クロノリス 時の碑

クロノリス 時の碑
THE CHRONORITHS
ロバート・チャールズ・ウィルスン
2001
 2021年、タイ・チャムポーンで、アメリカ人スコット・ウォーデンは妻と5歳の子どもを抱えつつ、日々を茫洋と暮らしていた。タイでのプログラマーとしての仕事を失い、アメリカに帰ることもせず、ただぶらぶらとタイの浜辺で暮らしていたのだ。5歳の娘が病気にかかり、高熱に苦しみ、片耳の聴力を失おうとしていたそのとき、ウォーデンは、悪友である麻薬のバイヤーとともに警察や軍の目を盗んで、山中で起きた爆発的な何かを見に行こうとしていた。独身のバックパッカーのような奴である。高さ数百メートルの淡い青いガラスのような記念碑がそこに静かに立っていた。周囲には氷がつき、まるで生まれたてのように。そこには、2041年12月21日に、タイ南部とマレーシアが戦争の結果「クイン」の支配下に置かれたことを記念する言葉が書いてあった。それが、未来からの侵略のはじまりであった。記念碑はクロノリス(時の碑)と名付けられる。
 時に、人口密集地に登場し、その周辺の人々や建物などを壊滅させてしまう「クロノリス」の存在は、世界を大きく変えてしまう。時間を遡り、過去に影響を与える力を持つ「クイン」への崇拝、恐怖。今自分が生きている場所が、クロノリスによって壊滅されるのではないかという恐怖。未来が支配されているという厭世感。未来のクインを探し、戦争を防ごうとする力。それは、やがて世界に紛争を巻き起こし、経済を混乱させ、文化を破壊していく。
 この科学的な原理と技術を解き明かし、対策をとろうと、ウォーデンの大学時代の恩師であるスラミス・チョプラが、政府の支援を受けて研究を続けていた。因果律の破綻は、タイムパラドックスは、クロノリスの目的は、影響は?
 スラミス・チョプラは、かつての教え子であるウォーデンを引き入れる。最初のクロノリスの現場にいたことは、決して「偶然」ではないと。
 時間がさかのぼれるということは、「偶然」と「必然」、すなわち、因果律が変わってくるということ。
 物語は、ウォーデンの一人称で進む。2021年から、クロノリスの最初の碑に書かれていた2041年に向かって、ウォーデンは年を取る。若者から、中年、そして初老へ。20年の時間の流れの中で、世界は変わり、ウォーデンは中心の周辺にいるものとして、まるで乱流に絡み取られた木の葉のように、振り回される。そして、それでも、人は生きる。娘は成長し、生活は変化していく。時代の変化とともに、個人も変化していく。
 それが、彼の生きる世界であり、彼が見る世界だから。
 これもまた、日本で311以降に出版されたSF。
 テーマとしては、時間SFであるが、ひとつの外挿が世界を大きく変え、それが個人の生活レベルで影響をどう与えるか書いたSFとしては、極めて今日的な作品である。
 古い古い話だが、新井素子が80年代に、極私的視点で世界の終わりや激変を描いていたが、21世紀になって、個人の生活視点から物語を構築する作品が増えているように思う。主人公に特別な力があるわけではなく、いやおうなく巻き込まれ、仕事や生活が変化していくという作品だ。第2次世界大戦後の、経済的、空間的拡張の時代から、行き止まり、縮小の時代の切り替わりを予感させるからであろうか。
 日本では、大地震とともに、原発事故という形で、物語でも予感でもなく、現実の中に時代の切り替わりを体験しはじめてしまった。それでも、それを世界として対処し、生きていくしかない。
 どうしても、どんな物語を読んでも、そこへ立ち返ってしまうなあ。
 物語としては絶品。おもしろいです。
(2011.07)

