ファースト・レンズマン

ファースト・レンズマン
FIRST LENSMAN
E・E・スミス
1950
 レンズマンシリーズの5作品目だが、前日譚でもある。レンズマンシリーズの本編は1~4作で、最初に書かれたのが6作目と位置づけられる「三惑星連合軍」。評伝によると、この作品が太陽系内の話だったことから、当時太陽系を出るようなSFが少なく、E・E・スミスにはスカイラークシリーズ同様に銀河系を飛び出すような作品が望まれており、やや評判を落としたことから、銀河系しかも隣の銀河系も含む大宇宙を舞台にしたレンズマンシリーズが誕生したという。それで、単行本シリーズ化するにあたって、レンズマンシリーズの前日譚として「三惑星連合軍」があり、その続編で、なおかつ、レンズマンシリーズとつなぐ作品として本書「ファースト・レンズマン」が書き下ろされたらしい。つまり、加筆・補筆はあるものの、本書が長篇のレンズマンシリーズ最終作でもある。
 そう思うと感慨深い。
 話としては、三惑星連合軍のリーダーであるバージル・サムスが、アリシア星に行き、メンターによってレンズとミッションを得て、ファースト・レンズマンの称号を得たところから、太陽系を超えた「銀河パトロール隊」を結成するにいたるまでを描いた作品となる。また、レンズマンシリーズの「敵」であり、当初の最大の問題とされていた麻薬シオナイトの宇宙的問題が提起されるのも本作品の特徴。
 第2次世界大戦直後のアメリカで書かれた作品であることを、繰り返し留意して読む必要がある。アメリカは連合軍の遅れて来たリーダーとしてヨーロッパ、アジアで、ドイツ、日本という枢軸国と戦い、自由と民主主義を標榜して、総力戦でこれに勝利した。
 負けた側の国の人間として言うのもなんだが、日本は世界においては遅れて来た帝国主義、植民地主義であり、負けるべくして負けたのだが、この戦争により、世界中が疲弊したことは間違いない。日本は加害者であり、被害も大きかったが、アジア・ヨーロッパ、そして、最初は関係ないとそっぽを向いていたアメリカもまた大きな被害を受けている。
 話は遡るが、第1次大戦後、国際連盟が成立し、その中で、万国アヘン条約というのが結ばれている。麻薬を取り締まるための国際条約である。1912年に調印された。その後、幾多の議定書決議、条約調印、批准があった。そして、第2次世界大戦後、国際連合がつくられる。1946年「麻薬に関する協定、条約及び議定書を改正する議定書」ができ、1961年には「麻薬に関する単一条約」が調印された。
 という、現実世界の歴史的背景を知っておいた上でだが、本書「ファースト・レンズマン」1967年4月初版、1977年5月第18版の小西宏訳285ページをちょっと引用させてもらおう。
さあここだ。出典は不明だが—いくつかの資料が、フーバーという人物の報告をとりあげている。西暦一九四〇年から五〇年ごろのことだ。聞きたまえ。『この議定書は』–フーバーは世界的規模での麻薬取締りに関する協定のことをいっているのだ–『五十二カ国によって署名された。その中にはU・S・S・R』–これはロシアのことだ–『および、その衛星諸国も含まれていた。国際協定に対して共産主義国が』–共産主義については、きみのほうがよく知っているだろう」
「独裁の一形態で、失敗に終わったということだけは知っている」
「『–共産主義国が単なる言葉以上の協力を示したのは、これがはじめてだった。この協定が維持されたことは、当時の政治情勢を考慮に入れれば、全加盟国が次のような五つの注目すべき点で、国家主権を放棄する義務を負ったわけであり、まことにおどろくべきことである。
『第一 他国の全加盟国の麻薬取締官をして、すべての地域および水域に、自由、秘密かつ無登録で入国し、無制限に旅行し、かつ退去することを許す。
『第二 要求に応じて、既知の犯罪者および密輸品が妨害なしに領土に出入りすることを許す。
『第三 他のどの加盟国が立てた麻薬取締計画にも、主導者としてではなく、従属者として、完全に協力する。
『第四 要求に応じて、いかなる麻薬取締り作戦に関しても、完全な秘密をまもる。そして、
『第五 上記の事項すべてについて、中央麻薬取締局に、完全かつ継続的に情報を提供する』
 しかもだな、パージ、これは成功したらしいのだ。(略)」
 以上が引用である。
 これを読むと、スミスがいかに麻薬に対して嫌悪し、なんとかできないかと思っていたのだということが分かる。と同時に、いくつかの疑問が湧いてくる。まず、フーバーが大統領だとすると、フーバーは1929~33年の1期のみを務めた共和党の大統領(フーヴァー)であり、執筆当時はその後のルーズベルト、トルーマンの民主党時代だったのである。それから、当然ながら、スミスが書いたような議定書はない。
 ただ、当たり前だが、スミスにとっては生きた現実の歴史であるロシアがソ連に変わったことは書かれており、そして、やがてロシアに戻ることを示唆している。
 54歳にして、2019年にして、ちょっともう、この本の筋立てには飽きたなあと思いながら読んでいて、この1ページにはとても引っかかった。なぜスミスはここを書いたのだろう。話としては、「銀河パトロール隊」が北アメリカ(現アメリカ合衆国)、太陽系(三惑星連合)を超えた銀河系における最高政治軍事執行機関となる必要性や必然性と、民主主義や自治との関係を、当時の価値観なりに表現するために挿入された架空のエピソードなわけであるが、それにしても、こういう話を持ってくる必然性はないのだ。
「銀河パトロール隊」という、ある意味でレンズマンによるプラトン的な選民独裁社会、警察国家化を成立させるための方便でもあるのだが、そして、戦後、アメリカの立ち位置はそれに近いことを望んでいたのかも知れないが、スミスは何を考えたのだろう。
 当時の人たちは、ここをどう読んだのだろう。気になる。
 このように歴史的作品であることは間違いない。
 現在のSFや社会状況とは大きく価値観も異なるが、いつ、どのような現実社会背景で書かれたのかを踏まえて読めば読む価値のある作品である。
(2019.5.26)

