語りたい言葉がある。
 途中苦しくても、最後まで読もう。ぜったい読んだ方がいい。
 最後の最後に泣くよ。
 ちょっと宮崎駿的世界描写が入っていて、でも、実際は凄惨な世界で、凄惨な世界でも、人は誰かを求めるし、何かを求める。そして、誰かを失うし、何かは手からこぼれおちる。
 めでたしめでたしでは終わらない。
 物語は、都市ごと移動し、都市が他の都市などを食べて資源化する移動都市の勢力と、移動を阻止し、移動することにより荒らされる世界から緑の世界に変えようとする反移動勢力の停戦をめぐる話からはじまる。
 トムとレンは旅をしている。
 レンが一時期一緒にいて、心を寄せたセオは再び旅をする。
 トムとレンはヘスターを恨んでいる。
 ヘスターは心を閉ざしている。
 誰もが自らの動機と行きあたったできごとのために、旅をする。
 望んだ旅、強制された旅、逃げ出す旅、追い求める旅、誰かを助けるための旅、誰かに出会うための旅…。
 たくさんの登場人物が、それぞれに誰かと旅をしている。そして、誰かと出会い、別れ、再び出会い、別れる。
 親の世代は親の世代として、この世代は、次の世界の主人公として、旅をする。
 旅は時折突然終わる。旅は時折突然始まる。
 混沌とした変革期を迎えた世界で、トムとヘスター、レンとセオ、それを取り巻く人間、ストーカーらが、どこかからどこかへと動いていく。
 人生は旅だ。
 旅ははじまり、終わり、止まり、動き、やがて終わる。
 どんな旅にもはじまりと終わりがある。
 その旅のいくつかは語り継がれ、多くは忘れ去られる。
 でも、どんなに語られようと、旅をした本人そのものの体験、経験、情動に勝るものはない。
 いま、あなたはどんな旅をしている? 休んでいる?
 いま、私はどんな旅をしているのだろう。
 明日、私はどんな旅をしているのだろう。
 4部作の旅は終わった。
 次の物語までの間には、きっとたくさんの物語があるのだろう。
(2019.1.4)

動乱星系

動乱星系
PROVENANCE
アン・レッキー
2017
「叛逆航路」の3部作に続いて同じ世界の別の物語がはじまる。時間軸としては、続編にあたるのだが、前三部作が人類世界の中枢ラドチ圏で起きている動乱を軸に、AIの主人公ブレクの物語だったのに対し、本作は人類の辺境域での物語となる。主人公は惑星フワエの有力政治家で二人目の養子となっている後継候補のイングレイ。彼女が引き起こした策謀は、やがて星系をゆるがす動乱にまでつながっていく。意図せずに次々と拡大する事件に巻き込まれていく主人公の成長譚でもある。
 前三部作では、ラドチ圏がひとりの強大な皇帝に治められており、次第にそのほころびの様子が明らかになるとともに、異星種族と人類種族の間での「条約」と関わりについても語られていく。ラドチ圏では、男性も女性も無性もすべて「彼女」の代名詞が使われることから、読者は「性」についても混乱しつつ、時間軸、クローンやAIによる同時複数の「属躰」による同一知性複数表現、複数行動といった状況の多発にも混乱しつつ、物語を消化していくことになり、アクション系の物語でありながらも読解には苦労が伴った。
 本作は、ラドチ圏とは文化的にも異なる人類星系で、男性、女性、無性にはそれぞれ彼男、彼女、彼人といったように代名詞があり、特異なAIも登場しないことからストーリーを追うのはそれほど苦ではない。3つの人類星系の社会制度、文化制度の違い、ひとつの異星種族の意図不明な行動が物語に深みを与えるが、それこそがSFの面白さである。
 本作を単独の作品として読むことはできるが、時々、人類社会の中枢で起きている、あるいは、「条約」種族がこれから行おうとしている「条約に関する協議=コンクラーベ」についての言及があり、それは前三部作の内容を反映しているので、前三部作を読んでいるとその部分は少しだけおもしろい。とはいえ、前三部作を読んでいない人が先に本作を読んで、それから前三部作に入ってもネタバレ的な表現はほとんどないので、まず本作を読み、「???」と思ったところは、おもしろかったら前三部作にとりかかるというのでもありだろう。
 21世紀に入り、LGBTやマイノリティ、女性への差別や暴力、社会的抑圧が大きく語られるようになり、また当事者が声を上げ、それを支持する声が大きくなってきた。ほんとうの意味で多様な生き方、存在を社会が、ひとりひとりが受け止め、共生する声は大きくなっている。一方で、ひとりひとりの意思を奪う苛烈な言葉、暴力、抑圧の実態は続き、時に無力感を感じながらも、それらへの対応が必要になっている。
 人類の学び直しの時間なのかもしれない。
 そんなとき、アン・レッキーのような作家がSFを舞台に、多様性の可能性、知性の、理性の可能性を問いかける。人類学、社会学、政治学、あるいは、言語学、哲学、広範な知識と理解を昇華し、エンターテイメントとして結実する。
 物語のなかに没入し、その世界を生きていくことを通して、私たちは変わることができる。変わらないために読む、変わるために読む。ほんの数時間の楽しい物語は、物語を通して現実に働きかける。
 ところで、本作では過去の記念品が政治的、社会的意味を持つ。過去の歴史的有力者からの招待状、独立宣言文を記した布、議会を開くために使われる「号鐘」は、歴史的なキャベツの酢漬け用ボウル…。このボウルがないと、議会の正当性が失われるのだ。
 先日、イギリス議会ではEUからのイギリスの離脱「ブレクジット」をめぐり、政府方針に反対する議員が情報陛下の儀仗を奪って議会の外に持ち出そうとする事件があった。この儀仗のパロディである。現実の世界でも、そういう文化的意味づけが大きな事件となる。私たちの身の回りにもそういうことはないだろうか。そして、その大切さと同時に馬鹿らしさ、おかしさに気付いていいのではないだろうか。
 うーん、深いね。
 とはいえ上質のエンターテイメント作品。楽しみましょ。
(2018.12.28)