シリンダー世界111

シリンダー世界111
EMISSARIES FROM THE DEAD
アダム=トロイ・カストロ
2008
 宇宙の果て、というか、知的生命体が存在する星系から遠く離れている深宇宙。そこにシリンダー世界111がある。人類の平均的なシリンダー世界が長さ10km、直径2kmほど。大規模なもので、その10倍。たとえば、ニューロンドン。
 シリンダー世界111は、そのニューロンドンの長さ約1000倍、太さ約50倍。途方もない広大な世界である。しかも、普通のシリンダー世界ならば、内側の周縁部に人が暮らし、擬似重力のない中心部は空になる。ところが、111では、中心部に呼吸可能な大気があり、植物がツタのようになって世界を構築する。周辺部に行けば行くほど、大気は猛毒化し、周辺部は生存不能な別種の生態系となっている。111をつくったのは、AIソース。独立ソフトウェア知性集合体である。AIソースは、古き時代にどこかで知性を獲得し、その後、それぞれの知的種属が生み出したソフトウェアあるいは、そこで生まれたAI知性体を吸収しながら宇宙のあまたの知的生命体に、気まぐれにサービスを提供し、技術を販売し、接触を持ちながらも、超越した振る舞いをしていた。
 AIソースは、あるとき、知的生命体に111の存在を示した。111には、中心部にAIソースが生み出した知的生命体が存在する。彼らとの接触を望んだ知的生命体らの要望に応える形で、人類が外交的な調査滞在を認められた。常にぶらさがって、落ちることを意識しなければならない世界で。
 そこで、殺人事件が起きる。状況証拠から、AIソースが犯人だが、その理由はないし、人類にとってAIソースに波風を立てるわけにはいかない。必ず別の犯人を見つけ、逮捕してこい、と、ホモ・サピエンス連合外交団法務部陪席法務参事官アンドレア・コートに命が下った。実際には、別の操作事件を追え、ニューロンドンに帰還する星間輸送船の星間睡眠中に行き先を変えられ、有無を言わせず111に連れてこられたというのが現実。それでもアンドレア・コートには、断ることはできない。彼女は「連合外交団」によってその存在を守られている事実上の「奉公人」であり、「奴隷」だから。
 高所恐怖症で、自然生態系が大嫌い、人間も嫌い、自分も嫌いな、アンドレア・コートが、ついたとたんに、「実はふたつめの殺人事件が」と来た。
 特殊な環境に置かれた外交団と、ウデワタリと呼ばれるスローモーな知的生命体と、AIソースに取り囲まれ、自らの命を狙われながら、いわゆる「刑事」として真実に迫る。それは、彼女の過去をえぐる捜査ともなるのだった…。
 釣書にあるけれど「奇怪な世界を舞台に美貌の女探偵の活躍を描く傑作ハードSFミステリ」なのだろうな。おもしろいです。実際。一気読みしたし。
 カテゴリとしては、人工知性体ものになるのかなあ。状況としては、最近読んだ「インテグラル・ツリー」とも似ているかも。暮らす場所が宙づりのロープの周りなのだから、いつだって手を離せば、すべれば、ころべば、落ちちゃう世界なのだ。樹上世界でもあるなあ。映画の原作向きかも。
(2011.07)

インテグラル・ツリー

インテグラル・ツリー
THE INTEGRAL TREES
ラリイ・ニーヴン
1983
 スティーブン・バクスターの「天の筏」流れでの、「インテグラル・ツリー」再読。再読のはずだけど、忘却のかなたで、新鮮な気持ちになって読む。
 スモーク・リングと呼ばれる大気の輪が古い中性子星の周囲をめぐっている。宇宙の物理学のちょっとして、途方もない偶然の結果生まれた空間。それは惑星よりも広大な生命と生態系の空間の存在できる空間を生んだ。植物があり、水と空気が存在する世界。数百年前、そこに恒星船から人類が降り立った。彼らは、インテグラル・ツリーとよばれる、ちょうどS字を引き延ばした積分記号のような木の端と端のまがった部分で、自らの出自や技術を失いながら生きていた。
 主人公の若者ギャヴィングが生まれた頃には、彼が暮らすインテグラル・ツリーの端っこは、干ばつに悩まされていた。作物ができず、食料となる動物も、木の葉も穫れなくなってきたのだ。このまま、死を待つのか。
 議長は、彼の息子の死に間接的な責任をおったギャヴィングをはじめ、議長の意に染まない数人を、食料探しの旅に向かわせた。それは、ギャヴィングと一行にとって長い長い、世界の変化を見る旅になるのであった。
 インテグラル・ツリーの潮汐力による変わった空間認識。呼吸可能な宇宙。つるぎ鳥、はなうで(鼻腕)、扇子茸、ジェット莢といった変わった動植物の数々。そして、過去の科学文明をおぼろげに覚え、使いつつも、生態系に合わせて変わっていく人類の姿。
 旅をしながら成長する青年。
 さらに、全体を通じて観察者であり、解説者だが、実際には、元乗組員である人類と接触を果たそうとするちょっと惚けてしまったAIの存在。
 これぞ、エンターテイメントSF。変わった世界、変わった生きもの、変わっていても、共感可能な人類の旅と成長の物語。
 続編の「スモークリング」は未読だなあ。読もう。
(2011.06)