レンズの子ら

レンズの子ら
CHLDREN OF THE LENS
1954
E・E・スミス
 レンズマンシリーズ本編は「宇宙パトロール隊」「グレー・レンズマン」「第二段階レンズマン」そして、本書「レンズの子ら」の4部で構成される。他にも数作あるし、派生作品もあるが、ベースはこの4作である。もっとも先に書かれたのは、前日譚として位置づけられる「三惑星連合軍」であり、「ファースト・レンズマン」は本編4部とを繋ぐ作品として書き起こされたものである。
 つまり、「スターウォーズ」と似た構成なのである。スターウォーズシリーズは、エピソード4、5、6を本編として、その前日譚が描かれ、そして、後日譚が描かれ、サイドストーリーが展開している。そして家族の物語でもある。
 レンズマンシリーズの本編は、キニスンとクラリッサの夫婦と子どもたちの物語であり、最後は、その筋立てが1940年代のアメリカ的家族像であるが、愛の賛歌である。
 結局、大規模な戦いと、愛なのだ。
 前作から20年後、ひとりの男の子、4人、二組の双子の女の子という5人の子どもたちに恵まれたキニスンとクリス。第二銀河系の「超最高基地」をベースに第二銀河系の銀河調整官となったキニスンは多忙な日々を送るが、子どもたちは生まれたときから超常的な能力を持ち、それぞれの特性を伸ばして成長していた。息子のクリストファー(キット)はレンズマン養成学校を卒業するなりグレー・レンズマンとしてミッションに入り、4人の娘達は、誰にも知られることなく、また、アリシアでレンズを受け取ることなく、必要に応じて自らレンズを身につける能力を開発していた。この5人こそ、アリシアのメンターが永劫の時間をかけて優生操作をしてきた結果として生まれた地球人にして地球人ではない銀河の後継者たちなのである。それは、アリシア人が究極の悪として敵対し、倒すことができなかったエッドール人を滅ぼすための武器でもあった。そして、5人はそのことを自覚し、第二段階レンズマン以下の精神では受け止めることができないこの究極悪の存在を受け止め、それを倒すことが使命であると知っていた。彼ら5人は第三段階能力を持ちうる存在であったのだ。
 ということで、究極の善と悪の最後の戦いが幕を切って落とされるのである。
 もちろん、主人公はキムボール・キニスン本人。最愛の妻クラリッサも活躍し、それをとりまく第二段階レンズマンの異星人も大活躍。壮大なスペースオペラは、壮大に幕を下ろす。そして、この作品が書かれる頃には、第2次世界大戦もアメリカの勝利によって終わりを告げており、アメリカの「正しさ」が世界を支配しようとしていたのであった。
 E・E・スミスは1890年に生まれ、1965年に没しているが、このレンズマンシリーズは1937年から執筆発表されている。時代背景を考えると、ナチスドイツが台頭しつつあり、アジアでは日本が中国に戦争をしかけた頃である。アメリカはモンロー主義をとり、中立を保っていたが、関係国はアメリカの動向に常に気を配っていた。アメリカはすでに大国だったのだ。そういう社会背景や文化的背景を踏まえないと読みにくいところもあるが、これぞスペオペでもある。
 筋立てや物語の設定などは、現代では陳腐であるが、これらを開発・発明したのはE・E・スミスである。だから、作品を馬鹿にしてはいけない。その影響力の大きさを忘れないように、私もこの人生でもう一度ぐらいは読むのだ。
(2019.5.18)