テレパシスト

テレパシスト
TELEPATHIST
(THE WHOLE MAN)
ジョン・ブラナー
1965
 初読。1965年の作品。私が生まれた年である。1975年に翻訳初版、77年の第6刷が手に入ったので、そのくらいは再版されていた作品。私が小学校高学年の頃に、家で父から文庫本をおもいっきり買ってよいと言われたけれど、そこにはSF作品は除外されていて、その後、お小遣いでぽつりぽつりと創元やハヤカワのSF文庫を買い集めていた。手元の限られたお金で買える本は月に1冊程度。スペースオペラばかり買っていたような気がする。ということで、それから40年以上経ち、ようやくジョン・ブラナーを読む。青年から大人向きのSF小説で、これを小学生、中学生の頃に読んでいたら放り投げていたような気がする。
 ジェラルド・ハウサンは貧困な母子家庭の元に身体の障害をもって生まれた。子どもの頃にひとりになり、発話と聴覚を失った少女に出会い、路上で生きていくすべを身につけていく。しかし、彼は世界でも指折りのテレパシストとしての能力を持っていた。
 WHOに所属するテレパシストに発見され、国際機関の一員として、心理的な要因で起きる世界の危機や個人の心的危機を救う医師となっていく。しかし、ある日…。
 というストーリーなのだが、「幻影への脱出」と同様に世界は混沌としているが国連が世界を統一し、危機を回避しようという機関として位置付き、それぞれの機関が奮闘している。そして、テレパシストは心理面から世界の崩壊をふせぐために日々できることをやっているのだった。
 1960年代、第2次世界大戦が終わり、国際連合への期待と、米ソ冷戦・核開発競争による不安がせめぎ合う時期であり、ブラナーはその中で、国際連合による世界の不安定さの解消、人類の進歩、進化に期待を寄せていた作家であることが分かる。
 テレパシーについては、テレパシスト同士の情報交換という要素もあるが、むしろ、テレパシストは社会の不安などを背景音として感じ取り、特定の個人の心理情報を情景として受取り、必要に応じて、その心を解きほぐし、あるいは、ある程度の操作をするものとして扱われている。同時に、受信テレパシストという受け取ることはできても発信はできない「共感者」のような存在も描かれている。
 そして、テレパシストは、人類の中ではごく少数だが、人類に良い影響を与える可能性が高い存在として書かれる。
 おもしろいね。
 もっともこの作品(と翻訳)は、現代ではそのまま再版することが難しいだろう。
 いまでは使われなくなった身体的表現がたくさん出てくるからだ。
 本書のような作品は、それが書かれた時代とセットで、時代の感覚を語る貴重な資料として残されていって欲しい。
(2018.11.14)