輝く永遠への航海

輝く永遠への航海
SAILING BRIGT ETERNITY
グレゴリイ・ベンフォード
1995
「木星プロジェクト」「星々の海をこえて」地球時代。ナイジェル・ウォームズリー。
「大いなる天上の河」「光の潮流」遠未来。キリーン、トビー。ビショップ族。
「荒れ狂う深淵」「輝く永遠への航海」時間の果て。ナイジェル・ウォームズリー、トビー。
 壮大な旅もようやく終わりとなる。トビーは、時間の河を下り、そして上る。それは、「ハックルベリー・フィンの冒険」につながる優雅で不思議な旅。その旅を通じて、機械知性と有機知性の戦いもひとつの終わりを告げる。それは終わりなき終わりである。和解でもない、解決でもない、終結でもない。
 最後に、年表がつけられている。西暦で言えば37000年を過ぎていた。35000年にも及ぶ、人類の宇宙での旅が終わる。それをずっと見続けることとなった古代人ナイジェル・ウォームズリー。彼は、何を、思う。
 このシリーズを読んでいたのは、2011年2月から4月の間。3月11日は、「光の潮流」あたりを読んでいたような気がする。地球がぐらりと揺れて、海の水が陸に溢れてきて、たくさんの人が死んだ。私は東京にいて、ラジオを聞きながら、原発事故の発生に恐怖していた。まだ、水素爆発も、ベントもされていなかったが、全電源停止の意味は、すぐに理解した。世界はあっという間に変わる。もし、この震災に原発事故の影響がなかったら、どうだったろう。もちろん、それでも3万人近い人たちが亡くなったことは変わるまい。しかし、もっともっと救援の手も早く、政府も、民間も、個人も、被災者も、ボランティアも動きが早かったに違いない。原発事故によって、人の手が、頭が、取られてしまった。地震は、いくつかの大きな余震と、それから、今後、各地で大規模な地震が起きる可能性を高めたが、ひとつひとつには対応できる。しかし、原発事故は、50日以上経った今でさえ、綱渡りであり、放射性物質の放出は止らず、地球の海を、空を、土を汚し続け、私たちを汚染し続けている。まだ、直接放射性物質の影響で死んではないが、「確率的」に未来の誰かを殺し続ける。終わらない恐怖。正しく恐れるのは難しい。とても、難しい。
 今も、地震と津波の被災者は避難者だけで12万人を超えている。
 原発事故による避難者は、これからも増える可能性がある。
 できることをするしかない。まず、生きること。そして、共に生きること。
 未来を残すこと。自分のためだけでなく、未来をつくること。
 宇宙の果てまで、うんざりしながら、ナイジェル・ウォームズリーは、未来をつくったのだ。という物語であった。
(2011.5)

荒れ狂う深淵

荒れ狂う深淵
FURIOUS GULF
グレゴリイ・ベンフォード
1994
 さて、「星々の海をこえて」から10年。前作「光の潮流」からも5年が過ぎて、発表されたのが「荒れ狂う深淵」。いよいよ、キリーン、トビーらビショップ族と、伝説の男ナイジェル・ウォームズリーが、同じ舞台に登場する。どうしてそんなことが可能になるのか? 宇宙の中心、ブラックホールの辺縁、時間と空間が意味を持たなくなる領域に、有機生命体らがなんとか生きていける作られた「エルゴ空間」があった。恒星船アルゴは、機械知性の攻撃に追われ、ポッド族の後方支援によって、なんとかエルゴ空間に逃げ込むことができた。
 ブラックホールの辺縁の世界を描き出す。これこそベンフォードがやりたかったことなのか? そして、そんなところで繰り広げられる機械知性と有機知性、それに磁気精神をはじめとするより上位の存在たちの理解しがたい戦い、生存。長く読んできたごほうびだ。でも、中途半端に終わっちゃう。やっぱり2冊セットなんだ。続編かつシリーズ最終の「輝く永遠への航海」を用意しておかないと後悔しちゃう。
(2011.4)