第二段階レンズマン

第二段階レンズマン
SECOND STAGE LENSMAN
1953
E・E・スミス
 レンズマンシリーズ3巻目は「第二段階レンズマン」新しい巻が出るごとに、主人公も敵も一段階上昇するのは古典スペースオペラSFの基本。「少年ジャンプ」の基本か?
 発行年は1953年だが、初出は第2次世界大戦前後。優生思想、女性は銃後または軍の看護部隊という設定は時代を反映していて、たとえば、男女ともタバコをよく吸っている。これも時代が反映されたもの。そのあたりは理解していないと読みにくいし、私が最初に読んだ40年前よりも2019年の今の方がより「読めなく」なっているだろう。
 それだけではない、SFをはじめ、娯楽小説も進化した。心理描写、設定の必然性、SFにおける外挿、伏線など、小説技法も高度化している。
 それでも、レンズマンシリーズは歴史的にのこす価値のある作品である。
 それは、後のたとえば「スタートレック」や「スターウォーズ」などにも明らかに影響を与えているし、スペースオペラの壮大さは、なによりここから始まったのである。
 アリシアのメンターの導きにより、レンズと主人公キムボール・キニスン本人の持つ最大限の能力を開発・拡張し、第二段階レンズマンとなったグレー(独立)レンズマン。他にも第二段階レンズマンとなった龍のようなヴェランシア人ウォーゼル、リゲル人トレゴンシーと連携しながら、宿敵の宇宙海賊ボスコーンを追い詰めていく。
 ストーリーのパターンは同じ。それもまた読者の安心材料でもあるのだろう。
 正義は勝つのである。そして、新たな強大な敵の影が見えるのである。
 じゃーん。
(2019.5.18)