光の潮流

光の潮流
TIDES OF LIGHT
グレゴリイ・ベンフォード
1989
 ああ、これを書きたかったのか。「大いなる天上の河」の続編。惑星スノーグレイドを、過去の人類が生み出した恒星船アルゴに乗って脱出したキリーン率いるビショップ族。半分機械と同化して、機械を使いこなすのが得意なビショップ族たちだが、所詮「使う」であって、理解しているわけではない。恒星船アルゴは、基礎的な言語、文化、知識があることを前提に、できるだけ自動化してできた恒星船だが、惑星生まれ、惑星育ちのビショップ達は、中で火を焚く、メンテナンスを理解できない…。まあ大変なことに。率いるキリーンも大変なことに。遊牧民が恒星船という内部空間的には定住民、農耕民に変わった訳である。それでも、恒星船は設定された目的地へ進み、キリーンがニュービショップと名付けた惑星系にたどり着いた。そこで、メカの軌道基地を発見。それを奪取。しかし、その後アルゴはコントロールを失い、ビショップ族は惑星へ降り立つ。キリーンは、別行動をしており、事実上、その惑星でメカ、人類と異なる第三勢力として、メカ、人類を圧倒しているサイボーグ有機知性体に捕獲される。巨大な蜘蛛型の彼らポッド種属は、その惑星を出自とせず、とある目的でその惑星を使っていたのだ。ポッド種属は、宇宙創生期に宇宙にできた「宇宙ひも」を道具として使うほどの驚くべき科学技術を持っていた。その技術故に、惑星系でのメカとの戦いにも優勢を保つことができているのだ。クゥアートとよばれるポッド種属のひとりとキリーンが交感し、やがてポッド種属はキリーンらが、磁気知性と接触のある存在であり、ポッド種属が有機知性体の側として求めてきた秘密の鍵となる存在であることを知る。
 いよいよ物語は、ハードSFの本領を発揮する。やっぱり、宇宙にでなきゃ。宇宙ひもをコントロールして、道具として使う、なんて。うおお、と思うか、思わないか、が鍵だね。
 そのほか、宗教と科学、機械、有機、ハイブリッドの知性を通じて、知性とは、宇宙における知性の意味とは、他種族とのコミュニケーションとは、を語る。「大いなる天上の河」と「光の潮流」の2冊でセットだね。ああ、こりゃこりゃ。
(2011.4)

大いなる天上の河

大いなる天上の河
GREAT SKY RIVER
グレゴリイ・ベンフォード
1987
「夜の大海の中で」「星々の海をこえて」に続く作品。前作から遠く、遠い未来。機械知性と有機知性の銀河系をめぐる静かな、凄烈な戦いは、圧倒的に機械知性が勝利を飾っていた。有機知性は、機械知性にとっては面倒な害虫程度に過ぎなくなっていた。地球に源を発する人類は、有機知性の中では頑張っていた。一時は、シャンデリアと呼ばれる宇宙空間での大規模な人工物を建築し、機械知性と相対し、一次的な勝利を何度も得ていた。しかし、その後、人類は撤退をよぎなくされる。機械知性が見逃すと想定されるいくつかの惑星に降り、機械知性の目を避けながら、そして、機械知性と戦いながら、惑星の上で生きていた。彼ら人類は、人類であるが大きく変わっていた。人類が生み出したインターフェース、機械知性が作った工作物をまとい、遺伝子的にも改変を加えられた強力な生命力を持つ存在となっていた。可視光だけでなく、様々な波長の電磁波を見、化学物質を嗅ぎ、磁力線を感じることができ、独自のコミュニケーション能力を持つものたち。もはや、新しい工作物を生み出すことはできないが、持ち運ぶ「ご先祖」たちの知識によって「使う」ことができる存在。少しずつ知識は失われるが、生きていくことに必死なものたち。
彼らは、自らが属するグループに名を持っていた。本書「大いなる天上の河」の主人公となるキリーンが属すのはビショップ族。惑星の名は、スノーグレイド。かつては、緑と水に包まれていたが、機械知性が惑星を改変しはじめ、乾燥し、寒冷化していた。キング族やルーク族もいる。なぜ、その名がついているか、彼らは知らない。ただ、部族が集まって生きることこそが、喜びである。
 キリーンは、偉大なるリーダーであったアブラハムの息子。アブラハムは機械知性(メカ)によるビショップ族の城塞に対する攻撃で死に、キリーンは、息子のトビーと、他のビショップ族とともに、長い長い戦いと生き延びるための逃避行を続けている。トビーにとっては、物心ついてからずっと逃走と戦いしか知らない。
 メカは、執拗に人類を追い詰める。殺す、そして、時には人類の記憶や思考パターンを抽出する。メカにとっても、スノーグレイドは、豊かな星ではない。わずかな資源をめぐっての生存闘争はメカにもある。理由はない。知性と知性の、相容れない戦いが続くだけである。キリーンは、いつしかビショップ族を率いる役割を得、そして、トビーとビショップ族を生き延びさせるために自らを成長させていく。
 そして、メカの中に、マンティスという特異な存在がいることを知る。マンティスこそが、キリーンの仇敵となった。メカの中でも独自の動きをするマンティスは、何を考え、何を望み、惑星スノーグレイドの人類をどうしようとしているのか? キリーンに接触してきた磁気生命は、何で、何を目的にしているのか?
 ベンフォードは、何を書きたかったのかな? 人類の変容? 宇宙規模の戦い。知性のありよう? 生命のありよう。 うーん。ハードSFエンターテイメント?
 主人公がひたすら移動しているという点では、ロードムービー的なところもある。惑星の中だけだが、とにかく動き回っている。追われながら、追いながら。そして成長し、代わり、世界をつまびらかにする。エンターテイメントの鏡ではある。
 壮大ではあるし、80年代SFとしてはとてもおもしろいのだ。が、シリーズを通して読まないと、この本当のおもしろさが分からない。長い長いつきあいをしなければならない。
(2011.4)

星々の海をこえて

星々の海をこえて
ACROSS THE SEA OF SUNS
グレゴリイ・ベンフォード
1984
 機械知性が宇宙を支配しており、有機知性体がほとんどいない、それは、有機生命体が時間・空間に制約を受けるのに対し、機械知性体は、制約が少ない故の必然なのかも知れない。「夜の大海の中で」では1999年から2019年にかけて、ナイジェル・ウォームズリーが直面した機械知性との邂逅を描いた。同時に、人類社会の退廃も描いている。
 本書は、2056年から2061年の、やはりナイジェル・ウォームズリーの物語である。
 狂った機械知性の情報を得て、恒星間ラムスクープ船ランサー号を建造し、人類は、有機知性体の存在を求めて宇宙に出た。そこで、滅び、あるいは後退した有機知性体の存在に接することとなるが、同時に、機械知性体の存在を深く感じる旅となった。
 一方、地球上では、地球外の有機生命体が海に入り込み、海を危険な場所と変えていた。前世紀からの人類の後退は、海という共通の場を奪われることでますますその速度を高めていた。
 危機と退廃は、遠く旅立ったランサー号にも影響する。その中での、「古老」となってしまったナイジェル・ウォームズリーは、延命措置を受けながらも、宇宙の真実を求めて、ひたすらつきすすむ。人間とは、有機知性体とは、生殖とは、生命とは、そして、機械知性体とは…。
 正直、イギリス的な暗さがある。よくよく考えてみると、地球外知性体とのコンタクト物語なのである。ちょっとだけネタバレにもなるが、地球でも、恒星船がたどり着いたいくつかの星でも、有機知性体同士のコミュニケーションが成立するかどうか、というテーマが頭をもたげてくる。もっとうきうきわくわくしてもよさそうだが、有機知性体が追い詰められる宇宙という状況が、全体を暗くしてしまう。
 翻訳なのか、原文なのか分からないが、文体に癖があるので、その点は好き嫌いがはっきりしそう。
 さて、同シリーズの「大いなる天上の河」「荒れ狂う深淵」「輝く永遠への航海」「光の潮流」を、このまま一気に通して読んでみよう。
 そうそう、大切なことを忘れていた。本書のラストは結構暗いのだが、実は続きがちょっとだけある。続編?「大いなる天上の河」の下巻最後に「星々の海をこえて増補」がついているのだ。1987年のペーパーバック版が出版される際に、第10部に第8章が書き足されているのである。気になる?
(2011.2.27)