グレー・レンズマン

グレー・レンズマン
GRAY LENSMAN
1951
E・E・スミス
「銀河パトロール隊」に続く、レンズマンシリーズ第2巻が「グレー・レンズマン」である。「銀河パトロール隊」を再読したときに、けっこういろんなことを書いたのだが、今確認すると2007年のことであった。現在2019年。12年もの間、レンズマンから離れていたことになる。大人は忙しいのな。「銀河パトロール隊」は当時出ていた小隅黎新訳版のことに触れていたが、結局新訳版を買ったのはこの1冊のみで、手元には1966年の小西訳版しかない。奥付をみると、1966年7月に初版、1977年3月に27刷となっている。すごいね。このころはじめて読んだのだから、40年以上前の話だ。前にも書いたけれど10回以上は読んでいるので内容は読み進むにつれてかなり覚えていることに気がつく。私の記憶の中で、キムボール・キニスンが動き出す。気分的には、キニスンを見守り、クラリッサとくっつけようと画策するヘインズ最高基地司令とか、ホーヘンドルフ候補生学校長、レーシー軍医総監のようなリタイア老兵たちの方に意識が飛んでしまう。年をとったということか。
 シリーズ作品群の中で、おそらく本作「グレー・レンズマン」がもっとも派手である。もちろん、作品舞台はシリーズの本編である第3巻「第二段階レンズマン」第4巻「レンズの子ら」に向かって壮大になっていくのだが、キムボール自身のアクション、活躍、宇宙での戦闘、諜報活動、危機、ロマンスそのいずれをとっても派手である。前作の活躍で「この」銀河系での麻薬・暴力ネットワークの壊滅の一歩を踏み出した銀河パトロール隊は、キニスンをグレー・レンズマンすなわち誰の指示も受けず、銀河パトロール隊のあらゆるリソースを使用できる独立レンズマンに任命された。その最初の仕事が、前作の敵ボスコーンの真の上位者を突き止めることだ。キニスンはボスコーンの本拠を、第二銀河系ランドマーク星雲にあると推測し、その探索に乗り出す。乗船するのは新造艦ドーントレス号。銀河一早く、それでいて火力と防御力にすぐれた巨大宇宙船である。その船にはレンズマンが10人「も」乗船し、それ以外にも最高の乗員が集まっていた。
「あとがきの解説」で厚木淳氏が書いていたのだが、E・E・スミスが「スカイラーク」ではじめて太陽系を超え、その後の作品で太陽系内にとどまっていたことに読者が反発、そうして再び、銀河系に舞台を移した「銀河パトロール隊」が誕生し、人気を博したとしている。「グレー・レンズマン」では銀河間の空間を超え、隣の銀河系まで旅をするのだから、大きく出たもんだ。
 そして、もうひとつすごいのは、キニスンだけをおいかけると、この銀河系と、ボスコーンのいる第二銀河系を本作だけで3往復しているのである。すごくないか?
 いま、そんなのどんな作家でも書けない。もちろん、あまりに物理法則を無視しているからだけれど、1890年生まれのドク(Dr)スミスにとっては、天文学、物理学の発展の歴史の中にいて、第1次世界大戦、第2次世界大戦を生き抜いてきたのだから、想像のつばさはどこまでも広げられ、無視することも、うまく使うことも容易だったのでしょう。
 先述の厚木氏によれば、「レンズマン4部作」(あとの2部は前日譚)は1937年から1947年に連載されており、ちょうど第2次世界大戦をはさんだ時期の作品である。本書の出版年は1951年となっているが、これは6部作の単行本化の時期であるという。
 そう考えると、本書にあるような敵は徹底的に殲滅するという姿は、時代的にそれほどおかしくはない。
 科学的設定、タバコ、女性の扱い、異星人への扱いなど、いまでは認められないところも多々ある。それは時代の変化であり、人類の進歩の証である。古典SF、SFに限らず、古典的な小説はそういった作者の時代背景を含めて丁寧に読み解く部分も必要になるのだろう。本作を現代風に書き換えることは可能だと思う。ただ、古典SFには、その時代背景、未来への憧憬、当時のエンターテイメントの考えなどが反映されており、歴史の中で埋没させるにはもったいない資料でもある。
 何も考えずに読むこともできるが、そういう読み方はできなくなってきた、21世紀前半である。
(2019.5.7)

廃墟都市の復活

廃墟都市の復活
A DARKLING PLAIN
フィリップ・リーブ
2006
「移動都市」が映画化されるというので棚ざらしにされていたシリーズ第4部が翻訳されてうれしい。うれしいけれど、第三部の「氷上都市の秘宝」を読んだのは2010年。このザル頭にとっては、遠い忘却のかなた。第二部の「略奪都市の黄金」と第三部の間には15年の間があったのに、第三部と本作「廃墟都市の復活」の間はわずか半年。続き物じゃあないですか。しかも本作はシリーズ総まとめ、いろんな人たちが再登場するのですよ。困った困った。困ったけれど、読み始めたのは帰省中。つまり、手元に過去作品はない。えいや勢いで読むしかない。読む。
 お、トムがいた。最初の主人公だ。
 あ、ヘスターとシュライク、トムとヘスターは夫婦だった。
 や、レン。トムとヘスターの娘。前作と本作の主人公。
 う、ストーカー・ファン、なんか前作でやらかしていたような。
 ということで、まずシリーズ1作目から読むべし。
 読んだ人だけに、語りたい言葉がある。
 途中苦しくても、最後まで読もう。ぜったい読んだ方がいい。
 最後の最後に泣くよ。
 ちょっと宮崎駿的世界描写が入っていて、でも、実際は凄惨な世界で、凄惨な世界でも、人は誰かを求めるし、何かを求める。そして、誰かを失うし、何かは手からこぼれおちる。
 めでたしめでたしでは終わらない。
 物語は、都市ごと移動し、都市が他の都市などを食べて資源化する移動都市の勢力と、移動を阻止し、移動することにより荒らされる世界から緑の世界に変えようとする反移動勢力の停戦をめぐる話からはじまる。
 トムとレンは旅をしている。
 レンが一時期一緒にいて、心を寄せたセオは再び旅をする。
 トムとレンはヘスターを恨んでいる。
 ヘスターは心を閉ざしている。
 誰もが自らの動機と行きあたったできごとのために、旅をする。
 望んだ旅、強制された旅、逃げ出す旅、追い求める旅、誰かを助けるための旅、誰かに出会うための旅…。
 たくさんの登場人物が、それぞれに誰かと旅をしている。そして、誰かと出会い、別れ、再び出会い、別れる。
 親の世代は親の世代として、この世代は、次の世界の主人公として、旅をする。
 旅は時折突然終わる。旅は時折突然始まる。
 混沌とした変革期を迎えた世界で、トムとヘスター、レンとセオ、それを取り巻く人間、ストーカーらが、どこかからどこかへと動いていく。
 人生は旅だ。
 旅ははじまり、終わり、止まり、動き、やがて終わる。
 どんな旅にもはじまりと終わりがある。
 その旅のいくつかは語り継がれ、多くは忘れ去られる。
 でも、どんなに語られようと、旅をした本人そのものの体験、経験、情動に勝るものはない。
 いま、あなたはどんな旅をしている? 休んでいる?
 いま、私はどんな旅をしているのだろう。
 明日、私はどんな旅をしているのだろう。
 4部作の旅は終わった。
 次の物語までの間には、きっとたくさんの物語があるのだろう。
(2019.1.4)

動乱星系

動乱星系
PROVENANCE
アン・レッキー
2017
「叛逆航路」の3部作に続いて同じ世界の別の物語がはじまる。時間軸としては、続編にあたるのだが、前三部作が人類世界の中枢ラドチ圏で起きている動乱を軸に、AIの主人公ブレクの物語だったのに対し、本作は人類の辺境域での物語となる。主人公は惑星フワエの有力政治家で二人目の養子となっている後継候補のイングレイ。彼女が引き起こした策謀は、やがて星系をゆるがす動乱にまでつながっていく。意図せずに次々と拡大する事件に巻き込まれていく主人公の成長譚でもある。
 前三部作では、ラドチ圏がひとりの強大な皇帝に治められており、次第にそのほころびの様子が明らかになるとともに、異星種族と人類種族の間での「条約」と関わりについても語られていく。ラドチ圏では、男性も女性も無性もすべて「彼女」の代名詞が使われることから、読者は「性」についても混乱しつつ、時間軸、クローンやAIによる同時複数の「属躰」による同一知性複数表現、複数行動といった状況の多発にも混乱しつつ、物語を消化していくことになり、アクション系の物語でありながらも読解には苦労が伴った。
 本作は、ラドチ圏とは文化的にも異なる人類星系で、男性、女性、無性にはそれぞれ彼男、彼女、彼人といったように代名詞があり、特異なAIも登場しないことからストーリーを追うのはそれほど苦ではない。3つの人類星系の社会制度、文化制度の違い、ひとつの異星種族の意図不明な行動が物語に深みを与えるが、それこそがSFの面白さである。
 本作を単独の作品として読むことはできるが、時々、人類社会の中枢で起きている、あるいは、「条約」種族がこれから行おうとしている「条約に関する協議=コンクラーベ」についての言及があり、それは前三部作の内容を反映しているので、前三部作を読んでいるとその部分は少しだけおもしろい。とはいえ、前三部作を読んでいない人が先に本作を読んで、それから前三部作に入ってもネタバレ的な表現はほとんどないので、まず本作を読み、「???」と思ったところは、おもしろかったら前三部作にとりかかるというのでもありだろう。
 21世紀に入り、LGBTやマイノリティ、女性への差別や暴力、社会的抑圧が大きく語られるようになり、また当事者が声を上げ、それを支持する声が大きくなってきた。ほんとうの意味で多様な生き方、存在を社会が、ひとりひとりが受け止め、共生する声は大きくなっている。一方で、ひとりひとりの意思を奪う苛烈な言葉、暴力、抑圧の実態は続き、時に無力感を感じながらも、それらへの対応が必要になっている。
 人類の学び直しの時間なのかもしれない。
 そんなとき、アン・レッキーのような作家がSFを舞台に、多様性の可能性、知性の、理性の可能性を問いかける。人類学、社会学、政治学、あるいは、言語学、哲学、広範な知識と理解を昇華し、エンターテイメントとして結実する。
 物語のなかに没入し、その世界を生きていくことを通して、私たちは変わることができる。変わらないために読む、変わるために読む。ほんの数時間の楽しい物語は、物語を通して現実に働きかける。
 ところで、本作では過去の記念品が政治的、社会的意味を持つ。過去の歴史的有力者からの招待状、独立宣言文を記した布、議会を開くために使われる「号鐘」は、歴史的なキャベツの酢漬け用ボウル…。このボウルがないと、議会の正当性が失われるのだ。
 先日、イギリス議会ではEUからのイギリスの離脱「ブレクジット」をめぐり、政府方針に反対する議員が情報陛下の儀仗を奪って議会の外に持ち出そうとする事件があった。この儀仗のパロディである。現実の世界でも、そういう文化的意味づけが大きな事件となる。私たちの身の回りにもそういうことはないだろうか。そして、その大切さと同時に馬鹿らしさ、おかしさに気付いていいのではないだろうか。
 うーん、深いね。
 とはいえ上質のエンターテイメント作品。楽しみましょ。
(2018.12.28)