木星プロジェクト

木星プロジェクト
JUPITER PROJECT
グレゴリイ・ベンフォード
1980
 木星の惑星ガニメデのテラフォーミングがはじまった。そして、ガニメデと同じ軌道上には「ブリキ缶」が浮いていた。木星天文生物軌道研究所(JABOL)が正式名称の数百人が暮らし、研究する宇宙の孤島である。木星にいると推定される生命を探すこと、それがこの研究所の目的。長期にわたる研究活動のために、家族連れが多い。主人公のマット・ボウレスも子どもの頃地球から家族とともにやってきて、まもなく18歳となる、「ブリキ缶」しか知らない男の子。
 地球は、人口増加が止らず、飢餓と配給の世界へ。仕事が少なく、危機的な状況になっていた。そんな中で、食べ物には(それほど)困らず、全員に仕事があり、人類の夢を乗せた辺境の「ブリキ缶」。しかし、実際には、単調な宇宙空間の日々が続くだけである。
 人は、慣れるのだ。どんな環境でも。
 そして、人は育つのだ。どんな環境でも。
 環境が人を作る。人が環境を作る。
 ところで、ガニメデに生命がいるかなあ。
 火星にもいそうだよね。
 意外と生命って、氾宇宙的かも。
 早く、木星プロジェクトでも立ち上がらないかしらん。
(2011.2.14)

天の筏

天の筏
RAFT
スティーヴン・バクスター
1991
 わーい、SFだ、SFだ。これぞSFだ。おもしろいぞう。背表紙の釣書を見ると「重力定数が10億倍の宇宙に迷いこんだ宇宙船乗組員の末裔たちは、呼吸可能な大気に満たされた<星雲>で生き延びていた」とある。「重力定数が10億倍」なんて、もう、いけず、である。でも、難しいことが分からなくても大丈夫。次第に、この世界に慣れるから。小さな小さなこの宇宙の、この星雲に。そして、主人公のリースとともに、この滅び行く星雲の、滅び行く人類のコロニーの中で、夢と希望を求めて冒険し、成長し、そして旅立つのだ。
 光を求めて動く木を光をうまく遮ることでコントロールして呼吸可能な宇宙を飛ぶなんて、まるでおとぎ話ではないか。しかも、ハードSF。しっかりした宇宙ができあがり、人が生まれ、育ち、そして死んでいくのであった。
 ところで、最初に主人公が厳しい生活状況から密航し、都市に入る設定って、どこかで最近読んだような気がする。よくあるパターンではあるのだが、同じようなSFだった。最近といっても5年、10年あっという間だしなあ。それを調べ直す余裕がなくて、なあ。
 本書「天の筏」は今回、古本として購入したのだが、もしかして読んでいたのかも知れない。
 作者のバクスターが書いている通り、ニーヴンの「インテグラル・ツリー」とも設定が似ている。「インテグラル・ツリー」も遠い昔に読んでいるのだが…。覚えがない。少なくとも言えることは「天の筏」は手元になく、「インテグラル・ツリー」は手元にある。
 記憶とはおぼつかないものだ。
 おかげで、何度でも楽しめるのだが。
 さて、飢餓が迫る鉱山星のリース君、頭がよくて好奇心も旺盛。学問は体系だって受けていないけれど、科学的思考は備わっていて、原因と結果を追求する。そうして彼がたどり着いた疑問はひとつ「なぜ、この星雲は死にかけているのか」「生きる道はないのか?」その答えを知りたくて、密航し、世界を統べる天の筏へ行くのだった。
 こういう作品を若い頃に読みたいね。年を取ってくるとどうにも夢、とか、希望とかではなく、終わり、とか、悪くなる、といったことを考えがちになる。超高齢社会が近くなると、社会全体が終わりかけるような気持ちになる。それはよろしくない。どんな世界でも、若い人には夢や希望がある。世界はまだ開けていない。だから、夢や希望が必要だ。年を重ねても、夢や希望を失ってはいけない。
(2011.02.10)