テレパシスト

テレパシスト
TELEPATHIST
(THE WHOLE MAN)
ジョン・ブラナー
1965
 初読。1965年の作品。私が生まれた年である。1975年に翻訳初版、77年の第6刷が手に入ったので、そのくらいは再版されていた作品。私が小学校高学年の頃に、家で父から文庫本をおもいっきり買ってよいと言われたけれど、そこにはSF作品は除外されていて、その後、お小遣いでぽつりぽつりと創元やハヤカワのSF文庫を買い集めていた。手元の限られたお金で買える本は月に1冊程度。スペースオペラばかり買っていたような気がする。ということで、それから40年以上経ち、ようやくジョン・ブラナーを読む。青年から大人向きのSF小説で、これを小学生、中学生の頃に読んでいたら放り投げていたような気がする。
 ジェラルド・ハウサンは貧困な母子家庭の元に身体の障害をもって生まれた。子どもの頃にひとりになり、発話と聴覚を失った少女に出会い、路上で生きていくすべを身につけていく。しかし、彼は世界でも指折りのテレパシストとしての能力を持っていた。
 WHOに所属するテレパシストに発見され、国際機関の一員として、心理的な要因で起きる世界の危機や個人の心的危機を救う医師となっていく。しかし、ある日…。
 というストーリーなのだが、「幻影への脱出」と同様に世界は混沌としているが国連が世界を統一し、危機を回避しようという機関として位置付き、それぞれの機関が奮闘している。そして、テレパシストは心理面から世界の崩壊をふせぐために日々できることをやっているのだった。
 1960年代、第2次世界大戦が終わり、国際連合への期待と、米ソ冷戦・核開発競争による不安がせめぎ合う時期であり、ブラナーはその中で、国際連合による世界の不安定さの解消、人類の進歩、進化に期待を寄せていた作家であることが分かる。
 テレパシーについては、テレパシスト同士の情報交換という要素もあるが、むしろ、テレパシストは社会の不安などを背景音として感じ取り、特定の個人の心理情報を情景として受取り、必要に応じて、その心を解きほぐし、あるいは、ある程度の操作をするものとして扱われている。同時に、受信テレパシストという受け取ることはできても発信はできない「共感者」のような存在も描かれている。
 そして、テレパシストは、人類の中ではごく少数だが、人類に良い影響を与える可能性が高い存在として書かれる。
 おもしろいね。
 もっともこの作品(と翻訳)は、現代ではそのまま再版することが難しいだろう。
 いまでは使われなくなった身体的表現がたくさん出てくるからだ。
 本書のような作品は、それが書かれた時代とセットで、時代の感覚を語る貴重な資料として残されていって欲しい。
(2018.11.14)

幻影への脱出

幻影への脱出
THE DREAMING EARTH
ジョン・ブラナー
1963
 初読。半世紀以上前の作品。1961年に雑誌掲載された長篇で、21世紀、85億人の人口爆発を迎えた地球が舞台。設定された時期は、うーん、たぶん2018年の今と同じ頃かな。もう少し前かも。
 人口爆発により、食料、エネルギーなどが不足、都市は過密となり、分配の問題が大きくなる。国の機能は失われ、国連が世界の資源分配の役割を担うことに。だから、FAOやWHOなどが頻繁に出てくる。主要な登場人物は、国連所属の麻薬捜査官や研究者たち。そして、国連職員は特権階級であるとともに、世界中の一般の人たちから嫌われる疫病神であり、取り締まる役人である。物がない時代。甘い物も、娯楽も、まっとうに動く機械も失われていく時代。人々は、虚無感にかられている。そこに登場したのが、麻薬ハッピー・ドリーム。世界中の若い人たちに急速に広がっているのに、売人を捕まえることも、販売ルートを見つけることもできない。初回5ドル、次からは2ドル。売価も安く流され、それ以上になることもない。違法ではないと言う者たちもいる。しかし、多用すると、ある日、常習者は忽然と姿を消してしまう。理由もなく、跡形もなく。どこに消えるのか?人口爆発によりすでに住民記録も当てにならなくなっていたので、見つけることもできない。
 物語は、麻薬捜査官グレイヴィルを中心に進む。結婚6年目で妻には逃げられ、任務に追われ、トラブルに巻き込まれるなかで、ハッピー・ドリームの謎を追い詰めていく。いや、追い詰めていかないのだ。たんに巻き込まれながら、ハッピー・ドリームの謎を考え続けていく。
 出てくるガジェットは、1960年代だから、大型のコンピュータ、電話交換つきのテレビ電話、ガソリン自動車、なのに、ジェット機はマッハ5、自宅では食事が取り寄せられるサービス…、今から考えればちぐはぐだけど、当時の作品としては、ダークな未来としてまっとうな感じに読めるのだろう。ちなみに日本で翻訳発行されたのは1971年。その当時に読めば、違和感はないはず。それを除けば、良くできたSFサスペンス作品。
 85億人にはなっていないけれど、70億人を超え、食料はぎりぎり足りていて、格差は拡大し、分配はうまくいっていなくて、国連は手足を縛られたまま。もちろん、ハッピー・ドリームはなくて、麻薬は蔓延したまま。本書と共通なのは、タバコが廃れていこうとしているところかな。
 あ、そうそう、神経系を持つ動物にとっての「世界の認知」がものがたりの鍵だ!
 そう考えると、割と新しい感じのSFかもしれない。
2018.9.15

パラダイス 楽園と呼ばれた星

パラダイス 楽園と呼ばれた星
PARADISE A CHRONICLE OF A DISTANT WORLD
マイク・レズニック
1989
 マイク・レズニックの代表作となった「キリンヤガ」(1998)に遡ること9年前に上梓された「パラダイス」。初読です。
「キリンヤガ」はテラフォーミングされた小惑星キリンヤガでケニヤのキクユ族の伝統的な暮らしを求めたユートピアとそのほころびの物語だった。短編を連ね、大きなひとつの世界と物語が構築されていた。「キリンヤガ」はよく練られた物語であり、物語の中の物語であった。
 本書「パラダイス」は、人類とは異なる種属と生態系の存在する惑星ペポニの物語である。「まえがき」ではケニアの寓話がひとつ載せられ、そして、「これはケニアという実在する国家ではなく、ペポニという架空の世界についての物語である」と、読者に対して宣言をして物語の扉を開く。
 ストーリーは、マシュウ・ブリーンが卒論制作として、伝記作家として、パラダイスに関わった人やペポニの人たちと関わり、取材する形ですすむ。最初は入植初期に伝説的なハンターとして知られた人間のハードウィク。その晩年に医療施設で野生の王国としてのペポニが描かれる。それから2年後には作家のアマンダと、同じ時期にペポニにいた人たちの物語。ペポンの独立までの物語。その3年後には、ペポンを独立に導いた初代大統領へのインタビュー。そして、14年後の、その後の惑星ペポニの姿。
 それは、解説にあるように、現実のケニアの歴史を反映した寓話かも知れない。
 あるいは、人類の現代史の寓話かも知れない。
 SFの名を借りた語りなのかも知れない。
「キリンヤガ」ほど複層的、重層的ではない、ある意味で粗いストーリーかもしれない。
 ただ、2018年の現在にあって、この物語は架空の惑星の物語でなく、現実の地球の、特定の国の物語でもなく、いまこの地球と地球人が抱える問題そのもののように読むことができる。
 いまの日本では意識しがたいが、世界の人口増加は続き、生物は大量絶滅時代を迎え、農地は不足し、原生自然、あるいは2次的自然さえ崩壊しようとしている。食料はかろうじて保っているが、経済格差の増大、貧困、先進国におけるインフラの劣化、それらを背景に紛争の拡大…。気候変動という全人類的な課題の前にも、目先の欲に惑わされたままの現状。「楽園と呼ばれた惑星」は実は地球なのかも知れない。
 英語タイトルにあるように、本書は「年代記」として書かれているが、その年代は1世代から2世代の年代記なのだ。わずか1世代で世界は大きく変わる。1900年代前半、中盤、後半、2000年代前半と、それぞれの世代で1世代の変化の大きさを感じ、それぞれの世代が世代として認識できる世界観の違いにうろたえる。そういう時代に生きている。
 本書「パラダイス」が邦訳されたのは1993年。それから25年が経ってしまった。
 25年前、こんな世界が来ると思っていただろうか。
 25年前と、今と、どちらが「パラダイス」なのだろうか?
 答えは人によって異なるだろう。
 過去のパラダイスを手に取ることはできない。
 現在を変えることはできない。
 未来をパラダイスにすることは、できるかもしれない。
「その気になれば、だれにだって見つけられんだけどな」
(2018.8.21)

流れ星をつかまえろ

流れ星をつかまえろ
CATCH A FALLING STAR
ジョン・ブラナー
1968
 はるかなる未来、人類は小さな都市、集落として孤立し、それぞれの生活を営んでいた。自動化された機械、生物改造により生み出され、夜を照らす照明球や、植物のように育つ建物の中で人の記憶と感応する「歴史の館」、家も、食料も自動的に得られる世界。しかし、それを享受する人たちは、それらが「あたりまえ」のことで、技術は失われ、19世紀のようなライフスタイルとなっていた。
 主人公のクレオハンは天体望遠鏡をつかい、数百年後には地球に惑星規模の星が近づき、地球を崩壊させる事実を知る。そして、過去の人類の歴史の中に、それを食い止める技術があるはずだと、自らが暮らす退廃の都市を出て旅することを決意する。理解者のいない苦悩の中で唯一出会った海に暮らす女性のカリスとともに。
 旅をしながら、地球の、人類の変化を体験するふたり。十万年ほどに渡って人類は栄華と衰退を繰り返してきた。宇宙に出た人類もいれば、生命操作に心血を注いだ人類もいる。そのすべてがやがて滅び、いまの時代へとつながっているのだ。
 読み始めて3カ月ほどで読了。それほど長い作品ではないのだが、ちょっとしたタイミングで最初の数ページで停滞してしまった。旅が始まってからはおもしろく読む。椎名誠の「アド・バード」やブライアン・W・オールディスの「地球の長い午後」にも通じるディストピア遠未来ものである。地球の長い午後が1962年の作品だから、本作に影響を与えたのかもしれない。
 スイフトの「ガリバー旅行記」などもすこし影響があるのだろうか。
 行動が固定化された集落の人たちが次々と出てくる中で、人類を救いたいという動機を持ち、自分で考え、おびえたり苦しんだりしながらも前に進んでいく主人公たちの姿は、たよりなげでもかっこういいものである。
 最近のSFが21世紀らしい洞察と複雑な構成で読者を楽しませてくれるが、こういう職人肌の古いSFもいいね。ジョン・ブラナーの作品はまだあまり読んでいないので、きちんと読んでみようと思う。
2018.8.5